[130th海城祭 地理歴史研究同好会] 『青楠 第三号』
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中一 模造紙展示編
はじめに
海城中高地理歴史研究同好会(通称:地歴研)では中高併せて10名ほどの部員 が、地理や歴史に理解を深めるための活動を週1、2回ほど皆で集まって行っている。
どのような活動をしているかというと 個人で調べたことの発表や、歴史に関わるディベートなどだ。そしてこれらの活動の中で中心となっているのが文化祭である。 文化部、特にこの部活のような研究系の部にとっては、文化祭というのはコンクールを除けば唯一の対外発表の機会であり最も重要な行事なのである。
本年度は文化祭の共通テーマを「東京」と決め、それに向けて半年間を通して各自での個人研究と、 テーマである 「東京」に関する事柄を扱ったディベートの実施などを行ってきた。
当初 、 一つの教室を使ってそこに調べたことをまとめた 模造紙を展示し、さらに二年生以上 (と一 年生の希望者) の部員が執筆したレポートを掲載した部誌を対面とオンラインと配布しようと考えていた。
しかしながら新型コロナウイルスの流行の拡大によって完全内部開催となってしまい 、わずかながらにあった対外発表 の機会が失われ、一年生の発表の場がなくなってしまった。
先述したように文化祭とはこの部活にとって最も重要な行事の一つであり、それがなくなってしまったら活動の7割が失われたに等しいともいえる。
そこで当初の予定と異なり、 模造紙展示 をワープロ化したものもオンラインで展示することにしたのである。
自分たちはまだ中高生であり、このタイトルの「青楠」にこめられた意味の一つである「青二才」という言葉の通りまだまだ未熟な者である。それゆえに文章のクオリティであったり、文献の解釈であったりが 至っていないところがあるかもしれない。しかしその中で読んでいただいた方に少しでも新たな発見があったり、「なかなかいいじゃないか」と少しでも思ってもらえたりしたらと思う。
またこれとは別にレポートをまとめた部誌もこの模造紙編の後に 配布版 から若干の変更をして 載せた 。こちらにもぜひ目を通していただ きたい 。
2021年10月 地理歴史研究同好会 会長
東京都の城
調べるきっかけ
私が東京都の城について調べたのはもともと城好きであったということも理由の一つである。しかしそれよりも東京都には城がほとんどないと思っている人が多くそれが本当なのか知りたかったからである。
予想
建物が残っている城は少なくても、戦国時代などでは東京都で戦はあったはずであり、城は少なくなかったと思う。また、自分は東京都の南側や東側でしか知っている城はなかったが西側などでも戦がなかったわけではないと思うので東京都の西側などにもたくさん城があると思った。
第一章 東京都内の城の概要
東京都内の城といえば江戸城のイメージが強い。しかし、東京都教育委員会編集の「東京 都の中世城館」では中世城館(城・砦・要害・塁・柵や侵入を防ぐための屋敷・館など) を 206 件収録されており日本城郭大系には 168 の城郭が記載されている。そうすると東京 都にも数多くの城郭や城館が存在していたと考えられる。
城の分布
図1は東京都に存在していたといわれる城郭である。「東京都中世城館」より作成した図2 をみると城は海沿いの埋立地を含む江東区から中央区・墨田区・台東区・文京区・豊島区 までの地域と武蔵野市から西東京市・小金井市・東久留米市・小平市・国分寺市・清瀬市・ 東村山市・東大和市・武蔵村山市・福生市までの地域には城館があった痕跡が見つかって いないとされている。
※本郷城は「日本城郭大系」で記載されているが、江戸時代に石垣を発見したという記録 はあるが、現在は遺構が発見されていなく「東京都中世城館」では本郷城があるとされる 台東区には城が見つかっていないとされている。
第二章 遺構の残る城
東京都の城についていくつか調べた。
深大寺城
深大寺城は武蔵野台地南部に多摩川の作った河岸段丘の一つ武蔵野段丘の崖上に位置する。 城地南側の台地縁辺は比高 15m ほどの急斜面となっており、直下には野川が東流してい る。城跡から多摩川の現河道まで2.8km の距離がありその間の低い河岸段丘面と多摩川 の沖積地は基本的に低い平地であるため城跡から南方の多摩川方面への視界を遮るものが ない。多摩川対岸の動静をうかがい南から攻め寄せる敵を迎え撃つには絶好の占地である。 また深大寺城の北側には深大寺があり湧き水が豊富である。城地の東方直下は現在神代植 物公園水生植物園となっているが、ここは本来支谷内からの湧き水に起因する湿地であり 東からの侵攻は難しい。この城は扇ヶ谷上杉朝定が北条氏に対する退勢の挽回をはかって 再興したが逆に北条氏綱は朝定の居城川越城を攻略したとされている。川越城攻略で北条 氏の勢力圏に入った後の深大寺城は廃城になったとみられている。深大寺城は築城主体時 期が特定できる事例として貴重である。武蔵相模地域に残存する戦国期城郭のうち技巧的 な縄張をもつ事例はこれまで後北条氏の築城ないし改修とみなされることが多かったが深 大寺城は天文年間に扇ヶ谷上杉氏が一定水準の築城技術を保有していたことを示しており 戦国期城郭の発展過程を研究していく上で指標となりうる城郭といえる。この城は扇ヶ谷 上杉氏が南武蔵に残した最後の城であり高瀬の再利用による改変がなく第三郭を除きよく 保存されてきた。しかし近年グランドやテニスコートが作られ塁濠などがかなり失われて しまっている。
八王子城
八王子城はとても広大な城であり関東山地の東端部に立地している。北浅川と城山川に挟 まれ山岳部から丘陵部となる付近に位置し独立峻的な急峻地形をなす神沢山の連山が控え 東方眼下には八王子盆地がさらに東には広漠たる武蔵野台地、南には相模原に向かって開 けている。この城は北条氏照が築いた城でありこの時期は一般に城郭が平城化する時期と され丘山城の滝山城から時代に逆行する山城である八王子城へ移るということ、しかもま れな大城郭を構想していたとされる氏照の意図は謎とされている。氏照は未完成のまま天 正一二年から十五年までの間に移転して築城工事を続けながら同十六年には豊臣秀吉の来 攻に備えて守備固めやさまざまな準備をした。豊臣軍侵攻の際には氏照自身は主力を率い て小田原にあり八王子城は狩野一庵・中山勘解由・近藤出羽守らのわずかの兵と婦女しか 残っていなく農村から徴発された民兵が主体となり立て籠ったが、前田利家・上杉景勝・ 真田昌幸などの北陸・越後・信濃の大名の力攻めによって1日で落城した。城跡の所要部は現在国有林となっており氏綱の居館があった山麓の御殿主殿一帯は史跡公園として整備 されている。ただし山城部分は山林の手入れの行き届かないところもあって藪に埋もれた ままの遺構も多い。城域の広大さと相まって遺構の全容は容易に把握できるものではなく 今後新たな遺構が発見される可能性があるといわれている。
滝山城
滝山城は多摩川に面する加住丘陵上にあって主郭上段の標高は 169.2m をはかり北方の川 原に面しては比高差 70m 以上の急崖となっている。そのため多摩川方面から接近するの はとても困難である。以前は城の中心部に民営の国民宿舎が建っていたが現在では除却さ れて城跡は東京都の管理する自然公園となっており、遺構の保存状態は良好である。滝山 城は東西約 900m 南北約 1000m にも及ぶ広大なもので多数の曲輪群や雄大な塁壕複雑巧 緻な虎口と横矢掛り等があることが特徴である。特にこの二の丸の防御力は高いとされ、 二の丸には堀・虎口・土橋・馬出などがあり集中防御の体制が取られている。またダム状 の土塁も存在し、その土塁の存在により湿地があり人の歩行を困難にしている所もある。 永禄 12 年に武田軍が侵攻した際には信玄が滝山城を激しく攻めつけ、三の郭までのすべ てを落とした。氏照はこの郭で甲斐の軍勢と激戦し、犠牲者が増えるのを憂えた信玄は兵 を引いて小田原に向かって南下している。そして氏照は滝山城を守りきったのである。そ の後二十年後ごろに氏照は居城を八王子城にうつしたため廃城になったといわれている。
世田谷城
世田谷城は吉良氏の居城であった。吉良氏は足利将軍と祖を同じくする名族である。奥州 での勢力を減退させていた吉良氏は鎌倉公方の足利氏により鎌倉に召還され、「足利御一 家衆」という特別な地位を与えられ関東に領地(世田谷辺り)を得ていた。頼康の代に北 条氏が関東に進攻してくるとその勢力にあらがうことなく頼康は北条氏鋼のむすめ(高源 院)を室として迎え姻戚関係を結んだ。しかし内実は吉良勢力の吸収であり頼康の晩年江 戸・大平以下吉良氏の重臣層は後北条氏に直属しており吉良氏は名目だけのものとなり、 豊臣秀吉に後北条氏が攻められると目立った行動をせずに所領を失った。この時世田谷城 は廃城になった。世田谷城に関する伝説がいくつかる。その内の 1 つに、吉良氏が城内に 建立した寺が基となっている豪徳寺という寺があり、彦根藩二代藩主の井伊直孝が手招き する猫に誘われ豪徳寺に立ち寄ったところ豪雨の難を避けることができたというものです。 この一件から豪徳寺は井伊家の菩提寺となり、この招き猫を元にした彦根の「ひこにゃん」 というキャラクターが生まれたそうだ。
石神井城
石神井城は秩父氏の一党で平安時代末期から室町時代中期まで今の台東・文京・豊島・北・ 荒川・板橋・練馬・足立などの諸区やその周辺の地域にまで勢力を持っていた豊島氏の居 城の 1 つである。石神井城は豊富な水量の湧水池として知られる三宝寺池からの流れと石 神井川の流れが台地を侵食し二つの流れが合流する地点を先端とする標高約 49m の舌状 台地に築かれている。城の南北は侵食による比高 7m ほどの崖線が要害となっている。内 郭全域と氷川神社の東側・北側は都立石神井公園に含まれていて、自分は過去に行ったこ とがあり手軽に入ることができる。これらの地域は堀と土塁の旧態などをよく残してある がその他の部分はすっかり住宅地になってしまっている。長尾景春の乱にあたり当時の石 神井・練馬城主の豊島泰経とその弟泰明は景春に与党したので太田道灌によって攻められ 石神井城は落城し、平塚城などを失い泰経は小机城(横浜市)に敗走し豊島宗家は事実城 没落したといわれている。
結論・感想
自分が思ったよりも東京都内には城が存在していたことが分かり驚いた。しかし埋立て地 ではないのに城がいっさい発見されていない地域があった。なぜその地域に城がなかった のかは詳しく知らないのでこれからは城の作られた条件のようなものも調べていきたい。 また調べてみると身近な所にもたくさんの城があり土塁などが残っている城もいくつかっ て残っている城も少なくないことが分かった。調べてみると城によって作りが全然違い、 西の方には山城などが多い一方東の方は丘の上に建つような城が多かったと思った。城は その地の一族との関係が大事であるため、これからはその地の一族と城についての関係な ども調べていきたい。
参考文献
第三十三回世田谷城 ww.tokugikon.jp/gikonsi/271/271shiro.pdf
最終閲覧日:九月二十八日 『日本城郭大系 第 5 巻 東京・埼玉』 編集:株式会社創史社
『東京都の中世城館』 編集:東京都教育委員会
『決定版 日本の城』 著者:中井均 『攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭』 出版:実業之日本社 『ふるさとの文化遺産 郷土資料辞典〔13〕東京都』 出版:ゼンリン;改訂新版 『より深く楽しむために日本の城鑑賞のポイント 65』 出版:東京 メイツ出版 『日本の城のひみつ ―見かた・楽しみかたがわかる本』 全国城めぐり超入門
出版:東京 メイツユニバーサルコンテンツ
江戸の庶民の暮らし
調査の動機
私のテーマは江戸の庶民の暮らしである。なぜこのテーマを選んだのかというと、便利で何もかもが簡単に手に入る今の世の中とは全く違う江戸時代の庶民の生活に興味を持っ たからだ。
江戸の概要
そもそも江戸は現在の東京のことで江戸時代には江戸幕府の将軍の居城である江戸城の城 下町として栄えた。人口は、江戸時代が始まって徐々に増加し 1721 年に初めての人口調 査が行われた。当時の人口は約 110 万人だったと考えられ、当時の世界最大の都市だっ たと言われている。江戸の面積はよく変わっていたが広かったときは 1678 町と大江戸八 百八町の倍以上あった(解釈の違いによる誤差あり)。
食事
江戸時代の食事は 1 日2食が基本(1日 3 食は江戸時代中期に広まった)でメニューは ご飯、汁物、漬物に追加でおかずということ が多く、食べるものは、春はつくし、夏はた けのこ、秋は松茸、冬はあんこうなど、その 季節の旬な食べ物を好んで食べていたよう だ。そんな江戸では米の消費量がとても多く江戸時代の扶持米(江戸時代の給料のこと)の計算によれば1人あたりの食料として支給される米は、1日5合を基準にされていたという。今の日
脚気になる人も多かった。江 戸時代は屋台も流行し寿司や天ぷら、焼き餅などバリエーションも豊富で屋台の食事を日本の米の消費量は、1.5~2 合が目安とされているので江戸時代の米の消費量がどれだけ多いかがわかるだろう。しかし、米の食べ過ぎで脚気になる人も多かった。江 戸時代は屋台も流行し寿司や天ぷら、焼き餅などバリエーションも豊富で屋台の食事を日常食にする人もいたという。
画像1: 江戸時代の食事
娯楽
江戸時代の庶民の娯楽としてまずあげられるものは歌舞伎だ。歌舞伎は今でもとても人気
のある芸能だが江戸時代の歌舞伎は年に数回しか行われなかったため江戸庶民にとって一大イベントだったという。江戸時代には風流な遊びもたくさんあり俳諧や川柳、狂歌などが教養のある人たちの中で広まり庶民もそれらを楽しんでいた。江戸の庶民の観光スポットとして江戸の中では上野寛永寺(桜)、高輪(潮干狩り)、隅田川西岸の駒形(ホタル)、両国(花火)などが関東では成田山新勝寺や日光東照宮、高尾山などがもっと遠くに行くと富士山やお伊勢参りで知られる伊勢神宮があった。特にお伊勢参りは半年未満で全国から460万人も来るほど流行していたという。
教養
江戸時代の庶民にもある程度の教養が必要で江戸時代の子供は寺子屋か私塾に行く子が多く読み書きそろばんなどを教えて もらっていた。江戸時代の庶民は主に 戯作(草双紙・読本・洒落本などの総 称)や文化人たちとの交流で教養をつ け瓦版などで情報を得ていた。男性は 遊郭で情報交換をすることもあったという。江戸時代の庶民の知識欲は、とても強かったようで四書五 経や論語なども庶民に読まれていたようだ。四書五経はおそらく 漢文でかいてあるため江戸時代の庶民が普通に漢文を読めていたと考えると江戸時代の庶民の凄さが わかる。江戸時代は識字率も高く世界で最も識字率が高かったと言われている。
画像2:浮世絵
画像3:瓦版
職業
江戸時代には多種多様な職業があったと言われている。その中でも大工や指物師などの職人や商人、棒手振りなどの行商人、さらには町火消しなどが有名だ。
江戸時代は親の仕事を継ぐことが多かったが、職人に奉公することも多かったようだ。
画像 4:火消し
まとめ
江戸時代は今と比べると不便なことも多く大変なことも多くあった。そんな中でも江戸の庶民たちは色々なことに価値を見出し、その生活を心から楽しんでいたと思う。私たちの今の便利な生活とは全く違うが、このような「少し不便だがそこに価値を見出していく」というような生活も悪くないのでは ないかと思った。
引用
江戸時代の人は何を食べてたか
- 浅草情報サイト THE 浅草 (行事・ランチ・グルメ ) https://www.asakusa.cn/archives/534 最終閲覧日 2021/9/18
瓦版について 早稲田大学 https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/bakumei/11/
最終閲覧日 2021/ 10/08
写楽の三世大谷鬼次の奴江戸兵衛『大谷鬼次の紋』
浮世絵復刻版画専門店 岩下書店
https://kanazawabunko.net/art/3023 最終閲覧日 2021/10/08
歌川芳艶 Yoshitsuya 『江戸の花 四十八組 は組』 -刺青・火消 - 古美術もりみや http://morimiya.net/online/ukiyoe ukiyoe-syousai/Z115.html 最終閲覧日 2021/10/08
『なぜ江戸の庶民は時間に正確だったのか
?』山田順子 実業之日本社
『江戸の人々の暮らし大全』
柴田謙介 河出書房新社
『江戸のひみつ -町と暮らしがわかる本 』 江戸歴史研究会 メインツ
画像引用注
画像 1https://www.asakusa.cn/archives/534
画像 2 https://kanazawabunko.net/art/3023
画像 3 https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/bakumei/11/
画像 4 http://morimiya.net/online/ukiyoe ukiyoe-syousai/Z115.html
江戸の大火
『前置き』
私のテーマは江戸の大火である。なぜこのテーマにしたかというと今日、日本は地震など多くの自然災害に脅かされているが、かつての日本ではどのように災害と向き合ってきたのか興味を持ったからである。
『三大大火』
もちろん当時は地震や噴火ももちろんあったがやはり『火事と喧嘩は江戸の華』と謳われた火事に着目していこうと思う。しかし、火事は当時ボヤも含めれば 2000 件はあったと言われている程で(諸説あり)とても調べきれない。そこで特に被害の大きかった『三大大火』に着目していこう。
・明暦の大火
明暦の大火は明暦3年(1657)旧暦一月十八日から二十日におこった大火である。死者は 107000 人。被害はほかの大火も含め最大であった。その際江戸城の本丸、二の丸が焼けるという幕府にとって衝撃的な事も起きていた。(深川や本所、浅草 、芝、麻布、本郷)明暦の大火の後、幕府は江戸を大きく改造した。例えば、台東区の田原駅の仏壇通りは大火の後幕府が寺院を一箇所に集めたことでできた仏具専門店の専門店街 画像 1 火災の範囲などがある。また、当初は町外れであった本所や深川が開発されたり、 大名屋敷を郊外に移転 したり などの対策がとられた。なお、町の復興はオランダ流測量術を駆使して行い火除けや広小路という大きな通りや土手を造った。これらの対策により、江戸の町は江戸城から半径約 2 里から 4 里になったと言われる。
画像 1 火災の範囲
画像 2 『車長持に荷物を入れて逃げる人々』
民衆が非難する時下に車輪がついた長持『車長持』で家財道具を運び出そうとしたことで交通渋滞が発生し逃げ遅れたひとが増えたため以後、車長持の製造販売が三都で禁止された。
・明和の大火
明和の大火こと行人坂の大火。火元は目黒行人坂。明和9年(1772年)旧暦二月二十九日。真秀という生臭坊主が行人坂の大円寺に 放火 したと言われる。のちに真秀は火刑にされた。火は南西の風に煽られ麻布、日本橋、神田を焼き尽くし、山王神社、神田明神、湯島聖堂も被災した。時の老中の田沼意次の屋敷も類焼したと言われる。
なお明暦の大火の教訓があったにもかかわらず被害が大きかったことに違和感がある。その理由として主なものは
明暦の大火以後大きな火災がなく防災の意識が落ちていた。
当時、瓦などは高く庶民は燃えやすい板葺屋根などを使っていた
幕府もなかなかおこらないような大火への対策をしなくなった
などの理由が挙げられる。
・文化の大火
文化の大火は文化三年(1806年)三月四日に起こった大火である。
出火元は芝・車町の材木座付近で薩摩藩上屋敷、増上寺五重塔が全焼した。西南の風に煽られ京橋、日本橋にも飛び火するなどして被害が大きくなった。なおこの大火では被災者のため町奉行所が江戸8箇所に御救小屋を建てたといわれる。また、幕府は11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えたといわれている。
考察・まとめ
最後に触れておきたいのは当
時火事というものはどう捉えられていたかである。 大火は
とても恐ろしいものであるが火事(特にぼや火事)は頻繁に起きる事だったため危機感はそこまで高くなかった。商人や町人は火事で全財産を失ってしまったりするが大商人などは金がある分対策(※)もしやすかった。(しか
し大抵の人は金欠でできない)。また火事で儲かるような職業の人もいる。例えば大工や左官である。火事の原因は放火もあり主に仕事の欲しい大工、左官、火事場泥棒を狙う貧困層が多い傾向がある。当時は今ほど災害の対策を行っていないことも明和の大火からわかった。
画像 3 土蔵を目塗りする様子
参考文献一覧
『明日の防災に活かす災害の歴史 』 伊藤和明 小峰書店
『江戸城 築城と造営の全貌 』 野中和夫 六一書房
『浅草地域の歩み 』 江戸東京博物館 東京都
HTML-建築研究所 https://www.kenken.go.jp
「明暦の大火からの復興」東京都立図書館 https://library.metro.tokyo.lg.jp
消防防災博物館1−3『目黒行人坂火事絵』https://www.bousaihaku.com/wp/wpcontent/uploads/2017/01/maki05.jpg
画像引用注一覧
画像1 https://ja.wikipedia.org (最終閲覧日 2021 年 10 月 10 日)
画像2 :同上
画像3 https://www.bousaihaku.com (最終閲覧日 2021 年 10 月 10 日)
江戸の地形と江戸時代前期の江戸の発展の関係について
① 研究動機・流れ
ある時、テレビで江戸は幕府ができる前小さな農村だったのに、江戸時代には人口が百万人を超え、パリやロンドンを抜いて世界一の都市だったことを知り驚いた。そして、なぜ 大都市に成長したのか知りたいと思った。そこで、興味があった地形から調べようと思い 調べた。すると、地形が複雑に入り組んでいたことが分かった。さらに興味を持ったので、 今回の調査のテーマにした。
今回は、最初に江戸の地形がどうできたのかを見る。次に、江戸の地形が江戸時代 からの江戸の発展にどう関係したのか3つの面から見る。
② 江戸の地形の成り立ち
まず、江戸の地形がどうできたのかを見る。江戸の地形の元の部分は、約 160〜180 万年前の富士山や箱根の火山灰が積もった、新理科館で剥ぎ取り標本を見られる 関東ローム層(赤土層)だ。これにより江戸には武蔵野台地という大地ができた。一方、 現在の墨田区など(後に下町と呼ばれる地域)は海の底だったため、海が引いても低地が あった。その後、武蔵野台地上には小金井川など小河川ができ、小さな谷ができた。武蔵 野台地東端の現在の麻布や赤坂では湧水が湧き、川を作り複雑な谷ができた。 これで武蔵野台地と削られた谷の間で崖や急な坂ができた。また、武蔵野台地の東端部で は水が手に入りやすく、江戸の発展に大きく関係した。 一方、下町には隅田川が流れ、流れてきた砂が溜まった湿地帯だった。
③ 江戸の地形と発展関係
次に、地形が江戸の発展にどう関係したのか3つの面から見る。 一つ目は、江戸がどう発展したかだ。まず、江戸に家康が入った後最初に入ってきたのは 商売をしている人々だった。そのような人は、水が手に入る谷に暮らした。
また、初期の大名屋敷も谷に近かった。一方、水はけや眺めの良い尾根には道ができた。 1653年に玉川上水ができるなど尾根でも水が手に入るようになると、大名屋敷は尾根 の街道沿いにもできた。そして、需要の多い尾根と商人がたくさんいる谷の間を物や人が行き来して、坂ができた。これにより、江戸は坂の多い街となったのだ。
二つ目は、江戸は濠がめぐる水の町という面だ。桜田濠など、多くの濠があった。 そして、船が行き来し、物を運んでいた。では、水はどこから来ていたか。
その水は、江戸東部では自然の川を利用したり、川を止めたりしていた。そして、微妙な 高低差により濠を水路で繋いで、全ての堀に水を入れていた。多くの川があったので、濠 ができたのだ。
三つ目は、江戸が火事の多い街だったことだ。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど 江戸は火事が多かった。そして、火事の跡地を使って江戸は発展した。
まず、冬には日本海側に高気圧、太平洋側に低気圧がある。これにより日本海側から太 平洋側に風がふく。しかし、この風は湿っている。そのため、火事にはならない。 しかし、関東平野は越後山脈などで囲まれているため、風は山脈にあたる。すると山脈で 雨を降らせ、関東平野に入ると乾いた風になる。そして、乾いた風で火が煽られ、 火事となる。実際、火事は多くが11月から5月に起きている。
このように、江戸の様々な発展の仕方には地形が深く関係している。
④ 結論・研究を終えて
これまで見てきたように、江戸の発展には地形が関係していた。まず、湧水により川があり、谷ができたことで町人が住み、更なる発展に貢献した。そして、多くの川が あったことで濠が多くでき、多くの物が街中を行き来することになった。そして、多くの 犠牲は出るものの平野を囲む山脈による火事によりさらに街が発展し、最終的に世界一の 大都市まで発展した。やはり、江戸の発展には地形が大きく貢献したといって良いだろう。
私はこの調査をしてみて、これまであまり知らなかった江戸の成り立ちに実は地形が大 きく関係しているとわかり、とても面白いと感じた。これからも、あるものを全く別の面 から見て多くのことを学んでいきたいと思う。
参考文献一覧
『江戸→TOKYO なりたちの教科書 一瞬でつかむ東京の都市形成史』 淡交社 岡本哲志 2017年
Bousaihaku.com
Geo.d51498.com/peepooblue/uchibori.html
library.metro.tokyo.lg.jp
mag.japaaan.com
city.kodaira.tokyo.jp
guidetokyo.info
chiri-tabi.com
weathernews.jp
部誌編
江戸時代における賄賂とその役割
文責:1年O氏
序論
僕が何故このテーマを選んだかと言うと、もともと汚職や賄賂に興味があったが受験で忙 しくて調べる事が出来なかったので、受験が終わり余裕が出来て調べたくなったからだ。 賄賂に興味を持った理由は、政治家の秘書が汚職事件で、任意同行を求められるというニ ュースを見た事だ。江戸時代はどの位賄賂があったのか気になって現在に至っている。
江戸時代は、出世と、賄賂が密接に結びついていた。仮に、江戸時代のそれなりの地位 にいる人々に対して、現代の法律に照らし合わせて処罰するとしたら、大多数の人が、贈 収賄・金融商品取引法違反(銃刀法は、一応藩主 などから許可を得て帯刀しているので、 違反にならないという考え方で今回は話を進める)で捕まるだろう。それほど賄賂が横行し ていたのだ。
第一章 賄賂について
第一節 賄賂が増えた背景 戦国時代、大名(この場合は領土を実効支配している領主の中 で、家臣団を有していると領主のみとする)の収入源は、主に、年貢、関銭(関所を通る時 に払う銭)、市場銭(市場で見世(店)を出したら、取られる銭)、段銭(田圃に年貢とは別に、 かかる銭)、懸銭(畑に年貢とは別にかかる銭)、棟別銭(家にかかる銭)、貿易、鉱山経営、 貸し付け、礼銭、略奪行為などだ。 (1)この内、貿易、鉱山経営、礼銭、略奪行為は、平 和になった事や、幕府が取り締った事により、消えて無くなった。この為、金が必要にな り、賄賂が、増えたのだ。
第二節 賄賂の贈り方と贈る目的
・賄賂の贈り方 武士又は、公的機関(町奉行所等)等に賄賂を贈る場合、武士は金銭を受け取る事を恥と考 えていたので、武士らしい名目(太刀代や、馬代等)で 贈る事。贈る側と、贈られる側の面 子が立つ様な口上を述べてから渡す。(2) 賄賂を渡す時のイメージとして、菓子などを入れた箱の下の方に金を詰めて渡すといった ものを思い浮かべる人も少なくないのではないか。このようなイメージができた背景に松 平越中守(松平 定信)の賄賂禁止令がある。その本文を載せよう。()は筆者注
御老中様方被仰合之御書付
一 三季其他諸礼等差定り候音物は可致受納候事
二 万石以上は国持にても端物五疋五反、銀子は五枚、樽代千疋、万石以下は三百疋三端二 枚五百疋を可限候事
三 道具類何れの品にても宣取計呉候様相頼代料にての進物等堅く致受納間敷事
四 八月九日両度の月見の進物は致受納間敷候、前広に断置く可然候右につき同列其外相 互之進物以来は相止可候事
五 遠御成御留守詰並に遠御成の節被仰付御場先へ罷越候節若年寄衆、御用 取次衆、御供 并御先へ参候節帰宅見舞之進物互に相止め可申候事
六 月番に為レ歓肴遺候儀相止悦の使者可遺候事
七 家来へ諸家よりの贈物国持等にても、銀子は三枚、樽代五百疋、端物三 疋三端、万石 以下は一枚百疋二端を可限候、其他の品は主人の音物に准し至って軽き品は可為致受納候 事 但不相応の贈物は相返し、相当の品は致受納主人へ可申聞候事右(甲子夜話続編巻八十 五と引用元は縦書きだった)の外音物の様子次第相違し又は預り置き評議の上司致受納候、 其外追々心附の儀は申談相極可申候事
丁末六月 ようするに賄賂を少なくしろと言っているのだ。ここからさらに厳しくなっていき、最終 的に賄賂を全て禁止した。しかし、政治がうまくいかなかったので、金の贈答は禁止し、 物を贈る事を認めたため、かえって物の賄賂が天下御免の賄賂となり、増えてしまったの だ。そのうち金を物として渡すために、上に菓子をのせたり、包み紙に粗品と書いたりす る事が習慣となってしまったそうだ。それが時代劇で取り上げられたらしい。(3)
・贈る目的
・各藩の江戸留守居役の場 江戸時代において最も役職上の賄賂(出世や、地位から落とされない様にするためではな く、かつ、誰が同じ地位にいても払うだろうと思われる賄賂のこと)を贈っていたのは、各 藩の江戸留守居役(江戸で他藩や、幕府との交渉を行う役職)だ。ただし、私利私欲のため ではなく藩のため、藩主のためのものしか贈らない。贈る場所と贈る目的を下記にまとめる。
1 老中に対して、御手伝い普請(江戸の道や、江戸城の石垣の修理等を行 うこと。費用は、 全額命じられた者が負担しなければいけなかったので、 嫌がられた)を命じられないようにするために贈る。
2 町奉行所(江戸町奉行所)の与力や同心に、藩士が問題を起こした際に、見逃してもらう ために贈る。
3 町奉行所に藩士が問題を起こした際に、藩の面子が立つように裁定を下してもらうため に贈る。 (4) このように、賄賂の贈り先として、町奉行所関係が多くなっている。警戒しなければなら ないほど、藩士が問題を起こしていたのだ。
たいていの賄賂は袖の下と言って、よく時代劇の中で越後屋が悪代官に渡している物も、 袖の下に分類される。(悪代官は少なく、また代官風情ならば、越後屋の総番頭が出るのが 関の山だろうからありえないが。)袖の下の例としては、江戸城の門が閉まっていて通れな い時間にどうしても通らなければならない時に、門番に渡す 1 朱金などが挙げられる。他 に出世の礼や、出世の願いのために渡す物は多いので、第三節で説明する。・多くの大名や、 旗本の場合 賄賂を渡すことは、当然の義務であり、賄賂の量に応じて裁定を下す役人もい たので、渡さないと不利益を被った。更に、自分に賄賂を渡す行為は、将軍を尊ぶ事にな るという酒井忠清の様な者まで現れた。この様な考えの元 になっているのは、「賄賂を貰 うことは、将軍のためになる」という考えだ。
詳しく説明すると、幕吏が、大名より受ける収入が多いと、幕府の彼らに対する物入り が少なくなるし、大名の台所事情に直結するので、大名に武装さ せる余裕を与えないと言 う風に、一挙両得になるからだ。(5)また、初めて登城するさいに、賄賂を渡せていないと 1 歩間違えれば死に至るようなこともされかねない。その様な物の例として、松平 上総介 (松平 越中守) が受けたとされる仕打ちを説明しよう。
初登城の際の賄賂を養父松平 越中守や家老以下が渡す様促したのだが、 聞き入れなか った。大名たちは、何かの手違いで自分一人に渡さなかったのだろうと考えていた。とこ ろが、突然松平 玄蕃頭 忠恭が本日は松平上総介殿初御祝儀のために御登城のはずだがと 口を切ると、即座にいかにもと応じて膝を進めたのは、丹波篠山の城主松平 紀伊守 信道 である。そうして言をついで曰く、上総介殿よりなにか御祝儀が御座ったかと、一座を見 廻 した。これに答えたのは武州忍の城主松平下総守忠彦である。眉を顰めて、いや、なん の御沙汰も御座らぬ、なぜでござろう、初めての御祝儀には それぞれ作法故実のあるもの だが、少しも御問い合せもなさらず、相互の連 絡も取られないとは傍若無人の振る舞いで はないか......。
こうして、誰も挨拶を受けていないことがわかると、今後の見せしめもあることだから、 今日は十分懲らしめて、玩弄物にしてやろうでは御座らぬかと緊急動議を提出したのは、 さきの紀伊守である。一同もすぐに賛同した。 玄蕃頭と紀伊守は茶頭頭の珍斎を呼び出し、その耳元に口をあててなにごとか囁いた。珍 斎は話を聞くと、では首尾よく参れば、御褒美には何を賜りますかと問い返した。一同が 眼を見合せ、汝の好むものをお互いより出すこととするといえば、珍斎はすかさず、では、 玄蕃頭様からは御紋付の御印籠 を、また下総守様からは黄金作りの御脇差、紀伊守様から は黄金五枚を戴きますとねだる。取らぬ狸の相談はたちまち一決して、今や上総介 定信の 登城遅しと待ち受けたのである。そこに定信は十八歳の若者とは見えぬ堂々たる態度で出 仕して来たのであった。
紀伊守が珍斎に授けた秘密の悪戯というのは、一同の控室である帝鑑間の敷居越しに定 信が一同に対する新年の挨拶をするため首を下に垂れたところを、左右の襖の蔭にかくれ た茶坊主が力任せに襖を閉め、上総介を首締めのリンチにしようというもので、一歩間違 えれば命にかかわる。少なくとも一生取り返しもつかぬ不具疾となるかも知れない大陰謀 であった。
上総介様御上がりの声が杉戸の彼方より聞こえて来る。玄蕃頭はそれとなく茶坊主に目 くばせする。茶坊主はいずれも袖を捲り上げ、渾身の力を両腕に入れ襖の蔭に取り付く。 上総介が威儀を正してしずしずと入って来た。相当の賄賂を渡していたら先輩古参の内の 一人二人がサァこれへと手を取らんばかりに、あちこちに引き廻し、挨拶をさせるが、定 信に対しては誰もが 無視をしていた。その後、珍斎に促されて挨拶をしようと敷居に髷が 着かんとする時左右の襖が疾風の如く一時にさっと閉め立てられた。鳴呼万事休す、 さし もの上総介もその場に七転八倒、一同わっと歓声を上げたかと思えばさに非らず、上総介 はしずかに顔を上げ、いずれ様もお早い御出仕でと微笑とともにさわやかな挨拶をして 悠々と下った(白河楽翁)。
一同ただ茫然として彼の下って行くのを見送ると共に、敷居の上に目を注いだ。すると そこに扇子が一本残されていた。扇子を畳んだ際に敷居の上に置いたのである。(6)
第三節 賄賂で得る収入
留守居役や、町人からの賄賂が多かった江戸町奉行所。贈られてきた賄賂 は、年末に、成 績に応じて同心や与力に配分された。中には、それだけで三千両稼ぐ与力や、同心もいた という。(8)田沼に感謝していた島津家は、 長さ 3 間の白銀の船を作り、それに金銀や綺羅を満載して送ったと伝えられている。(9)ほかに、田沼に取り次いでもらおうとして用人 4 人に 120 両渡したが、無視されたらしい。120 両と言ったら 1 両 4 万円で換算する と 480 万円だ。相場より低かったから無視したというから、金銭感覚がおかしくなってしまいそうだ。
第二章 出世
第一節 町奉行所同心の場合
町奉行所の与力と同心はどこでも同じ様なものだが、仕事の内容が同じでも差別されていた。例えば、合戦が起きたとする。与力は旗本格なので馬に乗れる。しかし、同心は、 御家人なので、足軽になるしかない。同心から与力に出世する事はまずない。賄賂を渡し ていても、例外では ない。同心の子供の同心としての出世人生は、まず、同心見習いから 始まる。同心見習と、家督を継いで間もない頃は、基本、安全な奉行所内での勤務となる。 その後、実力を認められると、定町廻りに出世する。この定町廻りが、1 番町人からの、 付け届け(まいない=賄賂)が貰える仕事だ。(10)定町廻りの次に臨時廻り、隠密廻りと、出 世する。定町廻り、臨時廻り、隠密廻りの 3 つは三廻りと称される事が多い。この三廻り と、その支配下の岡っ引きと下っ引き以外は、時代劇等でよく見かけるような十手を振り 回す事は、ほとんどできなかったのだ。
第二節 旗本や、御家人の場合
この時代の旗本や御家人の多くは、小普請組というものに属していた。 小普請組とは仕事をしなくていいが、(というより、仕事をしたくてもできないのだが)金 を出さなくてはいけない閑職の典型だ。小普請組から役職に何もせずに就くことはまずあ りえない。役職に嫡男でない者が就くには、学問吟味に合格する事が絶対条件となる。乙 種よりも甲種の方が、就ける役職が増える。合格すると、席が空いていれば人柄にもよる が、勘定方なり勘定吟味方などの、武士には必要ないとされていた算盤の技術が必要な役 職に就ける。その際に、賄賂を他人より多く渡す等をして上司(老中や、若年寄)に覚えて もらう必要がある。それを役得として受け取る側も当然の事と思っていた。その傾向を顕 著に表している例がある。それが次の御布令である。「家督被仰出、老中招請之儀、故無之 及延引候面々も有之候、向後左様に無之様に可致候右之趣可被相達候」(御触書宝暦集成三 十二)というものだ。この御触書の意味は、「家督相続をした大名が、老中や若年寄を招い て行う饗応の致し方が不足であるとして、ご馳走をこれからは、出しなさい」というものだ。接待される老中や若年寄が、幕命の力を持って豪華な接待を受けようとするものだっ た。(11)出世ができない世襲制の職業も少なくなかった。中には、存在感が薄すぎて監督 する立場の目付も知らないという職業もあった。大体の職業は、賄賂の相場が決まってい たらしく長崎奉行は二千両、御目付は千両、大坂城代は三千両が相場だった。 (12)賄賂は 就職しても贈り続けなくてはいけない。途中で「行跡不宣(=ぎょうせきよろしからず)」と して罷免されてしまうからだ。だいたいの出世コースは、徒頭、小十人頭、使番から両番 (=書院番と小姓番)に、両番から目付、大目付に出世する。目付と大目付が番方の最高職だ。 目付、大目付から遠国奉行、遠国奉行から勘定奉行、江戸町奉行に、勘定奉行、江戸町 奉 行から江戸留守居役などの幕府の中枢に出世する。ここまでくれば大名への出世も夢では ない。ここまで来るには家柄が素晴らしい事と賄賂を多数贈るなどして、上役に引き立て てもらう必要がある。この 2 つの条件に当てはまるか、将軍のお気に入りになるかしない と難しい。しかし木室卯雲という幕臣は御家人から旗本に昇格したのだが、理由は狂歌だ。 初老の老人の不運を嘆いただけの狂歌が、老中の耳に入り出世できたらしい。(13)
大名の場合、譜代大名であることが前提条件となる。外様大名の場合、幕府に願い出て 受理されれば石高は減るが、譜代大名になれたのだ。大名の場合も上役の覚えが良いと出 世する。出世する前提条件は、奏者番である事だ。奏者番から寺社奉行が選ばれるからだ。 その後は大坂城代や大坂定番や京都所司代になり、江戸に戻って権力の中枢につく。これ が理想だ。ただし、奏者番になるだけだと参勤交代も諸役も免除されず、登城回数が増え るだけで財政を圧迫する原因になるだけだ。そのため平凡な藩主よりも少し頭のいい藩主 の方が財政を圧迫させる。
まとめ
この様に賄賂を一度送る文化ができてしまったために賄賂を送らざるを得 なくなり、賄 賂が続いてしまった。この習慣は明治に入るまであまり減らなかった。私の考えだが、五 箇条の御誓文の「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」の陋習には攘夷の他に賄賂も 入るのではないか。明治に入ってからも賄賂は消えなかった。
引用注
(1)戦国 経済の作法 監修小和田 哲男 PP・57−59 2020 年
(2)大江戸 武士の作法 監修小和田 哲男 p・23 2019 年 (3)江戸時代の賄賂秘史 中瀬 勝 太郎 pp・100―103 199 8 年
(4)前掲書 大江戸 P・23
(5)前掲書 中瀬 pp・9−11
(6)同上書 pp・106―109
(7)前掲書 大江戸 p・23
(8)前掲書 中瀬 p・63
(9)前掲書 大江戸 p・23
(10)前掲書 中瀬 p・55
(11)同上書 pp・65―68
(12)幕臣伝説 史実と噂のはざま 氏家 幹人 pp・174―180
コラム:地歴研究会ディベートまとめ
文責:会長
はじめに
海城地理歴史研究会では歴史・社会問題に理解を深めるために、あるテーマに対してデ ィベートを月に数回開催している。形式はあるテーマに対して賛成側と反対側に分かれる 一般的なものと、そのテーマに対して自由に議論していくものの二種類がある。どちらの 場合も歴史・社会問題に理解を深めることを目的にしているため、勝敗や自分の意見を通 すことはあまり重要視していない。
今回は 6 月に行った自由議論の形式で行った「江戸の将軍の業績と評価」について少し 紹介していきたいと思う。
あくまで部員達の独断と偏見で決めたので多少不可解な所や不満点があっても許してい ただきたい。
ディベートの内容
今回は 15 人の将軍についてそれぞれ業績を振り返り、それを「名君」「有能」「普通」 「今ひとつ」で評価した。それぞれ評価とその理由を述べていく。
初代:家康 評価:名君
理由:戦国の混乱を収め有力者たちとの争いにも勝利し、長期政権を樹立したというだけで 素晴らしい。そもそも創立者なのだから最高評価以外ありえない。
二代:秀忠 評価:普通
理由:有能なのかもしれないが初代がすごすぎて目立たず、在任中も初代の影響力が強かっ たのでこのようになった。
三代:家光 評価:名君、だがやや暴君
評価:秀忠や家臣への対応が酷いという意見がでたが、参勤交代などの幕府の基礎をつくっ た名君ということには変わりはないので上のような評価となった。
四代:家綱 評価:普通
評価:あまり有能ではないが自身でそのことを自覚していたためこの評価となった。家臣を 重用し、一応うまくいっていたため普通の中でも上位に位置する。
五代:綱吉 評価:名君
理由:文治政治への移行の象徴的な存在であり、貧民などに対して救済を行ったためこの評 価となった。しかし財政の圧迫なども引き起こし、後々の幕府へ悪影響を及ぼしたことか ら筆者は有能程度だと思う。
六代:家宣 評価:普通
理由:五代は名君と評価した通り良い点も多いが、よく知られているように混乱を招いた。 その中でそれらの混乱を収拾した家宣は評価できると考えられる。しかし在任期間が短い ため目立った功績がなかったからこのような評価となった。
七代:家継 評価:判定不能
理由:三歳で将軍になり七歳で亡くなったため、功績がなく判定できなかった。
八代:吉宗 評価:名君
理由:享保の改革により財政などを建て直した江戸幕府の中興の立役者だと言えるから。 九代:家重 評価:今ひとつ 理由:有能な家臣を登用したのは評価できるが、将軍としての役割が未知数かつ言語不明瞭 (一説)で理解できる家臣が少なかった。また、有能な家臣を登用したことが逆に将軍の権 威を落としたという指摘もある。
十代:家治 評価:今ひとつ
理由:自分が政治をあまりしなかったため。
十一代:家斉 評価:普通(迷惑)
理由:徳川ファミリーを拡大したことは評価できるが、財政を圧迫し庶民を顧みず周りの人 が迷惑したのではないかと推測できる。
十二代:家慶 評価:普通(少しよいかも)
理由:能力が低かったわけではないが、有事に対応できなかった点が評価を下げている。 十三代:家定 評価:判定不能
理由:病弱で目立った業績がないため判定ができない。
十四代:家茂 評価:普通
理由:和宮との結婚などによって、朝廷と協力して幕府を立て直そうとしたことは評価でき るが、終始老中に主導権を握られ、長州征伐を行い財政を悪化させた点は評価できない。
十五代:慶喜 評価:有能
理由:能力などは名君に匹敵するが、時代が時代であり最終的に幕府が滅んでしまった点が どうしても評価を下げるポイントである。
解体新書翻訳の過程
文責:中二小菅
序論
2020 年 1 月、新型コロナウイルスが発見され、2021 年になっても未だ猛威を振るっている。そしてこのコロナ感染症の第一線にあるのが医療である。コロナによる医療体制の 逼迫が起こったり、ワクチンの接種に関する問題が浮上したりするなど、最近は医療が注 目されている。そこで医療の原点に立ち返るという意味で、医療の歴史について研究する ことにした。そして日本の医学史における最大の出来事は何かと考えたとき、『解体新 書』が浮かんだ。なぜならば、解体新書は非常に精巧な図を備えているし、当時日本より 遥かに優れた技術を持つオランダから伝わった『ターヘル・アナトミア』の訳本であるか らだ。そこで本稿では解体新書について扱う。
各章の構成を説明する。第 1 章ではターヘル・アナトミアの翻訳に関わった人物の経 歴と、彼らがターヘル・アナトミアの翻訳を決意するまでの流れを述べる。第 2 章では どのように翻訳作業を進め、そして出版に至ったのかについて説明したい。第 3 章では 解体新書出版後、著者がどのような道を辿ったかについて探る。
第 1 章 ターヘル・アナトミアの翻訳を決意するまで
第 1 節 解体新書の著者たち
解体新書の著者といえば、杉田玄白や前野良沢の2名が思い浮かぶであろう。私も授業ではこの2人が著者であると習っている。しかし実際はもっと多くの人が翻訳作業に参加 している。その中でも私が忘れてはならないと思う人物が、中川淳庵である。本節では、 杉田玄白、前野良沢に加え中川淳庵の 3 名の経歴について述べる。なぜこの3名かとい えば、ターヘル・アナトミア読み分け会(翻訳会)の最初のメンバーが彼らであるから だ。3 名以外の人物は全員途中から参加している。
では、玄白・良沢・淳庵の3名の経歴を説明する。
杉田玄白は小浜藩(福井県)の医者の家に生まれ、24 歳で独立し日本橋でオランダ外 科を開業した。すでにこの時から長崎からわずかながら伝わった西洋医学を用いて医業を 行っていたのである。そして 37 歳で小浜藩主の主治医となる。そしてその2年後、39 歳 でターヘル・アナトミアの翻訳を開始する(1)。
前野良沢は中津藩(大分県)の医者である。翻訳を開始したのは 49 歳の時である。47 歳の時オランダ語研究学者として名高かった青木昆陽にオランダ語を学んだ。(青木昆陽 はさつまいものイメージが強いかもしれないが、彼はオランダ語学者だったのである。) さらにその後、長崎に留学しオランダ語通詞吉雄耕牛にも師事した。ちなみに彼は、長崎 留学の際にターヘル・アナトミアと出会っている(2)。このように玄白、淳庵と比べ多少 はオランダ語に通じていた。
また良沢は、「世の中で廃れてしまいそうな芸能は、習っておいて後世まで続くように し、今の人が捨ててしまって行われなくなったことがあれば、これを行い、後世までその ことが残るようにするべきだ」という珍しい考えを持っており、『蘭東事始』で玄白に 「奇人」と評されている。例として良沢は縦笛の「一節切」の名手であった。一節切は雪 舟や一休宗純、織田信長などの有名な人物も好んでいたのだが、江戸時代初期に尺八の流 行により廃れかけていたのであった(3)。
中川淳庵は、玄白と同じく小浜藩の医師であった。祖父の代から蘭方医を務めていたと いう。翻訳を開始したのは 33 歳の時である。23 歳で平賀源内とともに「火浣布」、つま りアスベストを発見している。ちなみにこの火浣布は香敷に使用する(4)。
第 2 節 骨ヶ原での腑分け見学
1771 年 3 月 3 日、玄白は町奉行所から「骨ヶ原の刑場で腑分けを行う」という知らせ を受け取る。玄白は、同じ小浜藩の中川淳庵を初めとする同僚に腑分けの知らせを伝え る。そしてこの頃はあまり付き合いがなかったが、医学熱心であることから知り合いであ った良沢にも伝えた。玄白は淳庵に教えられターヘル・アナトミアを購入し、その内容が 今までの漢方の医学書と異なっていたので、実際に腑分けを見て確認したいと考えていた ところであった。玄白はこの時に心情を「一かたならぬ幸の時至れりと彼処へ罷る心にて 殊に飛揚せり」(ひとかたならない幸いな時がきたと、心は現場にとんで浮き足立ってい た)と表現している(5)。
腑分け当日、解剖を行うはずであった下人の虎松という男が急に病気になったので、代 わりにその男の祖父が腑分けをすることになった。その老人は 90 歳で、今までで数人を 解剖したことがあった。老人は、これは何々だと指し示して、心臓や肝臓、胆嚢、胃など を玄白たちに見せた。中には老人にも名称はわからないが、どの死体にもついているとい うものなどがあった。後に玄白は、それらの臓器は動脈や静脈の 2 本の幹、副腎などで あったと振り返っている(6)。
解剖した死体は、漢方の医学書の内容とは異なっているものの、持参したターヘル・ア ナトミアの解剖図と比較すると、一つとして違いがなく玄白たちは驚いた。また、刑場に 野ざらしになっている骨を拾い集めて見てみると、これも昔の説とは違っていたが、ター ヘル・アナトミアの図とは違うところがなかったので感心した(7)。
帰り道は、玄白と良沢、淳庵の3名が一緒であった。玄白が「ターヘル・アナトミアを 翻訳すれば、体の内部がわかり今後の医療に役に立ちそうだ」と語る。それに対して良沢 が「自分は前から蘭書を読みたいと念願してきたが、自分と志を同じくするものがいなか ったので叶わなかった。しかし、玄白と淳庵が望むのであれば、私たちで翻訳しよう」と 答えた。良沢が同じ志を持っていたことに玄白は大いに喜んだ。そして 3 人はターヘ ル・アナトミアの訳本を出版しようと固く約束し、それぞれの自宅に帰った(8)。
第 2 章 翻訳作業の道のり
第1節 翻訳を始めた頃の読み分け会
腑分けの翌日、3 人は良沢の家に集まり、ターヘル・アナトミアに向かった。そして翻訳作業を開始した。とは言ったものの、何から手をつければ良いのか分からず途方に暮れ るばかりだった。後に玄白はこの時の様子を、「誠に艪舵なき船の大海に乗出せしが如 く、茫洋として寄べきなく、たゞあきれに呆れて居たるまでなり」と語っている。そもそ も玄白、淳庵はこの時までアルファベット 25 文字さえ習っていなかったので、段々に文字を覚え、簡単な単語を習うことになった(9)。
玄白が 83 歳で出版した『蘭東事始』に記されている、腑分けの有名なエピソードに 「フルヘッヘンド」というものがある。そしてそれは次のように記述されている。
「 また或る日、鼻のところにて、フルヘッヘンドせしものなりとあるに至りしに、この語わからず。これは如何なることにてあるべきと考へ合ひしに、如何ともせんやうなし。」(またある日には、花のところに「フルヘッヘンドしているものなり」とあるに至 っては、この言葉が全く分からず、これはいかなることを言っているのだろうと考えても いかんともすることが出来なかった。)
当時はオランダ語の辞書などはなく、良沢が長崎で入手した簡略な小冊子を見たとこ ろ、「木の枝を断ち去れば、其跡フルヘッヘンドをなし、又庭を掃除すれば、其塵土あつ まりフルヘッヘンドす」と解釈されていた。木の枝を切った跡が治るとうずたかくなり、 掃除をして塵土が集まればこれもうずたかくなる。顔は鼻の中央にあって盛り上がっているものであるから、フルヘッヘンドは「堆し」と訳すことになった、というエピソードが 残っている(10)。
しかし、ターヘル・アナトミアの中にフルヘッヘンドという記述は無い。なぜ玄白は嘘 を書いたのだろうか。これはおそらく翻訳作業の様子を生々しく伝えるためにあえて「フ ルヘッヘンド 」という虚構を作り出したのだと思われる。例え嘘であっても、おかげで 読者にわかりやすく、玄白たちの努力が伝わったことは確かであろう。
第 2 節 解体約図の出版
このようにして翻訳作業は続けられていった。そして桂川甫周、石川玄常など、新たに 読み分け会に参加する者も増えていった。読み分け会は月に 6、7 回行われ、皆が怠るこ となく参加した。その結果、翻訳を始めたときは1日で1行の短い文章でも訳せないこと も多かったが、1 年後には苦労することなく1日で 10 行ほど訳すことができるようにな っていった。毎年江戸に来る通詞に質問をしたり、何回も腑分け見学に参加したりするこ ともあった(11)。
かくしてターヘル・アナトミアの解説文の翻訳が完了した。彼らは出版のことを考える 時期になった。しかし今までの漢方医学の説と異なるオランダの説を提唱すると、異端の 説であると驚き怪しんで手に取ってみる人もいないのではないか、という問題が浮上し た。また 1765 年に後藤梨春という学者が、『紅毛談』という本でアルファベット 25 字 を載せただけで重い処罰を受けたことがあった。玄白としては紅毛談の二の舞を演じたく なかったのである。そこで、『解体約図』というものを出版して世間と奉行の顔色を伺う ことになった。解体約図とは解体新書を大まかに要約した、予告編のパンフレットのよう なものである。5枚の木版刷りからなり、1枚目が「序と凡例」、2枚目が「解説」、残 りの3枚が「骨節」「臓腑」「脈絡」の解剖図になっている。ちなみに図の原画は玄白、 淳庵と同郷の絵師の熊谷という者によって描かれた(12)。
解体約図の出版に対して、例えば長崎のオランダ通詞たちの中には快く思わない者もい た。それまで通詞たちは会話を通訳するだけで、書物を読んで通訳などということをして 来なかった。ゆえに、ターヘル・アナトミアの翻訳は受け入れたくなかったのだろう。ま た、オランダ通詞が医学に詳しくないのにも関わらず解体新書の内容自体に口出しをして くることもあった。その通詞は解体約図を見て「『ゲール』(乳び)というものは身体中に はない。『ガル』(胆汁)の誤りであろう。」と指摘した。ちなみに「ゲール」というものはもちろん存在し、解体約図には書かれてないものの、解体新書ではその部分の記述があ る(13)。
第 3 節 解体新書の出版
解体約図を出版した時点ですでにターヘル・アナトミアの解説文の翻訳は完了していた ので、玄白たちは解剖図を写す必要があった。この解剖図の模写をおこなったのが小田野 直武である。直武は平賀源内と深いつながりのある蘭画家である。1773 年(解体新書出版 は 1774 年)、鉱山の技術指導のために平賀源内が秋田藩の角館に訪れた際、源内は藩主 の佐竹義敦と藩士の小田野直武に蘭画の書き方を伝授した。義敦と直武の 2 人は主従関 係ではあるが、ともに絵画に励む仲であったと言う。源内の絵は「素人にしては上手であ る」というレベルであまり評価されていないが、遠近法や陰影法など西洋絵画の技法は素 晴らしいものであった。その後も義敦、直武は源内に蘭画を教わり続けていった。銅山の 技術指導も終わり源内が江戸に帰った後、直武はもっと源内から蘭画を学びたいと考え、 「銅山方産物吟味役」を拝命し、江戸に上り源内のところに寄寓する。そして源内の勧め で解体新書の解剖図を描くことになる(14)。
そして 1774 年、杉田玄白や前野良沢、中川淳庵らが翻訳した解説文と、小田野直武が 描いた絵を合わせた『解体新書』が出版された。解体新書は翻訳メンバーによって将軍に 献上された。
第4節 名利の欲を求めない良沢
解体新書の著者の欄には杉田玄白・中川淳庵・石川玄常・桂川甫周の 4 名の名が載っているのだが、前野良沢の名前が載っていない。この理由として、
・中川淳庵・石川玄常・桂川甫周の 4 名の名が載っ
1.翻訳が不完全なまま公開すること良沢が反対し、著者として名前を掲載することを拒否
したから。
2.解体新書を刊行することで幕府からお咎めを受けることを懸念し、良沢に影響が及ばな
いように玄白が単独著者としたから。
3.良沢にとって蘭語の翻訳が一番の関心事であり、名利の欲ではないと太宰府天満宮に誓
ったから。
などの説がある(15)。この出来事をきっかけに良沢と玄白の間には少しずつ溝ができていくことになる。ただ良沢のような学者肌で堅い性格の者と、玄白のように気遣いがよくできて細かいことには拘らない者の間ですれ違いが起きるのは仕方がなかったのかもしれない。玄白や淳庵は良沢に対して尊敬しつつも、時として足並みが揃わない部分もあったの
だろう。
第 3 章 著者たちのその後
本章では、玄白、良沢、淳庵の3名が、解体新書出版後どのような道を歩んで行ったの
かについて扱う。
玄白は解体新書出版後、漢方医たちから「医学を惑わす不届き者」として激しい非難を受ける。しかし、解体新書が老中田沼意次に献上されていることや、将軍侍医千賀道有からも認められているということが世間に知れ渡り、今度は解体新書の功績を讃える声が徐々に増えてきた。すると玄白の地位はみるみる上がり、いつの間にか蘭方医学の巨頭になっていった。弟子の数も増え、多くの大名たちが争って彼を招くようになった。そして外科医として優れている玄白はその腕を生かし開業するとともに、「天真楼」という医学塾を開いた。晩年には回想録『蘭東事始』を執筆し、のちに福沢諭吉によって『蘭学事始』として公開される。玄白が 83 歳で没した後も、彼の子孫や弟子の活躍ぶりは凄まじかった。例えば孫の杉田成卿は幕府の天文方に任命されている。ペリー来航の際、大統領 の新書を翻訳したのも彼である。また弟子の大槻玄沢は『蘭学階梯』というオランダ語の 文法書を書いている。ちなみに大槻玄沢は自身の著書においてビールの醸造法を紹介して いることで有名である(16)。(ビールの醸造法について記述した本はもちろんこれが日本 初である。その本は飢饉の際に食料にできるものを紹介しているもので、ビールは食後に 消化をよくするものとして説明されている。)
このようにして玄白は世間的に有名になり、子や孫の代においても杉田家は繁栄してい くのである。
では良沢は解体新書出版後どのような人生を送ったのだろうか。
良沢は玄白のように社交的ではなく友人も少なかった。(ただし勤王家高山彦九郎や、最上徳内とは親密な交流があった。)弟子も大槻玄沢(玄沢は良沢と玄白の共通弟子。
「玄沢」という名前も良沢と玄白から一文字ずつもらっている。)や江馬蘭斎などわずかであり、弟子が 104 人いたとされる玄白とは全く対照的な人生を送った。世間との関わりを持たなくなった良沢は語学の世界にのめり込んでいくことになる。彼はオランダ語にとどまらずラテン語やフランス語まで研究するようになった。そして出版もしない訳書を増やしていった。しかし彼は世間から認められなくても不幸だったわけではないようだ。
彼は自分の属する中津藩の藩主奥平昌鹿から、解体新書の功績を褒められていた。ある日良沢は奥平昌鹿から尊敬の意味を込めて「オランダの化物」と言われた。その名前をとても喜んだ良沢は以後「前野蘭化」と名乗った。自分の努力が藩主に認められたことだけでもよほど嬉しかったようである。そのような一面を見ると、彼の努力も報われたと言えるだろう。彼はその後 81 歳で娘夫婦に看取られながら息を引き取った(17)。
淳庵は解体新書出版後もオランダ語の学習を続け、そのかたわら植物学にも取り組んだ。例えば 1776 年、出島の博物学者ツンベリー(スウェーデン人)が江戸に訪れた際、桂川甫周とともに医学と植物標本作成法についての教えを受けた。ちなみにこの時淳庵は良沢も誘ったのだが、良沢は返事としてツンベリーに「お会いしたい心は山々だが、今会えばあなたとお別れすることができなくなり、主君も家族も振り捨てて長崎はおろか、オランダまでついて行ってしまいたくなるでしょう。」という内容のオランダ語の手紙を送
り断っている。ともかく淳庵や甫周はツンベリーのような外国人とオランダ語で会話できたということだけで嬉しかったに違いない。ツンベリーは江戸を出て出島に戻ることになった時、淳庵と甫周にささやかな卒業証書を作ったのだがそれを 2 人は涙を流して喜んだ、という話が残っている。一方ツンベリーはスウェーデンに帰国した後、日本一の学者は中川淳庵と桂川甫周の 2 人である、と広めていった。この話はロシアにまで伝わり、のちにロシアに漂流した大黒屋光太夫という日本の漁民が帰国した際、日本一の学者は中川淳庵と桂川甫周だ、として日本に伝わる。しかし淳庵はこの時すでに癌で亡くなっていたので(享年 47)知ることはなかった(18)。
(淳庵は没していたが、甫周は生きていたのでこの話を聞いて非常に喜んだ。しかもこの話は大黒屋光太夫が帰国した際に行われた、幕府高官との謁見の場において光太夫が話したことなのであるが、なんとこの謁見の場に甫周は記録係として同席していたのである。甫周の父である甫三は法眼という外科の最高の位に就いており、甫周もそれなりの待遇を受けていたのだが、味方であった田沼意次が失脚して以来甫周は寄合医師に格下げされてしまっていた。そのため甫周は幕府高官から冷ややかな目で見られており、この謁見の場でもあくまで書記係として発言は許されていなかった。そもそも幕府高官が集まる場に出席できたこと自体奇跡で、海外事情に詳しくなければ呼ばれることはなかっただろう。しかしこの謁見の場において甫周の名前が挙がったことで周りからの見る目が変わり、地位が上がった。その結果色々な面で融通が効くようになり、例えば幕府に監視されている立場の大黒屋光太夫とも気軽に会い、ロシアの話を聞くことができたのであった。後に甫周は光太夫との話で得た情報を『北槎聞略』として出版している。)
最後に
本稿では解体新書翻訳の過程を、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵の 3 名に注目して説明した。この 3 名の他にも面白い蘭学者はたくさんいるので、今後のレポートで扱っていきたい。
玄白たちが翻訳に取り組み始めた時は蘭和辞書などはなく、良沢が長崎留学で得た知識 と、オランダ語の単語をわずかに集めた辞書とも呼べない小冊子だけが頼りだった。辞書 がないので推測で押し切るしかない部分も多く、そんな暗号解読に近いことを何年も続け た。私は英語の授業などで辞書があっても翻訳に苦しんでいるのに、辞書なしでやっての ける玄白たちの根性はすごいと改めてと感じた。
なお、私が本稿を書くにあたって参考にした漫画がある。それはみなもと太郎『風雲児たち』である。この漫画は江戸時代から幕末、明治維新にかけての偉人について扱っているギャグ漫画なのだが、内容はかなり深くギャグ漫画とは思えないほど参考になった。今回自分が参考にした解体新書について描かれた章は、人気が高く 2018 年に N H K でドラマ化されたほどである。ぜひ皆さんも一度手にしてはいかがだろうか。
最後までご覧いただきありがとうございました。
引用注
(1)青木歳幸『江戸時代の医学』吉川弘文館、2012 年 p.107 (2)酒井シヅ『すらすら読める蘭学事始』講談社、2004 年 p.46 (3)同上書 pp.46-49
(4)前掲書(青木:2012)p.121
(5)前掲書(酒井:2004) pp.89-94
(6)同上書 pp.99-100
(7)同上書 pp.101-102
(8)同上書 pp.105-108
(9)同上書 pp.110-111
(10)同上書 pp.113-115
(11)同上書 pp.117-119
(12)同上書 pp.155-156
(13)同上書 pp.157-158
(14) Wikipedia 小田野直武
2021年10月8日
(15) Wikipedia 解体新書
年10月8日
(16)前掲書(青木:2012)pp.113-116
(17)同上書 pp.117-118
(18)同上書 pp.120-121
参考文献一覧 酒井シヅ『すらすら読める蘭学事始』講談社、2004 年 青木歳幸『江戸時代の医学』吉川弘文館、2012 年
コラム:蘭和辞書
〜日本初の蘭和辞書『ハルマ和解』を作った稲村三伯〜
『解体新書』を出版した杉田玄白たちが『ターヘル・アナトミア』の翻訳を始めた 頃、世の中に蘭和辞書というものはなかった。一応青木昆陽が長崎のオランダ通詞に聞い て回り 700 ほどの単語を集めた『和蘭文字略考』を執筆しているが、アルファベット順 に並んでいないので辞書と呼べるものではなかった。また長崎のオランダ通詞として有名 な西善三郎という者が本格的な辞書に着手していたが、完成させることなく亡くなってし まった。『ターヘル・アナトミア』の翻訳をおこなった前野良沢も肉筆で『和蘭訳筌』と いう辞書を著していたが世間に広まったものではなかった。しかもこれらの本の整理や校 訂、アルファベット順に並べる作業など完成形に近づけるための作業はとても大変なの で、おこなう者はいなかった。
こういった「蘭学を勉強したくても辞書がない」という状況に対する問題意識は杉田玄 白やその弟子の大槻玄沢も抱えていたが、医学に追われ忙しかったのか着手しようとしな かった。そこで出てくるのが稲村三伯である。彼は鳥取藩の藩医であったが、玄沢が執筆 した『蘭学階梯』というオランダ語の文法書に影響を受け鳥取藩を脱藩し、玄沢が開いて いる芝蘭堂という江戸の蘭学塾に向かう。芝蘭堂で彼は自分と 1 歳しか歳が違わない玄 沢を師と仰いだ。芝蘭堂四天王のひとりと呼ばれるまで頭角を現した三伯は、今まで誰も 取り組んでこなかった蘭和辞書の作成に取り掛かる。
蘭和辞書を作るにあたってはじめに三伯は長崎通詞の石井庄助のもとに訪れる。庄助は 亡きオランダ通詞西善三郎の遺志を継いで和蘭辞書を執筆していた。しかし白河藩への仕 官が決まり、辞書編纂の仕事ができなくなっていた。そこで三伯が彼の仕事を引き継ぎ、 辞書を完成させることになった。しかしここで一つ問題があった。適当な順番で集めた膨 大な単語をアルファベット順に並べ直すという作業はとても時間がかかってしまうのだ。 そこで三伯が考えたのが、フランソア=ハルマというフランス人がオランダ語をフランス 語に訳した辞書を参考にするということであった。この辞書のオランダ語はアルファベッ ト順にきちんと並べられているので、それを書き写してそれに対応する日本語訳を探し出 していく、という方式で始められた。いわば蘭仏辞書であるハルマ辞書の日本語版をつくり、蘭和辞書にするということである。三伯は同門の宇田川玄随や岡田甫説とともに、ハ ルマ辞書を一語一語日本語に置き換えていった。
そして三伯は辞書を作る際に、活字という当時としては古風で珍しい手法を用いた。三 伯はアルファベット 26 字のスタンプを作りそれを組み合わせて印刷をおこなった。当時 は版木彫りといい版木に直接文字を掘るという方法が主流だったのだ。なぜなら活字は銅 製だと高価で、木製だと欠けやすいからである。また一度活字の順番をばらばらにしてし まえば、元に戻すのが大変だからというのも理由だ。一方版木彫りならその問題は全て解 決される。しかし今回のような洋書の場合、26 字しかないアルファベットは活字を使っ た方が合理的だったようだ。(アルファベットは活字だったが、和訳の日本語は手書きだ った。)
こうして 10 年の歳月が流れた。1796 年、全 13 巻収録語数 6 万 4 千(現代で言うと、 広辞苑の収録語数が 25 万、岩波書店の国語辞典の収録語数は 6 万 7 千、『ドラえもんの 初めての国語辞典』という園児〜小学校低学年向けの辞書の収録語数は 1 万 8 千)の蘭 和辞書『ハルマ和解』が完成した。発行部数はわずか 30 であったが、皆で手分けして書 き写していくことになった。
晩年の稲村三伯は京都で海上随鴎と名乗り、蘭学の先生として活躍した。ハルマ和解が 世に出てから 14 年後、三伯の弟子藤林普山(杉田玄白から見れば弟子の弟子の弟子)が ハルマ和解から重要単語 2 万 7 千を抜き出し『訳鍵』という上下 2 巻のコンパクトな木 版辞書を 100 部刊行した。この辞書の書写本はかなり普及した。大槻玄沢の『蘭学階 梯』(文法)と訳鍵(単語)を揃えれば日本のどこにいても独学でオランダ語が学べる時 代になった。
そして 1811 年稲村三伯は 53 歳で世を去った。
参考文献
青木歳幸『江戸時代の医学』吉川弘文館、2012 年
太田道灌と江戸城
文責:中二 K 氏
序論
日本でオリンピックが開催された。今年の夏は世界中が「東京」という地に注目したことだろう。東京が日本で注目されるようになるのは徳川家康以降だが、家康よりも 100 年 早く東京に目をつけ、江戸城をつくった太田道灌という人物がいる。彼は数々の武功をあ げた武将として有名だが、僕はこの「最初に東京という地に目をつけ、そこに城をつくっ た」という事が道灌の一番の功績だと考えた。本稿では、なぜ道灌が江戸城をつくったの か、時代的背景と地理的理由、さらにはどのように江戸が発展していったのかを論ずる。
第 1 章 江戸城の築城
太田道灌が建設した江戸城は現在の皇居の東御苑にある天守台から本丸跡に位置したと言われている。江戸城は徳川家康が入城した時に大幅に改築・増築したうえ、1657 年の明 暦の大火で焼失したので、現在では天守閣の土台を残すのみとなっている。そのため、太 田道灌時の江戸城を見ることはできないが、当時の資料や徳川家康が入城した時の記録な どから想像することはできる。本章では大田道灌が江戸城をつくることになった背景と道 灌の江戸統治の様子を論じていく。
当時の関東は、古川公方足利対道灌の主君、扇谷上杉氏と山内上杉氏連合軍の戦い「享徳 の乱」が勃発していた。
江戸城の構築された地は、もとは平安時代末期からの名族江戸氏の館跡にあたる。江戸氏 は鎌倉府のもとでも有力な国人(地元の武士)として存続していたが、享徳の乱勃発以前 に没落し、その領地は鎌倉府に収公され扇谷上杉氏に預け置かれたまま享徳の乱の過程で 占領され、家臣である太田道灌に譲り渡した可能性が高いと黒田は論じている(1)。
いつ江戸城が完成されて道灌が住み始めたのか、ということは実ははっきりしていない と黒田は述べている。「赤城神社年代記録」は 1457 年 3 月 1 日、「本朝通鑑」は 1459 年 正月 11 日としているなど一定していない。ただわかっているのは 1459 年 11 月には道灌 は江戸城周辺地域の支配に携わっていて、すでに江戸城に在城していたとわかる。 「永享記」によれば、道灌は 1456 年から江戸城築城を始めたという。当時の史料から確 認することはできないが、1456 年は「太田道灌」という名前が史料に見え始める時期であり、また享徳の乱で上杉方の下総市川が攻略され、まさに江戸地域が上杉方の最前線に位 置するようになっていたこと、扇谷上杉氏は古河公方足利方の下総(現在の千葉県の一部) の千葉氏への侵攻を展開していた時期にあたったから、道灌が武蔵東部防衛のために江戸 に在住したというのはあり得ないことではないと黒田は考えている。扇谷上杉氏の拠点は 相模(現在の神奈川県の一部)にあったが、享徳の乱の展開にともなって武蔵南部に勢力 を拡大していった。また、上野から武蔵北部については山内上杉氏が支配していた。扇谷 上杉氏にとって当面の敵は千葉氏であり、さらに古河公方足利方の武蔵における拠点とな っていた崎西城(現在の埼玉県北東部)への備えが必要とされた。そのため武蔵に軍事拠 点を置く必要があり、そのために江戸城をつくったとされている(2)。太田道灌公事績顕 彰会は上杉軍は、この江戸城を南端として岩槻城・河越城・深谷城等と連携して荒川を防 備線とし渡良瀬川を前線防衛線とする足利方に対抗しようとしたのであると述べている (3)。
実は上記の作戦を考えたのは扇谷上杉氏でも太田道灌でもなく室町幕府なのであると太 田道灌公事績顕彰会は考えている。つまり足利対上杉の長きにわたる戦争は関東の危機に とどまらずもはや室町幕府も揺るがす重大な問題へと発展していったということである。 時の室町幕府将軍足利義政はもう8代目。政治はすでに倦怠の時期に達していた。中央で は管領(将軍の補佐をする役職)につくことのできる3家の互角の勢力はいつ争いが起こ るか分からないほど緊迫しており、地方では重い借金に苦しむ農民たちが起こす徳政一揆 が頻繁に起こっていた。こうした天下の危機が迫っている時に関東の争乱を放置すれば、 幕府が崩壊するという危険性を幕府は理解していたため、早急に効果的な手を打つ必要が あった。もし上杉方が再起不能なまでに完敗した場合古川公方足利成氏に東国を渡すこと になる。即ち天下が東西で二分される事態になってしまうのである。そのうえ、上杉方の 旗色は今までの戦績で見れば圧倒的に悪いのである。上杉方の形成逆転及び足利成氏の倒 壊作戦にはまず上杉方の強力な拠点が必要だと幕府は考えた。河越城で武蔵中央部、岩槻 城は武蔵東部を防御することができる。この 2 つの城を持つ扇谷上杉氏と武蔵北部・上野 を領地とする山内上杉氏が協力すれば、武蔵中部以北の守りは磐石であろう。残る問題は 武蔵南部である。武蔵南部を守るにあたって戦略的に最高の場所、それが江戸だったので ある(4)。
小泉は城の建築には伝説がつきものであると述べている。『関八州古銭録』には、道灌は 品川沖から江ノ島の銭洗い弁天に参詣した帰り、品川沖に差し掛かるとコノシロ(コハダ)が船中に迷い込んできたので「吉事なり」と快感を覚え、千代田、宝田、斉田の三家臣に 命じて江戸に築城することを伝えたという奇談が残されている。また、『北条五代記』に よると、河越城・岩付城と共に道灌の父、道真が指図したと言われている。『落穂集』に は、笹竹で城郭の形を巡らして縄張りをしていた折に、竹の内側の地名を百姓に尋ねたと ころ、千代田・宝田・祝田の三村と答えたので道灌は大いに悦に入り「国は武蔵、郡は豊 島、字はそれぞれ吉事の文字ばかりである。ここに城を築けば繁栄間違い無し」と言った という話が残されている。それにしても道灌自身の綿密な調査によって江戸築城が決定さ れたことは間違いない(5)。
道灌は江戸城内に鎮護のため 1469〜1486 年の間に鎌倉・鶴岡八幡宮を勧請したと言わ れている。山林・境内社田を寄進し、道灌自ら椎と松を手植えしたと社伝は記している。 市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮は 1624〜1643 年の間に現在の位置に移ったと言われており、境内の 茶の木稲荷の家紋は太田家の家紋と同じものであり、市ヶ谷の八幡宮は江戸城建設当時に 江戸城内に道灌によって創建されている。筑土神社は道灌が江戸城築城の際、津久戸明社 を江戸城の北西に遷座して江戸城の守護神とした。その後、洪水などに見舞われたびたび 遷座し東京大空襲で全焼した後、現在の千代田区九段北一に再建された。そのほかにも、 豊島区の妙義神社、文京区の吉祥寺や墨田区の法恩寺なども道灌の創建と言われている。 こうした社寺保護をすることは、民心の収攬と安定を目的としたものであり、領主として は当然のことであるが道灌ははやくからこの点に注目していた。そして江戸の城下町には 道灌の名を語って格式を上げ誇りとした神社が多いと小泉は述べている(6)。また、鶴岡 八幡宮別当弘尊に対してその土地の守護である山内上杉氏は税などの徴収をしていなかっ たが、道灌は徴収を命じたという出来事があった。このことは、守護などの役職にかかわ らずその分国において軍事力を掌握している領主に徴収権があったことを表すと黒田は考 えている(7)。小泉は道灌があまりにも強すぎて源氏の氏神とも言われる鶴岡八幡宮も怖 気付き道灌の上司に訴えることもできなかったという説を主張している(8)。
本章の内容をまとめる。太田道灌は扇谷上杉氏と室町幕府の命を受け自身の綿密な調査 の末、武蔵南部に軍事拠点、江戸城を作り 1456 年から住み始めた。また、江戸城にまつわ る伝説は数多く残されており、寺社の保護を通じて民の心を掴んだ。江戸での影響力は扇谷上杉氏を凌ぐほどになった。
江戸城は道灌→上杉氏→小田原北条氏→徳川家康と城主が変わっており特に家康が江 戸城の大拡張工事を行ったため約 550 年前の江戸城の姿は皇居内の地名などから偲ぶこと しかできない。ここでは当時の史料をもとに江戸城がどんな場所に建てられたのか、江戸 はどのように発展していったのかを論じていく。
そもそも道灌時代の江戸城の場所はどこなのだろうか。小泉は徳川家康入城以前の江戸 城には本丸の他に二つの曲輪があり、家康はこれらを 1 つにまとめて本丸にしたと論じて いる。つまり道灌の江戸城は家康江戸城の本丸あたりに存在していたことがわかる。
小泉によると江戸城のある地は武蔵野台地の先端に位置し、東側には平川が流れ東南の 断崖下の沖積地は日比谷の入江になっていた。東海道や鎌倉街道、古甲州道が通る要衝だ ったため平河宿という宿が存在した。また河越城と扇谷上杉氏の本拠地、鎌倉を繋ぐ中間 地点にあり、両要地との連絡に便利なところであった。平川沿いには集落と漁港が密集し ていて、平川沿いの城門前には市場が成立し、その河口の江戸湊という港に多くの商船や 漁船が集まった。また入間川・荒川・利根川などの大河川が合流した隅田川が港と平河宿 に接するように流れていた。まさに水陸両面における要衝であった。そもそも消費地であ る城はこういった流通拠点との接点なしで存在することはできなかった。しかし築城当初 の江戸湊はただの小さな漁港に過ぎなかった。それが道灌が在住して南武蔵の中心地とな ることで他の湊とは比較にならないほどの繁栄を遂げるのである。つまりは江戸城ができ たことにより、江戸地域には城下町が出来上がっていたのであると小泉は述べている。そ れだけでなく、城主の道灌自身の文化的造詣が深く、それにより江戸城は軍事的だけでは なく、政治・経済・文化の中心地として発展していくのである。
小泉は当時の史料『奇題江戸城静勝軒詩序』と『静勝軒銘詩并序』の内容を要約し、「江 戸城は約 20〜30m 崖上に建ち、周囲には土塁が廻り、土塁の頂には石を並べて土塁の崩れ を防いでいる。崖下に深い堀を巡らし、堀には湧水が流れ込み巨木による橋が架けられ、 戦時にはこれを外して遮断する。城内の道にも石を敷き、左右に曲がりくねって本丸に登 る」となる。また、江戸城の常備兵力は2、3 千騎であり、その将が道灌であったという。 そして城内には「静勝軒」と呼ばれる城主道灌の館を設け、中国の兵書にある「兵は静を 持って勝」という言葉を信条にしていた。静勝軒の西側からは富士山が、東側からは城下 の江戸湊が見えたと述べている。
小泉によると江戸時代の甲州流軍学者は道灌を近世築城法の始祖とするものが多く、「道灌がかり」と呼ばれる築城法の創始者としている。道灌がかりで建てられた江戸城の特色は城地の標高差を利用し、最も高いところに本丸を配し、それよりやや低い位置に二の丸、 最も低いところに三の丸という 3 つの独立した曲輪(城の中の区画)から構成された平城 である。従来の城が曲輪と曲輪を結び付けていたのに対し、各曲輪を独立させその間に濠 などを設けその濠には橋をかけて障害物としている。ひとつの曲輪が奪取されても他の曲輪から敵を攻撃できる構造になっている。
小泉は北西の小石川、牛込方面から江戸城を攻める敵に対しては、現在北の丸公園がある 場所が合戦場となっていたと述べている。ここは「馬の架け橋」と言われ敵を引きつけ、 場内の精鋭な兵で一気に殲滅するという場所であった。西の四谷方面からくる敵とは現在 皇居の中にある「紅葉山」と呼ばれる場所で戦ったという。それでも防御できなかった場 合は三日月堀と道灌堀の 2 つの堀を防ぎ場としていて「一人険に当たれば万慮進まず」と 言われたという(9)。
黒田によると静勝軒の東側には伯船亭、西側には含雪斎があり、それぞれ筑波山と隅田川、 富士山と武蔵野が遠望できたという。さらにその両脇には侍の居住舎が立ち並び、そのほ かに戌楼(物見櫓)・堡障(防御施設)・庫痩(兵糧庫)・厩舎(馬小屋)・武器庫など が建てられていた。また、弓場があって数百人の兵士が上中下に別れて訓練を行なってお り、怠けたものには 300 文の罰金を課しそれを精勤者への茶菓子費にしたという(10)。
本章の内容をまとめる。江戸城周辺は河川に囲まれており、近くに湊や街道、宿場町があ り、それらは江戸城の城下町として発展して行った。そのことにより江戸城は政治・文化・ 経済の中心となっていったのである。
まとめ
以上、太田道灌と江戸城についてまとめた。道灌は「享徳の乱」という争いの中で武蔵
国防衛のために河川に囲まれ近くに街や湊がある江戸に城をたてた。そのおかげで江戸は、 江戸城の城下町として発展し、現在の世界的大都市「東京」の基礎となっていくのである。
あとがき
本稿を書いて初めて知った事は太田道灌について記している史料が少ないことに多くの 歴史学者が悩んでいることである。江戸城に至っては道灌時代の江戸城の絵が残されてな い上、徳川家康が大幅に増築・改修し、さらにそれも日本史に残る大火事、明暦の大火で 全て燃えて無くなってしまったので、城の外見はおろか場所さえ「有力な説」しかない状 況である。
だが史料が少ないのにこれほどまでに有名になっていることには驚いた。今の東京があ るのはもちろん徳川家康の功績も大きいが、土台を築いたのは太田道灌である。東京に住 む者として心から感謝したい。
注一覧
(1) 黒田基樹『太田道灌と長尾景春』岩田書院 2020 年 p 41
(2) 同上書 pp,39〜41
(3) 太田道灌公事績顕彰会『太田道灌』武蔵野文化協会 1956 年 pp.33~34
(4) 同上書 pp.35~38
(5) 小泉功『太田道真と道灌』幹書房 2007 年 pp.86~89
(6) 同上書 pp.99〜100
(7) 黒田基樹『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院 2004 年 p 33
(8) 前掲書(小泉:2007)p50
(9) 同上書 pp.89~95
(10) 前掲書(黒田:2020)pp.43~46
参考文献一覧
黒田基樹『太田道灌と長尾景春』戎光祥出版 2020 年
太田道灌公事績顕彰会『太田道灌』武蔵野文化協会 1956 年
小泉功『太田道真と道灌』幹書房 2007 年
黒田基樹『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院 2004 年
伴三千雄『江戸城史』名著出版 1974 年
交通事情の変化と宿場町の変容
文責:会長
序論
江戸時代において重要な政策の一つに交通制度というものがある。統治を円滑に行う上で街道などを整備し、武家の移動や情報伝達などを行いやすくすることが重要だったので ある。例えば江戸を中心に整備された五街道などがその典型例だろう。
その政策の中で参勤交代の際の武家の休憩や、人馬継ぎ立てのための人馬を常駐させる 目的で街道に数〜数十 km ごとに宿場町が設置された。また江戸中期以降には庶民の間で 旅行ブームが起こり一般の旅行者が増えたため宿場町には多数の旅籠屋などが整備され、 宿場町は一大商業地域となった。
しかし明治時代には参勤交代の消滅や西洋式の交通政策の進展により宿場町の役割が明 らかに低下していく。
本論では江戸後期以降の交通事情と宿場町の変化に関連があると考え、それを中心に宿 場町の一つである草加宿の変遷を店舗の移り変わりや地図を用いながら辿っていく。
草加宿は日光街道の江戸から二つ目の宿場町で越谷宿と千住宿の間に存在し、政治の中 心地に近いためより当時の状況の影響を受けやすい地域であると見ることができると考え られる。
最後に本論の構成について述べる。
第一章では草加宿の成立までの流れ及び江戸の交通政策と江戸終盤における草加宿の概 要について述べる。
第二章では明治および戦前における交通事情の変化と戦前の草加宿(旧草加宿地域)に ついてそれぞれ述べ、その関連性について述べる。
第三章では戦後から現在までの旧草加宿地域の変化について簡単に説明する。
第一章江戸時代における交通と草加宿
第一節草加宿の成立と概要
この章では江戸時代における草加宿について述べる。 まずこの節では草加宿の成立までの流れと草加宿の概要について述べる。
草加宿の由来について、まず江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』は草加宿の形 成の歴史について次のように述べている。
「慶長十一年宿篠葉村の民大河図書なる者、彼村々の民とはかり公へ聞へあげて、茅野 を刈沼を埋て開墾し、奥州街道の駅場となせり(1)」
つまり沼地を改良して草加宿は整備され、また 1606 年には成立していたことになる。 ただし『草加市史通史編上巻』はこれについては江戸時代後期の著書であるため信頼性が 低いと考えられ、草加宿と呼ばれ宿場町としての機能を持つようになるのはもう少し後の ことではないかと指摘している(2)。
次に草加宿が日光街道の第二の宿駅となるまでの過程について前出の『草加市史通史編 上巻』は日光街道の整備の進展から解説している。
1600 年に関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は当初から奥州の抑えとして日光道中筋を 重視し、宇都宮方面から順次整備を行なっていた。その中で従来の東西に迂回する道筋よ りいたって便利な通路であった草加周辺は整備が進められ、近世村落として確立されてい った。その他、新道整備などもありそれらを受けて、1629 年幕府は草加周辺の検地を行い 1630 年に草加宿を宿駅として指定したという(3)。
なおこれは越ヶ谷駅までの距離が 16km と離れていたため宿場業務の一つである人馬の 継ぎ立てに支障が出ていた千住宿の嘆願が功を奏したとも言われているそうだ(4)。(それ についても横山正明の『日光道中草加宿』によれば、もともと湿地帯であった草加宿に伝 馬を整備するのは困難であったため時間を要したという。(5)
こうして草加宿は「江戸への行程四里八町、千住宿へ二里八町、越谷宿へ一里二十八町 (中略)もとは日々に役夫廿五人、駅馬二十五匹を定めなりしが、享保十三年より数をま し五十人五十匹を定数と(6)」する宿場町として成立した。
草加宿は現在でいうところの高砂二丁目から神明一丁目にまたがっており、その中に後 述する伝馬屋敷が草加宿一丁目から六丁目までの 1.2km の間に広がっていた(7)。またそ の伝馬屋敷を延長するように旅籠屋などが存在していた(8)。
第二節宿場町の業務と草加宿
この時代の宿場町には主に二つの役割が存在した。
それは(一)公用及び一般旅行者のための伝馬の次ぎ立てと(二)旅籠屋や大店、市な どによる商業の場としてのものである。
馬から旅人の荷駄を引き継いで次の駅まで運ぶという「駅伝制度」が取られていた(9)。 そのため各宿場町において人馬の用意がなされたわけである。
(二)は旅行者が大量に行き交いするため、それらの需要を狙い発達したと考えられる。 また各宿場町では店舗を持たない商人のために月に数回市が開かれていたようである(10)。
ではこれらは草加宿においてはどのようだったのだろうか。
(一)については前述の通り人馬がそれぞれ当初は 25 ずつ、享保十三年以降は 50 ずつ と定められ、またそれらは草加宿を構成する九か村から提供させられた(11)。この草加宿 を構成する村落の個数について、前出の横山は小さな村が郡立していた草加宿近辺では二、 三村では役料を負担しきれないためだとしている(12)。
次に(二)について述べる。
まず市について草加宿では「六斎市」というものが開かれていた。この六斎市は岩槻・ 越谷・鳩ヶ谷・粕壁・草加の順に開催日が競合しないように一月に六回ずつ開かれていた (13)。前出の横山によれば草加が最も参入が最後であったため開催日の順番が最後とな り、開催初期は客の獲得に苦戦したそうである(14)。
次に商店について述べる。
前出の『草加市史上巻通史編』によれば宿場となった当初から伝馬関係の業務から派生 する仕事が多く存在し、当初それらは伝馬屋敷を持つものが請け負っていたが次第に通行 人が増えるに従ってそれを目当てに商売を始めるものも多く現れたという(15)。
ではどのような商売が主に行われていたのであろうか。それは旅籠屋と呼ばれる宿泊業 である。旅籠屋というのは同じく江戸時代に存在した、利用者の自炊を基本とした木賃屋 に対して食事賄いのついた宿屋のことである(16)。
草加宿ではこの旅籠屋が特に盛んだったと考えられる。隣接する千住宿、越谷宿と比較 した際、千住宿、草加宿、越谷宿がそれぞれ町並み町間がそれぞれ約 22 間、12 間、17 間 であるのに対し、旅籠屋数が 55 軒、67 軒、52 軒(17)と規模は最小ながらも軒数はもっと も多かったのである。
この繁栄に関して食売旅籠屋の存在が大きかったと推測される。『草加市史上巻通史編』 によれば通常の食事賄いに女性の給仕がつく旅籠屋のことで、実態は遊郭的な存在であり、 通行人以外にも近隣の村人などの利用もあったそうだ(18)。
最後にこの章のまとめを行う。 草加宿は奥州を押さえる目的で整備されていた日光街道の千住宿と越谷宿の間に設置され、伝馬の継ぎ立て業務を担っていた。また日光街道の利用者に対し商売を行うことで繁栄し、特に旅籠屋と呼ばれる宿泊業が食売旅籠屋の存在もあり栄えた。
第二章明治〜戦前期の草加宿の変容
第一節伝馬制度の変化と新しい交通
この章では武家政権終結後の交通事情の変化とそれに伴う草加宿の変化について述べ、 この節では前者について述べる。
1867 年に大政奉還がなされ、その後の新政府軍と旧幕府軍の内戦を経て日本は明治政府 の統治下に置かれるようになった。しかしながら明治政府になった途端に全ての制度が変 わったりするわけではなく、いくつかの制度は最初期の明治政府に引き継がれた。その一 つが宿駅制度である。
『草加市史通史編下巻』によれば 1868 年に設立された内国事務科により街道筋の駅逓 事務がなされるようになり、助郷制度の変更などはあったものの少しの間は宿駅制度は運 用されたという(19)。
しかし 1872 年になると新政府は宿駅制度からの脱却を図り陸運会社という公営の会社 が設置され、江戸時代から続いた宿駅制度は終わりを迎えることとなった(20)。
また新たな交通手段も登場した。それは鉄道である。
草加に敷設された鉄道は千住馬車鉄道と草加馬車鉄道、東武鉄道があるがこのうち千住 馬車鉄道と草加馬車鉄道に関しては、明治 20 年代前後に開業後まもなく廃業している(21)。 しかし東武鉄道は今日まで営業を続けており、その開業は草加全体に大きな影響をもたら したものだと考えられる。
東武鉄道は明治 32 年に北千住・久喜間の約 40km に鉄道敷設が完了し、運行が開始さ れた。草加駅は草加宿から 200m ほど西に東武鉄道最初の駅の一つとして設置された(22)。
その他 1931 の年千住乗合自動車会社などのバス会社の設立や、草加宿の旧日光街道か ら 100m ほど東の国道 4 号(現・県道 49 号)の整備などもあった(23)。
第二節明治期の草加宿の変容
前節で宿駅制度の終結と鉄道敷設について述べたが、これらは草加宿にどのような変化 を与えたのだろうか。
まず宿駅制度の終結について、資料 1 を見て欲しい。資料 1 は浅古正三の『小菅県草加 宿』の pp6〜10 に記載されている明治 3 年の地図と、佐藤久夫の『草加宿駅と宿場町案内』に記載されている明治 35 年と昭和 45 年の様子を用いて、草加宿の様子について年代ごと に編集した物である。
明治 3 年と 35 年を比較して読み取れることとして以下のようなことがある。
まず明治 3 年では宿場の大半を旅籠屋が占めているのにも関わらず(なお浅古は『小菅 県草加宿』のなかですでに江戸時代と比べて減少傾向にあったとしている(24)、35 年に は宿泊施設はわずか数軒しか見受けられないという点だ。このことから江戸時代の参勤交 代などを含む宿駅制の終焉により宿泊業が大きな打撃を受けたことがわかる。
ただ宿泊業の打撃の原因には別の理由も存在すると浅古は前書で示している。それは明 治 5 年の「廃娼の制」である(25)。前章で述べた通り江戸時代の草加宿の旅籠屋には食売 旅籠屋という遊郭的特性を持つものが存在し、それが近隣の村人も呼び寄せて草加宿の繁 栄に寄与していた。しかしこの廃娼の制によりそれらの食売旅籠屋が打撃を食らったと考 えられる。実際に娼妓諸車税が激減したことで陸羽・中山両道の修繕費が不足する事態に 陥ったそうだ(26)。
次に旅籠屋が減少したことで必然的に生活用品を取り扱う多種多様な店舗が増加したこ とが挙げられる。このことから旅館業などの旅行者向けの商業は衰退したものの、草加宿 近隣に在住する人々への商売を主とした一代商業地域へと変化し、依然として草加で最も 重要な場所であったと考えられる。
また 35 年には 3 年には見られなかった銀行や西洋風の品物を売る店も出現しているこ とがわかる。
次に鉄道敷設の影響について考える。
明治 20〜30 年代に開業しているためこちらも旅籠屋の減少や、需要の変化による草加 宿の変容の一因であると考えられるが、馬車鉄道は開業後すぐに廃業し、東武鉄道は 35 年 の時点ではまだ数年しか経っていないのでこの時点では影響は少ないと考えられる。
また駅周辺に東武草加駅にも商店が連なる地帯が形成された(27)が資料 2 の明治 39 年の時点ではまだまだ小規模であったことが窺える。資料 3 の昭和 4 年の時点でも若干拡 大はしているものの未だ小規模であることが分かる。
なお前章で述べた六斎市だが、前出の横山によれば、自由開催に変わり市場権の争いな ども起こったそうだ(28)。
最後にこの章のまとめを行う。
明治時代に入り宿駅制は廃止され、交通制度が変化したことから草加宿における旅籠屋は減少し、その他の日用品を扱う店舗が増加した。また鉄道が敷設されたことや廃娼の制 も若干影響したと考えられる。
第三章現在までの草加宿地域の変容
この章では第二章の後、現在に至るまで草加宿の変化の概略について述べる。 戦後高度経済成長の波に乗って草加全体が変化を迎えた。 全体的な流れを言うと自家用車の普及が進んだ点などが挙げられ、草加地域に限って言
えば 1962 年の松原団地の入居開始や 1961 年の東武線と現日比谷線の乗り入れ開始、1967 年の草加バイパス開通などが挙げられる(29)。
この時期の旧草加宿地域は典型的な商店街となっていたのではないかと考えられる。
資料 1 と資料 4 を見て欲しい。戦前と異なり市街地が特に草加駅周辺で拡大しており、 旧草加宿内に多くの小規模な小売店が見られる。このことから戦前の絶対的な立ち位置か ら一商店街へと地位が落ちているのではないかと推測される。
1980 年代に入ると大型店の進出が顕著になる。このころの大型店の一例としては西友が 挙げられるだろう。1984 年に小売店がピークに到達し、その後減少へと転じている(30)。 これは大型店の進出により小規模小売店が淘汰されていることを意味する。さらに自家用 車の普及による郊外大型店が出現するようになるのもこの頃である。
最後に現在の旧草加宿の様子について見てみる。
現在の草加宿では昭和45年に見られたほどの商店数はなく(写真 1)、先述したような 郊外型店舗などの大型店の進出による他の地域同様の商店街の衰退傾向がみられる。
一方で増加傾向にあると考えられるのが住宅、特にマンションなどの集合住宅である(写 真 2)。このマンション群は草加駅から東に直線的に通っている道路と交差する地帯で顕著 にみられ、草加駅に対する立地の良さから建設されたと考えられる。またこれらが建設さ れた時期が1990年代であることも1992年に開業した草加駅隣接の大型商業施設に よる影響も示唆される。
これらのことから現在の旧草加宿地域は草加駅を中心とする地域構造に居住地として組み込まれていると考えられる。
結び
本論では交通の変化から草加宿の変化を論じた。まずはそのまとめを行いたいと思う。
江戸時代には宿場町として旅行者向けに宿泊業によって栄えた草加宿であったが、明治 時代に入り宿駅制が廃止されると旅行者向けの宿泊業から日用品を取り扱う商店が栄える ようになった。その後徐々に鉄道やバスが整備されていくと次第に重要度が低下し、戦後 の高度経済成長のなかでの交通網の充足によりそれは顕著となった。現在では駅前の大型 店の出現によって小売店の衰退が顕著となり、住宅街としての性格が大きくなっている。
このように草加宿は各時代の交通事情と密接に関連しながら変化してきたことが窺え、 それを本論における一旦の結論としたい。
最後に本論における問題点をいくつか述べたいと思う。
まず他の宿場町との比較が行われていない点である。例えば千住宿と比較することで所 属自治体による差異などがわかると考えられる。
また草加宿地域以外の周辺地域に対する考察が不十分であるという点である。本来であ れば東武鉄道駅前なども草加宿と同様に店舗分布の分析を行うべきだったが、資料が手に 入らずまた字数についてもあまり余裕がないことから今回は省略した。
これらの問題点を次回の研究では解決したいと思う。
※お詫び
ここまで読んで「東京」なのになぜ埼玉にある草加宿をとりあげているのかと思ったのではないだろうか?全くその通りである。じつは当初、千住宿で書こうと思っていたのだ が資料集めが難航したため、資料が豊富な草加宿へと北上した経緯がある。
東京から数 km しか離れていないとはいえ、本部誌の趣旨と少しずれるテーマとなって しまい本当に申し訳ございません。
参考文献一覧
『草加市史通史編上巻』 草加市史編纂委員会編
『草加市史通史編下巻』 草加市史編纂委員会編
『草加宿駅と宿場町案内』 佐藤久夫著 2010 年
『日光道中草加宿』 横山正明著 2004 年
『小菅県草加宿』 浅古正三 1982 年
『新編武蔵風土記原稿第 11 巻』 蘆田伊人編 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214877/4(最終閲覧日2021年8月26日)
引用注一覧
(1)『新編武蔵風土記原稿第 11 巻』 蘆田伊人編 p180 (2)『草加市史通史編上巻』 草加市史編纂委員会編 p443 (3)同上 p446
(4)同上 p447
(5)『日光道中草加宿』 横山正明著 p21
(6)前出 蘆田 p180
(7)前出 横山 巻末資料
(8)前出上巻 草加市史編纂委員会 p462
(9)前出 横山 p15
(10)前出上巻 草加市史編纂委員会 p464
(11)同上 p447
(12)前出 横山 pp27、28
(13)同上 横山 pp77、78
(14)同上 横山 pp77、78
(15)前出上巻 草加市史編纂委員会 p462
(16)同上 p524
(17)同上 p522
(18)同上 p525
(19)『草加市史通史編下巻』
(20)同上 p155
21)同上 pp166〜172
(22)同上 pp174〜176
(23)同上 p414 (24)『小菅県草加宿』 浅古正三 p4 (25)同上 p4
(26)前出下巻 草加市史編纂委員会 p159 (27)同上 p176
(28)前出 横山 p79
(29)前出下巻 草加市史編纂委員会 pp633、634 (30)同上 pp603、671
資料一覧
資料1 草加宿店舗の変遷(丁ごとの建物一覧)
※明治3 年は『小菅県草加宿』から、明治 35 年と昭和 45 年は『草加宿駅と宿場町案内』の地図から編集。明治 3 年の地図には町境がなかったため目標となる建物から設定した。「農業一派」、「囲○ (木戸など)」は民家、「料理屋」は飲食店とした。
資料2 草加宿周辺明治 39 年付近 資料 3 草加宿周辺昭和 4 年付近
資料 4 草加宿周辺昭和 51 年付近
(資料2〜4 は今昔マップ https://ktgis.net/kjmapw/index.html(最終閲覧日 2021 年 8 月 26 日)より引用)
写真1現在の旧草加宿北部(写真1、2は 2021 年 8 月 24日筆者撮影)
写真2現在の草加駅から250M ほどの旧草加宿地域
おわりに
部員達のレポートはいかがだっただろうか。いずれも異なる視点から様々な時代の東京について書かれており、例年に並ぶ出来だったのではないかと思う。これによって少しでも東京についての理解を深めていただくことができたのならとても嬉しい。
ここで少しこの地理歴史研究同好会について話させてほしい。
今から 4 、 5 年前にこの同好会は地理や歴史への理解を深めることを目標に発足した。
巡検を実施したり、文化祭に参加したりと着実に活動を積み重ね 、現在では唯一の同好会として部への昇格を目指している。
実は一昨年、現大学 1 年生の先輩方が引退なさっ た結果 部員が激減するということがあった。それにより去年は僅かな部員だけで活動するしかなく、まともな活動ができないという状況だった。
自分は 地歴研は このまま廃部への道を辿るしかないのかと 少し諦めていた 。しかし今年に入って新入生が 例年 の 比較にならないほど 入部してくれ 、 徐々に活動も盛り上がり、なんとか今年の文化祭に参加することができた。これは部員 達 一人一人の活動の成果であると思う。 部員達には 本当に感謝したい 。
これで今回の「青楠」は終わりとなる。
今年で自分は引退となるが現在の部員達には今後も 活動を継続し、 この部活を 盛り上げていってもらいたいと思う。
OBとして来年の「青楠」を読むのが今からとても楽しみである。
最後まで お読み 頂きありがとうございました。
2021年 10 月 地理歴史 研究同好会 会長
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