短編小説 ポケットの中
桜咲く頃になると思い出すことがある。
思い出す度に、必ずといってよいほど涙が頬をつたう。あれから20年、悲しみを癒すには余りに短い月日…そう感じるのは私だけだろうか。
あの日、妻の手は冷たかった。妻は繋いだ手を静かに私のポケットに差し入れては、ちょっと照れくさそうにこう言うのだった。「あなたと出逢えて本当に良かった。私は毎日幸せだよ」と。見上げれば頭上には満開の桜、徐々に温まる妻の手の温もりを感じながら、私は静かに幸せを噛み締めるのだった。
この日、妻はこの世を去った。
急性心筋梗塞だった。
これからの人生、何回となく一緒に見れると思っていた桜だったが、この日見た桜が、妻と見た最後の桜となった。
今、私は土手の上、桜の下にいる。
そう、妻と最後に見た桜の下に。
ポケットに手を入れると、今でもあの手の冷たさや温もりが蘇ってくる。
「あなたともう何回かでも一緒に桜が見たかった。ずっと一緒に毎年見れると思っていた。あなたが隣にいなくて只々寂しくてしょうがないよ」
あまりいつまでも泣かせないでほしいものだ。あなたのせいで綺麗な桜がいつもにじんで見える。
これからも毎年この桜を見にくるのだろう。
ポケットの中、そう、あなたと手を繋ぎながら。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?