「傲慢な天才」永野護はじつは謙虚と自覚の人なのではないだろうか。
『ファイブスター物語』の作者である永野護のトークショーを観に行かれた方の感想を読んだ。
一読、なるほどなあという内容で、面白い。
ただ、ぼくは地方在住の身でこのトークショーを聞きに行けなかったので、その内容に関してとくだん異論とか反論といったものがあるわけではないものの、永野さんについての印象がぼくとまったく異なっているので、その点について少し書いておきたい。
いや、永野さんをこのように「無邪気な天才」と捉えることはわかるのだ。たしかに一見するとそのように見えるし、じっさい、そういった側面もあるのだろうと思う。
その独創的すぎる作風といい、破天荒を究めるエラソーな発言といい、どう考えても傲慢な天才肌の作家と見える。
ダグラス・カイエンやクローム・バランシェといった『ファイブスター物語』初期の「とんがった」性格のキャラクターたちは自己投影されている一面があるのではないかという気もする。
しかし、それでもぼくはこう考えるのだ。永野護とは、じつは「自覚と謙虚の人」なのではないか、と。
このように書くと正気を疑われるかもしれないし、ファン特有の身びいきと思われてもしかたないようにも思える。
だが、ぼくは本気でこう思っている。長年にわたってかれの作品や発言を観察してきた結果、そう考えざるを得ないのである。
どういうことなのか、説明しよう。まず、永野さんは「天才」と称されるデザイナーであると同時に、過去数十年にわたって『ファイブスター物語』を連載してきているストーリーテラーでもある。
そして、そのデザインに関してはあるいは生まれ持った天才だけでやっているかもしれないが、ストーリーについてはぼくはあきらかに「理解」と「計算」を感じるのである。
そもそも『ファイブスター物語』の最大の特色である「最初から最後まで年表の形で発表してしまう」という形式自体、「物語とは何か」に対する深い理解がなくてはありえないことだ。
つまり「物語とは結末ではなく過程である」とわかっていないとそういうふうには描けない。
さらにいうなら最近の『ファイブスター物語』の第六章を「連作短編」の形で描いているところも物語を描くことに対する鋭い理解を感じる。
これは永野さん自身がどこかで書いていたことだが、物語作家は一般に歳を取るとその構成力が衰える。物語をタイトにまとめあげることができなくなるのである。
その証拠に、歳を取って作品が短くなったという作家はほとんど思いあたらない。大半の作家は後期の作品のほうが初期より長くなる。また、内容的に散漫になる傾向がある。
およそストーリーテリングに関しては天才中の天才である手塚治虫ですら、やはり晩年の構成力は衰えていたと感じられる(初期が凄すぎるのだが)。
それなのに、永野護はいま、短い物語を束ねあげて大長編を構成するという行為を行っている。
そこには「物語構成の基盤は短編である。もし思いついたまま長編を書いていけば自分の構成も破綻する」という理解と自覚、そして危機感があるように思われるのだ。
考えすぎだという方もいらっしゃるかもしれない。だが、じっさい、歳を取ると大抵の作家は衰えるのだ。
あたりまえといえばあたりまえのことかもしれないが、若い頃にあれほど天才的なストーリーテリングを見せた田中芳樹や栗本薫もやはり後期の作品は衰えていると感じる。
小野不由美の最新作は素晴らしいが、そのかわりめったに新刊が出なくなった。
永野護のように「最新すなわち最高」という状態を維持しながら(ぼくには維持しているように見えるわけだが)、初老のいまに至るまでコンスタントに作品を発表しつづけている例はきわめて稀有である。
それを「天才」という言葉で説明してしまうこともできることはできる。しかし、才能とは放っておけば衰えるものだ。
永野さんに傑出した才能があることは明白だが、驚くべきなのはそれを60歳過ぎのいままで維持していることである。
否、その天才は歳を取れば取るほどさらに鋭く磨き抜かれているようにすら見える。それを可能にしているのはやはり自覚と危機感なのではないだろうか。ぼくにはそう思える。
また、「歳を重ねても、謙虚でなければ友人仲間を失くす」のはその通りだが、永野さんという人は意外に謙虚なのではないかとぼくは受け止めている。
なぜなら、現実にかれは「友人仲間を失く」していないように見えるからだ。
すこし話は異なるが、『ニュータイプ』の編集部とも良好な関係を維持しつづけているようだし(そうでなければ何十年も同じ雑誌で連載しつづけられないだろう)、妻君である川村万梨阿さんとは高校時代からなんと40年以上もつきあっている。
尊敬する富野由悠季とも延々と良い関係を築いているように見える(時々喧嘩はするかもしれないが、本人いわく「親子喧嘩」)。
ひとつの人間関係が長期間にわたって継続していることは本人の人格が穏健で安定していることを示している。
映画『ゴティックメード』のときもたくさんの人がかれに協力していたようだ。永野護はその過激な発言から感じられるほどめちゃくちゃな人ではないのではないだろうか。
むしろ、自分の才能の限界を明確に見定めているからこそ、ここまで長くキャリアを築くことができたのではないかと思うのだ。
かれくらいあからさまに才能があると、だれもかれのことを「努力の人」だとはいわない。おそらくものすごく努力をしているはずなのだが、その傑出しすぎた才能が努力を上回っているようにしか見えないからだ。
だが、どのような天才でもマンガやイラストを描く作業は地味で地道なものである。
ときに「天才」というひとことで表されてしまうその背後に、どのような積み重ねがあるのか、ド凡人の上に怠惰なぼくなどには想像を絶するものがある。
これは『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博などを見いても思うことだが、精神も肉体も限界を超えて崩壊するほど酷使しながら作品を生み出していても、その成果があまりに凄まじいと、むしろ楽々と才能だけでやっているように見えてしまう。
だが、一年二年、一冊二冊ならともかく、何十年にもわたって素晴らしい作品を生み出しつづけるためには、ただ「天才」であることだけでは足りない。どうしても安定した人格が必要になるのである。
作家のみならず、役者や歌手などでも、とほうもない才能を持ちながら最終的に衰えたり破滅した人は枚挙に暇がない。
ある天才の仕事をみて「あの人は才能があるから」で済ませてしまいたくなることはぼくにもあるのだが、どんなに努力してもすべてを才能で済まされてしまう人も可哀想かな、という気もする。
もちろん、ぼくは永野護本人に会ったことがないのでどんな人なのかほんとうのところはわからないのだけれど、長年、読者として見ていてこんなことを思うのだった。
天才も辛いよね。凡人も辛いけれど。そう、思いませんか?
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