見出し画像

【追悼:山本弘さん】ぼくが世界でいちばん好きでいちばん嫌いな作家、山本弘とは何者だったのか。(第三回:小説作品編中編)

【第三回は謝罪から始まる】

 まず、最初に謝っておきます。

 山本弘の人柄と小説作品について書きはじめたらいつまでも終わらず、なんと「後編」のはずの記事は「中編」になってしまいました。

 菊池秀行の『エイリアン魔神国』という小説は、上巻と下巻の全二巻で終わるはずが延びに延び、上中下巻ですら終わらず、「完結編1」、「完結編2」、「完結編3」と続いてしまうのだが、そういったカフカ的な事態をも想定させる展開である。

 そもそも初めはひとつの記事で終わる予定だったわけで、ぼくもまさか自分がこんなことをしでしかすとは思っていなかった。

 これでもわりとタイトに書いているつもりなのだけれど、やはり愛が重すぎるらしい。ここまで読んでくれている読者は数少ないと思うが、そういう人たちには心から謝罪したい。

 ごめんよ、次でちゃんと終わるからどうかもうちょっと待ってください。記事の構想は(何となくだけれど)ちゃんとあるんです。いや、ほんとに。

【「愚かな人間どもめ!」】

 さて――さて。ここまでで、「世界の中心でiをさけんだこども」こと山本弘が世界と人間とをどのように認識していたかはご理解いただけたように思う。

 人間は愚かだ、非論理的で、しかも非倫理的だ、だから、いつまで経っても戦争や差別をやめることができない。

 山本さんの根底にあるものはこういった人間に対するダークでネガティヴな思い入れだといって良い。

 ぼくはべつだん、山本さんの人生をくわしく知っているわけではないが、山本弘はおそらくその生育過程において、家庭の事情や学校でのいじめといった実体験と、ベトナム戦争や公害問題といった社会問題の観察、さらにいくつものフィクションを読むことを通して、こういった人間観を育てていったのではないかと推測している。

 だから、かれにとってそのような愚かな人間たちと、かれらが大きな顔をしてのさばっている世界は、否定されるべきものであった。

 ただ、もちろん、山本弘は人間のすべてを一括して否定したわけではない。かれも人間の「善いところ」は評価する。ただ、「悪いところ」はあくまで否定する。

 その「善いところ」とは自由や、平等、博愛の精神、そしてさまざまな芸術、物語を生み出す創造力といったものであった。そして、「悪いところ」とはいままで縷々述べてきたような戦争や差別をやめられないことである。

 「スカンクの誤謬」といった概念はこのような認識を前提として理解されるべきものである。 

【トゥルー・インテリジェンスとはなにか】

 『アイの物語』のクライマックスには、山本弘が考える「真の知性体(トゥルー・インテリジェンス)」を象徴している人工知能のマシン・アイビスが「人間の知性体としてのバグ」を淡々と指摘する場面がある。

 引用してみよう。

「真の知性は罪もない一般市民の上に爆弾を落としたりしない。指導者のそんな命令に従いはしないし、そもそもそんな命令を出す者を指導者に選んだりしない。協調の可能性があるというのに争いを選択したりしない。自分と考えが異なるというだけで弾圧したりはしない。ボディ・カラーや出身地が異なるというだけで嫌悪したりはしない。無実の者を監禁して虐待したりはしない。子供を殺すことを正義と呼びはしない」

 ――どうだろう、この記事の「インターネット編」で記したような山本さんの姿を踏まえてみると、この言葉はいかにも矛盾しているように感じられないだろうか。

 物語のなかのアイビスはいう。「真の知性は協調の可能性があるというのに争いを選択したりしない。自分と考えが異なるというだけで弾圧したりはしない」。

 現実世界の山本弘は嗤う。「原作の原点を外してないと思ってるらしいよ、この人(笑)」。

 アイビスのこのあまりにも理想主義的な言葉と、山本弘のどこまでも攻撃的、あるいは嗜虐的ともいうべき態度は、きわだって乖離しているように思える。

 山本弘作品のいち読者たるぼく(たち)は、この落差についてどう考えるべきなのだろう。山本弘は「しょせんフィクションだから、適当に実現するはずもない理想を書いてやれ」と思っていたのだろうか。

 そうではあるまい。つまりは、山本さんにとっては「愚かな」他人をあざ笑い、攻撃し、踏みにじり、バカにし、その人格をも非難することはべつだん、「協調の可能性があるというのに争いを選択したり」すること、また、「自分と考えが異なるというだけで弾圧したり」することとはまったく違う行為だと考えられていたと認めるしかない。

 おそらく山本弘にとって、はたから見ればただの暴言としか思えない数々の発言は、まったく問題ないものとして考えられていたのだ。

 かれもまさか自分だけは他の愚かな人間とは違う「真の知性」であると捉えていたわけではないだろう。

 だが、その一方で、ぼくは山本さんが自分もまたしょせんは「真の知性」たりえないただの人間なのであるから、どう暴言を吐こうがしかたないのだ、と思っていたとは考えない。

 山本弘の態度にはそのような自暴自棄な、あるいは見方を変えれば謙虚な思いは微塵も感じ取れない。

 ぼくが信じるところでは、山本弘はかれの編み出した首尾一貫した思想をもとに自作を物し、また、行動していた。

 かれの行動はその一切が「論理的」に問題がないものだった。そう、少なくともかれの主観においては。

 はたから見るとやはり問題があるように感じられるのだが、かれ自身はまさか自分の言動を「これこそまさに邪悪で愚昧な人間のありかたを象徴するような非論理的で非倫理的な態度だ」などと思っていたわけではないだろう。

 山本弘にとって、かれの行動も言動も創作のなかの人物や言葉もすべては正しく、「論理的に」疑いようもないものだった。

【愛と暴力の人、あるいは加害的平和主義者】

 したがって、その正しさを理解できないのは、他の人間が「愚か」で「非論理的」だからに過ぎないと認識されていた。そう考えたほうが筋が通る。

 アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』最終回タイトルの元ネタになっているハーラン・エリスンの短編「世界の中心で愛をさけんだけもの」を読んだことがある人は、それがこの世界に満ちた暴力と愛をめぐる物語であったことを記憶していることだろう。

 山本弘という「こども」の「さけび」も、また、愛と暴力とが一体になっている印象だ。

 かれの考える「i(=完全な愛)」は、「人間的な意味での愛」をも「人間的な意味での暴力」をも乗り越えた概念だが、現実の山本弘はどこまで行っても「ただの人間」の限界を越えられなかった。

 かれは徹底して自分の言動を自分に都合よく解釈した。かれにとって嘲笑と冷笑と揶揄と攻撃とは「論理的に導かれた正義の制裁」であって、「ただの身勝手な思い込み」などではまったくなかった。

 思い出してほしい。かれは「正義と論理を志す人」なのである。ぼくは山本さんが(いつもではないにせよ)自分の言葉は倫理的にも論理的にもほんとうにまったく問題ないと信じていたと確信している。そう考えなければつじつまが合わない。

 こういったことは「第一世代オタク」や「と学会会長」としての山本弘を理解するためにはきわめて重要なポイントとなる。

 もし、山本弘追悼記事補遺「オタク界隈編」を書くことがあったら、そこでその話をすることにしよう。

 ここまでですでにインターネットに載せる記事としてはめちゃくちゃに長くなってしまっているし、さすがに疲れてきたので、ほんとうに書くかどうかはわからないわけだが……。

 さて、山本弘が考える「正義」や「倫理」とは、ひっきょう、このようなものであった。

 もういちど、アイビスの言葉を読んでみてほしい。罪もない一般市民の上に爆弾を落としたりせず、指導者のそのような命令に従いはせず、そもそもそんな命令を出す者を指導者に選んだりもせず、協調の可能性があるのに争いを選択したりせず、自分と考えが異なるというだけで弾圧したりもせず、ボディ・カラーや出身地が異なるというだけで嫌悪したりもせず、無実の者を監禁して虐待したりもせず、子供を殺すことを正義と呼びもしない、それが「真の知性」であるとするなら、「偽りの知性」、あるいは「欠落を抱えた知性」とは、すなわちその逆である、ということになる。

 こういった言葉を読むと、山本さんが虐殺や戦争や差別といったものをいかに嫌悪していたか、痛いほど伝わってくる。

 かれは平和主義者だった。罪もない子供を殺すような人間と人類とを心から憎んでいた。それは間違いない。ただ、「平和の敵は殺してもかまわない」と考えるタイプの平和主義者だったのかもしれない、とも感じ取れるところはある。

 ゆえない誹謗ではない。かれ自身が書き残している文章を読むと、そうとしか思えなくなるところがあるのだ。

【「秩序を乱す厄介者」は殺すしかない!】

 たとえば『トンデモ本? 違う、SFだ!』のなかに、かれがジェイムズ・P・ホーガン『断絶への航海』を絶賛している文章がある。

 この『断絶への航海』はあの名作SFミステリ『星を継ぐ者』で知られるホーガンが理想的な人間のありかたについて書いたもので、ある種のユートピアSFといっても良いと思う。

 ディストピアSFはいくらでもあるが、ほんとうのユートピアSFは少ない。そのせいかどうか、いや、あきらかにそのせいなのだが、この作品は海外は知らず、少なくとも日本SF界ではきわめて批判的に受け取られたと憶えている。

 たとえば、日本SF界では有名な翻訳家であり批評家である鏡明が『本の雑誌』で取り上げて批判的に語っていた。具体的な記述はちょっと探し出せないので許してほしいが、そういう記憶がある(下に書くが、山本さんは鏡さんが『SFマガジン』のほうで書いた書評を読んだらしい。ぼくはそちらは未読だ――と思う。たぶん。何か記憶違いをしているのでなければ)。

 Amazonを見るとわりと絶賛されているので一般読者には好評なのかもしれないが、SF書評界では否定的な受け止めが多かったのである。

 そのことは、山本さん自身も記している。かれはホーガンの小説の特徴が使い古されたSFのパターンを現代によみがえらせるところにあると書いた上で、このように語っているのだ。

 そんな中にあって、一九八二年に書かれた長編第七作『断絶への航海』は、なぜかひどく評判が悪い。出版当時、鏡明氏が『SFマガジン』の書評欄で強い不快感を表明していたし、ぼくの知り合いも「ヘドが出るほど嫌い」と言っていた男がいる。役者の小隅黎氏でさえ、あとがきで作品の設定に疑問を呈している。

 ところが、この文章はこう続く。

 しかし、『断絶への航海』はそんなにひどい作品だろうか? ぼくにはそうは思えない。むしろホーガンの最高傑作だと断言したい。

 それでは、日本SF界でやたらに評判が悪く、しかし山本弘その人はホーガンの最高傑作だと明確に断言する『断絶への航海』とは、どのような小説なのだろうか? 山本さんが書いている内容を引用しつつ、簡単に説明してみよう。

 これは、核戦争が迫る地球から遠く離れたアルファ・ケンタウリの惑星ケイロンに移民した人間たちの特異な社会について記述した物語である。

 山本さんは「面白いったらありゃしない」といいながら、このようにケイロン社会のことを話している。

 まずケイロンには金というものがない。店にある商品は何でも自由に持って行っていいのだ。多数のロボットが無料の労働力を提供してくれるうえ、人工に比べても土地は広く、資源も抱負で、金で何かを独占する必要がないのである。
 しかし「支払い」はしなくてはならない。富の代わりになるのだが、その人間の能力だ。何かの仕事を行ない、それを評価されることが、ケイロン人にとって最高のステータスなのである。

 何となく最近ちょっと話題になった「評価経済」を連想させる話で、たしかになかなか面白い。が、ここはさらに続きを読んでいこう。

 ケイロンには政府も存在しない。すべての人間が他者から認められようと最善の仕事を行ない、最も高い能力を持つ者が自然に組織のリーダーになる。金も権力も無意味であるため、無能な人間や欲深い人間によって民衆が支配されることはありえない。
 最初のうちケイロン人の無政府主義に恐怖していた〈メイフラワー二世〉の植民者たちも、だんだんこのシステムの素晴らしさに目覚め、ケイロン社会に同化する者が増えはじめる。一方、一部の軍人や政治家は、あくまで権力を手放すことを拒み、武力でケイロンを支配しようと企む。

 そう、ここまで読むと、この小説がなぜSF界で大きく批判され、そしてなぜ山本弘ひとりは絶賛したのかよくわかるのではないだろうか。

 あくまで私見ではあるが、ぼくから見ると『断絶への航海』についてここで書かれていることは最も無邪気で幼稚なタイプのユートピア小説のテンプレートとしか思えない。

 資源が十分に潤沢で、そしてその資源を独占しようとするような「悪い人」がいなければこの世は経済も政治もなくてもこの世はすべてうまくいくというこの発想は「天国に善人が集まれば悪いことは何も起こらない」といっているに等しい。

 すべての良くないことは資源の不足や「悪い人」、あるいは「愚かな人」が起こすことなのであって、「善い人」や「賢い人」しかいない世界では自然と「悪いこと」は何ひとつ起こらなくなるのだ。そういういかにも単純な、単純すぎる発想だといって良いのではないだろうか。

 だが、山本弘の解説によれば、この社会で起こりそうなあらゆる問題に対しては本編中で目配せがなされているのだ。

 たとえば犯罪者はどうするのか? ケイロンには警察も法律も存在しない。金がらみの犯罪など起きようがないのはもちろんだが、幼い頃からロボットによって論理的な至高の大切さを教育されているため、権力にあこがれたり、意味もなく他人を傷つけることがない。それでもごくまれに、秩序を乱す厄介者が出てくる。そうした人間は、どうしても態度を改めないかぎり、結局は誰かが撃ち殺さなくてはならなくなる……。

 「秩序を乱す厄介者」は「殺してもかまわない」。否、むしろ「殺すしかない」。それが唯一の「論理的な結論」だ。ここにははっきりとそう書かれている。そうとしか読めない。

 そして、また、山本弘はその結論に賛成している。社会秩序を乱すような「悪い奴」、「愚かな奴」は殺して良い、「論理的な結論」としてだれかが殺すしかないのだ、山本さんはそう考えていたことになる。

【まさか、そこまでは?】

 読者のなかにはいくらなんでもまさかそんなことはないだろう、ぼくが全文の一部を恣意的に引用することによって結論を誤導しようとしていると思われる方もいらっしゃるかもしれない。

 しかし、たしかに山本さんはこう書いているのだ。疑う向きはじっさいにこの本を読んでみてほしい。

 ただ、山本さんもおそらくこう書くと非難されることは予想していたのだろう、それに続けて「たぶんこのあたりが、日本のSFファンを激怒させた部分だろう。法律が存在せず、誰もが気に入らない奴を自由に撃ち殺していい社会とは!」といっている。

 だが、かれにいわせれば「それは誤解というもの」なのだ。かれは続ける。

 ケイロン人がそうした行為を恥じているのは、文中の描写から明らかだし、作者だって殺人を肯定しているわけではない。法律が存在しない以上、「悪人は誰かが撃ち殺さなくてはならない」というのは論理的帰結である。当然、「社会を乱したら誰かに殺されるかもしれない」という恐怖が、犯罪の抑止力として機能しているのだろう。

 どうだろうか、ここまで読んで山本さんと同じように「ケイロンの社会はなんと素晴らしいのだろう!」と思う人はいるだろうか。

 おそらく、いるのかもしれない。しかし、ぼくは、どうしてもそうは思えない。

 法律ではなく「社会を乱したら誰かに殺されるかもしれない」という恐怖が犯罪を(いや、そもそも法律が存在しない以上、犯罪という概念もまた存在しえないわけで、じっさいには犯罪というより「悪いこと」だというべきだろう)抑止している社会。

 それは、一見すると自由で闊達な無政府主義社会のように見えるかもしれないが、じっさいには究極の全体主義社会、ファシストの見る夢に過ぎないのではないだろうか。

 もちろん、ホーガンや山本さんは殺されることがいやなら社会の秩序を乱さなければ良い、そう、ロボットの教育にしたがって善良かつ「論理的」に生きていけば良いのだ、そういうかもしれない。

 しかし、その「論理」とは実際には「社会の秩序を乱すことはすなわち悪である。殺してしまえ!」というものでしかないわけだ。少なくとも山本さんが書いていることを読むかぎり、そうとしか考えようがない。一応、こう書いてはある。

 もうひとつ、誤解されないように書いておくが、ホーガンは思想的にはバリバリの保守派。権力者を批判するメッセージは出ているものの、べつに反体制や無政府主義を唱えるためにこの小説を書いたわけではない。あくまで思考実験にすぎないのだ。

 これを読んでも、ぼくには、それはそうだろう、としか思えない。

 ほんとうにリベラルな思想のもち主だったら「社会の秩序を乱す奴は撃ち殺すしかない」などという発想をするはずがない。何をどう考えてもこういった考え方は「社会の秩序」を「個人の生命や人権」より上に見る価値観からしか出て来ないものだ。

 もちろん、ホーガンも山本さんも「社会の大半を構成する善良な人間の権利を守るためにこそ、それを乱す一部の厄介者、つまり「悪い奴」や「愚かな奴」は殺害するしかない。そして法律がない以上、その選定は恣意的に行うしかないのだ」と考えていたのだろう。

 たしかに恥ずべきことであり、また残念なことではあるが、つまりは「悪い奴」は「みんなの利益」のために殺すしかないのだ。なぜなら、かれらの行動はどこまでいっても「非論理的」で、さらに矯正の余地がないのだから……。

 しかし、これは、やはり極端な全体主義としかいいようがないのではないだろうか。じっさい、この本の訳者解説にはきわめて慎重かつ注意深い書き方ながら批判的にその点について触れてある。

 とにかくぼくにはそう思えるのだが、山本さんには違う意見があったのかもしれない。かれはそれを「自由にともなう責任」のように受け止めていたのかも。

 ホーガンも山本弘も亡くなったいま、真実は知りようもない。だが、ぼくはやはり、この文章を引用していて何かうすら寒いものを感じざるを得なかった。

 自由と寛容を重視するあまり、それを乱すものに対して徹底的に冷酷に、不寛容になるという、いわば山本弘のダークサイドがここにある。

 そして、それはリベラルなはずの左翼思想がしばしば陥ってしまうトラップでもあるだろう。

【なぜユートピア幻想は批判されるべきなのか?】

 山本さんはさらにつづけていう。

 そもそもSFの世界には、昔からよく「銀河帝国」などというものが登場するではないか。星々を股にかけたローマ風帝国などというナンセンスなものは許せて、どうして理想的な無政府主義は許せないのか?

 まさにそれを「理想的」だと信じ込んでいるからだよ、とぼくは思う。

 銀河帝国を夢見る人間はそれを単なる非現実的な冒険の舞台として描写しているだけで、まさか理想の政治形態だなどとは考えないだろう。だが、ホーガンはまだしも山本弘その人はそれを「こうあれば良い。こうあるべきだ」と信じて疑っていないように見える。その点がまさに「許せない」。

 ところが、山本さんのいい分はこうだ。

 この小説に対して多くの読者が抱いた拒否反応――それはまさに、〈メイフラワー二世〉の人々が抱いた感情と同じではないか。自分が慣れ親しんだシステムが否定されることに対する恐怖なのではないか。

 そうではないだろう。ぼくにいわせれば『断絶への航海』の発想は社会契約も法治主義も無視して「賢い善人が集まればそこで問題など起こるはずがない」とするいかにもチャイルディッシュな「十二歳のアイディア」に過ぎない。

 いささか辛辣にいい切るなら「ぼくがかんがえたさいきょうのむせいふしゃかい」というものだ(こういういい方そのものが僕が批判する山本弘的なものでしかないという批判はありえるかもしれないけれど)。

 SFファンのあいだで批判が殺到したのは当然のことである。ここには、人類が営々と築いてきた人文知へのリスペクトが欠落している。

 もちろん、ほんとうに完全に一切の「非論理的な」人間を排除すればその社会はうまくいくかもしれない。しかし、それはしんじつ理想的な社会だといえるだろうか?

 そこには、意見の衝突も価値観の多様性も何ひとつありえない。そのような社会はやはり、ぼくには大きな問題を抱えてしまっているように思われてならない。これもまた訳者解説で書かれている通りである。

 ところが、山本弘的にはそれは「自分が慣れ親しんだシステムが否定されることに対する恐怖」に過ぎないだろう、ということになる。

 ここでもかれのいつもの考え方が顔を出している。賢いのも正しいのも自分や、自分と同じように考える人間だけ。異質な考え方をする人間は論理的な考え方ができない愚か者だ。ロジカルに考えれば必ず自分と同じ結論に至るに決まっているのだから。そういうきわめて単純で傲慢な理屈。

 ぼくには「法律がない以上、だれかが悪人を撃ち殺さざるを得なくなる」のだとすれば「だからこそ法律が必要なのでしょう」としかいいようがないように思えるわけだが、山本さんにいわせればそれは非論理的な考え方である。

 ここにおいて、かれの自分の「論理」に対する自負はある種の「狂気」や「信仰」の域に達しているように見える。

 だれに何といわれようと自分の論理を信じて疑わず、決して枉げようとしないそのかたくなさを何というべきだろう。ぼくにはひとつ思いあたる名称がある。そう――「トンデモ」である。

 山本弘のこの頑固な態度は、いかにもかれが最も軽蔑していたはずの「トンデモさん」たちを想起させずにはおかないのだ。

【とはいえ、とはいえ】

 もちろん、かれのロジックが問題なく正しいように思える場合もたくさんある。また、たとえぼくが強い違和や反発を感じるとしても、見方を変えればかれのほうが正しいということがある可能性だって十分にあるだろう。

 だが、ぼくはかれが(そしてぼく自身も、また)「いつも必ず正しい」とは思わないし、その「正しさ」こそが唯一ありえるべき正しさだとはさらに考えない。

 東浩紀ではないが、あらゆる倫理も正義もどこかに「訂正」される余地を残しているはずだ。暴走する正義の危うさ、それは、まさに山本弘本人が書き残しているとおりなのである。

 だが、山本さん本人にとってその「危うさ」とは、しょせんは他人ごとであったように思う。

 かれはもし「あなたの正義は暴走している!」などと批判されたら、きょとんとした顔になったのではないかと想像する。

 かれはいうかもしれない。「やれやれ、ぼくの正義は論理的に導かれたほんとうの正義で、そういう暴走する正義とは別ものなのに、論理的な思考ができない奴はこれだから困ったものだ」と……。

 いや、これは反論の機会がない死者に対して過剰に悪意的な想像かもしれないが。

 ここまで縷々述べてきたことを総合すると、山本弘とは何者だったのかという問いに対する答えはひとつだ――もし、こういういい方が許されるのであれば、かれは、「差別主義者」だったのである。

 「知性」や「倫理」の度合いで人を、というより存在を階級づけ、攻撃することを、殺害することをすらも正当化する究極の意味での差別主義者。

 かれはたしかに「出身地やボディ・カラー」では人を差別したりしないことだろう。また、性別や出身大学でも人を蔑んだりしないに違いない。

 ユダヤ人をジェノサイドしたナチスのような手合いはかれにとって軽侮と嫌悪と憎悪のターゲットに他ならなかった。

 しかし、その一方で知性で劣る「愚かな奴」や倫理で劣る「悪い奴」はかれにとってはどんなに愚弄してもかまわない対象でしかなかったように見える。

 否、山本弘にとってはそれはまったく差別ではなく、「論理的必然にもとづく区別」に過ぎなかったのだろう。

 だからこそ、山本さんはかれが考える「トンデモ」さんや「トンデモ作品」を口汚く攻撃しつづけたのである。正義と論理の美名のもとに。

 思うに、かれが見逃していたのは、その「論理」というものがどんなに危うく、また、恣意的に乱用されうるものであるかに対する意識だったのではないだろうか。

【だれが鳥で、だれがバードウォッチャーなのか?】

 かれの「トンデモ」に対する攻撃に対して、「そうはいっても、そのようにしなければニセ科学や陰謀論がはびこってしまうじゃないか!」と擁護する人は少なくない。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか。山本弘がとった、ぼくにはあまりにも陰湿で卑劣に思える「上から目線の笑い」という戦術は、じっさいに有効だったのだろうか。

 これは、現代の「トンデモ」について考える際にきわめて重要な論点になりうるのではないかと思うが、その点についてくわしい知識を持たないぼくには検証しようもないというのがほんとうのところだ。

 もし、このシリーズを完結させたうえで余力があったらそういうことについても書こうかと思うが、まあ、たぶんムリだろう。

 ひとついえるのは、じっさいにはその「上から目線の笑い」を使うためには知性も論理的にも必要なく、どんな愚か者でもできるということだ。

 じっさい、インターネットにはそのような意味での「笑い」があふれているが、それらは果たしてほんとうに世のトンデモ言説に対する有効な抑止たりえているだろうか。

 ぼくにはほんとうのところはわからないので、わかる人がいればご教示をお願いしたい。とにかく、山本弘は「知」と「正」において人を見下して恥じない人であった。

 そういった「マウンティング」の意識は、ある程度はだれにでもあるものではあるだろう。だれだって、自分がいちばん正しいと思っている。ぼくもまた、まあそうだ。

 それはそうなのだが、もし、そこに一切の「訂正」の余地を認めないとするなら、その「正しさ」がどのようなところへ陥ってしまうものか、山本さんの態度や創作はそのことを教えてくれる。

 代表作にして最高傑作と目される『アイの物語』において、かれは「非論理的なバグを抱えた」人類がそれ故に絶滅へと進む光景を描いた。

 ここにあるものは、まちがえても「人間賛歌」などではない。かれにとって「悪い心」を抱えた人間はどこまで行っても「完全な存在」にも「真の知性」にもなれない中途半端な生きものに過ぎなかった。

 かれはより強く「良い面」をもった「善い人」のことは好きだっただろう。だが、「悪い面」を見せる「悪い人」のことは唾棄していたはずだ。

 そして、また、それこそ「スカンクの誤謬」概念などを見ればわかるように、山本弘にとってどこまでも「善」は「善」、「悪」は「悪」であり、決して相容れるものではなかった。

 「何が善で何が悪なのか」、その人類積年の一大問題すらも、かれにとっては「見ればわかる、わからない奴は論理的思考ができていない悪い奴」としか思われていなかったのかもしれない。

 かれの正義の思想は、炎のような情念は、灰色で混沌の現実世界をついに受け入れることができなかったのである。山本弘という「こども」は「世界の中心でiをさけび」ながら、とうとう「清濁併せ吞む大人」になることができなかった。ぼくはそう見ている。

 それにしても、かれのそういった思想が生まれるまでには、どのような経緯や歴史があるのだろうか。

 先述したようにあかの他人であるぼくには詳細なことはわからないのだが、ひとり、あきらかに山本弘が強い影響を受けた作家がいる。

 次回以降は、その往年の人気作家、「人類クズ小説」の平井和正の話から始めて、フォン・ノイマン、劉慈欣、栗本薫、田中芳樹、富野由悠季、ドストエフスキー、ニーチェ、カミュ、リチャード・ドーキンス、幸村誠、奈須きのこ、ジェイムズ・P・ホーガン、グレッグ・イーガン、といった人たちのことを絡めながら、語っていくことにしよう。

 ……そんなのぼくに書けるのか? そして、ほんとうに第四回で終わるかな? そもそもこんな長すぎる記事を読んでいる人がいるのだろーか? 謎と不安を残しながら、シリーズはつづく。がんばれ>ぼく。だれも応援していないぞ。

この記事が参加している募集

SF小説が好き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?