奇妙な「男性特権論」を乗り越えるために。

 前の記事ではフェミニズムの影響を受けた論者の男性嫌悪的な傾向について書きました。

 男性による男性存在そのものへの嫌悪。それは男性の自慰行為や性的想像力に対する否定として作用します。故に、森岡さんは「感じない男」であることしかできず、あらゆるクィアなそれを孕む性の豊饒さに対し感性を開くことは不可能なのです。

 赤坂真理さんの『愛と性と存在のはなし』では、男性であることに「罪悪感」を感じる若者の話が出て来ます。ここで語られている「罪悪感」とは、杉田俊介さんや森岡正博さんが感じているであろうとぼくが想像する感覚と同質のものであろうと思われます。

 「暴力的」とされる性であり、「特権」を背負っているとされる側であることの後ろめたさ。あるいは罪の意識。自分と同じ性の人間が無神経に異性を踏みにじって来たその歴史を背負っているかのような感覚。

 おそらく生まじめな人ほど、いたって生まじめにその「男であることの罪悪感」を背負うことでしょう。ましてフェミニズムの本などを読むと、そこで描かれている「男たちの罪深さ」に打ちのめされてしまう。

 そして、また、フェミニストや、フェミニズム影響下の男性学論者は男性がその「罪悪感」を背負って生きることを良しとしているように思えます。

 男性は、男性であるだけで「男性特権」を抱いているのであり、そのことを常に意識し、「男なんかに生まれて来てごめんなさい」と無限土下座をして生きるのが当然であるとみなしているようにすらぼくには思えます。

 もちろん、かれらはそうではない、と云うことでしょう。自分たちが求めているのはそのようなことではないのだ、と。しかし、じっさいに男性について書かれている記述を見ると、そこには「男性悪」への嫌悪を認めざるを得ない。

 たとえば、杉田さんの『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』の冒頭には、このような記述があります。

男たちは全員加害者であり差別者であり無神経である、だからひたすら自己批判して反省するべきだ、ということが言いたいのではありません。むしろ反省や自己批判だけでは足りない、と考えます。リベラルでジェンダー公正的な社会(多様な文化や性や民族の人々が平等で自由でいられる法的・制度的な環境)を求めながら、それと同時に私たちは生活改善し、自己改造していくべきです。反差別的で非暴力的な男性へと自己変身(生成変化)していくべきです。

 いったいこの文章をどう読むべきでしょう? このテキストはあまりにもあからさまな矛盾を孕んで不気味です。

 いったん、「ひたすら自己批判して反省するべきだ」と云いたいわけではないと否定しておきながら、その直後に「反省や自己批判だけでは足りない」と付け加える。どう考えても前後がつながっていないとしか云いようがない。

 「足りない」とは、つまり「最低限、自己批判と反省は必要だが、それだけでは不足である」と云っているわけで、結局は「男たちは全員加害者であり差別者であり無神経である、だからひたすら自己批判して反省するべきだ、ということ」という内容を否定し切れていません。

 一応は男女平等の建前を重視しているかのように見せかけようとしながら、図らずも本音が出た、としか読みようがないのではないでしょうか。

 また、「反差別的で非暴力な男性へと自己変身」していくべきだということは、つまりは男性とは当然ながら暴力的で差別的な存在であると前提していると考えるしかありません。

 ここには、フェミニズム影響下の男性論が抱える本質的な詭弁がある。それはどうしようもなく男性への差別と偏見と嫌悪を抱えた論理であり、それ故に生まじめに「反省」しようとする男性たちを傷つけ、「罪悪感」を押しつけずにはいられないのです。

 もちろん、杉田さんは「そんなつもりではない」と云うに違いありません。しかし、かれが男性一般に対し「反省や自己批判」を求めていることは間違いありませんし、じっさいにそう書いてあります。

 この意見をまじめに受け止めたなら、男性は男性であるだけで重い「罪」を背負っている存在であるという認識に到達してしまうのはむしろ当然というべきでしょう。

 ここで、ぼくはあえて云いましょう。男性が、ただ男性であるだけで「反省や自己批判」を強いられてしまうことは「間違えている」と。

 もっとはっきり云ってしまうなら、たとえ、ぼく以外のすべての男性が殺人鬼であり強姦魔であるとしても、ぼく個人が殺人や強姦を犯していないのだとすれば、「男性であることの罪深さ」を背負う必要など微塵もないと考えます。

 それはこのリベラルな社会ではあまりにもあたりまえのことではないでしょうか。そもそも、そのように人を「属性」で判定することをこそ「差別」と云うのですから。

 ぼくは、ぼく自身がなしたことについて反省し改善していく必要こそあっても、だれか他の人物が犯した罪について反省することなどできるはずもない。また、その必要もない。そう考えます。

 前掲の『愛と性と存在のはなし』には、ひとりの男性の、このような「呟き」が登場します。

「男性として、女性の眼差しの中で生きていくのがしんどい。加害者たちと同じ性を持った人間であるということが申し訳なく、消えてしまいたい」

 これこそまさに「男性の罪悪感」の言語表現そのものです。そして、このような罪悪感を押しつけているのは、一部のフェミニストであり、フェミニスト影響下の杉田さんのような人物なのです。

 ここに、フェミニズム影響下の男性論の明確な限界がある。

 前の記事では杉田さんの「自分たちの無意識の底には「男の子なんて、この世に生まれてはならない」「男になんて生まれてこなければよかった」という、自らの身体に差し向けられた性暴力のような、奇妙な男性抹殺欲望がひそんでいるのかもしれない」という言葉を引用しましたが、その「男性抹殺欲望」の根源にあるのは、この「罪悪感」以外の何ものでもないでしょう。

 もちろん、このように書くと批判と反発が出て来るに違いありません。現代社会において女性差別が行われていることは事実なのに、それを否定するのか、その姿勢は反動的な態度(バックラッシュ)に過ぎないではないか、と。

 そうでしょうか? ぼくはもちろん、「自分が行った」差別に対しては責任を持って反省していこうと思っています。もし、ぼくの態度や言動に女性差別的なところがあるのなら、それは大いに反省し直していくべきでしょう。

 しかし、自分がやってもいない「差別」を、ただ男性だというだけでひき受ける謂われなどない。そういった男性嫌悪的な言説を十字架のように背負うことが男性学の前提だとしたら、ぼくはそのような学問は拒否します。

 いままで、多くのフェミニストたちは云って来ました。フェミニズムは男女平等を目ざす思想なのであり、べつだん女性の優位を目ざしているわけではない、まして男性の否定を志しているなど云いがかりも良いところだ、と。

 ぼくもひとりの男性としてこの種の言明を信じたいところはある。しかし、現実にフェミニズム影響下の男性学はかぎりなく女性目線に気配りした「女性にとって都合のいい男性像」を志向するものになっている。

 それはこのような「男性学」が、その実、男性が自分らしく生きるための学問というよりは、いかに男性が「女性にとって都合のいい男性」に「自己変身」していくかを考える論理に過ぎないことを示しています。

 杉田さんに云わせれば、そのような男性こそが「まっとう」なのだということになるのかもしれない。しかし、そうやって自分がやってもいないことの責任を負い「反省や自己批判」を強制されている限り、男性はどこまで行っても自分の存在を素直に肯定することはできないでしょう。

 あるいはそのように「罪悪感」と「後ろめたさ」を背負ったジェンダーでありつづけることはフェミニストにとっては都合が良いかもしれない。そういった不可視の罪業を背負ってある限り、フェミニストの意見がどれほど理不尽であろうともあえて反駁しようとはしないでしょうから。

 しかし、それはやはりただの差別であり、偏見です。もし、ある男性に対し「同じ男性がやったことに対する罪を背負え」と強制するのなら、それはフェミニズムが持つ最後の正当性すら自己否定する行為に他なりません。

 杉田さんはまた書いています。

わたしは差別という言葉の定義上、基本的に「多数派の男性たちもまた差別されている」とは言えないとと考える。男性と女性や性的少数者の間には、法・制度・構造のレベルで圧倒的な非対称性があるからだ。

 おそらく、杉田さんに言わせれば、世の男性たちがその「法・制度・構造のレベル」での「圧倒的な非対称性」、つまり「男性特権」を抱えている以上、「反省や自己批判」を行っていくことはあたりまえだ、ということになるのかもしれない。

 しかし、それらの行き着くところが結局は「奇妙な男性抹殺欲望」でしかないのだとしたら、その残酷さ、醜悪さに対して無批判であって良いものでしょうか?

 男性たちはさまざまな「特権」を持って生まれて来るのだから、自らの存在を否定しつづけるのが当然だと云えるのでしょうか? そのようなあり方だけが知的に、倫理的な誠実な態度でしょうか? 杉田さんは同じ本のなかでまた書いています。

マジョリティが特権集団であるとは、その全員が金持ちだったり幸福だったりするという意味ではなく、マジョリティはただ単に存在しているだけでさまざまな一定の利益を得ているということであり、多種多様なマイノリティ集団のことを抑圧し、不利益を強いているということです。

ここで、抑圧と差別を区別しましょう。差別とは、何らかのアクティヴな行動のことです。抑圧とは、構造的に他者を抑圧し続けることです。たとえ言葉や行動によって差別しなくても、あるいは道徳的な善意を持っている場合ですら、マジョリティ集団が存在すること、生活を維持することそのものが構造的な抑圧を維持し、強化していることになります。

たとえば女性が男性に対してステレオタイプ的な見方をしたり、同性愛者が異性愛者に偏見を持ったり、在日コリアンが日本人を嫌悪したりすることはあるでしょう。しかし、それらの偏見や嫌悪は、ここでいう意味での構造的な「抑圧」ではありません。女性やマイノリティの中にも偏見やレッテルを拡散する人々がいる、という事実は、現在の社会には抑圧的な構造がある、という現実を相対化したり、打ち消したりするものではありません。

そもそも、マイノリティが日々自分たちのマイノリティ性に直面せざるをえないのに対し、マジョリティは日常生活のほとんどの場面で自分たちがマジョリティであるとことさら意識せずにすみます。自覚し、意識しなくても、生活を送れるのです。そのこと自体が最大の特権であり、優位性なのです。それはしばしば「水の中の魚」にたとえられます。水の中にいることが当たり前であるならば、自分たちが水の中に住んでいること、自分の周りに水が存在することに気づくことも難しいのです。

 この理屈でいくと、魚は水のなかに産まれた時点で特権を抱いていることになる。マジョリティはマジョリティであるだけで特別な身分なのであり、しかもそのことを自覚することすらできない、と指摘されてるわけです。

 だからと云って、杉田さんはもちろん「特権を持って生まれたことに罪悪感を抱きなさい」とは云いません。「反省や自己批判を続けなさい」とすら云わない。ただ「むしろ反省や自己批判だけでは足りない、と考えます」とだけ云うわけです。

 穏当な表現と考えるべきなのかもしれません。しかし、自ら「男性抹殺欲望」すら抱えることを表明する杉田さんのこの言葉に「男性であること」への非難と否定を感じない人がいるでしょうか?

 ベンジャミン・クリッツァーさんはこの「特権」概念にふれて書いています。

学問や社会運動に関わる人たちは、自分たちが使っている「抑圧」や「構造」や「権力」や「マジョリティ」といった言葉が特定の思想や理論を前提としていることを、しばしば忘れてしまいがちだ。他の人たちが自分たちと同じ目で世界を見ているとは限らない。SNSを検索してみれば、多くの男性が「女性特権」について語っていることが見てとれる。意趣返しや皮肉、嫌がらせとしてその言葉を使っている人もいるだろうが、なかには女性特権が実在していると本気で考えている人もいるだろう。彼らのなかには、男性ではなく女性のほうに権力があり、女性のほうがマジョリティであって、男性は構造的に抑圧されているとする理論や思想を構築している人もいるはずだ。

また、男性特権という言葉すらも、トランスジェンダー女性の人々に対して悪意や差別をぶつける文脈で用いられている場合があることを失念してはならない。

特権というレトリックが「ほんとうに抑圧されているのはどちらであり、ほんとうに権力を持っていてマジョリティであるのはどちらか」ということをめぐる不毛な争いをもたらすのは、火を見るよりも明らかだ。

 「マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か」を問う杉田さんにしてみれば、マジョリティ男性が「特権」を抱いていることはあまりにも自明なことであるのかもしれません。

 その「事実」を「否認」する言説は、かれにしてみれば愚かなものに過ぎないでしょう。ですが、そのように「自分の見方が正しいに決まっている」ことを「当然の前提」とする独善的な態度は、少なくとも多様な考えかたが跋扈するインターネットでは通用しません。

 このような「リベラル」な男性嫌悪言説は、かならず反発を受け、反論を呼ばずにはおかないでしょう。

 とは云え、ぼくはだからといって「男性こそが真の被害者なのである」といった理屈に与するつもりもありません。

 そのような考え方は、たしかに杉田さんが唱えているような男性嫌悪言説に反発する層を慰撫し説得し吸収することができるかもしれません。何といっても「あなたたちは悪くない」と云ってくれる言葉は気分が良いものだからです。

 ですが、それらは結局、男性嫌悪的な男性論が無限の罪悪感を誘発するのとは逆に、ひたすらに果てしない自己憐憫と無力感、そして他者に対する攻撃に通じていく道でしかないように思われます。

 そういうわけで、次回は、ようやく「非モテ」の話になる予定です。よろしくお願いします。

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