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最高で最低のテーマパーク映画としての『スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー』。

(この記事は映画『スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー』の内容について全面的にネタバレしています! まだ映画を未見の方はそのむね了承の上でお読みください。まあ、たいしてネタバレを気にしなければならないようなタイプの映画ではありませんが、一応、注意を喚起しておきます。念のため。)

 世界的に大ヒットを続けている映画『スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー』が先日、日本でも公開され、好評を得ている。

 このゴールデンウィークは日米の大作映画がいくつも上映され、それぞれに大きな数字を記録している状況だが、そのなかでも『マリオ』の人気は頭ひとつふたつ抜け出ているようだ。

 ぼくも近所の4DX3Dで見て来て楽しんだ。すでに各所で指摘されていることだが、この映画は4DXときわめて相性が良い。これから見ようという気があって、4DXの映画館が近くにある方は、ぜひそちらで視聴することをオススメする。非常に楽しい映画環境を体験できるはずだ。

https://cinema.ne.jp/article/detail/51364

 さて、ここで「ああ、面白かった!」と話を終わらせてしまいたいのだが、そうはいかない。映画版『マリオ』は決して完璧な作品ではなく、多くの瑕疵を抱えていることに触れなければならないからだ。

 もちろん、映画館で作品を味わい、楽しみ、満足して帰った多くの観客にとって、そのような点は一切関係ない。かれらはべつだん批評家ではなく、いちいち映画の長所と短所を秤にかけながらチェックする立場にいないためである。

 しかし、ぼくのように卑しくも文章を書いてお金を得ている人間は、公平に見て『マリオ』がどのような映画なのか、私見を公表しておく必要があると考えている。

 ただ、じつは気は進まない。なぜなら、いま、Twitterを初めとするソーシャルメディアで『マリオ』は熱狂的ともいえる絶賛を受けており、批判意見が一切許容されないような同調圧力的な「空気」があるからだ。

 ここで『マリオ』を批判することは何の得もない。おそらく、多くの反論が返って来るだろうし、悪くすれば「みんな」が楽しんでいる映画をわざわざ腐した罪で「炎上」することだろう。しかし、その種の悪しき圧力に屈し、ここで自分の意見を述べずに終わらせることは言論人の端っこの隅のほうにいるひとりとして許されないと思う。だから、あえて本心を書いておく。

 『スーパーマリオ・ザ・ムービー』はとても楽しい映画だが、その物語は多くの問題を孕んでいる、と。

 このように書くと、本作が多くの「批評家」によって批判されていることを思い出す方もいらっしゃるかもしれない。そう、この映画は日本で公開されるまえから波乱含みだった。なぜなら、著名な映画レビューサイト「ロッテントマト」で批評家の意見と観客の評価が大きな食い違いを見せたことが伝わって来ていたからだ。

 現在、その「ロッテントマト」を観に行くと、一般観客の好評は96%とほぼ絶賛一色であるのに対し、批評家の好評は59%と大きく割れている。このような数字が観客と批評家の乖離を示すものと受け取られ、「批評家はわかっていない」と大きな議論を呼んだわけである。

https://www.rottentomatoes.com/m/the_super_mario_bros_movie

 それでは、ほんとうに「批評家はわかっていない」のだろうか。その点について、ぼくがリスペクトするノラネコさんはこのように書いている。

批評家受けが悪いのは当然だろう。
人間ドラマは、現実世界で負け犬扱いされているマリオの成長物語として最低限組み込まれているが、類型的だし深みもない。
どこかのスタジオの様に、「政治的に正しい描写」を無理やり突っ込むこともしない。
その分、どこまでもお客様ファーストで、カラフルでワクワクする不思議な世界で、とことん楽しい体験ができるのだ。 本作の作者たちも観に来る人たちも、もうゲームが子供の頃の大切な宝物になってる世代。
あの頃に「ホントにマリオがいたらこんなだろうな」と、頭の中で思い描いた世界がそのまんまここにあるのだから、そりゃあ大ヒットするわ。

http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-1609.html

 的確な評価だと思う。ぼくも『マリオ』を批判した批評家たちの意見は、かれらの立場にしてみれば当然のものだと考える。むしろ、この映画を一切の問題なしの傑作とみなす批評家がもしいるとすれば、そちらのほうが問題だろう。

 しかし、現在、ネットでは『マリオ』を批判することはほぼタブー視される状況があり、そういった「批評家」たちは一方的な非難のターゲットにされている。たとえば、このようなツイートに書かれている通りだ。


 だが、このような状況はきわめて危険なものだ。「みんな」で同じ作品を褒めなければならない、貶している奴は「みんな」の仲間じゃないから攻撃してもかまわない。そのような構造はいじめを生み出す学校空間のそれである。

 そもそも、「批評家」対「一般の観客」という対立項そのものが事態を極度に単純化したフィクションでしかありえない。

 話題の着火点になった「ロッテントマト」にしても、すべての批評家が一律に批判しているわけではないし、すべての観客が絶賛しているわけでもない。また、酷評している批評家にしても、映画の何もかもがダメだといっているわけでもないだろう。

 そのような灰色の領域を無視して、「作品を深く愛する「おれたち」」と「何もわかっていない「あいつら」」という過度に単純な二項対立に還元し、党派性を元に作品を語ることはくだらない。

 ちなみに、日本の映画レビューサイトであるフィルマークスでは、現在、『マリオ』は5点満点で平均4.1という「かなり高いが、絶賛一辺倒ではない」数字になっている。

 たとえば現在、並行して公開されている『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』が4.6という驚異的な数字を記録していることを考えると、少なくとも日本では必ずしも観客の全員が作品に満足しているわけではないことがわかる。

 その意味では「絶賛しなければならない空気」がネット全域を支配しているわけではない。だが、その一方で相互に言及可能なソーシャルメディアには確実にその「空気」がある、とぼくは感じている。

 明快な確証はないが、そこでは、人を「おれたち」と「あいつら」に分けて論評する単純で暴力的な言説が支配的であるように思われてならないのだ。

 そこでは、「あいつら」への反感は、たとえば「リベラル」や「ポリコレ」への拒絶と重ねられている。サブカルチャーを愛する自分たちと、権威的かつ政治的で作品の良さを理解しない「あいつら」という分け方なのである。

 いまや、『マリオ』は、たとえば「ポリコレ」を重視しているとされるディズニーとの関係に位置づけられ、「反ポリコレ」の旗頭とみなされている一面がある。

 それは、じっさいに『マリオ』がそのような映画であるのかどうかとはほとんど関係がないのだろう。長い時をかけて熟成された「あいつら」への対抗意識が『マリオ』という格好の焦点を得て燃え上がっているに過ぎないからだ。

 だが、ぼくはそのような単純化された構図にあてはめられることを断固拒否する。ぼくも30年以上、ゲームの『マリオ』を延々とプレイしてきた『マリオ』ファンのひとりだが、だからといって今回の映画に対して無批判ではいられない。また、無批判であることが正しいとも思わない。

 愛があるからこそ、いうべきことはいう。そのような態度だって、ありえてしかるべきものだろう。あえていうが、絶賛意見をしか許さないような「空気」はきわめて気持ち悪い。グロテスクだ。ひとつの作品に対しては多様な立場からのさまざまな評価がありえてしかるべきである。ぼくは、そのひとつであってほしいと願い、以下に私見を記しておく。

 さて、それでは、映画『マリオ』の脚本構成上の欠点とは何なのか。そんなものがほんとうにあるのか。ある、とぼくは考えている。ノラネコさんが記しているように、この映画に人間ドラマは「マリオの成長物語として最低限組み込まれているが、類型的だし深みもない」。つまり、ドラマの側面を見るかぎり、この映画のストーリーは最低に近い水準にある。

 映画の物語は、ブルックリンの街でうだつの上がらない「社会の負け犬」として暮らしているマリオ兄弟の描写から始まる。どうやら会社をやめて配管工として独立した直後らしいが、仕事では大きな失敗を犯し、家族ともうまくいっていない。特に父親とはケンカを続けているようだ。

 そこから、マリオは偶然にキノコ王国へ迷い込み、捕らわれた弟ルイージを救うため、ピーチ姫とともに大魔王クッパと戦うことになる。それは良いのだが、じつはこの冒頭で示された展開が「マリオの成長物語」に寄与することは最後までないのである。

 この冒頭を見た観客は、マリオが人間的に成長を遂げ、家族や父親と和解し、あるいはその和解を拒絶し、あるいは父親を乗り越えたりして、いずれにしろ本物のヒーローへと成長するというストーリーを予感することだろう。

 ところが、この冒頭はそのような形で完成されはしない。マリオとルイージは最後にクッパを倒してブルックリンの人々から大喝采を受けることにはなるのだが、それはクッパが保管していたスーパースターを手に入れてパワーアップしたからに過ぎない。べつだん、マリオは何ら人間的に成長したわけでもなければ、問題を解決したわけですらないのだ。

 マリオの成長の描写がいたって薄っぺらなのはひとえにここに原因がある。ふつう、「ダメな男が父親と対立し家族のなかで孤立している」という描写があったら、「さまざまな困難を経てその対立と孤立が解決する」という展開になると考える。

 ところが、じっさいには伝説のスーパースターを取ってパワーアップしてクッパを倒したらそれで町のみんなが大喜びというオチなわけだ。「現実主義者の父親と理想を追いかける息子の対立」という構図はいったいどこへ行ってしまったのか。力で悪をねじ伏せればそれで良いのか。しかも、それは借りものの力でしかないのに? あまりに観客のリテラシーをあなどった展開であるようにすら思える。

 それ以前の問題として、このスーパースターがいったい何なのか作中での説明がまったくないということがある。もちろん、原作ゲームをプレイしている人間にはこれがマリオのパワーアップアイテムであることはわかる。しかし、だからといって作中での説明を放棄して良いというものではないだろう。

 たとえばドラゴンボールが漫画『ドラゴンゴール』作中での「マクガフィン」として機能するのは「七つ集めるとどんな願いでも叶う」という説明があるからだ。それに対して、この映画のスーパースターはほんとうに徹底的にただのマリオとルイージのパワーアップのためのご都合主義アイテムでしかない。

 そもそも、スーパースターの力を借りればクッパを倒せるなら、なぜ最初にペンギン王国が攻められたとき、それを使わなかったのか。クッパにしても、どうしてマリオがそれを手に入れるまで放置しつづけるのだろうか。答えは「そうするとマリオが困るから」というものでしかありえないのではないか。

 シナリオが破綻している。あるいは少なくとも観客のほうが原作ゲームの記憶で補わなければ成立しないようにできている。映画が映画のなかで完結していないのだ。

 もちろん、この映画がじっさいに大ヒットしたということは、そのような設定の補完を可能とするディープな記憶を持った観客が億単位で存在するという背景があってのことではあるだろう。よくいわれているように、映画版の『マリオ』は純然たるファンムービーを志している。たとえ「内輪向け」の映画でしかないとしても、その「内輪」が膨大にいるのだからそれで良いではないか、という意見はあるだろう。

 ぼくもそれで良いとは思う。しかし、それならそれで、これが「映画として」良くできた作品だとか、あるべき最高の映画の形だ、といったことはとうていいえないと思うのだ。

 『マリオ』は、一個の完結した映画というよりは、すこぶる魅力的なゲームの宣伝動画の詰め合わせである。そのようなものとしては、きわめてよくできている。だが、これをして新しい映画の規範として持ち上げることは、端的な誤りであるように考えられてならない。

 一部の批評家は「これは映画ではない」といういい方をしているようだが、「映画の作法として完成していない」という表現のほうが的確であるだろう。もちろん、映画の作法として完成している必要などない、という意見もありえるだろう。ようするに面白ければ良いのだ、シナリオの完成度などどうだって良いのだ、という立場はありえる。

 ぼくはそういった意見を尊重する。ひとつの考え方としてありだと思う。だが、そのような立場に立つなら、やはり映画の良し悪しを語ることはやめるべきなのではないだろうか。

 ゲームにゲームの文化があり、ゲームとしての作品の良し悪しがあるように、映画にも映画の長い歴史があり、そこでつちかわれてきた一定の方法論が存在するのだ。それを無視して映画の出来不出来を語ることはできない。

 ただひたすらに楽しい疑似ゲーム的な映画体験として『マリオ』を絶賛するのは自由だが、この作品が映画の歴史と文化を代表する規範的なものであるとみなすことは納得できない。

 『マリオ』は一貫したストーリーとして成立した劇映画というよりは、立てつづけに繰り出されるアクションを楽しむアトラクション・ムービー、あるいはその「世界」を味わうテーマパーク・ムービーである。そのようなものとしてはきわだって優れている。

 しかし、その物語は、はっきりいって最低に近い出来だ。この作品を批判した批評家は正しい。一本の映画として見ると、『マリオ』は完璧にはほど遠いクオリティなのだ。

 問題は、そのような中途半端な映画がじっさいに大ヒットを記録しているということである。その背景には、当然ながら、原作ゲームとしての『マリオ』の連綿たる歴史があり、膨大に蓄積された体験記憶がある。

 ノラネコさんが書いているように「本作の作者たちも観に来る人たちも、もうゲームが子供の頃の大切な宝物になってる世代。 あの頃に「ホントにマリオがいたらこんなだろうな」と、頭の中で思い描いた世界がそのまんまここにあるのだから、そりゃあ大ヒットするわ」ということなのである。

 だが、だからといってこの映画が映画として非常に完成度が高いものだということにはならない。また、純然たるファンムービーとして原作の体験を完璧に再現したものと見るには、今度は冒頭の人間ドラマ的な描写が邪魔になる。ようはどちらの見方をするにしても、この作品を「映画として」高く評価することはむずかしいのである。

 それにしても、『マリオ』を「中途半端にドラマを盛り込んだテーマパーク・ムービー」として見るとき、思い出されるのはマーティン・スコセッシがマーベル映画を語った発言である。

 映画界屈指の巨匠として知られるスコセッシは、一般に「マーベル・シネマティック・ユニバース」として知られる一群のヒーロー映画に対して、このように語ったという。

「テーマパークのような映画の価値は、例えば、映画館を遊園地に変えるマーベルのようなタイプの映画は、それはまた違う体験なんだ」
「先日も言ったように、あれは映画ではない、また別のものだよ。賛成の人も反対の人もいるだろうけど、別ものなんだ。そういうものばかりになってはいけない。だからこれは大きな問題で、映画館では物語を語る映画を上映してくれるように、劇場のオーナーに働きかける必要がある」

https://jp.ign.com/movie/39426/feature/vs-mcu


 この発言がマーベル映画を批判するものとして喧伝されて「炎上」し、挙句の果ては「スコセッシはマーベルに嫉妬している」などとまで騒がれることになったわけだが、おそらくスコセッシの真意はべつのところにあるだろう。

 スコセッシが「あれは映画ではない、また別のものだよ」というとき、そこで想定されている「映画」とは、一貫したストーリーを表現するための劇映画のことである。かれはひたすらに派手な映像が続き、そのような映像を疑似体験させることに特化したアトラクション映画と、「従来の映画」を区別し、「従来の映画」が上映される機会がなくなってはならないと語りたいのだと思う。

 言葉尻を捉えて揚げ足を取るのでなければ、映画の多様性の観点からして、大切な提言というべきだろう。とはいえ、上記記事にも書かれているが、映画の歴史はそもそもアトラクション、あるいはテーマパークとして始まったものである。映画にとって、ある種のテーマパーク性をともなっていることは必然なのだ。

 その意味で、今回の『マリオ』はスコセッシが「あれは映画ではない」というようなタイプの映画がさらに進化したものだといえる。

 『マリオ』はいかなる意味でも映画単体で完結しておらず、また完成してもいない。一個の映画としての『マリオ』は、ひどく不出来で未完成なシロモノである。それが素晴らしく魔法的な体験として観客に響くのは、あくまでゲームの記憶によって補完されるからに過ぎない。

 それで良いのだ、むしろそれこそが素晴らしい映画なのだ、といった意見もまたありえることだろう。ぼくはそういった意見を一概に否定するつもりはない。だが、そのような意見のもち主たちは、少なくともその評価を「従来の映画」に対しても適応することをやめるべきである。

 『マリオ』を完璧な傑作として見るような評価軸では、ストーリーやドラマツルギーを重視した映画は退屈なしろものということになってしまうだろう。それは「従来の映画」に対して不当な評価だし、もっというなら連綿と続いてきたストーリーを描写する映画文化に対する侮辱である。

 「一貫したストーリーとして完結していなくても、ゲームの記憶で補完する必要があっても、面白ければ良いじゃないか」という意見は、たしかにその通りだ。ぼくもそう思う。面白ければ良い。ただ、『マリオ』のようなタイプの「面白さ」が「従来の映画」を含む映画文化全体を代表するものだ、あるいはそうであるべきだという意見には、ぼくは同調できない。

 くり返すが、『マリオ』はドラマを描く映画としては端的に出来の良くない失敗作でしかないからである。

 たしかに『マリオ』は楽しい映画ではある。このような映画も許容できることが映画の多様性にとって大切だということは事実だろう。しかし、だからといって「これこそ映画だ」とか「批判する奴らは何もわかっていない」といった意見を持ち出すことは、映画文化にとってプラスにならないと感じる。

 映画『マリオ』とその評価を見ていてつくづく思ったのは、一般に観客は自分の映画に関する自分の期待が満たされればそれで満足するということである。シナリオの論理的整合性など二の次でしかないのだ。

 観客がストーリーの粗を考え始めるのは、あくまで感情的に満たされなかった場合のみである。たとえば、良く宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』のラストシーンがご都合主義的展開として批判されることがあるが、これらの映画は脚本的、物語論理的には破綻していても、観客の感情的期待には応えている。だからこそいまでも名作として評価が高い。

 観客は感情的に満たされている限り、シナリオの整合性など気にしない。逆にいえば、どんなに良くできた物語であっても、感情的にカタルシスがないかぎり、決して満足したりしない。それはそういうものだろうし、それで良い。

 だが、だからといって不出来なシナリオが良いシナリオに変わるわけでもない。「楽しい映像があれば、シナリオの合理性などどうでも良い。二の次、三の次だ」という価値観はあっても良いだろうが、そういう考え方を持っている人は、シナリオの良し悪しについて発言することをやめてほしい。

 間違えても『マリオ』の物語は映画の伝統を代表できるようなクオリティのものではない。少なくともぼくはそう考える。

 しかし、ここでまで書いて思うのは、そもそも観客はシナリオの出来不出来など気にも留めないものなのではないか、ということである。観客は求めているのは細部まで合理的に考え抜かれたストーリーなどではなく、何となく感動的っぽい展開であればそれで十分なのではないか。

 ここでぼくが思い出すのが、やはりこのゴールデンウィークに大ヒットしている『名探偵コナン』のシリーズである。ぼくはそのすべてを追いかけているわけではないが、映画版の『コナン』は、ここ何作か、着実にストーリーの合理性を放棄して、派手なアクションと、キャラクターや、キャラクター同士の関係(特にいわゆる「カップリング」)に特化したものに移って来ているように見える。

 ぼくは『マリオ』を見たのと同じ日に『コナン』の最新作を観てきたのだが、合理的な脚本という意味ではひどい出来の映画だと感じた。が、だから退屈なのかというと、必ずしもそうではなく、面白い映画なのだ。何といっても、キャラクターが魅力的だからである。

 『コナン』はキャラクター・ムービーとしては非常によくできているし、観客の感情のアップダウン(いわゆる「ドラマカーブ」)の完成度は高い。理詰めで考え始めるといくらでもツッコミどころは見つかるわけだが、先述したように、観客がそのような思考になるのはあくまで感情的に満足できなかった場合だけだから、それで問題ないといえばない。

 じっさい、『コナン』の興行収入はシナリオのクオリティダウンに反比例して向上している。エンターテインメント映画にとって最も重要なのはシナリオの完成度「ではない」ことが良くわかるような一例だ。

 そうだとすれば、問題は、そもそも映画とは何なのか、ということになるだろう。

 観客は映画の物語的な出来不出来など気にしない。そもそもそのようなことを判別する能力はじつはない。観客は『マリオ』や『コナン』の最近作のようなクオリティのストーリーであっても、感情さえ動かしてもらえばそれで満足するのだ。

 つまり、大ヒット映画はひたすらに情緒的なアトラクションなりテーマパークであれば良く、細かいストーリーなどは考える必要はないということになる。自分は映画を良くわかっている、と主張する人間ですら、じっさいには『マリオ』のような映画で満足するのだから。

 そんなかれらに「いわゆる映画」を押しつけようとするのは、あるいは「猫に小判」というものであるのかもしれない。自分で映画ファンだと思って、「クソ映画」を鼻で笑うような人々にしても、ほんとうのところ、そこまで映画の良し悪しになど興味を抱いていないことを、今回の『マリオ』映画は暴露したといえるのではないだろうか。

 それで悪いということはないが、そういう価値観の人たちが映画について語ることをぼくは信用しない。ぼくにとって、映画とは、単なるアトラクションでもなければ、テーマパークでもないからである。

 もっとも、個人的にはマーベル映画(の多く)のストーリーにはそれなりに満足している。仮にマーベル映画がテーマパーク・ムービーであるとしても、ストーリーの側面もかなりよくできていると考える。

 また、『マリオ』のような映画にしても「従来のいわゆる映画」、つまり「一貫したストーリーを語ることを中心とした映画」より劣っているというつもりはない。スコセッシの言葉を借りるなら、それは「別もの」なのだと考えるべきなのだろう。

 問題は、『マリオ』のようなテーマパーク・ムービーのみを至上の価値とし、それ以外の価値を認めないことである。いま、インターネットで展開している同調圧力はそういう性質のものであるように見える。

 『マリオ』はたしかにテーマパーク・ムービーとしては楽しい映画だが、だから映画は『マリオ』のようであるべきだなどというのはばかげている。そこには「いわゆる映画」としての無数の欠点があるからである。

 が、このように書いても最も伝えたい人たちには伝わらないかもしれない。それはしかたない。ぼくは自分が語るべきだと考えることを語り尽くした。あとは、映画そのものが自身を語るのに任せるとしよう。

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