男性のオナニーは「自傷行為」なのか? 自己嫌悪的男性論を考える。
「男性論」について考えています。
より正確には、女性も含めた「人間一般」について考えたいのだけれど、女性と女性性についての論考はフェミニズムによって一定の成果が出ている現状があるのに対し、男性と男性性に対してはさまざまな意味で考察が不足しているように思われる。そこで、とりあえず、まずは「男性論」について考えていきたいのです。
しかし、あるいはこのように書いただけで、批判の余地があるかもしれません。すでに日本には男性の在り方を問う「男性学」の成果があり、またネットには「弱者」の立場に置かれている男性たちについて語った「弱者男性論」の系譜がある。それらの蓄積を無視するつもりなのか、と。
もちろん、そうではありません。しかし、ぼくの目から見ると、フェミニズムの主張を無批判に鵜呑みにする感のある「男性学」にせよ、やたらに被害者意識ばかりが強い印象の「弱者男性論」にせよ、そのままでは納得しがたいように思えるのですね。
ただ、云うまでもなく、「男性学」の論客にも「弱者男性論」の提唱者にもそれぞれ云い分はあるだろうし、それなりに納得できる部分もあります。過去に蓄積された論理を「オール・オア・ナッシング」ではなしに、批判的に、しかし敬意をもって見ていくことしましょう。
とはいえ、「男性一般」はあまりにも広く漠然としたテーマです。いったいどこを切り口にすれば良いのか。
いくつか思いつくのですが、やはり筆頭に来るのは「恋愛」ないし「性愛」の問題ではないでしょうか。この場合、恋愛の成功者は問題にならないので、恋愛に失敗している、しつづけている人のことを問いたいわけですね。
そういう人はネットでは「非モテ」と云われ、あるいはからかわれ、あるいは同情されているわけですが、「非モテ」についてどう考えるべきなのか。
これはなかなか面白いテーマであるように思えます。というのも、非モテの問題はフェミニズム的な「男性学」とアンチフェミニズム的な「弱者男性論」の交錯点であって、それぞれに色々な考え方が示されているからです。
たとえば杉田俊介『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』という本があります。これは著者によると三部作の第一作であるらしいのだけれど、とりあえずこの本だけで完結しているので、その内容を考えることができるでしょう。
もっとも、この本には「非モテ」について考えるより先にひとつ取り上げておきたいところがあります。杉田さんが云うところの「男たちの自己嫌悪(ミサンドリー)」の問題です。
『非モテの品格』では、冒頭で戸田誠二の短編マンガ「ストーリー」を引用しつつ、男であることがいかに辛く、苦しく、そして男たちがどれほど「男に生まれて来たこと」を呪わしく思っているかが延々と語られています。
この個所を読むと、ぼくなどは「ちょっと待ってくれ」と云いたくなります。ここでは、ごくあたりまえのことのように「男たち」という主語が採用されているわけですが、少なくともぼくはそのような「男性抹殺欲望」を抱いた記憶はありません。
「いや、じつは無意識に抱いているはずなのだ」と云われるかもしれないし、そう云われると反論は不可能なのだけれど、その種の言説には何ら根拠はないでしょう。
「ストーリー」の主人公や杉田さんがどうも「男性一般」に対して怒りとも蔑みとも憎しみともつかない不思議な感情を抱いているらしいことはわかる。でも、ぼくはその感情にまったく共感しないのです。
つくづく思わざるを得ないのですが、ほんとうにこの人、なぜこんなに男性が嫌いなんだろうと。いや、何か男性の存在の貧しさ、辛さ、苦しさについて深く悩んでいることは理解できるのですが、ひとりの男性として、個人的に全然シンパシーが湧いて来ないのですね。
ぼくはべつに男性が嫌いではないし、男性である自分に対する自己嫌悪が、まあ皆無とは云わないにしても、それほど深刻だとは思えないのです。
この種の「男たちの自己嫌悪」を、たとえば森岡正博『感じない男』にも見て取ることができます。自身の性生活やフェティシズムを吐露しつつ、「男性にとっての性」について考察したこのなかなか貴重な一冊のやはり冒頭で、森岡さんは「射精」について考えています。
かれによれば、射精はただ「排泄」の感覚でしかなく、男性の性の貧しさを示すものでしかないらしい。かれは「しかしながら、私は実際に、射精のあとの空虚な感じや、急に醒めていく墜落感覚がつらいのである」と書き、射精を自己攻撃的な行為とみなすのです。
日々、普通に楽しくオナニーしているぼくとしてはよく理解できないのですが、森岡さんにとって「射精」とはひどくむなしい営為であるらしい。
いや、もちろんまったくわからないわけではない。射精のあとには興奮が冷めていく「賢者タイム」がともなう。それをある種の「むなしさ」と云えば云えないことはない。それはそうだろうけれど、それが「つらい」とまで感じ、オナニーすることを「自傷行為」とまで断じるのは、何か非常に偏ったものを感じます。
たしかに個人としてそういう感覚を抱くことは自由なのだけれど、それを「男性一般」に普遍的にある感覚であるかのように語られることは非常に強烈な違和感がある。そこにはやはり杉田さんが云うところの「男たちの自己嫌悪」があるように思われてならないわけです。
杉田さんと森岡さんの本を合わせて読んで感じる第一のことは、何だかひどく不幸せそうであることと、その不幸さを「男性一般」に重ね合わせていることです。
ふたりとも自分はこんなに不幸だ、そしてその不幸せは男性という種族を代表する者なのだ、と(例外の存在は認めながらも)語っているように見える。これが、ぼくから見ると、いかにもうんざりさせられるわけです。
たとえば『感じない男』の表紙には、このような本文の一節が掲載されています。
ここでは「男」と「自分自身」が一直線に結び付けられている。森岡さん個人がそうであることと、男性一般がそうであることとは、本来、まったくべつのことであるはずなのに「自分自身」の体験が即座に男性全体に重ね合わせられている。
もちろん、本文中には「男がみなそうであると思っているわけじゃないよ」というエクスキューズは入るのですが、いかにもイイワケじみていて、「少なくとも大半の男はそうである」と考えていることはあきらかです。そうでなければ、「男は」などという大きすぎる主語は使わないでしょう。
杉田さんにしろ、森岡さんにしろ、自分自身の「生」に、あるいは「性」に、不全感とも云うべき感覚を抱いていて、それをほとんどの男は共有していると捉えている。しかし、その感覚がまったく理解できないぼくのような男もいるわけです。
あるいはこう云うと、「いや、それはおまえが愚かにも男性の存在の不毛さに気付いていないだけだ、あるいはそれを直視することを避けているだけなのだ」という指摘が返って来るかもしれない。
しかし、ぼくにはどうにもそうは思えない。ぼくはどう考えても自分に「男の子なんて、この世に生まれてはならない」という感覚があるとは思えないし、また自傷的ないし自罰的にオナニーしているとも思えないのです。
はっきり云ってしまえば、杉田さんや森岡さんがこうまで露骨に「男性嫌悪」を示してしまうのは、フェミニズムの「男性批判」のまなざしを内面化して男性を見ているからだとしか思えないし、その意味でかれらの「男性差別」的な言説はばかばかしいように思われます。
ぼくに云わせれば、べつに男の子だって生まれて来て良いし、射精は(当然ながらつねに至福感をともなうわけではないにしろ)多くの場合、それなりに気持ちが良い。
杉田さんや森岡さんの男性に対する過剰な「否定」の視線は、「自己嫌悪」に過ぎないとは云え、やはりかなり差別的なものだし、そのまま鵜呑みにするわけにはいかないと思うのです。
ぼくだけではなく多くの人がこういったフェミニズムを背景とした男性論に納得できないのは、そこに男性存在に対する過度に嫌悪的な感性を見て取るからでしょう。
ぼくはフェミニズムを全否定するものではありませんが、少なくとも杉田さんや森岡さんの男性論をそのまま受け入れることはできません。そこには明白な問題があると感じます。
しかし、まあ、だからといってアンチフェミニズム的な「弱者男性論」に飛びつけば良いというものではない。そちらにはそちらの問題がある。
「非モテ」の話にたどり着くまえに話が終わってしまいましたが、ぼくはこの過剰に無限反省的な「男性学」と、あまりにも被害者意識が強すぎる「弱者男性論」のいずれに対しても批判的な態度を保ちながら「男性一般」について考えていければなあと考えています。
今後の記事をご期待ください。
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