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114 「モテ・非モテは個人の努力の問題ではない」が共通認識へ

 今日の白饅頭日誌のタイトルは「性的格差」であった。

 白饅頭先生のことだから「男女間の格差」、とりわけ弱者男性と女性との不平等を書いた内容かと思いきや、モテ・非モテの格差の話だった。

 白饅頭氏の論旨としてはモテ・非モテの性的格差と人間は皆平等という原則がぶつかったとき、非モテ側(とりわけ男の非モテ)が共同体の維持へのインセンティブが働かないということだ。
 それはそうだろうと思う。しかし筆者は論旨を外れて「モテ・非モテ問題」そのものについて書いていきたい。

 かつてはモテる・モテないという問題は完全に個人の努力の問題として片付けられていた。モテないのは努力をしていないからだと。ルックスの善し悪しはあるものの、悪い側の人だって努力次第でパートナーは得られるんだという一貫した考えが後ろにあるのだろう。筆者は20世紀末からそれはおかしいと異議を唱えてきたが、まるっきり無視された。反応があっても「モテないヤツの僻み」としか見られなかった。

 だけど今はどうだろう?完全に個人の努力だけではないという意見が増えてきた。まだ「モテないヤツの僻み」という意見もあるだろうが、非モテ側の人がかかえてきた遺伝、生育環境などが大きいことは徐々に理解が広がってきたのではないだろうか。

 ちょうど今、発達障害について社会で認知され一定の理解がされてきたのと時を同じくしていると思う。そう、非モテ、とりわけ男の非モテの大半は大なり小なり発達障害の傾向がある人だからだ。発達障害の診断が降りる人、降りる可能性がある人だけでなくいわゆるグレーゾーンの人達が多くを占めると思われる。場の空気が読めないということは「ここで押せば落ちる」「ここで押せば逆にちゃぶ台返し」というタイミングが分からないってことにつながる。

 筆者としては白饅頭氏や小山(狂)氏とは違って昔の家父長制やお見合い制度を復活させ皆婚社会という立場は今のところ取らない。どちらかといえば恋愛なんて結婚なんてやめてしまえ論者であるが、最近やめてしまうのも相当きついものだと思いはじめている。非モテ男の救済はまだ遠い……。

(今日で連続18日執筆です)

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