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皆伝 世界史24 1914年-1929年

本郷りんの皆伝 大学受験

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第一次世界大戦に伴って、ドイツ帝国、ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー、ボヘミア王国)、ロシア帝国、オスマン帝国という四つの帝国が崩壊して、ロシアの代わりに社会主義国家のソ連が作られます。戦後はヴェルサイユ体制下で秩序が成立するんですけど、世界恐慌をきっかけにして、諸国は内包した矛盾を領土の回復、拡張や防衛で打開しようとします。これが第二次世界大戦につながります。オスマン帝国の崩壊はパレスティナ問題の要因になって、ソ連の成立はイデオロギー対立/冷戦につながります。

キーワードは、「帝国崩壊、ヴェルサイユ条約とヴェルサイユ体制、社会主義国家ソ連の発生、西アジア抵抗、中国内乱、日本の膨張」です

前部

大戦
第一次、第二次の大戦の特徴は「総力戦」です。志願して軍人を職業としている人たち/職業軍人や、傭兵だけが戦っていた近代とは違うんです。列強は徴兵制になっていて、戦争に反対している、普段はパン屋、大工、会計士を職業としている人が戦います。
前線の戦場で戦っている兵士だけでなく、市民も戦争に協力させられます。食べ物や石炭などは自由に買えずに、例えば一週間の上限を定められて、中央政府が定めた値段で買います、これを配給と言います。農作物や機械を政府に供出させられます、取られるんです、これを徴発と言います。兵器や軍服を作る軍需工場に行って働くことも指示されます、これを徴用と言います。こうして人の能力や時間、思考、モノやお金など国家の「総力」が「戦争」に向けられるんです。それで総力戦と言います。

1914.6/28サライェヴォ事件/サラエボ事件
ボスニアの都であるサライェヴォ/サラエボに、ハプスブルク帝国/オーストリア・ハンガリー二重帝国の王位継承者で50歳のフランツ・フェルディナンドがやって来ました。国王の子ですけど、平民を妻にしたので皇太子/王位継承第一位としての資格は失ったと言う学者がいます。いや、皇位継承の予定ではあるけれど、確定はしていない、ただし妻と子は資格を持っていないと言う学者がいます。
この人は、オーストリアが支配しているボスニアが独立運動をしたり、同じスラブ系であるセルビア王国との合併を求めているので、その動きを封じたいと思っていました。それでハプスブルク帝国/オーストリア・ハンガリー二重帝国内で、スラブ系の地位を上げることで、自治に留めよう、独立をさせないようにしようと訴えていました。
セルビアからするとこれは不満です。当時のセルビア人は、ハプスブルク帝国/オーストリア・ハンガリー二重帝国内で、スラブ人を貶めようとしていると 勘違いをしていたという学者もいます。
セルビア王国としてはハプスブルク帝国/オーストリア・ハンガリー二重帝国内と戦争をする意図はないので、殺害計画などは危険視していたし、テロリストのグループを逮捕したりもしていました。
秘密結社「統合か死か」(別名は黒手組)に属しているセルビア人たちはサライェヴォでフランツ・フェルディナンドを待ち構えていました。一回目の襲撃は失敗したんですけど、フランツ・フェルディナンドはすぐに安全な所へと非難せず、プリンツィープに殺されてしまったんです。
バルカン半島におけるゲルマン主義とスラブ主義の衝突と見ることもできます。
犯人を捕らえたら、オーストリアの官吏を隣席させるよう要求したんですけど、セルビア王国としては、司法権は国権/国の固有の権利であって、外国人の臨席は主権に対する侵害になるからと言って拒否しました。後の皇帝ニコライ二世になるロシア皇太子を日本人が襲った大津事件を思い出しますね。日本は司法を守ったことで列強に認められて、戦争にもなりませんでした。
けれど、今回は違います。
7/28、ハプスブルク帝国/オーストリア・ハンガリー二重帝国がセルビアへ宣戦布告をするんです。7/29同じスラブ系のロシアが総動員令を発します。戦争を全面的に準備するんです。
これに対して独墺同盟を結んでいるドイツ帝国は、戦争回避をしたかったんですけど、軍部が独走して7/30に動員、軍人への出動命令を出します。
そうしてハプスブルク帝国/オーストリア・ハンガリー二重帝国とセルビア王国の戦争が、ドイツ、ロシア、その同盟国や敵国である英仏日などを巻き込む世界規模の戦争になるんです。
戦車・飛行機・毒ガス・潜水艦などの近代的な兵器が使用されたことと、前線以外の国民も戦争に協力したことで、初の近代的総力戦と言われています。

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機関銃で撃たれないために、穴(塹壕)を籠るので、互いに進撃しません。機関銃に対抗するために戦車が登場します。塹壕に対抗するために、低いところに溜まる毒ガスがイープルで使用されます。地名に由来してイペリットガスと言われました。飛行機は上から敵軍の配置を探ったり、手榴弾を投げていました。音速ではないのでそんなこともできます。

興味のある人には「オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録」(講談社学術文庫)、ベストセラーになった「八月の砲声」(バーバラ・タックマン.ちくま学芸文庫)、学問書の定番として高評価されている「第一次世界大戦」(リデル・ハート.中公)、
小説ですが「西部戦線異状なし」(レマルク.新潮文庫)、戦時中の恋愛話である「武器よさらば」(ヘミングウェイ)などの本があります。ヘミングウェイの初の長編「日はまた昇る」は大戦で青春を失った世代がパリやスペインに集う話です。

・英国のクェーカー教徒は絶対平和主義で、戦争反対を訴えています。
第二次インターナショナル(本部パリ.1889年-1914年)は最大の戦争反対勢力で、1912年にバーゼル(スイス)で戦争反対決議をするんです。「帝国主義戦争は、結局資本家同士の戦いで、われら労働者は巻き込まれているだけで平和が必要だ」ということです。けれど、主導していたドイツ社会民主党が、「階級闘争よりも自らの属す国家が戦争に勝利することを優先するべきだ」と、大戦直前にドイツ帝国政府の戦争に協力を宣言したので、こんなことでは国を越えた労働者の連帯などできないと、第二次インターナショナルは解散します。だから解散は1914年なんです。理解していれば年号を出題されても解答できます。

初期
独墺同盟側のイタリアが中立化して、ルーマニアはフランスに接近しています。同盟側の優勢で進んで、ドイツは対ロシアで宣戦布告をして、ルクセンブルクへも侵入します。8/3ドイツが対フランスで宣戦布告をします。フランス軍が待ち受けている正面の国境を避けて、中立国ベルギーを通って迂回して、手薄な北部からフランスに侵入して、ドイツ軍の右翼で包囲殲滅して、だいたい40日でパリ入城後に、取って返してロシアと戦うというのがシュリーフェン計画でした。この計画はかなり前から作られていて、応用をきかせずに、計画通りにドイツは戦争を進めます。
ベルギーは中立なのでドイツ軍の通過を拒否したんですけど、ドイツは侵攻します。ドイツとしてはベルギーは無抵抗という計画だったんですけど、ベルギーは頑強に抵抗します。
ドイツはベルギーに時間と兵力を取られて、英国は、「中立国への侵入は見逃せない」として対ドイツの宣戦布告をします。
フランスは第十七計画に従っていて、普仏戦争以来ドイツに奪われているアルザス・ロレーヌを奪還するために中央突破をするんです。フランスはドイツの右翼が強いという報告は無視しています。フランスも計画に固執して、ベルギーを通るドイツ右翼軍を無視したので広大な領土を占領されて、包囲されて、殲滅寸前でした。お互いに塹壕を掘って、機関銃で撃たれたくないので、兵士はあんまりで穴から出ていかないというマルヌの戦いにおいて、ようやく双方が計画の誤りを認めます。ドイツ軍右翼は進撃を止めて、フランス軍は、中央軍から引き抜いた勢力も右翼に対峙させたことで、フランスは敗戦を免れました。けれど、塹壕戦の長期化による死傷者の多数化を招いたと言われています。1914年末までにドイツ68万人、フランス85万人が死去したり、負傷しました。
ドイツ(モルトケ将軍)、フランス(ジョフル将軍)のドイツから見た西部戦線は、9月にマルヌの戦いで膠着(こうちゃく)状態となります。どちらの優位もなくて、停滞して打開策がない状態です。
東部は8-9月にドイツ(ヒンデンブルク将軍。この人は後で大統領になります。)、ロシア(レンネンカンプ将軍)がタンネンベルクの戦いでロシア軍が壊滅します。ただ、 冬に入って、塹壕戦へ移ります。

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8/23日英同盟を口実にして、日本は対ドイツの宣戦を布告して、中国からドイツが租借している膠州湾の青島を攻撃します。ドイツ軍は降伏しました。

大戦の重要な戦闘はほとんど緒戦の8月に起こっています。

英国は本土防衛も必要なので、計画よりも少ない4個師団に減らして欧州へ軍を派遣します。同盟国ではないベルギーが中立を犯されたので参戦するという名目のため、侵攻されてからでないと、英国軍は前線に向かわないんですね。
ドイツの海軍艦2隻はオスマン帝国領海に入ると、勝手にオスマン帝国船籍ということにしました。乗務員はドイツ人で、そのままロシアを攻撃します。当然ロシアはオスマン帝国が宣戦布告もなく攻撃してきたと思いますよね。それで、オスマン帝国ドイツ側で参戦を余儀なくされたんです。
大戦時の兵力 ドイツ帝国400万人、ハプスブルク帝国250万人、フランス360万人、ロシア帝国500万人です。後から参戦した英国軍は35万人が志願制で、1916年には徴兵制に切り替えると、植民地のインド帝国兵144万人を動員します。ネパールのグルカ兵も含みます。同盟国のカナダ82万人、オーストラリア41万人も参戦しています。

中期1915年-1916年
独墺同盟側は軍事的優位を保っていますが、予想外に戦争が長引いているので、経済的窮乏に陥っています。
英仏側もそれは同じで、戦える男性は戦場へと動員されるので、軍需工場を初めとしては人手不足になるので、女性の就労がすすみました。戦後、男性が社会復帰/復員しても、就労を続ける女性はいたし、女性の参政権容認へと変わっていく要因になりました
準備していた物資では不足したので、戦争優先のために、配給、価格統制、供出/接収、原材料の販売網制限など、資本主義に反する政策を資本主義を名乗っている国でもしていました。戦時共産主義と言えますね。
英仏側は長期化したので、中小国の抱え込みをしようと、戦後の諸問題となる秘密条約を結んでいきます。

英仏が1915年に、関係国以外の誰にも知らせない密約であるロンドン条約をイタリアと結びます。戦後になったら、ハプスブルク帝国との国境地帯にあるトレンティーノと南チロル、トリエステ、イスキア半島、さらに南部のダルマティアなどの「未回収のイタリア」(イタリア人のものだーと思っている土地)を譲渡する約束をします。こうしてイタリアは初めは中立だったんですけど、独墺を攻撃します。
独墺、ブルガリア、オスマン帝国 VS 英仏イタリア、セルビア、ギリシア、モンテネグロ、日本、中国、ベルギー、ポルトガル、ルーマニア

出題される中立国
スペイン、オランダ、デンマーク、ノルウェイ、スウェーデン、スイス、メキシコです。
後で英仏側に付くのがイタリア、米国です。

英国は、オスマン帝国を攻撃しますが、ガリポリの戦1915.2-1916.1でムスタファ・ケマルに蹴散らされます。
英国の三枚舌外交
1915年フサイン・マクマホン協定-エジプト駐在の英国人高等弁務官マクマホンは、アラブ人がオスマン帝国から独立することを支援し承認することを条件にして、アラブ人のフサインに反オスマン帝国運動をさせます。敵国であるオスマン帝国の勢いを内部から削ぐんです。1916年以降は、フサインの子のファイサル軍が躍動します。英国人情報将校のアラビアのロレンスも参戦しています。
1916年サイクス・ピコ協定-英国人サイクス、フランス人ピコが原案を作成して、ロシアも後で参加しました。オスマン帝国分割の協定です。「フランスはシリアを分割して持っていっていいよ」という条項を英国がフランスへ許したことは、フサイン・マクマホン協定と矛盾しています。シリアにもアラブ人はいますからね。
1917年バルフォア宣言/バルフォア書簡-アラブ人の住んでいるパレスティナにユダヤ人国家を建設する条件で、英国の外務大臣アーサー・バルフォアは、ユダヤの富豪ロスチャイルド家に書簡を送って、戦争のためのお金を借りています。
これもフサイン・マクマホン協定と矛盾しています。
この三つの英国の約束がパレスティナ問題のはじまりで、パレスティナをめぐるユダヤ人とアラブ人の紛争は21世紀初頭にも続いているんです。

1914年のパナマ運河開通以来、太平洋にも大西洋にも自由に行き来できる米国ですけど、他の国の船も利用します。ドイツを経済的に封じ込めるために、英国は海上封鎖をしているので、自由な往来もできません。これに対抗するために、ドイツは一回目の無制限潜水艦作戦宣言を出します。敵も中立国も無関係に、無制限に、区別なく攻撃するということです。1915.2英国海域周辺で開始しました。
ルシタニア号事件-1915.5/7に英国船籍の客船ルシタニア号がドイツ軍の潜水艦/Uボートの攻撃で沈没しました。1000人以上が死亡して、米国人128人も含んでいたので、米国世論を刺激しました。これで直ちに参戦ではないんですけど、導火線にはなっています。
1916年、フランス船籍の客船サセックス号がドイツ軍に撃沈されます。乗船していた米国人は負傷したんですけど、このときも米国は参戦していません。これを受けて、ドイツは無制限潜水艦作戦宣言を撤回します。武装した客船であっても、無警告での攻撃はしないということです。敵国への攻撃は続けます
因みに大戦前、1912年に英国船籍のタイタニック号(エドワード・スミス船長)が氷山に衝突して、沈没しています。このときは1500人ほどが死亡しています。

1916年、ドイツは事態の打開を狙ったヴェルダン要塞の攻撃に失敗します。フランスの将軍ペタンが要塞を死守しました。この人は後で首相になります。
1916.6英仏側が事態の打開を狙ったソンムの戦いで、英国が戦車を歴史上はじめて使用します。これ以降、ドイツは守勢に立たされます。

1916.5-6月のユトランド沖海戦で、英国と戦って以降、ドイツは劣勢となります。ユトランド沖海戦はデンマーク付近で行われた第一次世界大戦時における最大の海戦で、引き分けと言えます。

末期 
1917.2二回目の無制限潜水艦作戦宣言
これを受けて、英国が米国世論をかき立てたので、1917.4/6に米国は参戦します。米国に従う中南米諸国も参戦して、三国協商側(英仏露)は連合を名乗ります。これをもって連合国の形成と学者は言っています。

連合側ではロシアに革命が起こります。
1917年、ロシア革命=二月革命と十月革命をまとめてこう言います。正教のロシアと違って、カトリックの太陽暦/グレゴリウス暦では三月革命と十一月革命と言います。
2/23(西欧暦3/8)は国際婦人DAYで、首都ペトログラードで女性/婦人たちのデモがありました。「パンを寄こせー」だそうです。
2/27(西欧暦3/12)武力で抑え込んでいた兵士たちもデモに参加したことで、革命に転化しました。
西欧暦で言うと、3/15に皇帝が退位して、ロマノフ朝は終焉します。以後も継戦するんですけど、社会主義者/共産主義者レーニンの「平和に関する布告」(無賠償・無併合・民族自決を原則とした即時停戦提案)を受けて、連合国とは歩調を合わせずに単独で独墺側と講和します。これで、戦争の性格は連合国側 対 独墺及び社会主義へと転化します。
1918年にロシアはグレゴリウス暦に変更しています。
レーニンの「平和に関する布告」に影響を受けて、「それは連合国こそ主張したいことだ」と、「勝利なき平和」をスローガンにして、1918.1に米国のウィルソン大統領が14か条(の平和原則)を発表します。戦争目的の明確化と言われています。権利侵害の防止、正義と公正な取り扱いを望むためと、それを担保する具体的な戦後の平和原則=「国際連盟設立」、「無賠償」、「無併合」、「民族自決」、「秘密条約の廃止」を明確にしました。連合国内の動揺を抑えて、戦後に社会主義が拡大することを防止して、牽制することが発表の目的でした。レーニンと違って即時停戦はないので、結局、戦争を継続しています。
ウィルソンの14か条には、「世論」の著者であるウォルター・リップマンが原案作成に協力したそうです。
「民族自決」は、第二次世界大戦中の大西洋憲章にはない項目です。ただ14か条でも、民族自決という言葉はなくて、ハプスブルク帝国内/オーストリア=ハンガリー帝国内の民族「自治」・バルカン諸国の「独立」の保障・ オスマン帝国支配下の民族の「自治」の保障という言葉で表現していました。こうした言葉が表す精神は民族自決ということです。すくなくともアフリカ、アジアの植民地にされている地域の人たちはそう考えました。われらも独立するぞーと思ったんです。
第一次大戦、第二次大戦の宣言は比較されて、秘密条約の廃止がないのはどちらかなどと出題されるので、憶えましょうね。

皆伝24 大戦の宣言 比較 - コピー

1918.3ブレスト・リトフスク条約-ロシアと独墺などの同盟国側の休戦条約です。21世紀初頭のベラルーシにある地名です。この時、ロシアは広い領土をドイツに譲渡することで合意しています。
1918.8休戦をした独墺は帝政国家で、英国もイタリアも王政なんです。王政廃止をして国王を処刑したフランス革命のときにも周辺国は干渉しました。この革命を自分たちの国に波及させないようにです。今回も、列強は反革命運動を支持して、ソヴィエト打倒とドイツ牽制の為に、連合国側は干渉戦争を行いました。日米は主にシベリアに派兵したので、シベリア出兵と言っています。オーストリア=ハンガリー二重帝国支配下のボヘミア王国に暮らしているチェコ人は、ロシアに攻め入っているんですけど、降伏したあと帰っていいよと言われたので帰る途上で、政府の命令が行き届いていないソ連軍と戦闘状態になったんです。このとき、すでにオーストリアからの独立を目指しているので、チェコ人部隊は連合国側と見なされています。それでこのチェコ軍の救出を名目にしたのが、干渉戦争なんです。ちなみに1918.10チェコスロヴァキアとして独立宣言をします。
干渉戦争には7万人の日本、7千人の米国をはじめとして、英仏も主にバレンツ海のムルマンスク(スウェーデン、ノルウェイ接する地域)へ出兵しました。カナダ、中国、イタリアもシベリア方面へ参戦しています。
1918.11ドイツ革命が起こって、ドイツ帝国と休戦すると、理由の一つであるドイツ牽制は果たしたとして、1919年のパリ講和を機に、英仏米などはソヴィエト政権を放置したまま撤兵します。利益を得たい日本だけが侵攻を続けて、1922年まで居座りました。

1918年11/9ベルリン革命/ベルリン暴動が起こって、ドイツ皇帝は退位します。
臨時政府が共和国(民主制ということ)を宣言します。社会民主党のエーベルトが首相に選ばれて、1918.11/11パリ北方のコンピエーニュの森で休戦条約を結びます。この後で正式に講和条約へと移ります。

数字は幅があるので最大値ということで書いています。
日清戦争(1894年7~1895年3)で死去 日本1万3800人 清3万5000人 
日露戦争(1904年2~1905年9)で死者 日本11万5600人 ロシア4万2600人 
第1次世界大戦(1914年7~1918年11)は桁違いです。
連合国側で514万人
日本300人(延べ動員数は80万人)
ロシア170万人 フランス135万8000人 イギリス90万8000人 
イタリア65万人 ルーマニア33万6000人 アメリカ11万7000人  
セルビア4万5000人 ベルギー1万3800人 ポルトガル7200人
ギリシャ5000人  モンテネグロ3000人 
同盟国側で338万6000人 
ドイツ177万4000人 オーストリア=ハンガリー120万人 
トルコ32万5000人 ブルガリア8万8000人   
合わせて、計852万9000人が亡くなっています。

第一次世界大戦中の1918年に始まったインフルエンザのパンデミックは、俗にスペイン風邪と言われます。アメリカのカンザス州にあるファンストン陸軍基地の兵営が、現在確認されている最初の例です。米兵がヨーロッパに持ち込んだと言われています。戦場って、人が近くにいるし、不衛生で、ストレスもあるので免疫も下がっているので、感染はしやすいでしょう。
感染者はWHOによると、世界人口の25-30%で、3分の1と言う学者もいます。全世界で患者数がだいたい5億人-6億人ですね。致死率は2.5%以上で、死亡者数は2000万人と言う学者がいて、4000万人-5000万人と言う学者が多くて、1億人と言う学者もいます。日本では内務省の統計で2300万人が感染して、38万人が死去したそうです。45万人が死去したと言う学者もいます。
当時は、スペインが中立国で、戦時報道管制の外にあったので、ウイルスの感染がスペインから発信されたんですね。それでそれでスペイン風邪の名前が付いています。1933年、インフルエンザ・ウイルスが史上始めて分離されます。
スペイン風邪はヒトにおけるA型インフルエンザ・ウイルスによる流行であったと現在ではわかっています。
A型インフルエンザ・ウイルスは鳥類を中心に保有されていたウイルスで、感染のたびに遺伝子が変異して、21世紀初頭に流行している香港型やソ連型に変異しました。鳥インフルエンザ・ウイルスはA型の1つで、濃厚接触/密着によるヒトへの感染例もあります。

パリ講和会議の結果、ドイツとヴェルサイユ条約が締結されるなどしています。第一次世界大戦の結果は全面講和=参加国すべてが講和=仲直りして戦争をやめたんです。第二次世界大戦の結果は片面講和です。サンフランシスコ講和会議でソ連、中国などは日本と講和していないんです。そういう違いも出題されます。理由を今知りたい人は自分で調べましょうね。
ウィルソンの14か条をベースにして話し合いをしました。そのパリ講和会議(1919.1-1920.8)の中で決まったことに調印をする、各国ごとに講和条約を結ぶ時期は、ずれています。講和会議も、各々の国を対象にしているので、署名の場所と名前も異なります。だいたいはパリ市内かパリ近郊なので、全体をパリ講和会議と言うんです。
1918年3月、ロシア帝国はブレスト・リトフスクで一足先に休戦していて、ソ連に変わっています。ソ連は列強から警戒されているので、講和会議にも呼ばれていません。だから、後で設立される国際連盟にも当初は参加していません。

1919年6月、帝国崩壊後のドイツはヴェルサイユ条約
1919年9月、オーストリアはサンジェルマン条約でハプスブルク帝国が崩壊
1919年11月、ブルガリアはヌイイ/ニューイ条約(パリ郊外。凱旋門から2kmくらい)
1920年6月、ハンガリーはトリアノン条約(ヴェルサイユの離宮)
オスマン帝国/トルコ共和国は少し遅れて1920.8パリ近郊のセーブル/セーヴルで条約を結びます。その最中に革命が進行していて、1924年にオスマン帝国は崩壊します。
つまり、大戦をきっかけにして、ドイツ、ロシア、ハプスブルク、オスマンという四帝国が滅亡するんです。あと残っているのは、大英帝国、大日本帝国です。

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後で詳しく書きますけど、ドイツは濃い紫色だけが通常で、ピンク色のところでは武装禁止、ポーランドに領土を取られて、アフリカや太平洋の領土も他国に譲渡しています。ハプスブルク帝国はハンガリー、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国、チェコスロヴァキア、オーストリアに分裂して、ルーマニアにも領土を取られています。オスマン帝国も英仏などに領土を任せたり、イタリア、ギリシアに取られています。
1919.1パリ講和会議-1920.8
当初は日本(西園寺公望)、米国(ウィルソン)、英(ロイド・ジョージ)仏(クレマンソー)、イタリア(オルランド)で利害調整の予定だったんですけど、欧州のことに関心がない日本は、日本の関わらない小会議にはあんまり参加しないので、英国のロイド・ジョージ、フランスのクレマンソー主導します。敗戦国は招かれていません。ここで方針を決めてから、個別に各国と講和条約を結ぶんです。
因みに講和会議で、西園寺公望が出した人種差別撤廃案は否決されました。米国に移民した日系人が差別されていることが念頭にあるんですけどね。

①世界平和②民族自決③民主主義を原則にして、秘密条約の廃止、海洋航行の自由(無制限潜水艦作戦を受けたもの)、軍縮(ワシントンやロンドンでの軍縮会議へつながります)、局地的平和/特定地域の平和を推進します。

パリ講和会議の理念
①世界平和
国際連盟の設置が決定されています。14か条で提唱したウッドロー・ウィルソン大統領のいる米国は、上院が反対したので、国際連盟に参加していません。物事の決め方は全会一致ですからね、自国の政策の自由を制限したくないと思ったので、反対したんです。

1920.1国際連盟設立-スイスのジュネーブに連盟事務局/本部が置かれます。初代の事務総長が英国のジェームズ・エリック・ドラモンドで、事務次長は新渡戸稲造です。
すべての加盟国が話し合う総会、列強が話し合う理事会は、共に全会一致で物事を決定します。一国一票です。
理事会に、選挙なしでいつもいるメンバー/常任理事国としているのは日英仏伊です。賛成か反対か棄権を選べますが、いざ決まったことには拒否する権利はありません。
武力制裁は認めず、経済制裁は認めています
総会、理事会の他に、提携する専門機関もあります。
ILO/国際労働機関(本部ジュネーヴ) (国際連合に引き継がれます)
国際司法裁判所(本部ハーグ) 強制権はありません。(常設国際司法裁判所として、国際連合に引き継がれます)
他にWHO/世界保健機関の前身となる機関などがあります。

のちの国際連合との比較もよく出題されます。ニューヨークに本部を置く国際連合では、総会も安保理/安全保障理事会も多数決で決めます。けれど、安全保障理事会に入っている常任理事国は5か国とも一致した意見でないといけません。この部分は全会一致です。さらに常任理事国には拒否権/VETOがあります。他の国に反対するだけでも結果は同じですが、あえて意思表示としてその提案を拒否するということができます。
国際連合は、経済制裁も武力行使も可能です。

国際連盟には当時の最強国である米国、ソ連、オーストリア、ドイツは参加していません。世界のことを決めるのに、これだけの国が参加しないので、効果を発揮できません。
1926年にはドイツが加盟して、しかも理事国になります。
1933年にまずドイツが軍備拡張のために、ついで日本が満州支配を批判されて脱退を宣言/通告します。理事国が減ったので、この穴を埋めるように1934年にソ連が加盟します。1937年にはイタリアがエチオピア支配を批判されて脱退して、1939年には日独伊の防共協定に参加したので、日独伊に続いてスペインが脱退します。1939年にはソ連はフィンランドへの侵攻を批判されて除名されています。

イタリア、日本など、望んでいた領土を得られなかった国や、独墺・ハンガリーなど領土を失った国は、領土を得て現状維持をしようとする列強の秩序への不満を持つので、領土を変更する修正主義外交を模索するようになります。これは第二次世界大戦の原因となるんです。

1922年、ワシントン海軍軍縮会議-
各国の主力艦を制限します。米英5とした場合に、日本は3、フランス、イタリアは1.67ということで合意します。総トン数の比率であって、艦船数ではありません。
当時は、最新鋭艦をたくさん作って負けないようにするという建艦競争があって、国費を圧迫していることは各国共通だったんです。軍部としても、少しは受け入れやすい国際情勢でした。
ちなみに、1930年のロンドン軍縮会議では、補助艦の制限で合意します。英国のマクドナルド首相が提唱して米英10、日本7です。米英とは差がつくばかりで日本は軍備拡張ペースは遅いんです。戦争になったら勝てないから、互いに抑制し合う方がましだということで、日本は調印したんです。

1924年のジュネーブ議定書/国際紛争平和的処理議定書は、このパリ講和会議の理念が具体化したもので、侵略戦争一般を禁止した画期的な文書です。ただ、諸国が反対したので成立はせずに、その精神は1928年の不戦条約に受け継がれるんです。
ちなみに、1925年のジュネーブ議定書は、生物兵器と毒ガスを禁止した文書です。

1927年、ジュネーブ軍縮-
米国のクーリッジ大統領が提唱しました。ワシントン海軍軍縮会議を継いで、補助艦の制限を狙ったんですけど、日本が反対したので調印はされませんでした。これに応じると日本の防衛は不可能になると、日本軍部が会議に出席している日本政府代表に主張したからです。

1928年、パリ不戦条約-
フランス外相ブリアンと米国の国務長官ケロッグが提唱しました。別名はケロッグ=ブリアン条約/ブリアン・ケロッグ協定です。日米英など15カ国が参加して、のち60カ国に拡大しました。
ちなみに会議参加の代表者がその場で署名して、帰国して、国会や国王が承認する=批准することで、この条約を守るメンバーが増えていくんです。
内容は、「戦争の禁止」、画期的です。戦争は非合法だということで認識が一致したんですからね。

少し読んでみましょう。
「人類ノ福祉ヲ増進スヘキ其ノ嚴肅ナル責務ヲ深ク感銘シ 其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ關係ヲ永久ナラシメンカ爲 國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ卒直ニ抛棄スヘキ時機ノ到來セルコトヲ確信シ(国家の政策手段として戦争を率直に放棄すべき時機が到来したことを確信したと言っています。)
其ノ相互關係ニ於ケル一切ノ變更ハ平和的手段ニ依リテノミ之ヲ求ムヘク 又 平和的ニシテ秩序アル手續ノ結果タルヘキコト 及 今後戰爭ニ訴ヘテ國家ノ利益ヲ増進セントスル署名國ハ 本條約(この条約)ノ供與スル利益ヲ拒否セラルヘキモノナルコトヲ確信シ 其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ國カ 此ノ人道的努力ニ參加シ 且 本條約ノ實施後 速ニ之ニ加入スルコトニ依リテ 其ノ人民ヲシテ 本條約ノ規定スル恩澤ニ浴セシメ 以テ 國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸國ヲ結合センコトヲ希望シ  茲ニ條約ヲ締結スルコトニ決シ 之カ爲 左ノ如ク其ノ全權委員ヲ任命セリ
第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲 戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ 且 其ノ相互關係ニ於テ 國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條 締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭 又ハ 紛議ハ其ノ性質 又ハ 起因ノ如何ヲ問ハス 平和的手段ニ依ルノ外之カ處理 又ハ 解決ヲ求メサルコトヲ約ス
第三條 本條約ハ前文ニ掲ケラルル締約國ニ依リ 其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ從ヒ批准セラルヘク 且 各國ノ批准書カ總テ ワシントンニ於テ寄託セラレタル後 直ニ締約國間ニ實施セラルヘシ」です。
ただ、正当防衛は除くという条項が付きました。どんな国でも「これは侵略戦争である」と言って他国に侵攻する国はないんです。何かと口実を付けて、国民を守るために致し方ない自衛のための戦争/正当防衛だと言って侵攻するんです。だから、実際の効果はないんですけど、理念としてだけでも戦争は違法行為だと合意したことは、将来に向けて大きな価値がある一歩と位置付けられています。

日本国憲法の第九条と比較して見ましょう。
・パリ不戦条約
其ノ人民間ニ現存スル平和及友好ノ關係ヲ永久ナラシメンカ爲 
・日本国憲法
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、

・パリ不戦条約
國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ卒直ニ抛棄スヘキ時機ノ到來セルコトヲ確信シ 國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸國ヲ結合センコトヲ希望シ
・日本国憲法
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇 又は 武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

世界平和への意思は継承されていると言えます。

パリ講和会議後に、その精神が継承されることは他にもたくさんあります。

ヨーロッパの局地的平和
フランスとドイツの国境地帯であるラインラントでは非武装化をドイツに義務付けることも決まりました。それでもフランスはドイツを疑っているんですけど、1923年から1929年に外務大臣をしていたドイツのシュトレーゼマンによる協調外交の成果として、1925年にロカルノ条約が結ばれます。ラインラントでは非武装化の念押し、国境紛争は武力ではなく仲裁裁判で争うことなどで合意します、参加者は、英国が、かつて植民地大臣として南ア戦争に関わったジョセフ・チェンバレンがいましたね、あの人の長男オースティン・チェンバレン外務大臣、フランスはブリアン外務大臣、イタリア、ベルギーも話し合いに参加しました。

アジアの局地的平和
1921年-1922年のワシントン会議
米国のハーディング大統領が提唱したものです。
目的は日本牽制なんですけど、軍縮にもつながっています。
1921年、四国条約/四カ国条約-
太平洋(つまり日本周辺)の局地的平和のために、日英米仏の属領に対して、その国が持つ権益の尊重を決定します。属領とは植民地のことで、今持っているところを互いに尊重する=日本はこれ以上増やすなということです。
これで太平洋地域は安泰だと思い、さらに米国から「日本と米国とどっちと仲良くするんだ」と迫られた英国は、米国とも日本とも距離を取ることを選べませんでした。日英同盟は、日英の二か国の同盟だったんですけど、この四国条約を通じて領土の拡張禁止で合意したので、日米、日仏が戦争に至らないように、米仏なども平和に協力するというんです。日英が敵視していたロシアは革命で消滅したこともあって、もう日英の二か国で同盟を結ばなくてもいいという状況があるとも言えます。
実際は、日本は米国を脅威に感じていたんですけど、英国が米国を敵に回してまで日本との同盟を維持するとは思えません。米国は日本を抑止したいので、日英同盟の更新をしないように英国に圧力をかけているんです。日本でも米国に配慮して更新しない動きがありました。結局、この四国条約に日英同盟の廃棄を盛り込んで、日英同盟は更新せずに1923年8/17に失効します。
日英同盟と米英同盟の板挟みの英国は、どちらかを切ることはできずに、表向きは日英同盟の拡大という名目で米仏を加えたんです。けど、事実上は米仏が日本を支援して戦争をすることはありえません。だから、日英同盟の失効に過ぎないんです。
太平洋に権益を持たないイタリア、ベルギーなどは入らないので、三か国を見れば九か国条約と区別できますね。
1922年、九国条約/九カ国条約-
中国の局地的平和(つまり日本周辺)
のために、すでに四カ国条約は結ばれているので、これを拡張するという形式で、日英米仏+イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、さらに、当事国の中国も参加しています。基本的に中国の「領土保全」「門戸開放」「機会均等」で合意しました。米国の国務長官ジョン・ヘイの門戸開放宣言からの流れを継いでいますね。この九国条約によって、かつて日米が結んだ石井ランシング協定の廃棄(1923年)と、日本が中国に対して出した対華21カ条要求/対華二十一カ条要求の廃棄も決定されます。
1922年、ワシントン海軍軍縮会議-
各国の主力艦を制限します。内容はもう書きました。


②民族自決
ハプスブルク帝国の解体、オスマン帝国の解体を決めますし、ロマノフ朝は自壊しました。
元々はハプスブルク帝国に対抗するため、途中からはオスマン帝国を自壊させるため、そして後で社会主義の拡大防止のためにソ連周辺に適用されたのが民族自決という概念です民族のことは「自」分たち民族で「決」めるべきだということで、独立するか、そのままとどまるか、他と合体するかを選べるということです。

大戦後の新興国/新たに誕生した国をみると敗戦国、社会主義国に押し付けられたとわかります。
エストニア、ラトビア、リトアニアといったバルト三国、フィンランド、ポーランドがソ連から離脱。
チェコスロバキア、セルブ・クロアート・スローヴェン王国/セルブ・クロアート・スロヴェーン王国、オーストリア共和国(王国をやめました)、ハンガリー共和国(王国をやめました)はハプスブルク帝国から離脱しました。

ヒジャーズ王国(のちのサウジアラビア)はオスマン帝国から独立します。
パレスティナ、イラク王国、トランスヨルダン首長国は英国、レバノンを含むシリアはフランスに統治を任せる/委任統治となります。将来の独立を見据えているとは言えます。

こういった勝利した連合国側に好都合の状態をヴェルサイユ条約に由来してヴェルサイユ体制と、学者は言っています。
ちなみに、戦争の激戦地にならなかった日米だけが戦後は無傷で経済発展します。
第二次大戦後は米国だけがほぼ無傷で経済発展します。違いを理解しましょう。
とは言っても、第一次大戦後の日本の経済発展はフランス、ドイツ、英国にも及びませんし、短期間ですけどね。その後はほぼ四年に一回は不況になります。
米国の経済拡大は、人口の増加要因も大きいということは知っておきましょうね。

民族自決は、勝者の列強が押し付けた概念なので、勝利した連合国側の植民地であるアジア、アフリカには適用しません。それで不満が残るんです。
例えば、1919.3/1には日本統治下の朝鮮半島で、三・一独立運動/万歳事件が起こります。独立を宣言して李承晩/イスンマンが臨時政府を立てました。1919年にヴェルサイユ条約が結ばれて「ドイツに租借させていた膠州湾が日本に移譲された」中国では五・四運動(ごしうんどう)が起こっています。反帝国主義、反日運動です。
英国の統治下では、インドでガンジーの非暴力不服従運動が始まります。
太平洋のドイツ領の島々はオーストラリア、ニュージーランド、日英などの委任統治になります。アフリカのドイツ領も英仏ベルギーなどに分割されます。

民族自決の逆もあります。戦後の1920年には英国がイランを保護国にしているんです。
ただ1921年には独立を勝ち取るんですけどね。
英国の支配も崩れていきます。
アフガニスタンも戦争をして、1922年に英国からの独立を果たします。
1922年に形式的にはオスマン帝国からの、実質的には英国からのエジプト王国独立が承認されます。

1919年、パリ講和会議/ヴェルサイユ条約のために各国代表が集まったので好機とみて、フランスの首相クレマンソーの援助を受けて、パリで第1回のパン・アフリカ会議を開いて、黒人の権利向上を訴えたのが、アメリカのデュボイスです。「パン=アメリカニズムの父」といわれるデュボイスは、アメリカの黒人として初めてハーバード大学から博士号を得て、1903年には「黒人の魂」で20世紀の問題は肌の色による差別/カラーラインと主張した人です。
アメリカ合衆国の白人自由主義者を中心に結成された黒人差別撤廃運動組織「全米黒人向上協会」から派遣されて、パリ講和会議でアフリカ人とアフリカ系の権利を擁護しようとしたんです。
北アメリカ、カリブ海、アフリカから57人の代表が参加して、アフリカ人保護のための国際法の整備、土地・資源の信託、外国資本による搾取の規制、奴隷労働の禁止、公費による教育の普及、段階的な自治の推進を求める決議を採択しました。
列強には受け入れられず、表面的には失敗したと見なされています。

1919年には第三インターナショナル/コミンテルン/国際共産党が設立されます。これはレーニン主導で、本部はモスクワです。ソ連という国が主導して、他の国の共産党、社会党などに指示を出します。第一インターナショナル(ロンドン)はマルクスなど個人の社会主義者、第二インターナショナル(パリ)はドイツ社会民主党などの政党が中心でした。

戦争中は総力戦なので、男性は徴兵されたり、軍需工場で働いたりして、代わりに女性の就業率が高まったと書きました。となると動きやすい服装が必要で、この時期に長いスカートやコルセットが消えるんです。逆に、貴族、ブルジョワという社会階層も流動化して、経済的に中層の女性もメイクをし始めるんです。自己表現をできるメイクは女性にとって自由の象徴だったんです。
例えば1916年にシャネルはカシミア・ジャージを使用したスーツを発表しています。
1920年、西欧ではスカートが膝丈になっています。シュザンヌ・ランランのテニスウェアが評判になったり、スリップ型の下着が登場したり、女性用のパンツが普及します。 フランスでは、ローウェスト/腰の位置が低い服で、短髪のギャルソンヌと言われる、宝塚歌劇団の男役のような女性たちが街を闊歩しました。1922年の小説「ラ・ギャルソン」の発表で、ギャルソンヌ・ルックが流行しました。

美術では、アールデコが隆盛です。大量生産に向かない曲線的、装飾的、有機的なモチーフのアールヌーヴォーに代わって、機能、シンプル、合理的、直線的、原色、幾何学模様を特徴とする大衆的で大量生産のアールデコが1910年代に登場します。戦争の影で贅沢は慎む空気が影響したのかもしれませんね。1925年のパリ万博を機に世界中に広まります。1940年まで継続したようです。
建築で言うと、ニューヨークのクライスラービル、エンパイアステートビル、東京の帝国ホテルの中央玄関(フランク・ロイド・ライトが主設計)などが典型です。

スペイン風邪について書きましたけど、医学・生理学・生物学などの分野では、野口英世が黄熱病の病原体を発見しています。英国人フレミングは青かびのペニシリンを発見しています。これは世界初の抗生物質です。肺炎に効くんですよ。バンチングとベストはインシュリンを発見しています。カルメットとゲランが結核予防のために、BCG接種を呼びかけています。

物理学ではリンドブラッドが「銀河は回転しているんじゃないか?」と考えます。オールトの雲の由来であるオランダのヤン・ヘンドリック・オールトは銀河の回転を実証しました。原子物理学の父と言われるラザフォードは中性子の存在を予言しています。

地域別に書きます。

□□ラテンアメリカ

中南米諸国も英仏米国側で対戦に参戦しています。
□カリブ海地域
米国に近くて、ドイツに拠点化されたら困る地域です。防衛力がないと考えた米国は、ドイツの侵攻を予防するために、1915年にハイチ、1916年にドミニカへ米軍を侵攻させます。以降軍政下におきます。米軍が撤退するのは1924年です。とっくに戦争は終わっていますよね、単なる侵略国です。

□中南米地域
□メキシコ

民主化が進んで、大統領は直接選挙制になって、政教分離も確定しています。
1914年、ドイツのツィンメルマン電報という事件があります。もし米国が参戦するなら、ドイツとメキシコは同盟しようという提案です。大戦でドイツが勝利したら、1850年ころのアメリカ=メキシコ戦争で奪われたテキサス、ニューメキシコ、アリゾナをメキシコが取り返せるように計らうというものでした。メキシコには、ドイツと日本の仲裁、日本が米国を攻撃するように、日本を説得してほしいということも書いてありました。この電報は米国に傍受されて、解読されています。メキシコは米国との戦争では勝てないと判断して、断りました。
その後、内乱があったり、1920年に内乱は終わるんですけど、軍の反乱など混乱は続きます。
□ニカラグア
1927年、自由党のモンカーダなどが、保守党のアドルフォ・ディアス政権に対しての抗戦を始めたことで、内戦となっています。停戦後にアメリカ海兵隊が上陸すると、自由党軍のサンディーノ将軍は停戦に応じずに、選挙監視団としてのアメリカ海兵隊(占領軍)をニカラグア国民主権防衛軍で攻撃しました。これをサンディーノ戦争と言います。ラテン・アメリカ諸国はサンディーノを支援しました。アメリカ海兵隊は現地で国家警備隊を養成して、サンディーノ軍と戦っています。
1929年から始まった世界恐慌の影響で、米国は駐留費用を削減したい、選挙監視の役割も終えたことで、1933年にアメリカ海兵隊が撤退して、サンディーノ戦争は終結します。米国は世界恐慌に対応するために、1933年に大統領になったフランクリン・ローズヴェルトが善隣外交を掲げたので、その一環でもあると思います。
1961年にはサンディーノに由来するサンディニスタ民族解放戦線が生まれます。
□パナマ
1914年にパナマ運河が開通して、運河地帯に米国の占領軍がいますが、親米政権が存続しています。
□コロンビア
保守派で保護主義のレイエス大統領は選挙を通じて成立した議会を解散して、自分が任命する任命制議会とすると、独裁を開始します。パナマ問題で対立していた米国と和解して、パナマが独立したことに対する賠償金としての米国資本主導で、インフラ整備をすすめることで経済は拡大します。その一方で、借金も増えて米国に従属していくんです。
1928年、米国資本のユナイテッドフルーツ社で、低賃金で働かされているコロンビア人の従業員がストライキを起こすと、軍が出動して、47人を超える人を殺しました。
□エクアドル
金融業者の寡頭支配は、カカオの輸出低迷と労組のストライキを背景として、1925年の七月革命によって崩れます。これは青年将校のクーデタで、中間層(貧困と富裕の間の層)と労働者は支持しました。これ以降、自由貿易から国家主導へ転換します。
□ペルー
沿岸部/コスタの文民・地主・金融資本家の寡頭支配の時代ですが、レギーア大統領下で交通が発達すると、1919年にはシエラ/高地の山岳民や農民が社会参加を始めます。
外資系のプランテーションに対する不満で、デ・ラ・トーレが1924年に亡命先のメキシコで民族主義のアプラ党を結成しています。
反米と外資/外国資本の企業を国有化すること、ラテン・アメリカの統一を主張しています。
この時期、先住民/インディヘナの知識人層がインディヘニスモ運動をして、先住民文化の再評価をして、先住民文化がペルーの伝統の出発点だという再意識を持つようになります。
□ブラジル
1914年、ブラジルの商船/つまり商売をする船、貿易船がドイツの潜水艦Uボートに撃沈されたことをきっかけに、英仏側で第一次大戦に参戦します。戦争で稼いで、貿易黒字を達成すると、戦後は戦勝国として、国際的地位も上がって、国際連盟に加盟します。
コーヒー輸出も好調で、コーヒーの一大産地に近いサンパウロは活況を呈して、その後の経済都市の座を不動にします。
ブラジル時間と言われるようにのんびりしているんですけど、サンパウロだけは時間厳守の空気があります。結構早く歩いています。こうして中間層が増えて、消費者化すると、国内市場も形成されはじめます。
それに、小作人として耐え忍んでいる移民の独立志向が高まって、大農園/プランテーションの解体、工業化も進みました。土地や鉱山は州政府が所有して、鉄道は連邦が所有する体制なんですけど、コーヒーの好調がさらに続いて、サンパウロ、コーヒーに入れる牛乳の産地ミナスジェライスも豊かになります。財政が安定して、州の発言権も強くなるので、大統領は交互にこの二つの州から輩出するようになります。1926年、国際連盟の常任理事国入りを他の加盟国に拒否されたので、国連を脱退しています。21世紀初頭にも、ブラジルは日本、ドイツなどと組んで、国際連合の安全保障理事会の常任理事国になる運動をしています。

有名人たちのどんちゃん騒ぎはそうなんですけど、基層の人たちは白人でも先住民でもなく、混血の人がナショナリズムを求めています。「我らこそが国の中心だ!我らこそブラジル国の正当な者だ!」という意識ですね。ブラジル人のブラジル化を訴えるんです。
この時期、音楽ではヴィラ=ロボスが♪ブラジル風バッハを作曲していますね。サンバは黒人が歌う反権力的なものから、白人の叙情的な歌へという変化もこの時期にあります。
□ウルグアイ
1915年にバッジェ大統領は退任しますけど、高福祉政策は引き継がれます。
□パラグアイ
秘密投票や、大統領選挙に複数の候補が出られるようになるなどの政治改革をしています。
□ボリビア
金融資本家の自由党から、農園主の作る共和党へ、クーデタで政権が移行します。共和党は1920年-1930年代後半の与党です。この時期に、油田を開発しています。
□アルゼンティン/アルヘンティーナ
民主的な選挙によって、寡頭支配が衰退します。大戦中は中立を維持しています。
□チリ
第一次世界大戦後に、軍需品である硝石の価格が下落したので、これで稼いでいた寡頭勢力が衰退します。寡頭支配に抵抗していた国民連合のアレサンドリが、1920年に初の中産階級が支持する大統領となりました。1924年のクーデターで失脚するんですけど、1925年に軍改革派が再びクーデターを起こすと、民主化路線と軍の不介入を条件として、再び大統領になります。その後、大統領権限を強化して、議会制共和政期は終焉しました。そして、米国の資本を導入して、銅を輸出するようになります。
1927年からのイバーニェス政権はインフラ公共事業と鉱業の拡大をするんですけど、1929年に世界恐慌が起こると、財政破綻して、1931年に政権は崩壊します。

□□アメリカ

ウッドロー・ウィルソン大統領(民主党1913年-1921年)は宣教師の子供で、プリンストン大学の学長を務めた政治学者です。

1882年に中国からの移民ビザは拒否していますけど、1917年移民法では、(連合側の)日本、米国領であるフィリピンを除くアジア人の移民を禁止しています。16歳以上には(母国語で受けられる)識字能力のテストもしていました。
ウッドロー・ウィルソン大統領は①人道主義と②民主主義を推進したと言われていて、ノーベル平和賞を受けたんですけど、どう思いますか?
①人道主義の代表は、1919年に成立して1920年から施行された禁酒法です。酒を飲んで売春する、浮気する、夫が酒浸りで暴力をふるうのが理由だと言う学者もいますが、婦人、さらにキリスト教徒が主導しました、不道徳な行為とされたんですね。酒の製造・販売・輸入・輸出を禁止しました。結局、密造、密売が横行して、それで稼いだマフィアが勢力を拡大して、シカゴでは有名なマフィアのボス、アル・カポネが勢力を拡大していました。実は、人道目的ではなくて、敵国ドイツのビールが米国内で売れていたんです。国内のビール業者もドイツ系が多いので、それを禁じる意図もあったようです。ドイツ系とは言ってもアメリカ人の利益を損ねた、ドイツ系と言うだけで敵扱いして分断している、ポピュリストの特徴を持っていると言えますね。人道的と言えるんでしょうか。第二次世界大戦中に、日系人/親、祖父母が日本人と言うだけで収容所に入れて財産を奪ったことと何ら変わりませんし、ウィルソンの思想の底流がそうしたことを引き起こしているとも言えます。
興味のある人には、小説ですけど、「カポネ」(佐藤賢一)という本があります。
マフィアの存在や、実効性の無さへの反発から、1933年にフランクリン・デラノ・ローズヴェルト大統領が、ニューディールの一環として禁酒法を廃止します。

②民主主義は婦人参政権のことで、1919年可決、1920年批准です。米国でも男性が戦争をしているので、女性が就労したんです。それで女性が声をこれまでよりも挙げるようになったことで成立しました。
とは言っても、戦争中は総力戦なので、情報が漏れないようにと、士気を下げないようにと言論統制をしています。スペイン風邪を広めたのも情報統制をされていた米兵と言われていますしね。言論の自由に反した反民主主義的な政策を実施していたんです。

1914年、クレイトン反トラスト法が成立します。
①企業が談合して価格を吊り上げる ②抱き合わせ販売 ③排他的売買契約
議員のクレイトンさんが主導して、こうしたトラスト的な行為を禁止します。
①自由競争なので、安値競争にしてもいいんですけど、大企業同士が話し合って、価格を高く保つことがあったんですね。これも資本主義だと思いますけどね。政府がこれを禁じたんです。反資本主義的な政策と言えます。
②欲しくもないマスカラと一緒でないと欲しいシャンプーを売ってくれない。面白くないゲームと一緒でないと、欲しいゲームを売ってくれない。こういうものを抱き合わせ販売と言います。余計なお金を出すことになります。
③「ほかの会社からもシャンプーを仕入れるなら、もうあんたとは取引しない。うちからだけ買え」というものですね。
世界中でこうした反トラスト的な法案が出されるんですけど、①②③も政治家に寄付をしている大企業ほど抵抗するので、罰則なしなど骨抜きにされたり、すぐに廃止されるんです。


共和党のタフトの棍棒外交を引き継いで、ウィルソンの外交は「宣教師外交」と言われる、「民主主義はいいものだ」という善意を強制して、とくにラテン・アメリカに干渉します。帝国主義丸出しですね。
メキシコ革命に対する軍事干渉、ニカラグアへの選挙監視団としての海兵隊駐留とサンディーノ戦争、1915年のハイチ、1916年のドミニカ共和国への財政危機を口実にした侵攻などが代表例です。
1914年から大戦が始まると、1915年に英国の商船ルシタニア号、1916年にフランスの客船サセックス号がドイツ軍に撃沈されて、米国人の乗船者もいたので、米国世論は刺激されます。これで直ちに参戦はしませんけど、導火線にはなりました。
1914年のパナマ運河開通以来、太平洋にも大西洋にも自由に行き来できる米国の参戦は、連合国への物資供給になくてはならない存在なんです。1917.2ドイツの無制限潜水艦作戦開始で英国が米国世論をかき立てたので、1917.4/6米国は参戦します。これをもって連合国の形成と言います。三国協商側(英仏露)は連合を名乗ります。

1918.1米国のウィルソン大統領の14か条/14か条の平和原則。ロシアのレーニンが発した「平和に関する布告」に影響を受けました。「それが我ら連合国が主張したいことだ」と手柄を横取りする形で、「無賠償」、「無併合」などの「勝利なき平和」をスローガンにして、戦争目的の明確化(権利侵害の防止、正義と公正な取り扱いを望むため)と、それを担保する具体的な戦後の平和原則=「国際連盟設立」、オスマン帝国や「民族自決」、「秘密条約の廃止」を明確にしました。
ソ連の誕生によって、連合国はロシアという仲間を失いました。レーニンは戦争をやめようと言っていますからね。それで、西部戦線のみになった連合国内の動揺を抑えること、戦後に社会主義が拡大することを防止して、牽制することが14か条の発表の目的です。だから、戦争を継続しています。
1918.11/11コンピエーニュの森(パリ北方)でドイツとは休戦条約を結んでいます。
ロシア革命後、連合国側はシベリア出兵を行っています。日本は7万人で、7千人の米国はシベリア地方のウラジオストクへ出兵しました。1919年のパリ講和会議を機に米国はソヴィエトを放置したまま撤兵しています。
1919.1パリ講和会議では、国際連盟の設置を決定しています。提唱した民主党ウィルソン率いる米国は、議会では共和党が多数なので、議会の反対で国際連盟に参加しませんでした。ヘンリー=ロッジが主導して、「国際連盟の規約はアメリカの外交の自由を奪う」と訴えたことが有名です。
ヴェルサイユ条約には、代表者が署名はしているんですけど、1919年までに議会は批准しませんでした。後、1921年に米国はドイツと個別講和をいているので、ドイツとしては交戦国との全面講和をしています。

1920年、サッコ・ヴァンゼッティ事件-2人のイタリア系移民のアナーキスト(無政府主義者)が、証拠不十分なのに強盗殺人罪で1920年に有罪とされて、1927年に死刑になった冤罪(えんざい)事件です。罪を犯していないのに罪を犯したと見なされて罰を受けることを冤罪と言います。靴職人のニコラ・サッコ、魚の行商人バルトロメオ・ヴァンゼッティは、大戦時には徴兵を拒否していますけど、それで愛国心がないとは言えません。外国勤務が基本的にないとされている州兵に志願することで戦地への徴兵を免れることは、とくに1960年代のヴェトナム戦争時にはよくある方法だったそうです。
このサッコとヴァンゼッティへの有罪判決には、米国中で抗議活動がありました。司法や行政では思想や偏見に凝り固まっている時でも、基層の人たちには民主主義が働いているんです。ジョン・デューイ、作家のドス・パソスも抗議に参加しました。
鶴見俊輔も渡米時に「自分はアナーキストだ」と言って、後年の太平洋戦争勃発時に学生にも拘らず収監されています。

1921年、G・ハーディング(共和党1921年-1923年)大統領は、戦争が終わったので、「平和/正常/平常への復帰策」がスローガンで、欧州とは関わらない孤立主義を取っています。1921年-1922年にかけては、ワシントン会議を開催して、軍備縮小を提唱したり、ヴェルサイユ条約には署名していませんけどドイツと講和したり、欧州に関わらないと言っても、戦争に巻き込まれないようにという努力はしています。
資本家重視の政策で成功した後は、「永遠なる繁栄」へとスローガンを変えます。
似ているんですけど、「未曾有なる繁栄」はフランスです。
大戦で戦地になった国、お金を使った国は疲弊しています。米国は英仏などにお金を貸しているので、利子を付けて返してもらえますし、他国の工場が稼働していないので、米国の製品をたくさんうることができました。それで、黄金の20年代と言われるバブル景気を経験します。世界の工業生産の4割を米国が占めていて、三世帯あると二台の車を保有していたといわれるくらいに所有がすすんだ時期です。大量生産、大量消費ですね。

フォードがベルトコンベアを使用した流れ作業でT型フォード(1908年-1927年くらいに生産)を大量生産して、自動車を普及させます。お金持ちのステイタス シンボルだった車でしたけど、大衆車が作られたんです。大量生産大量消費の時代です。貧民でもなく、富裕層でもない人たちが増えて、中間層が形成されてきます。ボーイスカウトが誕生したり、写真家のマンレイが、ポートレイト、オブジェを制作したのもこの時期です。
1920年には、ラジオ放送が開始されて、映画では1923年、ニューヨークで初めてサイレントではなくて、発声映画/トーキーが上映されます。チャップリンは1925年の「黄金狂時代」で、かつてのゴールドラッシュを揶揄(やゆ。からかうこと)しています。
1929年、第一回アカデミー賞が決定しました。作品賞はWウェルマン監督の「つばさ」でした。ミッキーマウスなどのディズニー映画も作られています。メジャーリーグベースボールも人気で、黒人のベーブ・ルースがホームラン王になったことは有名です。

とは言っても、資本家、中間層は好景気を謳歌して、現場の労働者、農民には不満が溜まります。収入がそれほど上がるわけでもなく、購買力があがらないので、それを補うために供給過剰になります。薄利多売ですね。これが恐慌の起因です。直接的には株価の大暴落で始まる恐慌ですけど、農業の不振が背景にあったと言われていますね。

カルビン・クーリッジ大統領(共和党1923年-1929年)
この時期、ドイツの賠償金が問題になっていました。フランスのポアンカレー大統領は賠償金を払わないドイツに憤って、ベルギーと共に軍を派遣して、ルール地方を占領していますしね。ドイツとしてはハイパーインフレになっていて、食べるものもない国民がいるので、賠償金どころではないんですけど。
そこで、米国の銀行家のドーズが発案して、ドイツ問題の解決を考えます。このドーズ案の推進をクーリッジはします。連合国側が委員会を設けて、米国人のドーズを委員長に据えます。ドイツによる一年間の賠償金の支払金額を、最初は10億金マルクとして、5年後から25億金マルクとすること。英仏などへの支払いの際に必要な外貨の調達は連合国側の委員会が行うこと。二億ドルの債権をJPモルガンに委託してドイツが発行して、米国がドイツへ融資すること。
要するに、お金が余っている米国が、お金のないドイツに貸すことで、経済を活性化させて、ドイツはそのお金で経済発展して、フランスへお金を返すということです。支払い期限の延長案は認められなかったし、賠償の総額も決まりませんでした。1924年8月に合意して、9月に発効します。
ポアンカレーの後を継承したエリオ左翼連立内閣は、ドイツがドーズ案を受け入れるならば、ルール地方から撤退することを約束します。
連立というのは、複数の政党で内閣/大臣たちを構成することです。エリオは三回、フランスの首相を務めた人です。

この時期、WASPの拡大があります。
White/白人 Anglo-Saxon/アングロ・サクソン系 Protestant/プロテスタント
のイニシャルに由来します。
米国の政治を支配している人たちは大体このグループにいます。
21世紀初頭までに、白人でない大統領はオバマ大統領だけ、プロテスタントでないのはケネディ大統領(カトリック)だけです。もちろんこのオバマさんは、 アングロサクソン系でもありません。女性の大統領もいませんね。Male/Man/男性というのはさらに当たり前だという観念があるので、WASPMとさえ書かれません。

WASPの拡大があると、そうでない人への排斥があります。
1914年以降の第一次大戦での荒廃から逃れて多くの移民が中欧、東欧から米国へ来ます。中でもヒッチコックなどのユダヤ人は映画産業に関わった人が多くて、パラマウント、ユニヴァーサル、20世紀フォックス、ワーナー、コロンビア映画などの会社を作っています。
黄禍論(こうかろん)。黄色人種が禍い(わざわい)をもたらすという21世紀初頭の欧米にも共通する移民排斥論です。白人系の米国人が「奴らは低賃金でも働くから、仕事を奪われる!」と言うんです。
ちなみにヨーロッパでは古代、中世において黄色は道化、子供、身分の低い奉公人くらいしか着ない服の色で、蔑視の対象になる色だったんです。このことがモンゴロイド/アジア系は黄色い肌ではないのに、欧州人から見て蔑視の対象だったので、黄色人種と言われることとつながりがあるのかもしれません。
アジアでは中国皇帝=黄色なので、冊封されて中国の手下とも言うべき古代の日本では、中国皇帝の下の日本国王は黄色ではなく、次に偉い紫色を着ることにしたと言う学者がいます。ただ、隋の皇帝に対して、あなたと対等だという意識を持って手紙に書いた自己紹介「日出づる国の天子」と自称した厩戸(うまやど)の王子/聖徳太子や、蘇我馬子が制定した冠位十二階では、臣下の最高の色は紫で、天皇の色が黄色になったんです。つまり「もう中国の手下はやめた宣言」と言えます。皇帝の臣下の「国王」から、皇帝と対等な「天皇」にしたんです。

この黄禍論を背景にして、ジョンソン=リード法、1924年移民法/Immigration Act of 1924が成立します。日本では排日移民法とも言われました。東南アジア系の移民も排斥されているんですけどね。
それまでは米国の人口の3%までは移民を受け入れることにしていたんですけど、1924年からは割合を減らして、米国の人口の2%までは移民を受け入れることにします。
具体的には、各国からの移民の年間受け入れ上限数を1890年にアメリカに住んでいた各国出身者数の2%以下にするというもので、移民の総数は16.5万人です。米国に家族が長く住んでいる人はビザを取得しやすい、つまり西欧の人ですね。これは、1890年以後に移民の増えた東欧、南欧、アジアの出身者を制限することが目的で、既存の移民・帰化法を修正・追加したものです。
アジア出身者については全面的に移民を禁止する条項があって、アジア移民の大半を占めていた日本人が排除されました。
この結果、日本人は中南米、特にブラジルへの移民をさらに増やします。
以前から活動していたんですけど、組織の目的が明確に白人主義になった1865年にテネシー州で成立したKKK(クー・クラックス・クラン)は、目出し頭巾に白いマント風の格好で有名です。1880年代には摘発などで消滅したんですけど、伝道師が1920年代に復活させて南部に拡大しました。1930年代に過激派が目立つようになったので、支持層が離反して消滅します。これ以降も、KKKを名乗る団体はいくつか登場するんですけど、21世紀初頭の米国の基層は人種融和が支配的な価値観になっていて、白人もマイノリティ化しているので、もう全国的な支持を得ることはないようです。あってもごく一部の人だけです。ただ、積極的な親交には至っていないので、例えば1950年代にも、軍隊で白人と黒人は別の部隊になっています。BLMにつながった白人警官による黒人殺害事件なども起こります。感染症のパンデミックのときにもアジア系の米国人が襲撃されましたね。
白人でない人は政治にはあんまり参加していませんいろいろな妨げがあるんですね。それで文化では活躍しています。ジャズエイジと言われた1920年代には、ルイ・ アームストロングが活躍しましたし、ボクシングにデンプシー、ベースボールではベーブ ルースが投打で活躍しています。
白人系はどうしているかというと、ロスト・ジェネレーション/失われた世代と言われていますね。「老人と海」「武器よさらば」「日はまた昇る」で有名なヘミングウェイ、飲み友達で「グレートギャッツビー」という米国文学史上の不朽の名作を著したフィッツジェラルドなどが有名で、戦争を見てきたから、物質主義の好景気にうんざり、ついていけないんです。それでフランスなどに暮らした人も多かったですね。こうした人たちはパリのアメリカ人とも言われました。 ロストジェネレーションと名づけたのも作家のガートルード・スタインです。

1929年からはハーバート・フーヴァー(共和党)が大統領になっています。

1927年、チャールズ・リンドバーグがプロペラ機のスピリット of セントルイス号でニューヨーク-パリという大西洋の単独無着陸飛行を達成したことを書いて、アメリカ大陸からヨーロッパへと移りましょう。


□□スペイン

1914年、第一次世界大戦が始まりますが、中立を維持しています。
マドリードの中央政府に対抗して、1914年、北東部カタルーニャの人たちは自治連合を結成して、中心都市のバルセロナでは1920年ごろテロ事件が頻発しました。1923年には、バルセロナで市民が大規模ストライキを起こしています。
1918年には南部アンダルシアで農民が決起しています。
1920年にはスペイン共産党が結党されています。
1923年、プリモ・デ・リベラ将軍がクーデタを起こして、1930年まで軍事独裁政権を作りました。

□□ポルトガル

大戦が始まった当初は中立でしたが、途中から連合国側について、参戦します。
1917年-1919年は軍事独裁政権です。

□□ベルギー

1831年にロンドン会議でオランダから独立したベルギーは、英国の主導で英仏普墺露の承認を受けて、1839年に永世中立国を宣言していました。けれど、第一次世界大戦でドイツ軍に侵入されます。
ベルギーは同盟国を持たないので、侵攻されてからでないと、英国軍は前線に向かわないんですね。
ベルギーは永世中立国なんて祖国防衛には無意味で役に立たないと考えます。それで、1919年のパリ講和会議で廃棄しました。もう同盟を組んでもいいという状態です。ドイツとのヴェルサイユ条約では、アフリカのドイツ領東アフリカの一部を、国際連盟から委任されます。植民地ですね。21世紀初頭にはルワンダと言われるこの地域で、ベルギー人は効率よく支配するために、民族の概念を持ち出して分断を図ります。ルワンダ王国時代から支配階層に多かった牧畜をしている少数派(だいたい15%)ツチを優遇して、農耕をしている多数派のフツを管理させます。共にバントゥー系で、言語も宗教も変わりません。民族と言えるほどの違いがあるのかどうかは決着がついていません。融和を図りたい21世紀初頭のルワンダの公式見解は、「民族ではない」です。
ベルギー支配時代には、あえて二つの民族が造られて、ツチはエチオピアから来た白人系で、背が高くて鼻が細い、フツは背が低くて鼻が広い黒人系という伝説も利用されます。個人的な差異の方が大きいんですけどね。21世紀の日本で弥生系、縄文系を分けるようなもので、混血していない人の方が稀で分けることはできないし、分断をして憎しみ合うようにする以外の意味もありませんね。

□□ネーデルラント/オランダ

中立でしたが、第一次世界大戦でドイツ軍に侵入されたので、否応なく連合国側で参戦しています。
基層では、白と黒のコントラストの強さに特徴のある版画家のメスキータが、エッシャーを指導して、好意的に評価しています。エッシャーはのちに騙し絵の手法を用いたメビウスの輪のような建物の絵など、特異な絵を描いていきます。

□□英国

1901年-1910年、エドワード七世(ヴィクトリア女王の子)の治世です。ハノーヴァー朝ではあるんですけど、ヴィクトリア女王の夫アルバート公がドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家/House of Saxe-Coburg-Gothaの出身なので、ザクセン=コーブルク=ゴータ王朝と言われます。受験レベルでは、ハノーヴァー朝ということになっています。
1908年4月に成立した自由党のアスキス内閣(-1916.12/5)が大戦期にあたります。
1910年、ジョージ五世が即位します。
1914年、ドイツが対フランスの宣戦布告をして、永世中立国のベルギーを通り侵攻します。これを受けて英国は中立国への侵入は見逃せないとして対ドイツの宣戦布告をします。8/23日英同盟を口実に日本が対ドイツの宣戦布告をして、青島を攻撃していますね。英国は本土防衛のために、計画とは違って4個師団に減らして欧州へ軍を派遣しています。
ザクセン=コーブルク=ゴータ家の血筋なので、ジョージ五世は、国民から「ドイツ人」と言われていました。
英仏は1915年の密約/ロンドン条約でイタリアを取り込んでいます。1915年英国の客船ルシタニア号がドイツ軍に撃沈されています。

1915年、第四次選挙法改正
男性21歳、女性30歳
と差があるんですけど、普通選挙法にはなりました。何が普通かと言うと、資産の多寡によって選挙権を制限されないということですね。お金持ちは選挙権があるけれど、貧乏人は選挙権がないことは、普通ではなくて差別だという考えがあるんです。歴史学的に「男女差別はあっても普通選挙」と言っていますけど、これもいづれは変化する用語でしょうね。男性普通選挙という表現をする学者もいます。
英国の選挙法では、女性は戸主/世帯主か、世帯主の妻であることが条件でした。世帯主は一人なので、例えば姉(世帯主)の家に一緒に暮らしている妹には選挙権は認められません。義理の息子(世帯主)の家に一緒に暮らしている女性にも認められません。
男性は完全な普通選挙になりました。

1916.6ソンムの戦いで英国が戦車を史上初めて使用します。
1916.5-6月のユトランド沖海戦以降、ドイツ海軍は劣勢となっていきます。
1916.12からは、ロイド・ジョージ連立内閣(-1922年)です。米国のウィルソンとほぼ同時期ですね。
1917年2月のドイツの無制限潜水艦作戦宣言と開始で、米国と中南米諸国が参戦すると、英仏露の三国「協商」側は「連合」を称するようになります。
1917年、英国のハノーヴァー朝/ザクセン=コーブルク=ゴータ家はドイツ系の名前だから、国民感情として宜しくないと考えて、王宮のあるウィンザー城に因んで、ウィンザー朝に改称しました。

連合側ではロシアに革命が起こります。大英帝国は帝政国家で、帝政を廃止するロシア革命に影響されて、英国市民が帝政廃止を言い出したら大変だから、ソ連内の反革命運動を支持します。そして、革命への介入をするんです。ソヴィエト打倒とドイツ牽制の為に、連合国側はシベリア出兵を行いました。英仏主力はバレンツ海のムルマンスクへ出兵しました。1918.11ドイツ革命が起こったドイツとコンピエーニュの森で休戦条約を結ぶと、理由の一つであるドイツ牽制は果たしたと考えて、1919年のパリ講和を機に英国はソヴィエトを放置したまま撤兵します。

大戦後は、特に米国から融資を受けていたので債務国へ転化します。ドイツに対しては、「レモンの種が泣くまでドイツを搾れ」と高額な賠償金を要求しました。ドイツから商船を奪取もしています。さらにドイツからはドイツ領東アフリカの大半/タンガニーカ(タンザニア)を委任統治の名目で獲得しますし、太平洋のナウルも獲得します。オスマン帝国からはイラク、ケラク(ヨルダン)、パレスティナの委任統治権を獲得しています。英連邦の南アフリカはドイツ領だった西南アフリカ(ナミビア)を領土に加えました。
英連邦のオーストラリアがニューギニア北部、ビスマルク諸島をドイツから奪って委任統治をします。
大戦後は保守党と労働党の二大政党制に転化します。

1922年、エジプトが独立します。英国はスエズ地帯への軍駐留権、エジプト防衛権は保持します。

1924年1月-8月、労働党のマクドナルド内閣が成立します。初の労働党内閣です。自由党と連立をするんですけど、これは第一党の保守党に対抗するのが目的でした。
一年もたずに辞めたんですけど、「あなたは辞めることができるが私は辞めることができない」と元首/国王に言われました。このやり取りは乃木大将と明治天皇、カブールとエマヌエーレ二世にもあります。
1924年、革命を起こした人たちが作ったソ連を正当な政府、国家として承認します。

1923年、英帝国を英連邦と改称します。1926年イギリス帝国会議で、英連邦を正式な呼称にします。「もはや帝国ではない。あなた方自治領は植民地ではない。内政も外交も全て英国と対等だから結合しよう」と申し合わせたんです。
レーニンなどのレッテル張りで「帝国主義は帝国が行う悪事」のイメージが流布したので、帝国と名乗ることをやめたんです。自治領はドミニオンと言うようになります。すでにロマノフもハプスブルクもオスマンもドイツも帝国は瓦解したので、残るは大日本帝国だけです。
カナダは1867年に自治領化、豪州は、1901年、ニュージーランドは1907年、アイルランド自由国は、1922年に自治領化します。
南アフリカは1910年に自治領化。1961年の共和国化に伴って、連邦/コモンウェルス オブ ネーションズを脱退します。
ニューファンドランドは1917年に単独の自治領になるんですけど、1949年にカナダの一州になって、21世紀には存在しない国家ですね。
南アフリカも含めてドミニオン/自治領の支配層は白人なんですが、アイルランドだけはケルト系で、他はアングロ系/ANGLO=ENGLAND系です。
ドミニオンはヴィクトリア女王(1837年-)の在位50周年を祝った1887年からイギリス植民地会議の構成メンバーとなっています。この会議は、1907年からは帝国会議と言っています。この時点で英国とは対等ではありません。独自の海軍を持てないドミニオンもあります。もちろん非白人系は帝国議会に議席を持たず、この時点では植民地のままです。

英連邦と称する決議の成文化は五年後の1931年ウェストミンスター憲章です。the British Commonwealth of Nations を形成します。英連邦や、イギリス領コモンウェルスと訳しています。イングランドと対等になるんです。

こうして結合強化をしたことで、第三植民帝国と称されます。第一植民地帝国は17-18世紀の北米植民地時代のことですね。ピルグリム・ファーザーズに始まって、七年戦争後の1763年に完成と言われます。1783年に米国を完全に失うことで消滅しました。第二植民地帝国は19世紀半ば、ヴィクトリア女王の治世で、世界の工場・パックスブリタニカの時代のことです。香港獲得やインドの直轄統治で絶頂期です。南アフリカ戦争の苦境で衰退して、日英同盟など矢継ぎ早に同盟を結ぶことで終わりました。

1944年からはイギリス連邦首脳会議を開催します。
そして、1949.4(イギリス連邦首脳会議で)イギリス領コモンウェルスから、単にCommonwealth of Nations/コモンウェルスと改称します。
このときに、翌年の1950年にインドが共和制になることがわかっていて、協議をしています。1950年にインドが共和制を採用して、そのインドのコモンウェルスへの残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は連合体の必要条件から除外されることとなります。同君連合以外の共和国/民主国家も連邦参加が可能となったんです。
メンバーはコモンウェルス会議を開催します。

英連邦は、第二次大戦後はただの「連邦/ユニオン」と言います。連邦の中の小さなグループとして英連邦王国があります。これは英国王を元首としたグループで、カナダ、豪州、ニュージーランド、バハマ、ツバル、ジャマイカ、英国などが加盟しています。英国王代理の総督が派遣されて、その下に首相がいるんです。ただ、形式的なもので、総督の人選も当事国意志が尊重されています。
1928年、保守党のボールドウィン内閣の時期に、第五次選挙法改正でようやく完全な男女平等21歳以上の普通選挙権を市民は獲得しました。
この時期から、労働党・自由党・保守党から、労働党・保守党の二大政党が英国の政治を率いていきます。

1929年、マクドナルド労働党政権は単独です。連立ではありません。これはロシア革命とソ連誕生の影響で、社会主義に近い労働党が他の党から避けられたということもあります。連立を組みたくないんです。
次の時代ですけど、1931年、保守党と自由党の連立内閣で、労働党を離れて無所属になっているマクドナルドが三回目の首相をします。

アイルランドのことを書きます。
1916年、ダブリンでイースター蜂起が起きます。きっかけは内的には自治法の延期を不満とするもので、外的には英国の対ドイツ宣戦布告で、英国がアイルランドに力を割けない間に独立しようと考えたものです。アイルランド分離独立を目指して、シンフェイン党(1905年グリフィスが中心になり結成)主導で行われた対英の決起ですけど、武力で抑え込まれました。パトリック・ピアースは教師で、中心人物として活動したんですけど、英軍はこの人を捕らえて殺しました。マイケル・コリンズは逮捕されたんですけど殺されず、釈放後にシン・フェイン党に加わっています。
1919年、アイルランド共和国として独立を宣言します。
1920年12月、英国議会でアイルランド統治法/アイルランド新自治法が成立します。アイルランド北部のアルスター地方で、プロテスタントの英国人系がアイルランドからの分離を主張したので、英国はこの人たちに議会と政府を認めたんです。つまり、アルスター地方の九州のうち、6州はアイルランド議会で定める法の適用を受けないと規定したんです。アイルランドを北アイルランドと南アイルランドに分割して独自の議会を認めて、それぞれの自治権を認めたと言えます。
これで残りのアイルランドが反発して、「すべてが我らのものだ」と訴えるんです。
結局、アルスター地方9州のうち、6州を除く全26州を自治領としました。
映画の「麦の穂を揺らす風」(ケン・ローチ.2006年)がこの時代を舞台にしています。
1921年、イギリスアイルランド条約に調印することで、南部26州はアイルランド自由国、北部6州はイギリスへ加わるという合意がなされました。北部には160万人いて、3分の2はプロテスタントで、政治、経済、社会的な高い地位もあります。
アイルランドでは、賛成派のコリンズは暫定政府の首相になって、反対派のデ・ヴァレラなどと内戦になって、コリンズは殺されました。

1922.12/6条約が発効して、英連邦内自治国としてアイルランド自由国が独立しました。
1922.12/7北アイルランドがアイルランド自由国から離脱をして、英国へ吸収されます。
北部アイルランドを加えたことで、21世紀初頭の呼称である大ブリテンおよび北部アイルランド連合王国/大ブリテン北アイルランド連合王国/グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国へ改称します。

基層の人たちを書きます。バートランド・ラッセルは、タイプ理論で有名です。存在しないものの真偽の扱いも研究しました。木製の鉄は酸っぱいというありえないことについて考えます。分解して考えるんですけど、「xは木製の鉄だ。xは酸っぱい。だからxは存在する」。だからという論理は通じないので、最後の文は偽です。後の時代ですけど、1955年に、ラッセル・アインシュタイン宣言で、反核兵器の姿勢を表明します。
ウィトゲンシュタインはオーストリア生まれで、英国で活躍した人です。「言語の限界は世界の限界だ。語れるものは世界だ」と考えました。言語は時、空間、状況ごとにルールに違いがあると考えました。「本読まない?」「うん、読まない」「いや、読まん」
本読まない?は「本を読もうよ」「あなたは本を読みますか?」という二つの解釈があるし、うん、いやも結局読まないという否定の返事になっています。そういうことを考えた人です。
1920年代にはアイルランド出身のジェームズ・ジョイスが「ユリシーズ」を書いています。アイルランドのダブリンの1904年6/16のことを書いています。有名な本ですけど、読み通した人は少ないと言われています。「源氏物語」のようなものかな。アメリカの雑誌で連載されて、その後に加筆されて、パリで出版されます。
フランス人のマルセル・プルーストが「失われた時を求めて」を書いたのもこの時期です。
フェビアン協会を設立したバーナード・ショーは、この時期「人と超人」を書いています。大戦があったので、人道的な正義を主張する文学が盛んになった時期です。デーヴィッド・ハーバート・ローレンス/ DHロレンスは「チャタレイ婦人の恋人」(1928年)を書いています。大戦で下半身不随になったので、妻コニーに「他の男との間に跡継ぎを作れ。作ったら、その男とは別れろ」と言うんですけど、コニーは本気で社会階層としては低いオリバーを好きになってしまうというあらすじです。労働運動も激しくなっていますし、ソ連も誕生しているしで、階級闘争に敏感な世論は、この本には猥褻(わいせつ)な部分もあったので、ローレンスを非難しました。日本も含めて翻訳された国では、発禁処分になったりしています。

□□フランス

1914.8/3ドイツが対フランスの宣戦布告をします。8月にフランスは近代以降では初の毒ガス/催涙ガスをドイツに対して使用しています。ドイツが塩素ガスを使用するより前です。受験レベルではドイツが初めて使用したという出題が多いと思います。
フランスの第十七計画は、アルザス・ロレーヌ奪還のために中央突破をするというもので、フランスはドイツの右翼/ベルギー侵攻軍が強いという報告は無視します。計画に固執して、ベルギーを通るドイツ右翼軍を無視したために広大な領土を占領されて、包囲されて殲滅寸前でした。マルヌの戦いでようやく計画の誤りを認めます。ドイツ軍のモルトケに対峙するフランスのジョフルは、西部戦線を9月のマルヌの戦いで膠着状態化させています。ドイツ右翼が進撃を止めて、フランスは中央軍から引き抜いた勢力をも右翼に対峙させたことで、フランスは敗戦を免れました。塹壕戦の長期化による死傷者の多数化を招いたとも言えますね。
1916年には、サイクス・ピコ協定を結んでいます。英国人の中東専門家サイクス、フランス人外交官ピコが原案を作成して、後でロシアも参加します。オスマン帝国分割の協定です。「フランスはシリアを分割して持っていっていいよ」という条項を英国が許したことは、フサイン・マクマホン協定と矛盾しています。

1916年、フランスの将軍ペタンがヴェルダン要塞を死守しています。843年にもヴェルダン条約がありましたね。フランク王国の時代です。
ロシア革命に対しては、少数ながらフランスもシベリア地方のウラジオストクへ出兵しました。主力の1500人はスカンディナビア半島と、ソ連の長い湾曲したユージヌイ島の間のムルマンスク/たんこぶのようなコラ半島の付け根へ出兵しています。
1917年からはクレマンソー首相
1918.11/11パリ北方のコンピエーニュの森で休戦条約を結びます。
1919.1パリ講和会議-1920.8
1919年第一次大戦後の成果として、フランスが獲得するものは、
普仏戦争でフランスが失ったアルザス、ロレーヌ、さらにトーゴとカメルーンの一部を獲得、国連の名のもとにザール地方を15年管理(実質は占領)、これは全てドイツの領土でした。オスマン帝国からアナトリア半島南部のキリキア地方を獲得、シリア・レバノンは国連から委任されて統治。ロマノフ朝に貸していたお金はロシア革命で取り立て不可能になって、フランスはお金を貸す債権国から、お金を借りる債務国へ転化しました。戦費調達で、特に米国に対する債務国ですね。
1920年セーヴル条約-サンレモ会談の案に則って、英国が占領したオスマン帝国領のシリア・レバノンを英国から譲られます。
このセーブル条約の基礎は1920.4の英仏のサン・レモ会談の案にあります。1917年にロシアで革命が勃発して、サイクス・ピコ協定から抜けました。1917.11にこの秘密協定をソ連政府が暴露したので、英仏は再び秘密裏にオスマン帝国の分け前を相談しなおしたんですね。

戦後、ドイツを恐れるフランスですけど、米英がフランスに対して保障条約を結ばないので、ドイツに対抗する力を得るためにフランスはポーランド、ベルギー、対ハンガリーでチェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアと同盟を結んでいくことにしました。

1920年、社会党から分派した人たちが、1921年、フランス共産党を設立します。これはコミンテルン/第三インターナショナルの支部で、「モスクワの長女」と言われるほどソ連寄りの姿勢を取ることになります。
1922年右派のポアンカレー挙国一致国民内閣/国民団結内閣/国民内閣が成立します。もちろんこれは渾名で、新聞記者が名付けたり、政治家が自称したりするんです。通常は「ポアンカレー内閣」です。今後、「戦時内閣」などと出て来るのも同じことです。日本だと「小泉郵政民営化内閣」「岸田 話を聞く内閣」のようなものですね。ポアンカレー内閣は右派=国粋主義で、ドイツからの賠償金で復興を計画しています。外相はブリアン です。けれど、ドイツは支払い猶予求めるので、それならば実力行使とばかりに、1923年、ベルギーを誘って、ドイツの鋼業資源地帯ルール地方を占領します。ドイツ人もストライキなどをするので、ルール地方の石炭などはほとんど手に入らないんですけどね。
ポアンカレーの挙国一致国民内閣は平価/為替レートの切下げで経済危機を乗り切って、経済を安定させます。平価切下げは自国通貨の価値を下げること、日本なら円安にすることですね。輸出価格を下げられるので、外国人は「アラ~、フランスの製品は安いじゃないのお」と、どんどん買うので、輸出が増えます。平価は、GOLD/金と比べたときのフラン、ドルや円の平常時の価値と考えればいいと思います。
経済が安定したフランスは「未曽有なる繁栄」と称する時代です。
1924年エリオ左翼連立内閣が成立します。連立は、複数の政党で内閣/大臣たちを構成することです。米国提案のドーズ案を、ドイツが受け入れるならば、フランスはルール地方から撤退をすると約束します。

基層の人たちは何をしているかというと、1913年、ローラン・ギャロスがフランスからチュニジアまで8時間飛行します。これは初めての地中海飛行とされています。フランス空軍のエースパイロットで、戦闘機の機銃をプロペラ付近に設置して、命中率を上げたことでも知られています。ただ、撃墜されて亡くなるんですけどね。この人の名は、テニスの四大大会のひとつ、ローラン・ギャロス競技場で開催されるローラン・ギャロス・トーナメント/全仏オープンとして残っています。
ラヴェルが「ボレロ」を作曲したのもこの時期です。

1919年、米国人のシルヴィア・ビーチが英米文学の専門店シェイクスピア アンド カンパニー書店をパリのセーヌ左岸に開きます。お金のない作家は寝泊まりして、少し手伝って、部屋で小説を書いたり詩を書いたりできます。ジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」を刊行したのもこの書店です。出版社もしていたんです。21世紀初頭にもあって、パリの名所になっていますね。興味のある人には「シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店」という本があります。
マルセル・プルーストが「失われた時を求めて」を書いたのもこの時期です。ロマン・ロランは「ジャンクリストフ」で、大戦を舞台にして、理想を喪失した社会を批判しています。

セザンヌやピカソが有名になったきっかけを作ったとも言える米国人のガートルード・スタインはサロンを開いていますが、「ワインズバーグ オハイオ」のシャーウッド・アンダーソン、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、詩人のエズラ・パウンド、「サン・ルイ・レイの橋」や戯曲「わが町」のソーントン・ワイルダーなど、米国からやってきた作家たちの世話をしていました。
工芸ではアールデコを代表するJEリュ―ルマンは家具、花瓶などの装飾デザイナーとして活躍しています。アンリ・ラパンがセーヴル焼きの芸術顧問として陶磁器のデザイン、室内装飾に活躍していたのもこの時期です。

絵画では、1910年代は大戦に対する反応で、「どうせみんな死ぬ!」と虚無を抱えて、既成秩序の破壊などを求めるダダイズム/ダダ(とくに意味を持たない言葉です)が流行しました。マルセル・デュシャンが代表とされています。フランス、スイス、ニューヨークなどで同時発生した現象です。日本では作家の辻潤、吉行エイスケがダダと見なされていますね。
1920年代はエコール・ド・パリ。パリに集う雑多な画家たちのことです。外国人に限るわけではないし、派閥を形成したわけでもありません。ユトリロ(フランス)、ローランサン(フランス)、モディリアーニ、シャガール、スーティン、パスキン、キスリング 、レオナール・フジタ(日本)などが有名です。
1924年、アンドレ・ブルトンが「シュールレアリスム宣言」をすると、各地に波及します。非現実の夢や偶然、無意識を重視したもので、抽象画に近づくジョアン・ミロ、ありえない絵のダリ、マグリット、他に、マックス・エルンスト、エドガー・エンデなどがこの系譜に連なります。
アンリカルティエ・ブレッソンも一時期シュルレアリスムの写真家として活躍しました。
アンリ・ベルクソン/ベルグソンが唯物論を否定して、精神世界の独立を訴える「創造的進化」を著しました。

□□イタリア

ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世の治世です。
大戦初期、イタリアは中立ですけど、1915年に英仏がロンドン条約という密約で、「戦後に、オーストリア国境地帯のトレンティーノと南チロル、さらにトリエステ、イスキア半島、南部のダルマティアなどの「未回収のイタリア」を譲渡する」という約束をイタリアにします。「それならイタリアは英仏に味方しよう」ということで、三国同盟を破棄したイタリアはオーストリア、ドイツを攻撃しました。
ロシア革命に対しては、イタリアも王政なので、反革命運動を支持します。ソヴィエト政権打倒とドイツ牽制の為に、干渉戦争にも参加しています。
1919年1月からのパリ講和会議の結果、オスマン帝国から小アジア南部の中部を獲得するんですけど、すぐに返還します。南チロル、トリエステは獲得しますけど、約束と違って、英仏はイスキア半島、南部のダルマティアをイタリアにくれないんです。
フランスは「わたしたちのボスの米国が、イタリアに領土割譲するなと言っているので我慢してくれ」と行ってきます。

イタリア人には不満が溜まります。
フィウメは、川という意味です。クロアチア語でも川を意味するリエカと言って、21世紀初頭にはクロアチア領土です。アドリア海の最奥に位置するフィウメはヴェネツィア共和国の領土だったから、1900年代の初頭時点でイタリア人が多いんです。
その後、ハプスブルク家の領土になったんですけど、1861年にイタリア王国が成立すると、イタリア王国は、フィウメもイタリアに統合されるべき地域に該当する、自分のものにしたいと思っていたんですね。これが手に入る約束でフランス側で参戦したのに、ふたを開けてみるとやっぱりくれない。それは怒るに決まっています。「約束が違うじゃないか」ということで、1919年、詩人のダヌンツィオが義勇兵と共にフィウメを占領します。イタリア国内からの説得で撤退はしますけど、その後、国際連盟により、フィウメは自由都市になりました。つまり、どの国家にも属さないということです。
1924年、イタリアはセルブ・クロアート・スローヴェン王国と交渉して、恐喝して、フィウメを獲得しました。

ベニト・ムッソリーニは当初は社会主義者で、イタリア社会党の日刊機関紙「アヴァンティ(「前へ/前進」)」の主筆でした。当然、イタリア社会党は労働者団結を目指す国際主義だから反戦なんです。それで、大戦時に参戦を訴えて除名されたベニト・ムッソリーニは、国粋主義者へと転向します。
1919年3月、ムッソリーニはミラノで、国粋主義の団体である戦闘団ファッシを結成します。7月にはミラノでファシスト党/ファシスタ党fasistaと改称します。右派なので、左派を非難します。軍備拡張や、領土拡大も訴えます。そうすると、軍人も「そうだそうだ。わかっているな」と思うんですね。

1919年の選挙では社会党が議席の3分の1を占めて、第一党になりました。
ただ、イタリアは戦後に賠償金を受け取れずに不況になっています。戦時経済から平和経済への移行も失敗します。軍需産業が縮小して失業者が増加するのに、帰還兵が仕事を求めるので失業者がたくさんいるんです。
1920年にはイタリア北部の工業地帯で、労働者が工場主を追い出して自主管理を始めます。オーナー、経営者の指示なく労働をするし、政党の傘下に入ったり指示を受けたりしないということです。
労働者を保護するはずの社会党の政府はこれを弾圧したので、政権基盤が揺らぐんです。

第一次大戦後、生活苦、社会主義の伸張、労働者の工場占拠、農民による大地主の農地占拠などがあります。左派的な動きですね。工場の持ち主である資本家、大地主は左派の動きを警戒します。
それで左派の革命よりは、ナショナリスト/国粋主義のムッソリーニをましだと考えた資本家・地主や軍人が支持するんです。対抗するのは労働者や農民が支持する社会主義者のはずです。

1921年、右派のジョリッティ首相に対して、左派はイタリア共産党を結成しました。
ムッソリーニは自分の活動は地方のための活動ではなくて、国家のための活動であるという主張を持ち出して、「それを束ねるのは地方のボスたちではなく自分である」と言って、全国ファシスト党を結成します。そして指導者(ドゥーチェ)と呼ばれるようになりました。
自由主義政府は少数勢力で思うように活動できないので、議会も機能しません。それで、政府の強化を求める声が聞こえだすと、ファシスト党を与党に加えました。

テロの地ならし→強い政府を世論が要求→与党に軍閥/極右を入れる→軍人/極右の首相就任→文民統制の破局、マスコミ統制→威勢のいいことを言うので国民熱狂→隣国が敵国であることを誇大宣伝→まず近隣国に攻め入るというパターンで国際的に孤立。
こういう例はたくさんあります。第二次世界大戦期の日本もそうですね。

1922年ローマ進軍、と言ってもローマの近郊まで汚れた服をまとった人たち26000人がぞろぞろ歩いて行っただけです。別名黒シャツ隊と言われるんですけど、服を揃えるお金もなくて、汚い恰好だったので黒いということなんだと思います。ローマにいる政府、国王に、武装した示威行動で圧力をかけたと言われています。これに触発されてマネをしたのが1923年のヒトラーのミュンヘン一揆/ヒトラー一揆です。

自由党の1922.2-10ルイージ・ファクタ内閣がムッソリーニ、左派の動きにも対応できないので、ローマ進軍を受けて内乱や革命を恐れたヴィットーリオ・エマヌエーレ三世はムッソリーニを首相に任命しました。強い政権があれば内乱、革命を抑止できると考えたようです。
つまりクーデタではありません。合法的なんです。35議席でしたけど、ファシスト/ファシスタ内閣が成立します。連立政権で、一年間の期間限定で独裁権を掌握します。期無限のヒトラーとはここが違います。ムッソリーニは外相も兼ねています。
そして、1924年にフィウメを領有するんです。
1924年の選挙、535議席中375議席を獲得します。ただ、脅迫したり、暴行したり、殺害したりで、野党の選挙は妨害されています。
1925年、独裁制を確立します。この時点で、全体主義と言われます。
ファシスト党の最高意思決定機関のファシスト(大)評議会の決議は憲法上有効とするという、一党独裁を確立するんです。首相は依然としてムッソリーニですけどね。ファシスト/ファシズム評議会は1928年以降は首相・党・議会から構成される国家の最高機関として一党独裁の牙城と化しました。選挙制限もするし、自主管理をやめさせて、労働組織を確立します。

ファシスト党はナチ党のようなものと思って差し支えないと思います。ファシズムは1910年代から1940年代の一党独裁や、政党のない全体主義的独裁国家を言います。日本では政党解散で大政翼賛会だけになったから、日本はファシズム国家だったと言うこともできます。ただ、天皇という抑制機関/統治装置があったので、大政翼賛会や軍部の独裁ではなく、ファシズム国家ではないとも言えます。ややこしいですね。

1913年にオスマン帝国から独立を承認されて、公国となって、その後1925年に共和国化したアルバニアを、イタリア王国は1927年に保護国化します。これは植民地の獲得ですね。外国に目を逸らして、政権への不満を抑えて支持を獲得する目的です。アルバニアとしてはセルビア主義のセルビアと国境問題を抱えているから、イタリアに保護してほしいということでもありました。アルバニア人が多いコソヴォはセルビアにとられてしまったからですね。アルバニアはこの状態で1928年、ゾグー一世が国王に就任します。

□中欧(ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア)

□□ドイツ

オーストリア・ハンガリー二重帝国/ハプスブルク帝国と同盟を結ぶドイツ帝国は、セルビアに協力するロシアへ宣戦布告をして、さらにルクセンブルクへも侵入します。8/3、フランスに宣戦を布告します。
戦前に立てていたドイツのシュリーフェン計画では、フランスの正面を避けてベルギーを通過した右翼がフランス軍を包囲殲滅して、だいたい40日でパリ入城すると、引き返してロシアを叩くというものです。ベルギーはドイツ軍の通過を拒否したんですけど、ドイツは侵攻しました。英国は中立国への侵入は見逃せないとしてドイツに宣戦布告をします。ドイツ(モルトケ将軍)、フランス(ジョフル将軍)の西部戦線は9月、マルヌの戦いで膠着状態に陥りました。どちらの優位もなく停滞して打開策がない状態ですね。
東部は8-9月にドイツ(ヒンデンブルク将軍)、ロシア(レンネンカンプ将軍)がタンネンベルクの戦いでロシア軍を壊滅させました。
8/23日英同盟を口実に日本はドイツに宣戦布告をしてきます。中国にあるドイツの青島が攻撃されました。
ドイツは海軍艦2隻をオスマン帝国領海に入らせると、オスマン帝国船籍ということにして、乗務員はドイツ人のままで勝手にロシアを攻撃します。これで、オスマン帝国はドイツ側での参戦余儀なくされました。
1915年-1916年の中期に入ると、1915年4月、ドイツ軍はベルギーのイープルで連合国側に史上初めて塩素ガスを使用します。これ以降、1915.12月には呼吸器に影響のあるホスゲンガスを初使用します。ガスマスクが普及すると、皮膚にダメージを与えるマスタードガスをイープルで1917年に使用します。ガスマスクでも防げない催涙ガスが開発されたんです。イープルに由来して、イペリットガスと言われるようになりました。ちなみに、松本サリン事件や、東京の地下鉄サリン事件で使われたサリンを1938年に開発したのはドイツです。
1915.5ルシタニア号事件-英国船籍ルシタニア号をドイツ軍が攻撃して沈没させた事件で、1000人以上の乗客を殺しました。米国人も含んでいます。1916.3にはサセックス号事件を起こしています。こうしたことがあったので撤回したのが無制限潜水艦作戦宣言です。
1916年5月にドイツはSussex pledgeと呼ばれる宣言を出します。潜水艦による武装商船への無警告攻撃を取りやめることにたんです。
1915年にはロンドン秘密条約があって、未回収のイタリア、アドリア海の制海権の獲得を条件に、イタリアがドイツを裏切っています。
1916.6ソンムの戦いで、歩兵では突破できない塹壕を越えるために英国が戦車(マーク1)を史上初使用します。ドイツにシンパシーを感じていたオーストリア人のヒトラーはどさくさにまぎれてバイエルン軍に志願して、ドイツ軍として参戦しています。
1917.2無制限潜水艦作戦宣言を再開します。
1916.5-6月のユトランド沖海戦(英独)以降、ドイツ軍は劣勢となります。1917年2月、ドイツ軍は無制限潜水艦作戦宣言の再開をします。そうすると米国と中南米諸国が参戦しました。三国協商側(英仏露)は連合を称します。連合側ではロシアに革命が起こったので、1918.3ブレスト・リトフスク条約を結んで、ドイツはロシアと休戦します。
これで西部戦線に集中できます。
1918.7米軍が本格的に参戦してきて、9月にブルガリア、10月にオスマン帝国、11月にオーストリアが降伏します。
1918.1軍需労働に従事する人100万人の反戦ストライキ起こりました。
11月には、もう同盟していた国は降伏してドイツだけが戦っています。敗退は決まっているし、戦争はうんざり、さらに出兵を拒否して拘留された軍人の移送先では、「この人たちを釈放しろ」という動きもあります。本格的な革命の発端は1918.11/3キール軍港での水兵叛乱です。これにデモ隊も加わって、ソヴィエト/評議会のドイツ版であるレーテ/労兵協議会(「労」働者「兵」隊の協議会)が結成されます。

1918.10月、連絡兵だったヒトラーは英国軍の毒ガスで一時的に失明して、入院しています。
11/9ベルリン革命/ベルリン暴動
臨時政府が共和国(民主制ということ)宣言をします。左派から始まったけれど、大衆政党となっていたドイツ社会民主党のエーベルトが首相となります。
1918.11/10キールやベルリンでのドイツ革命で、皇帝ウィルヘルム二世はオランダ(かつての神聖ローマ帝国領)へ移動して、退位を発表します。ドイツ帝国は滅亡しました。
1918.11/11コンピエーニュの森(フランス)で休戦条約を結びます。
11/18ヒトラーが退院します。

革命運動は続いています。

1919年1月パリ講和会議開催-1920.8
その結果、1919.6/28ヴェルサイユ条約を結びます。
内容は
賠償金-1921年に1320億金マルクに決まります。
海外植民地の放棄-太平洋では、赤道以北は日本の委任統治となります。清から租借していた膠州湾(中心都市が青島)は日本に移ります。 赤道以南はだいたいがオーストラリアの委任統治、ナウルは英国、オーストラリア、ニュージーランドの委任統治、西サモアはニュージーランドの委任統治です。

皆伝24 ドイツ領太平洋の島の委任統治 - コピー

アフリカも英仏ベルギー、ポルトガルの領土になりました。西南アフリカは21世紀初頭のナミビアのことで、英連邦内の自治国だった南アフリカ連邦の領土になりました。南アフリカは1931年に独立国になります。

皆伝24  ドイツ領アフリカ獲得 - コピー

アルザス地方・ロレーヌ地方はフランスへ譲渡、ポーゼンと西プロイセンはポーランドへ譲渡します。ここはポーランドがバルト海への出口として求めていたところで、海への通路ということで、ポーランド回廊と言われます。
これはドイツ領土が東西に分断されたことを意味します。第二次世界大戦後もドイツは西ドイツ、東ドイツに分断されますね。
紫色で残った旧東プロイセンは飛び地になります。ケーニッヒスベルク(21世紀初頭のカリーニングラード)を含む地域です。東プロイセンのメーメルは国際管理になります。
モンシャウ・オイペン・マルメディはベルギーへ譲渡します。地図で白と書いてあるところです。

皆伝24 ヴェルサイユ条約 ドイツ周辺 - コピー


ユトランド半島を三分割すると中部にあるシュレスウィヒ地方にはデンマーク人が暮らしています。かつてデンマーク戦争/シュレスウィヒ・ホルシュタイン戦争でドイツが奪った地域ですけど、今回、住民投票でシュレスウィヒ地方の北部はデンマーク領土へ移ります。
西プロイセン内のダンツィヒは自由都市となって、国際開放されます。ユトランド半島の東部にあるキール港も国際開放されます。
1920年1月ヴェルサイユ条約発効と同時に発足したのが国際連盟です。
地図で赤く塗ってあるザール地方は、その国際連盟が15年管理します。実際はフランスが占領しています。15年後に、フランスかドイツか、どちらに帰属するかは住民投票で決めることにします。15年後、投票で90%以上の人がドイツ領に復帰することを選びます。
ライン左岸(つまり西岸)は国際連盟が15年間保障占領して、その後撤兵して返還すると決まります。実際は、連合国軍であった英仏ベルギー米国が保障占領しました。保障占領は、ドイツに武装放棄を約束させても信用できないので、フランスなどの安全を保障するために強制的に約束を守らせるために占領することです。パリ講和会議ではたぶん米軍も保障占領に参加することを決めています。国際連盟に非加盟で、ヴェルサイユ条約に参加した代表者は署名したけれど、その後、アメリカ議会はヴェルサイユ条約を批准しませんでした。けど、アメリカ軍は占領に参加しています。
署名は代表者がサインを書くことで、調印はハンコを押すことで、批准は持ち帰って、本国で議会/国王が承認することです。そうしてようやく効力を持つ、発効するんです。
1935年には撤兵するという規定ですけど、実際に1929年のハーグ会議で、英国がドイツの賠償金の低減、英仏軍のラインラント撤兵を提案しました。英国軍は1929年末までに、フランス軍は1930年6月にライン左岸から撤兵しています。
その後、1936年にヒトラーの指示でラインラントの再武装とドイツ軍の進駐があります。

ドイツの強大化を恐れたフランスの主張で、オーストリアとの併合も禁止されます。
軍備制限もあります。空軍禁止、徴兵禁止です。すべての軍備放棄ではない事に注意しましょう。それが第二次世界大戦後の日本とは違います。
ユトランド半島西部の沖合で、オランダに近い ヘルゴランド島の武装禁止。
ライン地方/ラインラントの武装禁止。ライン川の西岸は既に占領されていますけど、右岸は占領されていません。ライン川から50㎞圏内は武装禁止とされました。
ラインラントはライン川流域の意味で、ロレーヌに接するカールスルーエからオランダ国境までを意味しています。第二次世界大戦後、ドイツにおける行政区の見直しが行われて、ラインラント=プファルツ州、ノルトライン=ヴェストファーレン州(ルール地方を含みます)などを構成する一地域となります。 主な都市はカールスルーエ、シュパイアー/シュパイエル、マンハイム、マインツ、コブレンツ、トリーア/トリエル、ボン(西ドイツの首都)、アーヘン、ケルン、デュッセルドルフ(ネアンデルタール人が発掘されます)。
カールスルーエ以南のスイス国境まではラインラントと呼ばないことが一般的かもしれないんですけど、非武装地帯であることには変わりないので、世界史ではラインラントに含めて言う場合があります。
第二次大戦後には確実に含まれるんですけど、戦間期(大戦と第二次大戦の間の時期)にはルール地方をラインラントと区別する場合もあります。1920年の段階でラインラントに含まれるかどうかが不明です。ルール地方はノルトライン=ヴェストファーレン州の中心に位置していて、南の境界にルール川、西の境界にライン川があります。一般的には、1920年に成立したルール石炭地区連合に加盟する領域をルール地方とします。この地区連合には、エッセン、ゲルゼンキルヘン、デュイスブルク、ボーフム、ドルトムントなどが含まれます。1920年にこの地域全体の行政を担当するルール地域連合/RVRが設けられて、本部はエッセンに置かれました。

1920年、スパー会議で賠償金の分配率が決定されます。英仏は「たくさんくれー」というのが本音です。総額は決まっていません。

1921年、1320億金マルク(約66億ドル、純金47,256t相当)と決定します。各国がほしいだけ数字を積み上げた結果がこれで、ドイツが払えるかどうかは勘案していません。この金額はドイツ中の赤ん坊が寿命いっぱい使って働いても払えない額です。
マルクは1873年-1914年までは金との兌換(だかん。交換可能)だったので、それなら価値があるとして、返済は1914年以前のマルクでということになりました。それを金マルクと言います。ただし、そんな旧紙幣があるとは思えないので、その価値に相当するマルクを払えということですね。1マルクが358ミリグラムの金です。
支払うためには紙幣を印刷するしかありません。そうすると紙幣の価値は下がります。物資は輸入するので、輸入品の価値は上がります。つまり物価が上がります。ドイツ国内はハイパーインフレになりました。
よくある伝説を紹介すると、朝に、カフェでトランク一杯の紙幣で払ってコーヒー一杯を飲んだ人が、仕事帰りにはトランク二つ分でないとコーヒーが飲めなくなっていた、そのくらいに金額が上がっていたというものです。定説はないんdすけど、大戦前と比較するならば、一般物価水準は25000倍を超えていた、或いは一兆倍になっていたと言われています。 キュウリが一本30円だったとするならば、75万円か、30兆円になっていたということです。紙幣をそんなにたくさん持って行けないし、受け取るのも大変だし、給与の支払いも大変なので、物々交換が拡大しました。貨幣経済は縮小したんです。
資本家はお金がないんですけど、労働者は賃金払えと怒ります。これをなだめるために政府が大量に紙幣を刷って資本家に貸すことで。悪性インフレになっていきます。国民は困るんですけど、借金取りのフランスも困ります。返されたお金の価値が低いからです。国境沿いのフランス人は、ドイツに来て高級レストランで食べたり、物を買っていったそうです。それをお腹を空かせたフランス人が見ています。フランス憎しとなりますよね。
興味のある人には、 「ハイパーインフレの悪夢」(アダム ファーガソン.新潮社.2011年)という本があります。

ドイツは賠償金の支払い延期を要請します。
1922年、ジェノヴァ会議でロマノフ朝の負債をソ連が継承することに反対したので、英仏白ベルギーはソ連と物別れになりました。一方で、独ソは単独で締結します。
1922年、ラパロ条約(ラパッロとも言います。ラッパロは違うそうです)をソ連との間で結びました。互いの債務と権利の放棄です。さらにドイツ軍は軍事教練の場をソ連から借ります。ポーランドの脅威に対するものでもあります。その代りドイツは社会主義になったことで国際的に除け者にされているソ連を国家として承認します。国交回復と通商を承認します。これは反フランスの一環です。

1923年、フランスとベルギーが、ドイツの鋼業資源地帯ルール地方を占領します。元々講和条約の条件として石炭の現物払いが入っているんですけど、ドイツが約束通りに賠償金を現物で払わないことに腹を立てたんです。ドイツ政府は、労働者にストライキを指示します。働かない分、生産しないので何も持っていかれません。

フランスのエリオ左翼連立内閣は、ドイツがドーズ案を受け入れるならば、ルール地方から撤退することを約束します。
ドイツは1924年、ドーズ案を受け入れます。お金の余っている米国が、お金のないドイツにお金を貸してくれたり、投資してくれたりするんです。ドイツはその金で経済発展して、英仏に賠償金を払います。また、年の支払金額を25億金マルクと決めました。最初の4年間はその金額を減額して、支払いはドイツマルクでとして、外貨の調達は連合国側の委員会が行うこととしました。これを受けてフランス、ベルギーはルール地方から撤兵します。
以降、1929年の世界恐慌までは少し安定へ向かいます。

1925年、ロカルノ条約-ライン国境を今後も維持して変更しないという念押しの安全保障です。ラインラントの局地的平和条約です。これでドイツに対する同情論がわいて、翌年1926年のドイツの国際連盟への加盟につながります。しかも常任理事国です。
1926年、独ソのベルリン条約が結ばれて、5年期限で戦争に対して中立を約束します。
1929年、米国からヤング案が提示されます。58年間で358億金マルクへと決定します。これを受けて、ラインラントから英米仏などが撤兵で合意しました。 

国内を書きます。
ドイツ帝国の成立前後に、ラサール派の全ドイツ労働者協議会 アイゼナハ派の社会民主労働党(エーベルト)が融合して、ドイツ社会主義労働者党となりました。これが①ドイツ社会民主党に改称しています。
1916年、ドイツ社会民主党/SPD内の左派のカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクはスパルタクス団を結成します。 
1917年、ドイツ社会民主党/SPDの戦争支持に反発して離党した人たちが、ロシア革命に刺激を受けて、反戦を訴えます。そして4/6に②ドイツ独立社会民主党 Unabhängige Sozialdemokratische Partei Deutschlandsを結党します。
1917年時点で、スパルタクス団(左派) ①ドイツ社会民主党(中道化) ②ドイツ独立社会民主党があるんです。

ベルリン革命/ドイツ革命の開始を受けて、②の一部(A)は出戻って①ドイツ社会民主党と融合します。
ドイツ皇帝が退位しても、革命運動は持続しています。
資本主義、社会主義など目指す方向が違う人たちがいるからです。
スパルタクス団はドイツ社会民主党の左派ですが、1918年に離党して、②ドイツ独立社会民主党の出戻らなかった人の一部(B)と1918.12/30-1919.1/1の創立大会で③ドイツ共産党を結党(1918年)します。
左派だから国家が負けてもどうでもいいし、国家のために戦争をしない反戦主義者のカール・リープクネヒト、修正主義者と言われるポーランド出身のローザ・ルクセンブルクは1919年1月に決起しますけど、殺されます。ドイツ共産党ですけど、スパルタクス団の中心メンバーだったので、スパルタクス団の蜂起と入試では書かれることが多いですね。
各地のレーテ/労兵評議会(労働者と兵士の評議会で、ソビエトと同義)も武力で抑え込まれます。①のエーベルトが首相になった臨時政府としてはこれ以上の革命を許さないということです。ここで革命は終了しました。
1920年、当時80万人の党員がいた②ドイツ独立社会民主党(C)は分裂します。左派(D)は30万人いて、③ドイツ共産党に入ります。

1919.1選挙で憲法制定議会の議員が選ばれて、2月に憲法制定の議事を開始します。エーベルトが大統領(任期7年)、シャイデマンが首相になると、7月に可決して、8月にドイツ共和国憲法/ヴァイマル憲法/ワイマール憲法が公布・施行されました。ヴァイマル/ワイマールは場所です。ドイツ共和国がワイマール共和国とも言われる由縁ですね。世界一民主的な憲法と言われて、けれどナチスに骨抜きにされたことで有名です。 第48条の第2項にある 戦争などの危機においては大統領が立法できるという大統領の非常事大権の規定が、国民主権を骨抜きにして、ヒトラーの台頭を許すことになります。
具体的には、ドイツ国内で公共の安全及び秩序に著しい障害が生じ、又はその惧れがある時は、大統領は公共の安全及び秩序を回復させるために必要な措置を採ることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。この目的のために大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、及び第153条(所有権)に定められている基本権の全部又は一部を停止することができる。
かなり大きな権力で、国王並みというか独裁者ですね。
大統領は直接選挙で選ばれます。議会の提案に基づいて、国民評決によって大統領を解職できます。議会議員の選挙は、財産の多寡で差別されない20歳以上の男女による普通選挙、一票の価値に差がない平等選挙、投票する人に投票するのではない直接選挙、だれに投票をしたかを知られない秘密選挙が保障されています。憲法改正の国民投票もあります。
151条で①すべての人に、人たるに値する生存を保障すると、生存権を認めてもいます。②労働者の団結も認めていて、世界で初めて①や②の社会権を明記した憲法と言われています。

1919年、ドレクスラーがドイツ労働者党を結党します。民族主義的な極右政党ですね。9月、軍部が監視のために復員兵ヒトラーをスパイとして潜入させます。ここで、ヒトラーは弁舌の力、影響力を知ります。そして、自分にその才能があることも知って、ドイツ労働者党のなかで出世していくんです。
1920年、ドイツ労働者党から国民社会主義ドイツ労働者党へ改称します。高等学校教科書では「国民」、歴史学会の動向とは違いますけど一般には「国家」と日本語訳します。通称はナチスです。ナチスは党を表現することになって、ナチは蔑称または国粋主義者を表現することになっています。高等学校教科書ではナチスと表現します。ヒトラーが主導するようになっています。党章はハーケンクロイツ/鍵十字です。ハーケンが鉤、クロイツは英語でクロスのことで、十字ですね。右を向いたマンジです。お寺は左を向いた卍です。ドイツでは他の右派グループが以前から使っていたんですけど、元はヒンドゥーの太陽信仰です。これを超人的英雄のシンボルなどと解釈したようです。
皆伝13で描いた図をもう一回載せますね。

皆伝13 卍 - コピー

1920年にはカップという人が率いて軍部がカップ一揆を起こします。クーデタ未遂事件と言われますけど、5日間はカップが首相になっていたので、成功だと思います。この政府は、ベルリン市民のゼネストでつぶれました。

1920年から1923年はヴェルサイユ条約があまりに過酷ということで、特にフランス憎しの世論が醸成されています。賠償金も決まって、ハイパーインフレにもなっています。
そんなとき、1922年のムッソリーニによるローマ進軍に刺激を受けたと言われていますけど、1923.11/8ヒトラーとルーデンドルフがミュンヘン一揆/ヒトラー一揆を起こします。スローガンは
①「ヴェルサイユ体制破棄」-だから、軍縮に不満の軍人が支持します。
②ユダヤ人排斥-ユダヤ人高利貸しに恨みを持つ農民が支持します。
ただ、この一揆は半日で征圧されて、失敗に終わります。ヒトラーは有罪で5年の懲役刑となりました。刑務所に入っているこの間に、「なんて行動力があるんだ」と、右派の間でヒトラー英雄視がはじまります。ヒトラーの英雄はムッソリーニです。片手を斜めに上げるナチス式敬礼もムッソリーニの真似ですしね。

1923.11/15シュトレーゼマン内閣ではヒル・ファーディング蔵相、シャハト国家通貨委員(蔵相/財務大臣ではありません)が、レンテン銀行を設立して、レンテンマルクという新しい通貨を発行します。そして、これまでの一兆マルクを一レンテンマルクとするというデノミネーションを行います。日本では平価切下げと言われることもあります。これで一時、経済は安定します。レンテンマルクの担保は不動産と、商工業資金です。市民はいつでも不動産と交換できるということであれば信用してもいいと思ってレンテンマルクを使うようになります。これで物価は正常に戻っていきます。 1924年以降はライヒスマルクになる(-1948年)んですけど、こうした措置でドイツ国内を安定させて、戦争を防いだということで、1926年、シュトレーゼマンはノーベル平和賞を受けます。

賠償金支払いに苦しむドイツですけど、ドーズ案の受け入れもあってアメリカが投資をするので、生産レベルは回復しました。経済安定で、威勢のいいことを言っていた右派人気は停滞します。
1925年、ヒトラーが「わが闘争」を出版します。刑務所内で書いて、6人以上が手を入れて、脚色した自伝と政治観を書いたもので、第二次大戦後のドイツでは発禁となりました。2016年にヒトラー死後70年の経過に伴って、著作権が切れたので発禁もなくなりました。この本を読んで影響されて、ネオナチに加入する人がいてはいけないとドイツ人もヨーロッパの人も懸念しています。2016年ころの世論調査では51%の人が出版に反対しています。、ネオナチが出版して利用しないようにと、ミュンヘン現代史研究所は事実の歪曲などに注釈を付けて、いかに間違ったことが書かれているかという観点から本を出版しました。右派の過激な言説に免疫を付けるためには、出版する方がいいという人もいます。
1925年、ロカルノ条約を結んで西部の国境変更をしない約束がされて、賠償金支払いが再開されて、フランスとベルギーはルール地方から撤退します。世界恐慌がなかったら、右派は衰退して、ヒトラーの台頭もなかっただろうと学者は言っています。
ヒンデンブルクが大統領になります。この人は王政復古の考えを持っています。当時のドイツ共和国で力を持っている人たちは、王党派、民族主義者、そして左派ということで、民主主義を守ろうという人は力を持っていませんでした。
1926年、ドイツは国際連盟に加盟します。常任理事国ですね。
1929年には、ヤング案によって、58年間で358億金マルクを払えばいいということで、減額されています。保障占領をしている英米仏がラインラントからの撤兵でも合意しています。

基層の人たちを書きます。
思想では、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著しています。
ハイデガーが不安について考えています。「人間の行為は手段(道具)と目的の連関だ。 歩くために靴がある。人間は気付いた時からこの連関世界にいる。何かを目的として行為をすることで存在できる。ただ存在しているだけでは無意味になる。ただ生きていることを、手段と目的で理解できない。その状態に覚えるのが不安だ。」そうです。人間の存在は非合理と言いたいそうです。 
ユダヤ人のトマス・マンは、スイスの療養所で静養する友人を訪れた青年が周囲の人と話すことで成長する「魔の山」を書いています。ドイツ教養主義の典型小説のように言われていますけど、物語の筋とは関係なく、読者を啓蒙するかのように説明的なセリフが多いので、読み飛ばしたくなりました。
平和主義者のヘルマン・ヘッセは、大戦後には「デミアン」、仏陀の生涯を描いた「シッダールタ」などを書いています。
1929年には、レマルクの、第一次世界大戦を描いた「西部戦線異状なし」が出版されています。
劇作家のブレヒトは「三文オペラ」を書いていて、官吏をからかったりして、自由に生きる庶民に親愛を感じさせる風刺劇を書いています。ブレヒトの愛好者は日本にも多いけど、長くもないし面白いので、舞台を観て飽きることがありません。 

歴史学では、シュペングラーが「西洋の没落」(1918年)を著しています。ヨーロッパ主義の反省を促すために、歴史は人のように成長して没落する、予定通りに進むことを実証しようとしました。大戦後のヨーロッパは既に衰退期と断定しました。ベストセラーになった本ですけど、のちにナチスは、文化は予定された通りに完成し永遠となると解釈して、ナチスの第三帝国の理論的支えとして利用します。

この時期はヴァイマル文化/ワイマール文化とも言われます。
建築では、1918年革命で権威主義的な「醜悪な建築」などを廃して、「労働者のための教育、美術、建築を」が流れになります。ブルーノ・タウト、グロピウス、ベーネなどが主導します。
バウハウスが1919年に設立されます。最初は国立で、次いでデッサウ市立として美術と建築において、世界の基層に大きく貢献した学校です。歴代校長はグロピウス、ハンネス・マイヤー、ミースという建築界の大物です。教授陣にイッテン、カンジンスキー、パウル・クレーがいます。すごいですね。モダンアートの普及とアートの大衆化、建築や家具など、様式美から機能美への転換に貢献しました。興味のある人には「デッサウのバウハウス建築」という本があります。

第一次大戦後は未来派(イタリア)などを経て、モダニズム/現代主義/近代主義へ世界は移行していきます。オランダのモンドリアンが水平線と垂直線の抽象画を描くと、これを建築化する人が登場します。屋根が傾斜して、水平をあまり意識しない和とは異なりますね。縦の柱+水平の床を基本にするシンプルで安価で早く作れる建築、これが当初のモダニズムです。ル・コルビジェは1914年にドミノシステム(周囲の柱と、何階か分の層にする床だけの基礎構造)を発表して、ミースもバウハウスで民族や地域を問わない普遍的建築を主張しています。ミースは広大な空間に、自由に間仕切りを配置するユニバーサルスペースを提唱してもいました。
合理的な近代建築として、バウハウスの新校舎も有名です。ミース設計のトゥーゲントハット邸(チェコ)も代表例です。
1933年にはナチスによって閉鎖されるんですけど、閉校後も労働者の集合住宅などにその思想が生かされていきます。

絵画では表現主義として、エゴン・シーレや、青騎士グループのカンディンスキーなどが活躍しています。「外面でなく内面を出す!」というものです。疾風怒濤運動を思い出しますね。1920年代のベルリン、ポツダム広場はホテルやカフェが立ち並んで交通、夜の歓楽街としても賑わっていて、ヨーロッパ経済の中心だったそうです。ユリィが「夜のポツダム広場」という絵を描いていて、青と闇と光というのは、ゴッホの星降る夜を思い出しますけど、夜景として綺麗に思えます。たぶんタイムズスクエア、日本で言うと梅田駅前、みなとみらいの感じ、ほかには歌舞伎町と渋谷スクランブル交差点と東京駅を合わせたようなものだったんだと思います。
映像分野では、1925年にライカが発売されます。ライカの普及で、手で持てるカメラのサイズが決まったと言われています。
物理ではハイゼンベルクが1925年にマトリクス力学/行列力学、1927年に不確定性原理を発表しています。
1929年、ツェペリンが飛行船で世界周航をしています。世界一周のことで、日本にも立ち寄っています。

□オーストリア・ハンガリー二重帝国/ハプスブルク帝国

1914年のサライェヴォ事件でセルビアと戦争が始まります。
1918.10月①チェコスロヴァキア共和国が独立します。初代大統領はマサリクで、独立運動に努めたベネシュが第二代を継ぎます。ハンガリーからスロヴァキア地域を獲得しています。
セルビアはモンテネグロを併合して、オーストリアから奪ったクロアティア・スロヴェニアを併合して、②セルブ・クロアート・スロヴェーン王国/セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人王国を建てます。セルビア人がクロアチア人、スロヴェニア人に対して優越した国家ですね。民族の内乱で国王が独裁化して、1929年にはユーゴスラヴィア王国になります。アレクサンダル1世です。

1918.11/3休戦。
1918.11オーストリア帝カール一世が事実上の退位をします。本人は署名を拒否して、スイスに亡命します。ハプスブルク帝国及びオーストリア・ハンガリー二重帝国は滅亡しました。
1919.1パリ講和会議
1919.9帝国解体で成立した③オーストリア共和国はサンジェルマン条約で、領土が25%になってしまいます。地図で言うと、オレンジの線で囲んだところがハプスブルク帝国でした。戦後は墺のところだけになっています。洪はハンガリーです。さらに軍縮(内陸国家になりますけど、艦船の上限は36隻)を押し付けられます。

皆伝24 ヴェルサイユ条約 ドイツ周辺 - コピー

スラブ系、④ハンガリーとしてマジャール人などが独立したので圧倒的多数がドイツ系民族になりました。ドイツ共和国との合併を志向する民族感情が芽生えるんですけど、サンジェルマン条約で合併は禁止されます。オーストリア共和国になった後、工業地帯のチェコを失っているので経済が低迷します。そして、ハイパーインフレになります。
英仏イタリアチェコスロヴァキアが保証する国際借款で、ようやく通貨が安定しました。ただ、財政は国際的に管理されて、公務員10万人の削減などを指示されます。失業率は上がって、大ストライキもあって、政党には傘下の武装勢力があって、いさかいもあります。そして、ドイツ系が多いのでオーストリア・ナチ党も結党されます。

基層では1926年にシュレディンガーが波動力学に関するシュレディンガー方程式を発表しています。

□ハンガリー

1918年、民主主義革命/秋バラ革命があって、自由主義的な貴族のカーロイが首相になると、共和国宣言があります。
1918.11/16に④誕生したばかりのハンガリー共和国は、1919.3ハンガリー革命で、ハンガリーソビエト共和国になります。ハンガリーでは姓・個人名の順なのでそう書きますけど、クン(姓)・ベラ(個人名)の社会主義政権が成立します。これは大戦後、ソヴィエト以外で欧州初の社会主義政権です。のちに反動的独裁をするホルティや、ルーマニア軍、連合国軍により抑え込まれました。一時、ルーマニア軍政下にもおかれます。
国民軍が擁立したオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストはハプスブルク家の出で、暫定的な王位を得ますが、放棄します。1920.1の議会選挙、2月の国民投票で立憲王制への移行が決定されます。そして1920.3王政の王国へ移ります。ただ、周辺国は容認しなかったので、実態は空位です。
オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝であったカール一世の復帰計画も頓挫して、1946年まで形式上の王政はつづくんですけど、王は不在です。ホルティが終身摂政として采配を奮うんです。
ハンガリーは1920.6トリアノン条約でようやく連合国と講和条約を結びます。トランシルヴァニアをルーマニアへ譲渡しますし、スロヴァキアをチェコへ渡します。

□チェコスロヴァキア

1915年にはユダヤ人のカフカが「変身」を書いています。不条理を描く実存主義小説と言われていますけど、カフカ自身はユーモア小説として書いたと言う学者もいます。グレゴリー・ザムザという人が朝起きたら巨大な昆虫になっていたという話です。
オーストリア・ハンガリー二重帝国に支配されていたものの、ボヘミア王国はチェコ人の独立を訴えていたので、戦勝国の扱いになりました。共にスロヴァキア人も独立運動をしていたので、オーストリア下のチェコ、ハンガリー下のスロヴァキアは合併して、独立国となります。
マサリク初代大統領(1920年-1935年)は、土地改革法を施行して、150ヘクタール以上の農地を接収して、中小の農民に分配します。旧ハプスブルクの紙幣に印紙を貼って新紙幣とします。貼っていないものは使えないようにしたことで、紙幣の流通量を統制しました。ドイツ、オーストリアなどは敗戦国として賠償金があったということもありますけど、チェコスロヴァキアでインフレが起こらなかったのはこうした政策のためのようです。
ベネシュ外務大臣の主導で、セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人王国と相互防衛協定を結びます。1921年にはルーマニアとも結びます。ルーマニアはセルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人王国とも結んでいます。こうして三国の小協商と言われる同盟が成立しました。ポーランドもルーマニアとの同盟を通じて接近しています。 この三か国は主にハンガリーから領土を取っているので、報復を恐れているんです。それで、フランスとも結んでいます。フランスは対ドイツに必要な同盟と考えています。ただ、この地域は経済的にはドイツとのつながりが大きいんです。
1921年時点で人口が1337万人いて、チェコ人とスロヴァキア876万人 ドイツ312万人 ハンガリー75万人 ウクライナ人46万人 ユダヤ人とポーランド人など28万人です。
興味のある人には「ドナウ・ヨーロッパ史」(山川出版社)という本があります。

□北欧

1917年、フィンランドがロシアから独立します。ソ連に加入したい労働者が作る赤軍/赤衛軍と、独立を維持して北欧に近づきたい白軍/白衛軍による内戦に陥ります。ドイツ、スウェーデンなどからの義勇兵が駆け付けたことで、白軍が勝利しました。1919年にはパリ講和会議でフィンランド共和国の独立が国際的に承認されます。
ユトランド半島のシュレスウィヒ地方は1920年、北部は住民投票でデンマーク領に移って、南部はドイツ領ですけど非武装地帯とされます。
1918年、デンマークの支配下にあるアイスランドは、デンマークと同君連合という形で形式的に独立国になります。アイスランド王国には憲法もあるし、首相もいます。

□東欧(エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ)

1915年、大戦中のドイツから見た東部戦線はロシア軍との衝突で、リーガ(ラトビアのリガ)、ピンスク、テルノボリの前線で膠着状態に陥ります。
1917年11/7(10/25)ロシア十月革命が起こります。
3月に北リーヴランドを統合して、自治を獲得したエストニアは、五月には議会選挙をしています。
こうしている間にもドイツ帝国軍が入って来て、リガを占領します。
11/12エストニア ソヴィエト執行委員会はエストニア議会の解散を決定す
11/18ラトヴィア人臨時民族会議
1918年2/16、リトアニア評議会/タリーバは独立を宣言します。
2月にドイツ軍がエストニアへの侵攻を開始すると、エストニア救済委員会が独立を宣言します。
3/3ソヴィエトロシアはドイツ、オーストリアとの間に、ブレスト・リトフスク条約(地名)を結んで講和します。これを受けて、ベラルーシ民主共和国が独立を宣言します。
11月、ソヴィエト軍はバルト地域全域に侵攻して、ソヴィエト政権を樹立していくんですけど、もちろん抵抗と独立戦争が起こります。これが二か月くらい続きます。

1919年1/1ベラルーシで、ベロルシア・ソヴィエト社会主義共和国が成立します。
その1月には、リトアニアのヴィルニュスをソヴィエトの赤軍/ボリシェヴィキ軍が占領します。4月にリトアニアではスメトナが初代大統領に就任します。6月にはリトアニアで憲法制定議会による憲法の制定、通貨リタスの発行、土地改革などが施行されます。カナウスに臨時首都を置きます。1920年7月、リトアニアとソヴィエトロシアは平和条約を締結します。そして、リトアニアの国家独立を承認しました。

1920年2月、エストニアとソヴィエトロシアはタルト平和条約を締結します。
1920年11/18ラトヴィアは独立を宣言して、臨時政府を設立します。
1921年8月ラトヴィアとソヴィエトロシアは平和条約を締結します。

1925年エストニアは、少数民族の文化自治法を採択します。ロシア支配下ではエストニア人の文化が尊重されていなかったからです。
1926年、リトアニアでは、スメトナが独裁体制に入ります。

□ポーランド
1916.11/5ドイツ皇帝ウィルヘルム二世、オーストリア皇帝ヨーゼフ二世は、ポーランド人を味方につけるために、ポーランド国家の復活を約束します。
12/25、これを受けて、ロシア皇帝ニコライ二世は「自由なポーランドの建設」に言及します。曖昧な表現で、後出しで、王国を併合した歴史があるから信用なりませんね。
1917年11/7(10/25)ロシア十月革命が起こります。
3/30ロシア臨時政府は、ポーランド人の独立権を承認します。
7/22ピウスツキは逮捕されて、ドイツのマグデブルク要塞に収監されます。ドモフスキは、亡命先のスイスのローザンヌでポーランド国民委員会を樹立して、のちにパリに移動します。
11月ポーランドのルブリンで、ポーランド共和国臨時人民政府の樹立が宣言されます。
そして、ポーランドの摂政会議(ドイツが提案)はピウスツキに全権を委譲して解散します。モラチェフスキ内閣を成立させると、ピウスツキは臨時国家主席に就任します。
1918年11月、第二共和政のポーランド共和国が独立します。国家元首はピウスツキ大統領。モラチェフスキ首相(1918.11-1919.1)。第二代がパデレフスキ首相(1919.1-11。ピアニストで作曲家です)。
1919年1月にパリ講和会議が始まると、
連合軍は最高会議でポーランドの東方における暫定的な行政境界線を決定します。英国のジョージ・カーゾン外相が提唱した、いわゆるカーゾンラインです。インドでベンガル分割令を発したあのカーゾン卿です。
戦争は終わっても、国境は画定していなかったので、18世紀の三回にわたる分割前の領土を取り戻す、つまり大ポーランドの理想を持ったんです。ソ連との国境となったカーゾンラインでポーランドは東側をかなり削られたので不満を持って、この提案を拒否します。
1920年4月、ポーランドのピウスツキは、ソ連が怖いので、ウクライナのペトリューラ政権と攻守同盟を結びます。そのうえで、
1920年4/25-1921.3/18ポーランド・ソヴィエト戦争を起こすと、いったんは押されましたが、8/16-25ポーランド軍がソヴィエト軍に大反撃して、ヴィスワ川の奇跡とも言われました。1920年10/8ポーランド軍はヴィルニュス地方を占領します。この土地のリトアニア人は中部リトアニア共和国の樹立を宣言しますけど、住民投票があって、1922年3/24にポーランドに編入されます。
結局ポーランドが勝利して、1921.3/18のリガ条約で、ベラルーシ西半分とウクライナ西半分を確保します。ちなみに第二次大戦後は、ソ連がカーゾンラインまでを国境として西に押し返します。1923になって、国際連合はポーランドの東部国境の最終承認をします。

1921年2/19ポーランドはフランスと同盟条約を結びます。
1925年ポーランドとドイツの関税戦争が勃発します(1930.3/17)

1923年にピウスツキは公職を引退しているんですけど、1926年、五月クーデタを起こします。ピウスツキ独裁の時期です。当初(1926.10-1928.6)はピウスツキが首相、国防大臣を兼ねています。それ以降はたぶん大統領と首相は傀儡です。反ユダヤ主義に懐疑的でコスモポリタン的政治をしています。1935年に病死するまで続きます。
1928年には、政府協賛無党派ブロックの設立を宣言します。日本の大政翼賛会を想起しますね。

□ウクライナ
大戦中に、ロシア内での自立を目指す人たちはウクライナ中央ラーダ/ウクライナ中央議会を設立して、「ウクライナはロシア内の自治地域」という第一次宣言、ロシア政府のケレンスキー首相と合意した「キエフ、ポルタヴァなど五つの県は自治」という第二次宣言などを出しています。
1917年、十月革命でボリシェヴィキによってケレンスキーの政府が倒れると、ラーダはボリシェヴィキを認めず、11/7第三次宣言で、ウクライナ人民共和国樹立を宣言します。人民とあるので社会主義国家とわかります。1918年1/9、第四次宣言でウクライナが完全独立すると、ソ連のボリシェビキ軍はキエフを攻撃してきます。
1/27ブレスト・リトフスクでウクライナ人民共和国と、ドイツ、オーストリアとの間で休戦/講和条約に調印がなされます。ロシア/ソ連とのブレスト・リトフスク条約ではありません。
2月にはウクライナからの支援を求められたドイツ軍がウクライナへの侵攻を開始します。
ウクライナ軍、ドイツ軍はボリシェヴィキ軍を駆逐していきました。3/3ソヴィエトロシアはドイツ、オーストリアとの間に、ブレスト・リトフスク条約(地名)を結び講和します。
3/9中央ラーダ政府はキエフに拠点を置いて、ディレクトーリア政権を成立させます。
1919年に入ると、ボリシェヴィキがウクライナ人の懐柔を狙って、広範な自治、農業の集団化の延期などを約束したので、ハリコフでウクライナ人社会主義者はウクライナ社会主義ソヴィエト共和国の樹立を宣言します。この勢力によって、ディレクトーリア政権はキエフから追い出されます。2月には、ソヴィエト軍がキエフに入城します。ウクライナはロシア、ポーランドに分割されて支配されているので、8月には反ポーランド組織であるウクライナ軍事組織UVOが結成されたりと、
各地でバラバラに勢力が割拠する時期です。
ウクライナの貧農の側に立ってボリシェヴィキと対立していたパルチザンのマノフは、1921.8月、ロシアの軍に負けるとルーマニアへ脱出して、その後はパリで暮らします。
秋にウクライナ南部で飢饉が発生します。チフスも流行しています。
1922年12/30ウクライナ、ベラルーシ、、ザ・カフカース、ロシアは、ソヴィエト連邦を結成します。
1923.4/4-4/10ハリコフで開催されたウクライナ共産党第七回協議会は、ウクライナ化政策を採択します。ロシア化が強かったので、その修正ですね。
1927年にソ連のスターリンが独裁体制を立てると、五か年計画で急激な工業化、農業の集団化が行われました。個人の所有する土地はなくなるので、抵抗する人もいました。そういう人たちは収容所や、遠く離れたシベリアへと流刑にされました。

□バルカン(クロアチア、スロヴェニア、セルヴィア、マケドニア、アルバニア、モンテネグロ、ボスニアヘルツェゴビナ、ルーマニア、ブルガリア)

□セルブクロアートスロヴェーン王国
セルブ・クロアート・スロヴェーン王国/セルビア人・クロアティア人、スロヴェニア人王国
ハプスブルクからクロアティア人、スロヴェニア人が独立して、戦勝国のセルビア人に取り込まれる形で1918年に成立します。セルビア人がクロアチア人、スロヴェニア人に対して優越する国家です。セルビア人は集権、クロアチア人は分権国家を考えているので、最初からばらばらです。
始祖はアレキサンドル国王で、トリアノン条約で正式に、国際的にも建国を認められます。
1920年にチェコスロヴァキアと相互援助条約を結び、オーストリア、ハンガリーへの警戒を高めました。1921.6ルーマニアとも個別に条約を結んでいます。こうして、1920年-1921年にかけて、小協商の条約国となりました。
クロアチア農民党の党首はラディチですけど、1928年に国会で急進派のラチッチに撃たれて、後日死去しています。
1929年にはクロアチア系の議員がセルビア人に殺されて、それを契機にアレキサンドル国王の独裁へと移りました。1929年、国家名も独断でユーゴスラヴィアに改称します。スラヴィアなので、セルビア人のスラブ系の色が濃い名前です。

□ブルガリア王国
親ドイツ派の国王フェルディナンドが大戦に参戦しました。スタンボリスキは反対して投獄され(1915年‐1918年)ていましたけど、敗戦後の1918年には、連立内閣に入閣します。大臣/閣僚になることを入閣と言います。1919年には、スタンボリスキは閣僚評議会議長(首相に相当します)に就任しました。
1919年、ヌイイ条約-ギリシアに南部のトラキアを割譲したことで、エーゲ海と遮断されてしまいます。 セルブ・クロアート・スローヴェン王国にも南西部のマケドニア人居住区を割譲しました。第二次バルカン戦争の後のブカレスト条約(1913年)でルーマニアに占領されていたけれど認めていなかったドブルジャも放棄します。
各国に賠償金を払うし、軍備も2万人に制限されました。
1920年から、ブルガリア農民同盟のスタンボリスキ閣僚評議会議長が改革を始めます。 1923年にはクーデタで殺されてしまいます。

□ルーマニア
ルーマニアは歴史的に自国の土地だと認識しているトランシルヴァニアをハンガリー王国から得て、北西部へ領土を拡大しました。トランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキア
を中心にした国家になります。
カロル二世は、1921年、対ソ連のために小協商(1921.4チェコスロヴァキア、1921.6セルブ・クロアート・スローヴェン王国)に入ります。フランスが対ドイツの観点から支援をしていますね。

□アルバニア
1913年にオスマン帝国から独立を承認されて、公国となっていますけど、ヴェルサイユ会議ではイタリアの委任統治とされたアルバニアは、アルバニア人の抵抗によって1920年には独立国として承認されました。
その後1925年に共和国化したアルバニアは、イタリア王国によって1927年に保護国化されます。アルバニアとしてはセルビア主義のセルビアと国境問題を抱えているから、イタリアに保護してほしいということでもありました。アルバニア人が多いコソヴォはセルビアにとられてしまったからですね。アルバニアはこの状態で1928年、ゾグー一世が国王に就任します。

□□ロシア/ソ連

怪僧ともよばれた皇帝側近のラスプーチンは貴族たちの嫉妬で1916年に殺されています。

都サンクトペテルブルクは、ドイツ風の名前です。ハノーヴァー朝がウィンザー朝に改称したように、ロシアもロシア風のペテログラードにします。
1916年夏、中央アジアで、大戦への動員への抗議として各民族の決起があります。
1917年、ロシア革命が起こります。二月革命と十月革命をまとめてこう言います。
二月革命でロマノフ朝が滅亡して、十月革命でソヴィエト政府が誕生します。
1905年の血の日曜日事件を発端とし立憲制となったものはロシア第一革命、1917年の革命はロシア第二革命とも言います。
1917年のものは、ユリウス暦を使用するロシア以外の太陽暦では13日進んでいるので、三月革命と十一月革命と表現します。ロシアでは1918.2に、西欧のようなグレゴリウス暦に変更します。
1917年3/8国際婦人DAYに、首都ペトログラードで女性たちのデモが起こります。総力戦で、兵器製作・軍需工場での労働をするので、農業従事者が減少しているし、前線にパンを送るので、市内には足りないんですね。それで「パンを寄こせー」ということです。抑えるはずの兵士たちも参加して、革命に転化します。これが二月革命です。ニコライ二世は弟のミハイルに譲位しようとするんですけど、ミハイルが帝位を拒否します。それで3/15、、ニコライ二世は皇帝を退位しました。皇帝一家はシベリアに送られて、ロマノフ朝ロシア帝国は終焉します

皇帝がいなくなると、主導権は政党に移ります。
①ブルジョワの立憲民主党/カデット
社会民主労働党のメンシェヴィキ(マルトフの率いるグループで、少数派)
社会民主労働党のボリシェヴィキ(レーニンの率いるグループで、多数派)
④左派・右派のいる社会革命党/エス・エルですね。
①カデットが主導して④が少し入った臨時政府を作ります。②も支持しています。
ちなみに②③④が組織しているのがソヴィエト/労働者と兵士の評議会です。主流は②④です。③のボリシェヴィキは多数派の意味ですけど、1903年の党内選挙で勝ったときにレーニンが自称した言葉です。その時を除くとたいていは少数派なのに、ずっとボリシェヴィキ/多数派を名乗っていました。負けた方のマルトフは、自嘲気味にメンシェヴィキ/少数派を名乗りました。
二月革命後の、この時点ではボリシェヴィキ/多数派は弾圧されて少数派で、レーニンはスイスに亡命していたし、スターリンはシベリアに流刑にされていました。

以後もソヴィエトと臨時政府の二重権力で継戦します。ソヴィエト側からは④エス・エル/SL/社会革命党/社会主義者=革命家党の右派のケレンスキーだけが入閣しています。つまり大臣になっています。その他の大臣は産業資本家などの自由主義者/個人の自由に最大限の価値を置く主義の人たちです。立憲民主党/カデットは臨時政府の中心で、リボッコ/リヴォフが首相になっています。

臨時政府は以後も継戦するんですけど、臨時政府を支持しない③のレーニンはスイスから封印列車で帰国します。封印列車には定義はありませんけど、レーニンの場合は途中で停車しないし、外国人と接触しないし、時刻表にも載らない条件で、ドイツ、スウェーデン、フィンランドを通ってロシアに入りました。ロシアと戦争中のドイツは、レーニンが帰国すればロシアに混乱をもたらせるので、ロシアが戦争離脱するかもしれません。ドイツにとって有利だと考えて、レーニンの通過を許可しました。
4.16に帰国したレーニンは1917.4/17に「四月テーゼ」を発表します。すべての権力をソヴィエト/労働者と兵士の評議会に集中させること、即時の停戦/反戦を訴えました。
臨時政府とソヴィエトの二重政府をやめて、臨時政府を支持するなということです。これを機に政府内にも反戦運動が台頭しました。臨時政府はボリシェビキを弾圧します。

1917.7エス・エルのケレンスキーが首相になって、9月に、共和国宣言をします。
ロシア共和国が成立したんです。ブルジョワ中心で、エス・エルの右派も入っています。
このとき、④エス・エルはブルジョワに失望したと言われています。

1917.9には軍司令官コルニーロフ主導の反革命の動きがあるんですけど、この抑え込みに失敗した臨時政府は、軍の支持を失いました。その後の抑え込みに協力したレーニン主導のボルシェビキ/ボリシェビキ(「多数派」の意味)が台頭します。

ロシアのユリウス暦では十月革命(グレゴリウス暦で十一月革命)
継戦して、ツァーリズムからの改革も進まない政府に対し不満が高まると、ボリシェビキは臨時政府を武力で打倒します。ケレンスキーはアメリカ合衆国へ亡命しました。
1917年11/8(グレゴリウス暦)、ソヴィエト政権成立。この政権の最高機関(日本で言う国会)を全ロシア=ソヴィエト会議と言います。この政府はレーニンが議長を務める人民委員会議です。外務人民委員はトロッキーなので、あとでブレスト・リトフスク条約を担当します。ユダヤ人であるトロッキーは軍事人民委員にもなっています。民族人民委員はスターリンが務めます。
11/8レーニンは平和に関する布告/平和布告を発します。無賠償、無併合を前提に、即時停戦、途上国は民族運動を活発化させて、植民地は独立運動をするようにと促す民族自決を訴えます。ソヴィエトはこれを支援すると言っています。さらに、「この戦争は帝国主義戦争である」として、1917.11平和に関する布告で秘密条約/秘密外交の廃止に言及します。そして、諸国の秘密条約を暴露します。英仏露によるオスマン帝国の分割を決めたサイクス・ピコ協定などですね。
こうした発言で列強の足元を揺さぶったんです。いいこと言っているので、大義はソヴィエトにありそうですよね。
1917.11/9レーニンたちはソヴィエト・ロシア共和国を成立させます。実際はソヴィエト・ロシア共和国ですけど、入学試験では改称後のロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国 /ロシア=ソヴィエト社会主義連邦共和国を成立させた前提で出題されます。

11月には、憲法制定議会を構成する議員を選ぶための普通選挙が実施されます。比例代表制です。第一党は社会革命党/エス・エルでした。25%以下の得票率で第二党の少数派となったのがレーニンなどのボリシェヴィキ/ボルシェビキです。
1917.12非常委員会チェカを設立します。警察機関で、反革命(革命に反対して、なしにしようとする動き)をする人たち/政治犯を取り締まるためのチェカは、1922年に秘密警察/ゲーペーウーに衣替えをします。

1918.1憲法制定議会の開会直後に議会を武力で解散させて、レーニンはボリシェヴィキ/ボルシェビキの独裁を実現します。プロレタリア独裁ですね。プロレタリアは労働者のことです。一党独裁の開始です。トロッキーは軍事人民委員なので、1918年1月には赤軍/赤衛軍を創設します。
1918年-1921年は戦時共産主義の体制で、徴発と国有化を進めました。

1918.1米国のウィルソン大統領の14か条(の平和原則)。四月テーゼに影響を受けて、それが我ら連合国が主張したいことだと大義を横取りするようなものですね。
連合国内の動揺を抑えて、戦後に社会主義が拡大することを防止、牽制することが発表の目的です。だから戦争を継続しています。
「勝利なき平和」をスローガンにして、①戦争目的の明確化と、それを担保する②具体的な戦後の平和原則を明らかにしました。
①は 権利侵害の防止、正義と公正な取り扱いを望むため ②は「国際連盟設立」「無賠償」、「無併合」、特にオーストリアハンガリー二重帝国内の「民族自決」(という言葉はなく自立ですけど)、「秘密条約の廃止」ですね。

1918.3ボリシェヴィキはロシア共産党と改称します。首都をモスクワに移して、休戦もしています。1月からロシアはヨッフェ、次いでトロッキーが交渉を開始しているんですけど、3月、ブレスト・リトフスク条約/ブレスト・リトヴィスク条約を結びます。21世紀初頭ではベラルーシ西部の地名です。ソヴィエトとドイツ、オーストリアハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ブルガリアが休戦しました。
教科書ではなぜかドイツとロシアだけという表現ですけど、単独講和と言うのは、連合国側ではロシアだけということで、相手方は全部です。
ブレスト・リトフスク条約のあと、戦争の性格は連合国側にとっては対ドイツ、オーストリアだったのが、社会主義潰しも加わります。
この条約によってロシア/ソ連は第一次世界大戦から正式に離脱しました。そして、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナに対する権利をすべて放棄しました。だいたいはドイツに譲渡するという約束です。オスマン帝国との国境付近のバトゥーミなどに対する権利も放棄します。
8月にはベルリンで追加条約を結んで、ロシア/ソ連は多額の賠償金を払うことを約束させられます。

ブレスト・リトフスク条約では、消滅していたポーランド、バルト三国、ウクライナのドリアからの独立と、ドイツによるバルト三国・ウクライナ・ベラルーシ支配を約束していたんですけど、ドイツの敗北でロシア/ソ連はこの約束を破棄しました。
ロマノフ朝支配下にあった各国は、共産党支配を恐れたことと、民族主義が高揚して独立します。1918年ポーランド、1917年フィンランド、1918年バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)です。
ウクライナとベラルーシも1918年に独立を宣言します。

1918.7/19にR.S.F.S.R/ロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法を公布したことに伴ってて、ロシア社会主義連邦ソビエト共和国/ソビエトロシア社会主義連邦共和国の成立を宣言しました。史上初の社会主義国家です 。
後でまた書きますけど、この国家は1922年にいづれもソヴィエト政権である①ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国(1918独立宣言。首都ミンスク)、②ベラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国(キエフ)、③ザ・カフカス/ザ・カフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国と④ロシア社会主義連邦ソビエト共和国/ソビエトロシア社会主義連邦共和国/ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国が共に、U.S.S.R/ソヴィエト社会主義共和国連邦を構成します。
ザ・カフカス/ザ・カフカース連邦共和国はグルジア・アルメニア・アゼルバイジャンの三カ国から成るので首都は各々あります。
1924年には憲法を改正して、名前は同じままで一つの国家となります。

皆伝24 ソ連の構成 - コピー

皆伝24 シベリア出兵 - コピー


U.S.S.Rの中に4つの国があって、その構成国の一つであるロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国の中に、さらにタタールなどの国があります。タタールやトルキスタンは自治国のようなものです。前漢の時代に漢王朝の直轄地を郡として、他を楚王国、呉王国などにしましたね。それに近いですね。ロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国(漢王朝)の直轄地である州とはべつに、タタールなどの国があるんです。
21世紀初頭のロシア連邦もロシア共和国やダゲスタン共和国、コミ共和国などから構成されています。マトリョーシカ人形を好きなロシア人なので、小さなものが中に入っている、さらにその中にもあるというのが好きなのかなと思ってしまいます。

話を戻します。
共産主義は民主主義の一形態です。
帝政はあり得ないんです。
ニコライ二世一家は幽閉されていましたけど、ボリシェビキ(1918.3ロシア共産党へ改称)が殺していまいます。娘のアナスタシア(17歳)は生き残ったという伝説が根強くありましたけど、2007年に死亡が確認されています。
共産主義は宗教も禁じます。
民族上の差別はしないということになっています。

1918.8シベリア出兵/干渉戦争-休戦をした独墺も英も帝政国家で、イタリアも王政なので、王政廃止のフランス革命をひっくり返そうとしたように、列強は反革命運動を支持して、白軍/白衛軍(王党派の旧ロシア帝国軍)に味方します。ソヴィエト打倒とドイツ牽制の為に、連合国側は干渉戦争を行いました。チェコ軍の救出を名目にしていたことは書きましたね。
干渉戦争には7万人の日本、7千人の米国、少数ながら英仏も、シベリア地方のウラジオストクへ出兵しました。英800人、フランスの主力1500人は、バレンツ海のムルマンスク(スウェーデン、ノルウェイ接する地域)へ出兵しました。カナダ、中国、イタリアもシベリア方面へ参戦しています。白軍と呼ばれた社会民主党グループは反革命派の側に立ち、列強と轡を並べ赤軍/共産党軍と戦います。

1918.11ドイツ革命でドイツが休戦すると、理由の一つであるドイツ牽制は果たしたとして、英仏米などはソヴィエト政権を放置したまま撤兵します。利益を得たい日本だけ奥地まで侵攻して、イルクーツクを占領したり、1920年にはニコライエフスク事件/尼港事件を起こしています。尼港事件では、赤軍はニコラエフスクの日本軍守備隊を全滅させて、日本人居留民は皆殺しにされたと言われています。 日本守備隊には、日本に支配されている朝鮮人も参加していたと言われています。
北樺太には1925年まで日本軍が駐留しました。 「ソ連には政府がないので、代わりに日本の居留民や現地人を守る」という名目で保障占領したんです。
もちろん、ソ連から恨みを買います。人間の性格形成期に当たる幼少期、国ができたばっかりの頃に、平和(に関する布告)にやろうと呼びかけたのに、帝国主義むき出しに列強が侵攻してきたんですからね。これでソ連の性格は軍事国家に決定づけられました。干渉戦争がなければ、可能性として平和的な社会主義国家になっていたこともありえます。
北方領土問題の根っこには、そうしたソ連という国の誕生時の、日本に対する第一印象の悪さもあるんです。

ロシア革命の影響を書いておきます。論述で出題されますし、共通テストでも出題されそうです。
帝政を打倒したということで、1918年のドイツ革命、 1922年〜1923年のトルコ革命、1925年ヴェトナムの革命同志会の結党、
勇気づけられた共産主義による運動ということで、1919年コミンテルン/第三インターナショナルの結成、1919年ドイツのスパルタクス団の決起、1919年ハンガリー革命、1920年のフランス共産党の結党、1920年インドネシア共産党の結党、1921年イタリア共産党の結党、1921年中国の共産党の結党、 1922年日本共産党の結党、1924年モンゴル 人民共和国の建国、1930年インドシナ/ヴェトナム共産党の結党、
民族自決を謳っていることで、1919年中国の五・四運動、1919年-1922年エジプトのワフド党の反英独立運動、1919年-1922年インドの反英非暴力・不服従運動、1925年モロッコの反フランス・反スペイン運動、 1919年朝鮮の三・一独立運動
干渉戦争で前線に食糧を送ったことで、1918年の日本で米騒動、

白軍で戦った人たちの一部は、ソ連と敵対する日本が勢力を拡大している満洲へ去りました。赤軍と白軍/反革命勢力との内戦は1921年頃まで続いていて、そのあいだソヴィエト政権は戦時共産主義を採用しました。
「すべてのものを戦線へ」がスローガンで、配給制、余剰農産物の徴収、工場国有化、民間企業の禁止、貨幣は資本主義の象徴だから極力使わない方針で、労働者の賃金は現物支給でした。
マルクスの理論では、帝政廃止の後に資本主義段階を経て共産主義へと至るんですけど、戦争中だからという口実で資本主義段階を経ないままに共産主義を強制したんです。
農民が懸命に働いて得た余剰分は持っていかれるし、労働者も働いても賃金上がらないから、労働意欲は失せて、経済は停滞しました。民衆の気持ちがわからずに、理論だけで動いて強制する政治家、政府が失敗した典型例の一つです。空想社会主義者とはレーニンのことですね。入試問題ではそうは出題されませんけどね。

1919.3コミンテルン(ロシア語: Коминтерн、カミンテールン.英語はComintern)は国際共産主義運動の指導組織で、別名は第三インターナショナルです。本部はモスクワです。レーニンが組織して、スターリンが主導しました。1943年に第二次世界大戦の対ドイツで苦境にあったソ連が、米英に支援を要求する際に禊/みそぎとして、誠意を見せるために解散します。

1919年七月、ソ連のカラハンは中国向けにカラハン宣言を出します。ロマノフ朝時代に奪った土地にいる少数民族は、自分たちで国を作るもよし、ソ連か中国に属してもよしということと、ロマノフ朝時代に結んだ中国への不平等条約の廃棄もします。平等を原則とした国交回復ですね。さらに五・四運動が念頭にあるので、民族運動の援助も提唱します。この時の中国はまだ社会主義ではないので、相手が社会主義国だからというわけではありません。単にヴェルサイユ体制から除け者(のけもの)にされているので、友好国が欲しいんです。

1920年-1921年、ポーランド・ソヴィエト戦争/ポーランド・ロシア戦争。復活したポーランドですけど、ソヴィエト/ロシアとの国境に納得できないので、ソヴィエトに侵攻します。ソヴィエト/ロシアはこの間も白軍との内戦と、列強からのシベリア出兵/干渉戦争も同時進行しているので、ポーランドに力を割けません。それでヴィスワ川の戦闘でも大敗しました。リガ条約(ラトビアの都がリガ)を結んだソヴィエト/ロシアは、ポーランドにベラルーシの西部とウクライナ西部のガリツィア地方を奪われます。

1921年、影響下に置くモンゴルが社会主義国家になるます。モンゴル人民共和国の成立です。
これまでは戦時共産主義を採っていましたけど、徴発で無気力が蔓延して、経済が停滞していました。きっかけは1921年2月にはペトログラード西方の軍港都市クロンシュタットで水兵の反乱も起きました。それでレーニンはどうにかしないといけないと思って、
1921年3/8第10回ロシア共産党大会で、NEP/New Economy Plan/新経済政策を発表します。穀物/食料の強制徴収を廃止、余剰穀物販売の自由、中小私企業の営業自由(大企業は大資本となって独占資本化=各産業ごとの寡占状態になって、帝国主義化するから禁止)、国有化緩和。穀物は現物で税金として納付して、余りは売っていいということです。生産指数(生産量や、生産に必要な物資の価格などを表す数値)がこれで上がりました。
共産主義をやめて、資本主義の特徴である市場経済を採用しているんです。現実主義者ですよね。けど、マルクスが予言した資本主義の先に社会主義、共産主義がある、これは自然な歴史の道筋だというのは正しくなかったということを証明してしまいました。さらに、共産主義をやめたことで、世界で同時に共産主義の革命を起こそうという当初の理想からは外れていますね。労働者が政権を握るという社会主義を捨てたわけではありませんけど、ロシアの中だけで社会主義の試行錯誤をしていくということなので、一国社会主義の政策です。
このNEP/新経済政策で、農村にクラーク/富農家/富裕農民、都市にネップマン/NEPMANと言われるビジネスで成功した富裕層が現れました。
レーニンはこのころから病に倒れて、職務をできない状態にあります。
1921.3/16、ボリシェビキ政権はムスタファ・ケマルのアンカラ政権(トルコ大国民議会)とモスクワ条約を結んで、友好を約束しました。この条約は、1921.10/23カルス(Kars)条約で補強されます。このどちらかの条約で、相互に債務を放棄しています。

1922年には白軍を抑え込んだので、チェカを秘密警察/ゲーペーウーに改組します。
1922年、ドイツはラパロ条約でソヴィエト/ロシアを承認していますけど、これを資本主義志向、民主主義への道と思った英国とイタリア、遅れて1925年には日本、1933年(日本、ドイツが国連脱退の年)には米国(FDローズヴェルト大統領)もソヴィエトを国家として承認しています。
1922年ソビエト社会主義共和国連邦/U.S.S.R(-1991)を成立させます。
さっきも書きましたけど、ソヴィエト政権であるウクライナ共和国(首都ミンスク)、ベラルーシ共和国(キエフ)、ザカフカス連邦共和国(グルジア・アルメニア・アゼルバイジャンの三カ国から成っています。)と共にソヴィエトのロシアが4か国で構成する連邦です。1924年には憲法を改正して、名前は同じままで一つの国家としました。
このソ連の第一書記はスターリンです。書記長のレーニンは寝込んでいます。

1924年1月、レーニンが死去します。旧都のペトログラードをレーニンに因んで、レニングラードと改称します。
この都市の歴史は出題されます。
ピョートルが建設したのがサンクト・ペテルブルクで、大戦をきっかけにドイツ風からロシア風のペトログラードにして、亡くなったレーニンに因んでレニングラードにして、ソ連が崩壊すると社会主義者の名前は嫌だというので、1991年にサンクト・ペテルブルクにします。

その後は後継者争いが起こります。対立しているのは
トロッキー 「永久革命論」が有名な書著です。革命を世界で同時に起こして世界中を社会主義にするというレーニンの初期の思想を墨守している人です。コミンテルンもそのための組織でした。独仏英などの豊かな国が社会主義化すれば、その稼ぎが公平に分配されるから、ソ連も豊かになると考えていたんです。けど、実際はドイツではスパルタクス団を中心とした共産党の決起は抑え込まれました。1919年3月のハンガリー革命で成立したハンガリーソビエト共和国も他国の侵攻で抑え込まれました。
スターリン 「一国社会主義論」をスローガンにしていて、ロシアだけで社会主義を成立させようという現実主義者です。
1926年になるとスターリンはライヴァルのフヴィリョヴィー、シュムスキー、ブハーリンを批判します。

社会主義なので国有化をしますし、貴族の持つ大農園を分配して、小規模自作農が増えたんですけど、面積が小さくなって効率が悪くなった分、穀物生産力が落ちて、都市民と軍人の必要を満たせなくなりました。
それに対して、強制的に集団化して、大規模農場にしていく過程で、トロツキーは農民に重税をかけることで、それを原資に工業化を進める考えを持っていましたし、ブハーリンは農民への譲歩をしようという考えを持っていました。
スターリンは思想の路線の違いによる闘争を前面に出して、実際は権力闘争ですけど、政敵/政治上の敵を殺していきます。ユダヤ人であるトロツキーは党を除名されて、メキシコまで逃げたんですけど、1940年に殺されました。
そして、スターリンの独裁になります。独裁って、王政や帝政と変わらないので、平等を目指す社会主義とは真逆なんですけどね。結局、スターリンも社会主義者ではないとわかります。

権力者が、反対する人をたくさん殺すことを粛清(しゅくせい)という言葉で表現する人がいます。先生は「民族浄化と同じで、人を殺すことを清める、浄めると表現するのは、人殺しの正当化の為に使うものである。従って、歴史家は使わない。」と言っていたので、私もスターリンは政敵を粛清したとは書かないことにします。

1926年になるとドイツが国際連盟に加盟します。ヴェルサイユ体制に入ったとも言えますね。これでヨーロッパの除け者であるソ連は不安になったので、1926年にベルリン条約を結んで、相互に中立を約束します。

スターリンは1928年から第一次五か年計画/第一次五カ年計画(-1933)を発動します。
土地の私有を禁止して、市場を閉鎖して、大規模工場の国有化をします。民間の自由競争に任せず、政府が5年ごとに経済政策を掲げて、鉄鋼の生産量などの目標を決めて、国有企業にノルマを割り当てるんです。社会主義の国家は中国も朝鮮も基本的に五カ年計画を策定します。
ソ連の 第一次五カ年計画は重工業を重視していました。農業面でも特に穀物の大生産地であるウクライナで、国営農場のソフホーズ/ソホーズ/советское хозяйство/Soviet economy や、集団農場(共同経営の方が直訳ですけど)のコルホーズ/коллективное хозяйство/collective farm を作りました。土地を奪われるクラークは抵抗しましたけど、殺されたり、強制収容所に入れられたりしました。最大では、100万人が亡くなったと言う学者がいます。

この時期には外務委員(外務大臣)はトロッキーが追い出されて、リトヴィノフに代わっています。
スターリンはこのころから個人崇拝を求めるようになっています。ローマ帝国の皇帝並みですね。

興味のある人には「ロシア革命: レーニンからスターリンへ、1917年-1929年」(EHカー.岩波新書.2000年)「ロシア革命:破局の8か月」(池田嘉郎. 岩波書店. 2017年)「シベリア出兵」(中公新書.2016)「ソ連 党が所有した国家:1917-1991」(下斗米伸夫. 講談社. 2002年)「ソ連史」(松戸清裕. 筑摩書房. 2011年)「レーニン(上下)」(R・サーヴィス)「トロッキー(上下)」(R・サーヴィス.白水社.2013)「スターリン:「非道の独裁者」の実像」(横手慎二. 中央公論社.2014年)「私はスターリンの秘書だった」「スターリン」(B.ハットン.講談社)「スターリン 赤い皇帝と廷臣たち(上下)」(S・セドーブ・モンテ)という本があります。

後部

□□オスマン帝国/トルコ

大戦中、ドイツはオスマン帝国の国旗を掲げて地中海作戦を実施していました。ドイツ軍艦が黒海のロシア軍を攻撃したことで、英仏ロシアはオスマン帝国に対して怒ります。オスマン帝国 にとってもロマノフ朝が崩壊すれば、奪われた領地を奪還できるので、ドイツ側で参戦しました。
①パン・トルコ主義の立場からは、ロマノフ朝下にいる中央アジアのトルコ系民族を解放して、一つの国を作りたいんです。妨げとなっているのが、国内のクルド人、そして隣国のイラン人なんです。21世紀初頭になってもクルド人を独立させないのは、小アジアから中央アジアまでの一つながりのトルコ系でつくる帯に、非トルコ系の国ができてしまうと困るから。イスタンブールから新疆のウイグルまでを一つながりのトルコ系国家にしたいので、独立させないんです。もちろん、世界の支配権を争う英米仏や、地域で強国のイラン、イラク、中国はトルコの強大化を阻止したいんですけどね。
②パン・イスラームの立場からは この戦争はムスリムにとっての聖戦と宣言します。つまりロマノフ朝下にいる中央アジアのムスリム、英国支配下のエジプト、インドのムスリムにも呼び掛けたんです。英国支配下のエジプト、インドが対英国で立ち上がるようなことになると英国は困りますね。だから、懐柔するためにエジプトと同じアラブ系のアラビア半島にいるフサインと協定を結ぶんです。フサインはオスマン帝国(トルコ人支配)からのアラブ独立運動の指導者です。ムハンマドの直系の子孫で、メッカの太守ハシム家の人です。これが1915年のフサイン・マクマホン協定です。エジプト駐在の英国人高等弁務官マクマホンは、アラブ人居住区のオスマン帝国からの独立を条件にして、フサインに反オスマン帝国運動をさせます。反英運動がなくなって、オスマン帝国の勢いも削ぐことになるから一石二鳥なんです。1916年以降、フサインの子のファイサル軍が躍動します。英国人情報将校のアラビアのロレンスも参戦しています。
これを受けて、1916年にはヒジャーズ王国が独立を宣言しています。初代国王はフサイン。紅海沿岸の国です。
1916年、サイクス・ピコ協定-英国人サイクス、フランス人ピコが原案を作成して、ロシアも後で参加しました。この秘密条約をロシア革命後の1917.11にソ連が暴露したから、ロシア人の名前が入っていないわけではありません。ロシアは悪者でないという印象付けがうまくいったというわけでもなくて、ロシアは後からの参加で影が薄いから、代表者の名が入らないのだと思います。これはオスマン帝国分割の協定です。「フランスはシリアを分割して持っていっていいよ」という条項を英国が許したことは、フサイン・マクマホン協定と矛盾しています。フサインだけにアラブ人の国を作っていいということではなく、アラブ人はみんな各々の土地で独立国家を作っていいという解釈ですからね。
このころ、戦争ごとに衰退の見える英国にお金を貸しているユダヤ人は、借金を踏み倒す気ではないかと危機感を覚えていました。ユダヤ人が離反すると、戦争も経済も崩壊するから、英国政府にとっては懐柔策が必要となります。そこで1917年にバルフォア宣言/バルフォア書簡が出されます。アラブ人の住んでいるパレスティナに、ユダヤ人国家を建設する条件で、英国の外務大臣アーサー・バルフォアは、ユダヤの富豪ロスチャイルド家に書簡を送って、お金を借りるんです。
この三つの英国の約束/三枚舌外交がパレスティナ問題のはじまり。パレスティナをめぐるユダヤ人とアラブ人の紛争は21世紀初頭にも続いています。
1918年には、英国がシリア・レバノン・パレスティナを占領します。
オスマン帝国は負けました。

1920年、セーヴル条約-オスマン帝国と連合国との講和条約です。サイクス・ピコ協定は秘密だったんですけど、ロシア帝国を打倒したソ連が1917.11に暴露したのでその合意は反故(ほご)になっていました。そこで1920年、英仏は今度はソ連を抜きにして、イタリアでサン=レモ会議を開催して、オスマン帝国を分割して委任統治とすることを協議して、これをセーブル条約に組み込んだんです。結局、フランスは元のサイクス・ピコ条約に則って、英国が占領したシリア・レバノンを英国から譲られます。当初はシリアという区域にレバノンも含んでいたので、参考書によっては正しくフランスはシリアだけを委任統治にしたと書いてあります。

皆伝24 オスマン帝国の分断 - コピー

地図の薄い水色ですね。濃い水色は領土化したところです。英国は①イラク②ケラク(ヨルダン)の一部③とパレスティナを委任統治にします。薄い黄緑色のところです。1921年に委任統治のままでイラク王国、トランスヨルダン首長国が成立しています。1928年には委任統治のままでトランスヨルダン王国に改称しています。
ギリシアは①スミルナ=小アジア沿岸②東トラキア=欧州側のイスタンブール周辺を領土化しました。ロシア帝国から独立したアルメニア共和国、その後のアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国(濃い紫色)がありますけど、オスマン帝国内のアルメニア人は独立して合体することにします。ただ、その一段階前として国境地域の委任統治(薄い紫色)をしているようです。イタリアは小アジア南西部を獲得して領土化しました。

周囲はギリシアが領土化しましたけど、イスタンブールは国際管理下へ置きます。ボスフォラス・ダーダネルス両海峡は国際開放としました。英仏伊はオスマン帝国の財政管理もします。軍備は「放棄」です。軍縮でなく放棄はオスマン帝国だけです。治外法権も認めさせられました。
国内にクルド人自治区も設置して、属国のエジプトは英国の保護下に入ります。モロッコとチュニジアはフランスの保護下になることを承認させられます。
⓪ヒジャーズ王国の独立も承認します。フサイン・マクマホン協定に則って、フサインが決起して、1918年に紅海沿岸に建国したんです。これを承認しました。
ただ、1902年にはイヴン・サウードが①サウード王国/ネジド及びハッサ王国を建てていましたね。アラビア半島の中央です。1921年には②ネジド・スルタン国に改称します。そして、1924年/1925年にはイヴン・サウードが率いる②ネジド・スルタン国は⓪ヒジャーズ王国を占領します。⓪のスルタンは退位して、譲位します。1925年には譲位されたスルタンが亡命します。1926年にはイヴン・サウードが⓪③の王位を兼ねます。同君連合ですね。そして、④ヒジャーズ・ネジド王国にします。1931年には⓪は完全に消滅します。1932年、⑤サウジアラビア王国/サウード家のアラビア王国へ改称したのが、初代国王アブドルネジドです。妻は30人-50人いたそうで、王子36人、王女24人をもうけたそうです。
1919年、ギリシアがさらなる領土拡大を狙って、戦争を起こしました。この希土戦争/ギリシア・オスマン帝国戦争では、オスマン帝国が1922年に勝利します。これを見た連合国側は、大戦後の1920.8月に結んだセーブル条約を1922年に破棄します。オスマン帝国の国力を認めたということなのだと思います。社会主義国家のソ連に対抗する勢力として維持させたいという考えもあったかもしれませんね。近代国家に短期間で生まれ変わったオスマン帝国/トルコとは仲良くしておきたいということで、連合国は新しく条約を結びます。それが1923年7/24のローザンヌ条約です。ローザンヌ会議にはスルタンのメフメト六世の政府と、ムスタファ・ケマルのアンカラ政府の双方が出席していますけど、会議中にメフメト六世はスルタンを廃位されてしまうので、条約に署名、批准したのはトルコ/ムスタファ・ケマルのアンカラ政権です。
両海峡は国際開放のままなんですけど、管理権はオスマン帝国が掌握します。エジプト、スーダンへの宗主権は放棄します。ギリシアが確保していた東トラキアと、フランス、ギリシア、イタリアが放棄した小アジアを確保します。小アジアの領土を取り返した代わりに、キプロス島を英国へ割譲します。ドテカネーゼ諸島/ドデカネス諸島、ロードス島はイタリアへ割譲します。エーゲ海の諸島はギリシアへ割譲します。
日清、日ロ戦争で実力を示した日本が不平等条約を改正できたのと同じで、オスマン帝国もこのとき、カピチュレーションや、セーブル条約で認めた治外法権を撤廃します。クルド人問題はどうなったかと言うと、「オスマン帝国に対して、クルド人は連合国と一緒に戦ってもいないから恩賞もなくていいだろう」と、セーブル条約で約束されたクルド人自治区は消えてしまいます。こうして、クルド人はイラク・イラン・トルコ・シリアに分断された国境にまたがる民族となったんです。ロシア帝国から独立したアルメニア人が作っていたアルメニア第一共和国、その後のアルメニア・ソヴィエト社会主義共和国に対して、オスマン帝国内のアルメニア人地区を独立させて合体させるというセーヴル条約は破棄されたので、たくさんのアルメニア人がトルコ内に残りました。

皆伝24 ローザンヌ条約 - コピー

ギリシアとの戦争中、1921.3/16に、ムスタファ・ケマルのアンカラ政権(トルコ大国民議会)は、ボリシェビキ政権とモスクワ条約を結んで、友好を約束しました。この条約は、1921.10/23カルス(Kars)条約で補強されます。このいづれかで、相互に債務を放棄しています。

流れとしては大戦、パリ講和会議のあとパリ近郊でセーヴル条約、ギリシア・トルコ戦争、スイスでローザンヌ条約の順です。国際連盟の本部はスイスのジュネーヴとなったんですけど、準備に時間がかかっているので、実質的には事務をする人はパリにいたようですね。それでスイスとの間を往来していたそうです。だから、この時期、スイスで会議が開催されることも多かったんだと思います。

国内を書きます。カリフとも名乗っているスルタンはいますけど、宰相エンベル・パシャの政府が行政をしています。
アルメニア人はカトリックで、イスラームのオスマン帝国では従属的な立場なんです。大戦中、そこへ同じキリスト教のロシア軍(連合側)が進軍して来たので、アルメニア人も民族主義化して決起しました。政府はアルメニア人と戦闘状態に入ります。民間人を収容所に入れるなどして、その混乱のさなかに虐殺をしたようです。1915年頃、東部でアルメニア人100万人以上と言われていますけど、殺しています

トルコ革命1919年-1924年
1918年ムスタファ・ケマルがアナトリア・ルメリア権利擁護団/アナトル・ルメーリア権利擁護団を結成します。1920.4にはトルコ国民党と改称しています。そして、オスマン帝国に対する革命政権を作るんです。それがアンカラ政権とも言われるトルコ大国民議会で、トルコ民族の国家を宣言すると、権力を握っていきます。
1919年に攻め込んできたギリシア軍に対しては、義勇兵を率いて戦って、イズミルの奪還など戦果を挙げています。
ムスタファ・ケマルはローザンヌ会議にも参加しますが、スルタン政府との二重政府体制を打破しようと考えます。カリフとスルタンを兼ねているメフメト六世に対して、カリフとスルタンを分離したうえで、1922年にスルタン制を廃止します。世俗君主の部分がなくなったメフメト六世はマルタへ亡命しました。国民もムスタファ・ケマルを支持しました。カリフ位は名乗っていますけど、領土を持っていない状態です。実質的なオスマン帝国の滅亡です。
1923.1トルコとギリシアで住民を交換します。ギリシアにはギリシア人だけで外国にはギリシア人のいない国にするし、トルコはトルコ人だけの国にしたいという民族主義の現れです。クルド人は二等国民の扱いか、いないことにするか、同化させるかですね。
1923年イスタンブールからアンカラへ国家の都を移します。そして新政府を樹立して、共和国宣言をします。
ここに正式にオスマン帝国(1299年ころ-1923.10/29)は滅亡しました。
1924年トルコ共和国憲法を成立させます。この一連の流れをトルコ革命と言います。
共和国の初代大統領はムスタファ・ケマルです。1934年以降は、トルコ人は姓を持つことが義務化されたので、「父なるトルコ人」という意味を持つ「アタチュルク」の姓を贈られて、ケマル・アタチュルクと尊称されますね。チュルクはトルコ人だとわかります。
 1921年にケマル・アタチュルクは権利擁護グループ(かつての権利擁護委員会やトルコ国民党とは違います)を作っていて、1923年に人民党に改称して政党化します。1924年には共和人民党に改称します。1925年には野党を解散に追い込んで、1945年までは一党独裁をします。
以後、西欧の近代化を模倣して、政教分離をします。イスラーム的伝統の廃止=カリフ制廃止です。最初にスルタンを、それから今回カリフを廃止という順番です。さらに太陰暦であるイスラーム暦の廃止と太陽暦のグレゴリウス暦の採用もします。婦人のベール着用の義務も廃止します。ベールというのは首と髪の毛を覆うヒジャブですね。肩まで覆うアルアミラ、全身を覆うニカーブも着なくてもよくなりました。 トルコ帽子も廃止されます。ジズヤも廃止です。
スルタン制/君主制をやめたので、主権在民に決めました。貴族もいないので一院制の議会を持ちます。宗教教育を制限したので、代わりに、読み書きを教えたり文化活動を普及させる社会教育機関「人民の家」を各都市に設置します。

イスラームの国教指定は憲法で規定されたんですけど、政権が落ち着いた1928年にはイスラームの国教指定を廃止します。アラビア文字も廃止して、新ラテン文字(ローマ式アルファベット)を採用します。トルコ語とアラビア語は共通する単語も多いので、アルファベットで学習できるトルコ語を学んでおくと、アラビア語を学びやすいかもしれませんね。トルコ語は日本語と語順が同じで、膠着語(こうちゃくご)でもあるし、共通点が多いと思います。膠着語は「走る」に「て」をつけるとき、「走るて」ではなくて、「走って」のように、主要な単語の方/くっつかれた単語の末尾が変化することです。
1926年には一夫多妻の禁止をして、皆伝では次の時代ですけど、1934年には女性参政権を認めています。

この時期から、クルド人、アルメニア人を非トルコ人ということで迫害します。

興味のある人には、「オスマン帝国の解体」「トルコ狂乱」(オスマントルコ崩壊とアタチュルクの戦争)「文明史から見たトルコ革命 アタチュルクの知的形成(上)(下巻)」(みすず書房.2020年)「トルコ近現代史」(みすず.17C-20C.中心はアタチュルクまでの時代。1950年代以降は10年刻みで数ページ)という本があります。

オスマン帝国解体とその余波
オスマン帝国は多民族・多言語・多宗教を前提としていました。
トルコ人、アラブ人、ペルシア人、アシリア人、ユダヤ人、クルド人、ギリシア人などが暮らしていました。
トルコ語やペルシア語やアラビア語も話されていました。                                     ムスリムもユダヤも、正教やネストリウスやマロン派のキリスト教も税を払って保護民とされていましたし、ヤジディ教徒と言われるゾロアスター教徒もいました。
どんな出自であっても、トルコ語を話してオスマン帝国の礼儀を身に付ければ政府で仕事をできました。トルコ人の血を持つ人の支配する国家ではありません。だいぶ前に、「オスマントルコ」という国名が、日本の高校教科書で「オスマン朝/オスマン帝国」に代わった理由はそこです。トルコ人の支配する国ではないからなんです。                                                                   「われらはイスラーム」という紐帯=帰属意識が最も強いんです。それから「われらは地縁の部族、血縁の部族、オスマン家、アラブ人・トルコ人だよねー」などがあります。

オスマン帝国は17世紀にもなると軍事的に負けて、バルカン半島北部を失いますし、クリミア半島周辺、コーカサスを失います。
そうして中央政府の力が弱体化したところへ、「なぜ負けたのか、西欧に学ばねば」という留学生や大使や翻訳書を通して「西欧近代化思想」が流入してきました。                                            西欧近代化の波は、民族的な帰属意識を強くする働きかけをしていきます。                                                                             
その過程で、エジプトが領邦国家として独立します。さらに、西欧がキリスト教世界の同質性を感じて支援したギリシアが民族国家として独立します。
バルカン半島では、イスラームのボスニア人、カトリックでラテンアルファベット文字を使用するクロアチア人、東方正教でキリル文字をしようするセルビア人、イスラームのアルバニア人、スラブ系のモンテネグロ人なども自治の動きを見せます。                            
大戦期には、レーニンの「平和に関する布告」や、ウィルソンの「14か条」に由来する「民族自決」が様々な影響の起因として立ち現われて来ます。
思想的には「民族の運命は自分たちが決める」のは当然の権利と言う価値観、政治的にはロマノフ朝の後片付けとオスマン朝弱体化
この二つを目的としたものなんですけど、西欧近代化に感化された人はこう考えます。
「良く考えればイスラーム世界にもいくつかの国があるのだから、オスマン帝国に留まる必要はない」。

そもそも
ユーゴスラヴィア解体以降の血で血を洗う民族紛争も、ソ連解体後の紛争も、その余波です。民族と言う概念は曖昧なもので、 民族学でも、歴史学でも、人類学でも 規定できていないんです。その都度、学者によって定義はされるけど、誰にでも通じる普遍的な概念ではありません。
その都度、「この議論の間は民族とはこういうことだとして話を進めよう」
という「都度定義」があるだけなんです。
そんなあやふやな概念である民族を声高に主張すると、争いが起きるのは必定です。
例えば、中華人民共和国には56の民族がいるとされています。されているというのは、政府が決定しているんです。
漢族以外が人口の92%です。少数民族がそれぞれ国など作るとなると大変です。ウイグル人、チベット人、モンゴル人、チワン族、満州族などが独立したら、漢族の部分は小さくなりますね。
日本にも琉球民族は民族なのかという問題を提起する人がいます。政府が、アイヌ人は民族と認めていますけど、アイヌ人も和人との間に子を産むことで純粋なアイヌは数を減らしていて、純粋なアイヌは21世紀初頭時点でまだいるかどうかは不明です。ただ、縄文人、弥生人、南方系、北方系、半島系が混ざって作られたのが日本人なので、「純粋な日本人」という概念がそもそも矛盾しています。

オスマン帝国滅亡時の場合、国を作ろうという時に、その枠として「それぞれの民族のイスラーム国家を作ればいい。」と思ったんです。トルコ人もアラブ人も対等な官僚として存在していたけれど、オスマン帝国はどの民族の国かと言えば、やっぱり支配層であるトルコ民族の国だから、トルコ人でない人は「自分たちの国を持ちたい」と思います。

それで委任統治になったイラク、シリア、ヨルダンが英仏の支援を受けて、あとで独立していきます。
独立と言っても集団で特定の地域に暮らしている場合と、そうでない場合があります。
そうでない場合は、故地/出身地をその領域として認めるのかといった問題が浮上します。イスラエルがその典型ですね。
世界各地に散らばったユダヤ人/ヘブライ人が故地のシオンの丘に戻ろうと運動を始めたことは書きました。ドレフュス大尉事件をきっかけにしてヘルツルが始めたシオニズムです。初めはホロコースト/ポグロム/虐殺などへの抵抗/辟易から生まれたから、逃げるのはどこでもよかったんです。マダガスカルやブラジルに国を作ろうという案もありました。聖書に書かれたシオンの丘がどこだかも誰もわからなかったんです。紆余曲折があって今のイスラエルに地を定めたんですけど、そこにはアラブ人がいます。
オスマン帝国の領域はキリスト教徒である西欧人に線を引かれて、ばらばらになっています。
同じ部族や親戚なのに異なる国民となったという憤りがアラブ人にはあるんです。今度はユダヤ人が勝手に線を引く?これは許せないという思いがあります。それで中東戦争が起こったんです。

危機に際して、「昔はよかった」という人がいます。そうした心性が世論として立ち表れることもあります。
20世紀になれば、宗教も世俗への影響力が落ちているので、民は頼れるものがないんです。こういう心が弱った時には、過激な宗教や英雄や懐古趣味が流行するんです。
「大日本帝国を復活しよう」とか「オスマン帝国を復活しよう」とか「シオンの丘に帰ろう」とか「滅んでいたヘブライ語の復活」とかですね。
たとえば、「オスマン帝国の復活を」は、イラクやシリアで勢力を持ったイスラム国につながります。こうした過激な宗教集団を完全になくすには、
①イスラム国に協力する部族に収入があるようにすること
②志願兵が行かないように、各社会が移民(二世、三世)を寛容に受け入れること。多様性を認めて、疎外感を持たせないようにすること(早くて15年かかるかもしれません)
③過激な思想に染まる前に 穏健なイスラムグループと接触するようにすること
④シリアの圧制をなくして、民主主義国にすること(20-30年かかるかもしれません)
⑤イラクで旧バース党のメンバーも受け入れること(カンボジアでポルポト派をそうしたように、日本の公職追放解除という前例もあります。人類には南アフリカ、ルワンダの前例も参考になります。)
が必要ですね。

□□アフリカ

戦勝国の植民地には14か条の民族自決は適用されません。

皆伝24  ドイツ領アフリカ獲得 - コピー

ルワンダ-ドイツ領東アフリカに属していますけど、ドイツの敗戦後はベルギー領委任統治へ移行します。植民地ですね。ルアンダ=ウルンディ地域とも言います。言語も宗教も同じで外見も明確には区別できない人も多いんでうすけど、ベルギーの植民地政府は分断統治のために、ツチ族、フツ族、トゥワ族とグループ分けをしました。これが独立後の人種間争いの元になっています。多数派のフツに対し、支配層として取り立てられた少数派のツチはベルギー人の宣伝する人種価値観や、シバの女王やアラブの血を引くなどの神話を受け入れて「我らは白人の血を引くのだ」と、優越感を持つようになりました。アラブ人が白人かどうかについては学者の間では異論があるんですけどね。
タンガニーカ-ドイツ領東アフリカに属していますけど、ドイツ敗戦後は英国の委任統治へ移行します。
マダガスカル-第一次大戦にもフランス側で4.5万人が参加しました。それでも、フランス人からの差別は多いんです。
ナミビア-ドイツ領南西アフリカに属していましたけど、ドイツ敗戦後は南アフリカの委任統治へ移行します。
西サハラ-アブデル=クリム/アブド=アル=カーリムは、リーフ地方の諸部族を率いて、1920年にスペインからの独立運動を開始します。1923年にはモロッコの一部を支配して、リーフ共和国を樹立します。さらにフランス領モロッコの併合も狙いますけど、スペインのプリモ・デ・リヴェラ政権は、フランスのペタン将軍と共に反撃します。1926年にリーフ共和国は滅亡しました。

□エジプト
ウラービー・パシャのアレクサンドリア暴動をきっかけにして、1882年、英国が(軍事)占領をしましたね。大戦中、エジプトの宗主国であるオスマン帝国は英国にとっての敵なので、1914年にエジプトは英国の保護国とされました。
1919年、ザグルル・パシャ/サアド・ザグルールが、完全独立をめざす運動を展開します。これはワフード党の先駆です。英国はルミナー調査委員会/調査団を派遣して、武力弾圧か独立かを調査します。その結果、独立の方が負担は少ないと考えて、1922年、エジプト王国(-1952年)が英国から独立します。帝国主義は国際世論で印象が悪いので英帝国は英連邦へ代わっていて、植民地解放へ舵を切っています。1922年のエジプトの独立はこうした経緯もあります。同じ年にアイルランドも自治権を得て、英国から独立しています。
ただ、名目的な独立です。
①防衛-具体的には英国軍の駐留権です。表向きは他国からの攻撃に際して、英国がエジプトを防衛するためなんですけど、反英運動を抑えるための軍です。1951年のサンフランシスコ講和条約後、米軍が日本に駐留している状態に似ています。日本の場合「瓶の蓋」論と呼ばれました。日本という瓶の不満が爆発しないように、米軍が蓋をするという物です。日本政府としては国民からなじられるから、「そんなことはない。米軍は我らのためにいるんだ」と瓶の蓋を否定してきました。将来、米軍を追い出すためにも「私たちはそんな抵抗はしませんよ、安心してください」という意味でも瓶の蓋を否定してきました。21世紀初頭には瓶の蓋だと考えている学者はいませんし、2000年代、2010年代にも日本の防衛のためにいると考えている学者は少なかったようです。2020年代には中華人民共和国の脅威があるので、日本の防衛のために米軍がいると考える学者もいるようです。米軍からしたら、米国の防衛のためにいるんですけどね。
②スエズ運河交通権を英国が保有します。
③少数民族の保護権を英国が保有します。
④スーダンへの駐留権を英国が保有します。スーダンはエジプトの属国だから、英国‐エジプト‐スーダンという関係になっています。
以降、エジプトは軍事的に英国軍に追いつくために、麻薬を売って軍事力を強化していきます。
1923年、憲法が成立して立憲王国となります。エジプト王国の始祖はファド/ファード一世(ファハドということかな)、初代首相はザグルル・パシャです。

大戦の講和会議であるパリ会議に参加した代表者たちは戻ってきていて、1924年、正式にワフード党/ワフド党を発足(-1954年、つまり30年間)させます。ワフド/ワフードは、代表という意味です。
エジプトには3つのパワーがあって、時期によって、主流が変わります。
①エジプト人意識 エジプト人の民族資本主義ですね。
②イスラーム主義 1928年/1929年にはハッサン・アルバンナがムスリム同胞団を結成しています。スーフィズムから思想を発展させていきますけど、大衆に受け入れられるように思想は調整していく現実主義ですね。病院や学校の建設などもしています。戦争は許容するけれど、政治家を個人的に殺すことは許されないと考えていました。興味のある人には「ムスリム同胞団の思想 上下」(創設者ハサン・バンナーの論考集。岩波書店.2016年)という本があります。
③アラブ主義 リビア、サウジアラビア、イラク、シリア、ヨルダンなどと連携していこうということです。それでペルシア人、ヨーロッパ人への対抗意識が生まれます。

□南アフリカ
英連邦に加盟している南アフリカはドイツ領だった西南アフリカ(ナミビア)を領土に加えました。
1912年に南アフリカ政府の先住民土地法に反対する 都市知識層を中心とした 黒人解放運動組織として、南アフリカ先住民民族会議/South African Native National Congress (SANNC)が発足しましたけど、1923年にANC(アフリカ民族会議)に改組しています。非暴力で、反アパルトヘイト運動を展開します。

□□イラン/ペルシア帝国カージャール朝(1924年に滅亡)   

大戦には中立の立場を取っているのに、ドイツ、オスマン帝国、と露英仏が侵攻してきます。相手側に占領されて、基地が作られると困ると考えたんですね。
1918年、講和条約を結んで、1919年には英国に占領されます。1919年、英斯条約(イギリス・ペルシア条約)で保護国にされます。秘密条約なので、国民には知らされないんです。
1920.5/18ソ連軍が侵攻してきますけど、英国は見て見ぬふり。保護国にしたのに保護しないんです。これは条約違反なので、ペルシア人は怒ります。
1921.2/21イラン/ペルシアにもいるコサック兵団がソ連を追い払います。
コサックは民族ではなくて、元々はロシアが領土を拡大していったときに浪人の騎士や土着の兵士をグループ化して「コサック」と呼んだものです。ロシアやイランやウクライナなどでも、そう呼ばれています。基本的にコサックは正規兵ではないんですけど、国軍に組み込まれることもあります。カージャール朝ではペルシア人とコーカサス人の構成する主力軍に入っています。
英国の力を借りずに、自らの力で国土を奪還したから、民族意識が高まりました。コサックを率いていたレザ将軍は英斯条約を知って、破棄します。「保護国化は無効だ!」ということです。英国による治外法権の撤廃も決めます。
1921年、レザがクーデタを起こして、実権を奪います。1923年、レザは首相になります。共和制国家を志向するんですけど、ムスリム僧団が反対しています。国王の命令だけでイスラームを国教化できるし、保護も思いのままなので、宗教支配には王政の方が都合がいいからです。そこで、レザは共和政をあきらめて王朝化を考えます。
1924年、スルタンと英国との結託に愛想をつかしたレザはカージャール朝を滅ぼします。1925年、パフレヴィー王朝を建てます。始祖はレザ・シャー・パフレヴィー。シャーは「王」を意味する称号です。パフレヴィーは「ペルシアの父」の意味です。
以降、近代化政策が始まります。世俗化・西洋化(脱部族化)が主です。仏伊の法や、イスラーム法を取り込んで、憲法をペルシア語で表記します。上下二院制(事実上は一院制らしいんですけど詳細不明です)、貴族による要職独占の禁止。貴族の称号廃止(財産没収ではないので、貴族自体は実質的に残ります)。
政教分離-イスラームの知識人であるウラマーの議席を減らして、宗教財団の廃止と財産没収もしています。
徴兵制-遊牧民主体からの転換で4万の兵力を12万にしています。
アラビア語、アルメニア語、トルコ語を排除して、ペルシア語第一主義を採ります。
女性解放政策-これはトルコの近代化を見て以降の1934年に、全身マントのチャドルを禁止したことです。
以降15年間で小学生は5倍に増えて、5.6万人になりました。国土縦断鉄道にも着手したり、石油・鉄道・工場労働者が増えて、穏健な中間層を形成しました。
1928年には英国に対して関税自主権も回復します。

□□アフガニスタン


英国保護領ですけど、1919年に英国領のインド帝国に攻撃を仕掛けます。こうして始まった第三次アフガニスタン戦争で勝利すると、ラワルピンディー条約で、独立を達成します。体制をどうするかは決まっていませんけど、1926年にアフガニスタン王国としました。始祖はアヌマッラー・ハーンです。立憲王政を採っていて、近代化を進めていきます。
ネパールもエジプトもアフガニスタンも、この時代に英国から独立すると王国になっています。インドは別です。独立もまだ先で、カーストがあるからこれ以上の身分が作られることを避けたかったんですかね。それともムガル家は滅んでしまって、単に独立に貢献していないからかな。

□□インド

この時期は綿、ジュートなどの繊維工業を中心とした軽工業が産業の中心です。
1915年、南アフリカでインド人の弁護士をしたり、反英運動をしていたヒンドゥー教徒のガンディーはインドに戻ってきます。ヒンドゥー教徒に、ムスリムとの協力も呼びかけます。ヒンディー語の「サティヤ」(真理)、「アグラハ」(主張・要求)は、入試では「サティヤーグラハ」という言葉で出題されます。具体的な行動としては、非暴力で不服従の反英運動です。
こうした動きを受けて、1916年にはインド国民会議とイスラム教徒連盟によるラクナウ会議があって、ラクナウ協定が結ばれます。 和解です。ムスリムは人口の三分の一もいませんけど、州議会では三分の一の議席を割り当てるなどで合意しました。インド史上、はじめて政治的にヒンドゥー教徒と、ムスリムが一致して英国に政治的な要求をしていきます。
その1916年からはキラーファト運動/ヒラーファト運動が始まります。これは反英国、反帝国主義、西欧に対抗するためにオスマン帝国のカリフを支持するというムスリムの運動です。ヒンドゥー教徒のガンディーもこれを支持しています。
1917年、英国はユダヤ人、アラブ人へと同様に、インド人、ネパール人にも「戦争に協力したら自治を与える」と言いました。それがモンターギュ声明です。これは飴と鞭の、飴の政策です。
そこでガンディーを含む知識人が声明を出します。「英国の戦争に協力しよう」。そこでインド人、ネパールのグルカ兵などは英国軍と共に大戦に参加しました。兵士110万人、軍事に就く労働者が40万人です。
戦場にはならなかったので戦争中もインドは英国の市場として、また安全な投資先として製造業が発展しました。原料輸送用としても鉄道が発展しています。線路の長さが世界トップレベルだから鉄道大国と言われました。

帰還した傷病兵から聞いた話で、戦線での人種差別が判明します。インド人は最前線で死傷者が多くて、英国人は後衛でインド人に銃を構えていると言うんです。脱走しないよう命令に従うようにです。これを聞いたインド人に「差別されていた、戦争に利用されていただけ」という思いが芽生えてきます。
のち、第二次世界大戦の米国にいる日系人は米国の国籍を持っているんですけど、米国で差別されていました。敵国の出身ということで、収容所に入れられたり、財産を没収されたりしました。それで、敢えて志願兵として参戦することで、差別意識払拭をしたいと思う人もいました。この日系人で構成された部隊は激戦地をたらいまわしにされました。軍事用語では人間としての表現ではないので私は嫌いなんですけど、「損耗率」という言葉を使っています。つまり死傷して定数が欠けることです。米軍の戦死者平均は、陸軍が2.8%、海軍が1.5%、太平洋で島へ上陸する危険な任務の海兵隊が3.6%です。日系人部隊は危険な任務が多くて、死傷者の率が極めて高かったようです。日系人部隊として有名な第442連隊戦闘団は、欧州の最前線を転戦して31%の高い死傷率でした。
戦争中にもこうした差別があるんです。21世紀初頭のパンデミックでも、米国では自宅で仕事をできず、通勤する仕事が多い黒人やヒスパニックの人たちが、白人と比較すると感染率が高かったり、収入が少ない層は感染率が高かったようです。

インドの話に戻ります。
戦争が終わると軍需工場は閉じるので、失業して、仕事を求める列が長くなります。帰還兵がその列に加わります。こうして国中に失業者が溢れると、この不満は反英闘争に向かいました。アイルランド、エジプト、トルコの民族運動、そしてロシア革命の影響を受けるので、反帝国主義と社会主義的性格を持っています。

1919年のインド統治法-インド統治法は何回も改訂されるので、いつのインド統治法なのかを区別して理解する必要があります。1919年のインド統治法では、モンターギュ声明を改変して、英国人の知事と総督(英国王の代理)が州議会に対して拒否権を持つこと、中央省庁が財政と警察権を持つこと、インド人の自治は教育と衛生と土木に限ることを規定しました。
「これだけ妥協したから反英運動をやめなさい。」ということで、英国としては飴の政策のつもりなんです。
さらに1919年、ローラット治安維持法を制定して、弾圧します。反英運動に対して対策を練った委員会を主導したローラットの名に由来しています。
破壊活動の容疑者に対して、令状なしの逮捕、投獄、陪審なしの裁判を認めたものです。戦争が終わって、もう甘い顔をする必要はないので、鞭の政策です。

こうした状況で、1919年4月にアムリットサル事件は起きます。シク教本拠のある場所ですね。パンジャブ地方のアムリットサルで反英抗議集会がありました。これに対してレジナルド・ダイヤー率いる一個小隊の英国軍が無差別発砲をして、400人-1000人以上を殺しました。これでさすがに英国ひいきのインド人も反英になります。

皆伝24 インド帝国 - コピー

この事件をきっかけにして、1920年から国民会議派のガンディーの第一次非暴力・不服従運動が展開します。サティヤー・グラハの具現化です。1920年以降はガンディーが国民会議派を主導します。
武力革命派のラス・ビハリ・ボースは日本でインド独立運動の活動をして、義理の父の経営する新宿中村屋に匿われている間、インドカレーを伝えました。
興味のある人には「中村屋のボース」という本があります。

英国は1922年にローラット治安維持法の廃止(飴)と、ガンディー逮捕(鞭)をします。
ガンディーはハンガーストライキで抵抗しました。何も食べずに抗議することです。「私が死んでもいいのか?死んだら民衆が暴徒化するかもしれないぞ」という圧力になるんです。だからガンジーには痩せた写真しかないのかなと思ったりもします。太った写真があっても服を着ているのでよくわかりませんけどね。
英国は、ガンディーに死なれたら反英運動が過激化すると予想するので、1924年には釈放します。
この後も英国はガンディーを逮捕したり解放したりを繰り返します。
ガンディーの拘留中はネルー/ネールが国民会議派を主導します。二人とも目的は「独立」で共通しているですけど、獄中にいる人と、支持者の前に姿を現している人とでは影響力に違いがあるので、このあとはネルーが国民会議派の主導者と考えていいでしょう。
興味のある人には、EMフォースターの書いた「インドへの道」という本があります。英国植民地時代のインドを書いています。

ムスリムとの融和、共闘を訴えるガンディーが力を失う1924年には、ヒンドゥー教徒と、ムスリムは共闘を停止します。

1927年にはインドの独立について考えるために憲法改革調査委員会/サイモン委員会が英国に設置されました。1928年にはサイモン委員会が解決策を探るため、初めて現地視察をするために人を派遣します。この委員会にはインド人は入っていないので、意見が反映されないということで、インド人は不満を持っています。さらに委員会は、インド統治法の修正を検討することで抑え込めるだろうと考えるんですけど、自治領になるまでの日程表さえ示しません。
そこで、インド人は反英国の大示威運動を展開します。
マドラス大会を開催した国民会議派は、サイモン委員会の声明拒否と完全独立を決議しました。

1927年-1932年には、不可触賤民(ダリット/ハリジャン)階層の出身であるアンベードガルは、禁止されているヒンドゥー寺院への立ち入りをしたり、公共の貯水池や井戸の利用について、不可触賤民の権利を求める非暴力運動を推進しています。上位カーストのヒンドゥー教徒は暴力で対抗しましたけど、司法は、不可触賤民が貯水池を利用することを認めました。アンベードカルは、カーストごとの行動規範を定める「マヌ法典」を公衆の面前で焼却したこともあります。

□ネパール
19世紀のネパール戦争後から英国が支配していて、保護国と言える状態です。1923年には保護国を脱して、ネパール王国は独立しています。
ネパールにはクマルと言われる、その年の少女神を選ぶ風習があります。
年男とは違いますけど、日本にも他の国にもその年の男神、女神などを選ぶ風習があるようです。
ブータン王国は1910年に条約を結んで、英国の保護国になっています。

□□東南アジア

第一次世界大戦で勝利した日本は世界の一等国として認められました。それで、日本人売春婦は国辱だとして、日本人会、日本領事館が禁止したので、東南アジアから身体を売る日本人女性は姿を消しました。英仏蘭がヨーロッパの戦争で東南アジアに製品を輸出する余裕がなくなると、代わりに日本の商社が進出します。東南アジアへの輸出は1911年の1780万円から、1918年には1億5350万円に急増しました。主な製品は雑貨、繊維です。

□フランス領インドシナ(1887年-) 

□ヴェトナム
北部の村の儒学教師の子だったホーチミン/胡志明/グエン・アイ・ウォックは書類の不備で、フランスの官吏養成学校へ入学できませんでした。それで、1911年以降はフランス・米英などの船でコックとして働いています。船には各地の留学生もいるし、刺激しあって、民族意識と共産主義に傾倒していきました。1920年にはフランス共産党に入っています。その後はコミンテルンで活動をしているんですけど、1924年、たぶんフランス語の通訳として、ソ連から派遣されて、広州に行っています。

日仏協約以来、日本に愛想を尽かしたので、独立派は日本モデルの維新会をやめています。
1917年、近代化の中で、フランス植民地政府は科挙制度を廃止しています。
大戦中、フランス植民地政府は、協力すれば戦後に自治を与えると約束しました。戦争で肩を並べて戦ったヴェトナム人は、白人にも勝てると思ったようです。戦術も学びました。
大戦が終わると、フランス植民地政府は自治の約束を無視しました。それで、反フランス運動が激化します。

1925年、中国の広州で結成されたのが①ヴェトナム青年革命同志会で、リーダーはホーチミンです。
1926年、既存の宗教を混合した高台教/カオダイ教が民族運動の中心になっています。10万人以上の信徒がいたようです。
ファン・ボイチャウなどの留学からの帰国組は、広東で1912年にヴェトナム光復会を結成しましたね。これを発展的解消して、
1927年、ヴェトナム光復会を母体として、国粋主義的なヴェトナム国民党を結党します。孫文の三民主義を理想としていました。
1929年になると、ホーチミン/胡志明は②ヴェトナム共産党を香港で結成して、ヴェトナム国民党と提携して、反フランス運動を展開します。
1930年、ヴェトナム共産党は③インドシナ共産党へ改称しています。
1930年、インドシナ共産党の暴動が全土に波及するんですけど、フランス軍によって、抑え込まれます。
独立にはみんなをまとめる必要があります。国民という意識が必要だと考えて国民党をなのる民族主義者もいるし、宗教でまとめる人もいるし、共産主義でまとめる人もいます。ヴェトナムは最終的に共産主義でまとまって独立します。
インドネシアは民族主義でまとまって独立します。

□タイ
大戦中、英仏ロシアの連合軍として参戦しています。
1927年、プリーディ、ピブンなどが人民党を結党します。

□インドネシア オランダ領東インド/オランダ領インドネシア
①この時期の反オランダ活動の中心はサレカット・イスラームです。大戦中、オランダは人民参事会法を制定して、ある程度の権限委譲をすることで、現地人の反発の抑制を狙います。ただ、独立とは程遠いので、反発は続きます。大戦で商品を東南アジアに輸出できないオランダに代わって、日本の小売店が進出します。トコ・ジュパンと言われて、好評だったそうです。

1920年、インドネシア共産党が成立します。アジア初の共産党なので、頻繁に出題されます。1919年結成のコミンテルンの支援で成立したので、一年後なんです。コミンテルンから派遣されたオランダ人のスネーフリートが組織作りなどを指導しました。
②この時期の反オランダ活動の中心はインドネシア共産党です。
1926年にジャワ、スマトラで大武装決起をしたんですけど、13000人が検挙されて、4500人が禁固刑にされて、16人が刑死しました。受験では主にジャワで出題されると思います。
1927.7スカルノがインドネシア国民連盟を結成して、1928年にインドネシア国民党へ改称します。
③この時期の反オランダ活動の中心はインドネシア国民党です。
集会で演説して動員/参加者を増やして、大衆を啓蒙します。ナチスのヒトラーと同じプロパガンダ/宣伝を得意としていました。
1928年の青年の誓いは、インドネシア国民党が主催したインドネシア青年会議での宣言です。
「われわれインドネシア青年男女は、
一.一つの郷土たるインドネシアを承認する 
二.一つの民族たるインドネシア民族を承認する 
三.統一の言語たるインドネシア語を承認し尊重する」
一つの祖国、一つの民族、一つの言語という民族主義をまとまるために打ち出しています。
東北弁で「おらが国/郷」と言っていた江戸時代の仙台藩の人々が、明治に入ると日本国、日本人、日本語を意識し始めたのと同じですね。

アジアの共産党史は時折出題されます。
1920年、インドネシア共産党 1921年、中国共産党 1922年、日本共産党
1924年、モンゴル人民革命党 1929年(ヴェトナム)共産党へ改称

サレカット・イスラームの主要メンバーだったチョクロアミノトはスカルノの父の親友でした。スカルノ父は下級貴族を教える小学校の教員をしていました。スカルノはそのチョクロアミノト宅に下宿して、スラバヤの高校に通っっていました。チョクロアミノトの娘はスカルノの初婚相手でもあります。イスラームでは妻が4人いてもいいので、一人目ということです。離婚したということではありません。

□マレーシア 英領マライ連邦
1914年、従来からある英領マレーシアに、保護国だったブルネイを加ええます。
大戦が勃発したので、軍需工場をフル稼働しているヨーロッパからは、投資も日用品も入って来ません。ライバル不在になったので、英国の企業に代わって、日本の企業がゴム栽培に投資をします。
大戦前にシンガポールに拠点を置いていた日本の企業は2社だったんですけど、1918年には110社に急増しました。

□フィリピン
アメリカの直轄植民地です。東インド会社のような国策会社がないので、直轄と言います。フィリピンでも大戦中に日本の商社が進出して、ミンダナオ島のダバオ付近で麻栽培に投資をしています。
1916年成立のジョーンズ法に基づいて、1917年に米国政府は、フィリピンに広範な自治を容認して、将来の独立を約束しています。

1922年、ダグラス・マッカーサーがマニラ軍管区司令官に任命されて、着任しています。社交界の花と言われたルイーズと結婚したばかりで、夫婦で暮らしました。1923年の関東大震災に際して、マッカーサーは日本への救援物資輸送の指揮をとっています。1925年、アメリカ陸軍史上最年少の44歳で少将へ昇進すると、米国本土へ転属しました。


□モンゴル/外蒙古
復習すると、1911年、活仏(黄教主ゼツウン・ダムパ・ラマ )が独立を宣言して、ロシアの保護下で自治国となっています。1913年、チベットで、英露が支援するダライ・ラマが独立を宣言して、事実上は英国の保護下になっています。
モンゴルと国家として、相互承認をしています。
1642年以降はチベットの政府をガンデンポタンと言って、ダライ・ラマがシキョン(最高指導者。事実上の首相)を兼ねる政府です。なんとなく司教(シキョン)という漢字を想像します。本拠はラサです。

ロシア革命があって、モンゴル人を含む民族は自分で独立かどこかの国に属するかを決めればいいというカラハン宣言があるので、1919年-1921年にはモンゴル/外蒙古はロシア/ソ連の保護を実質的に外れました。そうすると、中国が軍を送ってきて占領します。
スフバートル/スヘバートルの軍事指揮もあって、モンゴルは中国から独立します。活仏のボグド・ハーンを擁立して、モンゴル王国を成立させます。その後、憲法を作って立憲王政となるんですけど、君主である活仏の死去に伴って、チョイバルサンなどは社会主義革命を起こします。
チョイバルサンはスフバートル/スヘバートルなどとモンゴル人民革命党を結成するんですけど、1923年にそのスヘバートルは死去しています。病気だと思います。
1924年、モンゴル人民共和国/蒙古人民共和国が成立します。アジア初の社会主義国家なので、頻繁に出題されます。都はウランバートルです。立役者のチョイバルサンは1929年から元首になっていますけど、初代首相にはなっていないので注意しましょう。1939年に第四代首相になります。初代首相の名は出題されないと思いますけど、バリンギーン・ツェレンドルジです。

□□中国

1913年、袁世凱は総統に就任しました。尊孔主義といって、「孔」子の儒教を「尊」ぶ考えを押し付けます。さらに、選挙で大勝した国民党の宋教仁は議会制度を重視していたので、独裁をしたい袁世凱からすると妨げとなります。それで、宋教仁を殺して、国会を解散したので、第二革命が起こります。孫文や、1907年から日本で士官候補生として軍事教育を受けた蒋介石などは武力で袁世凱を打倒しようとするんですけど、失敗して日本へ亡命します。国民党は解散させられました。
1913年-1915年、孫文は日本へ亡命しています。1914.8東京で中華革命党を結成します。民主中国を作る目的ですね。

孫文の作った党の歴史
1894年、興中会atハワイ
1905年、中国革命同盟会at東京 すぐに中国同盟会に改称
1912年、国民党
1914年、中華革命党at東京
1919年、中国国民党
1925年、孫文死去で蒋介石が主導に代わります。

1914年、大戦勃発で英国がドイツの租借地である青島を攻撃するよう日本に要請します。あまりに日本が強くなると困る英国は、すぐに前言を撤回するんですけど、日本は無視して、青島のドイツ軍を攻撃しました。
中華民国政府は中立なのに、自分の領土で戦争が起こっています。それで、交戦エリアを指定して、この範囲から出ないようにと日独に要請しています。無視されたようですけどね。
中華民国政府は青島を含む膠州湾の租借をドイツに許可したときに「他国に譲渡せず」の文言を書き込んでいるので、日本の占領を容認できません。
それに対して、日本は「日本政府としてはドイツと開戦したのである。休戦後の講和条件によって山東半島の対ドイツ租借権をいったんドイツから継承して、その後に中華民国に返還するつもりである。」と言いました。けど、いつ租借地を返すかは言っていません。のちのパリ講和会議で日中が直接交渉すればいいという腹積もりでした。
清と日本は国交がありましたけど、中華民国政府と日本には国交がないんです。だから、日清間で結んだ条約を中華民国が維持してくれるかどうかも日本にとっては心配でした。旅順・大連の租借権は1923年に期限が来るので、その場合、代わりに山東半島を租借したいとも思っていたんです。それで、すぐには山東半島を返還しなかったんです。
1915年1月の対華21か条/対華21か条要求-第17代大隈内閣、加藤高明 外務大臣が主導したもので、内容は第一号から第五号までの5章に分かれていて、あわせて21カ条ありました。第一号の山東省に関しては、ドイツ権益の日本への譲渡、他国へ山東省の一部を譲渡及び貸与をしないことという権益の要求です。第二号の満州南部・内蒙古への権益の要求も重視していました。
交渉などの結果として、21カ条から19か条、16か条などと減らされていって、5/7に日本から「5/9までに回答せよ。そうでなければ開戦」という最後通牒/最後通告があったので、袁世凱は日本からの要求を受け入れることにします。
要求よりは低いんですけど、「希望事項」として政治・軍事・財務に日本人顧問を任用すること、日本への兵器供与、日華合弁兵器廠の設立などもありました。日本の技術と資材供与は拒否したんですけど、袁世凱は「私が皇帝になったら認める」として他は呑んでいます。
孫文は、「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草されて、要求された策略である。皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」言っています。
加藤高明 外務大臣は、「最後通牒は、譲歩する際に中国国民に対して袁の顔を立てるために、袁から懇願された」と言っています。
学問的な裏付けは取れていないので、歴史的事実とは言えませんね。

1915年12月、袁世凱は皇帝になりました。つまり中華帝国になったんです。
尊孔主義の袁世凱は儒学を奨励するんですけど、儒学に辟易(へきえき。うんざり)している知識人は日本へ留学します。

1915年には、文学革命が展開します。文学だけではないんですけど、文学を中心にして、近代的人間を目指す動きなので、これを文学革命と言います。1965年-1977年の文化大革命とは別ですよ。
大戦が勃発したので勉強どころではない、米国にいても仕方がないと、留学生が続々帰国して、影響を与えたようです。1919年の五・四運動をきっかけに 文学革命が展開すると言う学者もいます。
天安門事件でも中核になった北京大学が、文学革命の中心です。大学は最高学府ですからね。蔡元培が学長で、文科長(文学部の学部長)が陳独秀です。陳独秀はのちの中国共産党の初代書記長です。図書館長の李大釗(りたいしょう/イータイチャオ)は「ロシア革命は庶民の勝利だ」とマルクス主義を中国に紹介した人として出題されます。中国共産党の共同設立者でもあります。
北京大学の元司書に毛沢東がいます。
従来の文学を批判する胡適(こせき/こてき/フーシー)は「文学改良鄒議」(「芻議」の表記もあります。すうぎと読みます)を著して、口語による国民文学を作りたいという意図を明らかにしています。「思ったことを普段の言葉で思ったように言おう」ということです。
陳独秀(チェントウシュー)は1915.5に上海で「青年(の)雑誌」(第二号から「新青年」に改称します。)に載せた「文学革命論」のなかで、
儒教を専制主義の思想的根拠だと批判して、奴隷のための道徳に過ぎないと訴えます。②口語体を推奨します。白話文学とも言いますけど、話し言葉で書くことで、識字能力の低い人、読解力の低い人、つまり大衆も儒教の非科学的な面を理解できると考えたんです。
陳独秀が考えたらしいのが「民主と科学」という雑誌のスローガンですけど、この「新青年」ではマルクス主義も紹介しています。マルクスやエンゲルスは科学的社会主義を標榜していましたからね。

魯迅(ろじん/ルーシュン)は、日露戦争時に日本に留学して医学を学んでいたんですけど、「医者は目の前の一人の身体を救うだけだが、文学はたくさんの人の心を救う」と考えて、文学に転向しました。代表作の「狂人日記」は、親や夫に服従するような儒教道徳は人を食うということを訴えていて、村人に食べられると恐れ戦いて引きこもっている人の視点で書いた小説です。「阿Q正伝」(あきゅうせいでん)は、1921年に書かれたもので、白話小説(口語のこと)の嚆矢(こうし。最初の例)と言われています。阿QはQちゃんという感じの愛称で、Qちゃんの正式な評伝と言うことですね。村では馬鹿にされているんですけど、立身出世を目指すQちゃんがいろんな事に手を出します。辛亥革命期の農民の不安を風刺することで、分相応に甘んじる儒教的な人間を奴隷的だとして、悲惨な現実を直視せよと魯迅が訴えた小説です。「薬」という著作もあります。

受験生は、新文化運動のなかに文学運動があると考えるとわかりやすいと思います。
近代兵器・産業を導入するだけの洋務運動、政治体制を変える光緒新政の後を継いだ運動が新文化運動です。清の光緒新政の続きを漢人の中華民国がする、明治維新型の文明開化ということです。西洋の思想を全面的に導入しようというものですね。

袁世凱も尊孔主義だったし、地方にいる軍閥の反動的な独裁支配、列強が圧迫してくるのも、中国人の封建思想、つまり儒学に根源があると考えたんです。それで儒学からの解放を目指して、年功序列ではなく平等な民主主義、天を尊重する思想ではなく科学で考えるということで、「民主と科学」がスローガンとなっています。
新文化運動は、文学的には文学革命を生みます。
胡適は米国へ留学したり、陳独秀はマルクス主義から反儒学へ転換しています。光緒新政で活躍した人に康有為がいますけど、康有為の師匠の朱次琦 (しゅじき)は、「世の中は段々進歩している」と考えていました。これを聞いた人はショックを受けたようです。
新の王莽は周を理想としていましたし、過去を理想とする形式主義は儒学の基本なんですけど、進歩を目指す近代化には妨げとなります。
それで、新文化運動は教育(孔子の禁じた男女共学)、社会生活、学術、家庭問題(婦人解放)などの多方面の改造に転化していくんです。
1918年からはロシア革命も影響して社会主義運動を誘発します。李大釗は北京大学に社会主義研究会/マルクス主義研究会を設立します。
新文化運動が、マルクス主義を中国に紹介した李大釗の先導する五・四運動につながると言えるのはこういうわけです。

新文化運動が激しくなると、とうぜん袁世凱の皇帝就任への抵抗運動も起きます。これを第三革命と言います。第一は辛亥革命(1911年)、第二は袁世凱の独裁に対する運動(1913年)でしたね。
1916年、袁世凱は帝位を取り消して、大総統に就任しますけど、6月に病死します。
袁世凱はそもそも皇帝になっていないという前提で入試では出題されることもあります。
これ以降、北部の北京政府/元袁世凱政府/軍閥に対して、南部に民主主義を目指す孫文、陳独秀のグループが建てた地方政府があるので、南北対立という構図になります。
袁世凱の死去を受けて、副総統の黎元洪(れいげんこう)が大総統に就任します。 湖北進軍の起こした武昌起義では、温厚で、外国との交渉に必要な英語が話せるということでリーダーに抜擢された人ですね。北京に政府があるので北京政府と言いますけど、北京周辺は直隷州とも言いました。北京政府の人たちは、直隷州の軍閥なので、黎元洪は直隷派の軍閥のリーダーとも言えます。

漢人官僚の編成した民兵=郷勇のうち、李鴻章の淮軍を母体に北洋軍が作られたことは書いた気がします。中国では山東半島、北京以北を北洋と言います。地方名ですね。
清朝末期に中国の沿岸部にあたる奉天省・直隷省(現在の河北)・山東省の三省を「北洋」として、浙江省以南を「南洋」としたんです。南洋華僑の南洋です。そして、北洋には北洋大臣(李鴻章)を置いて、李鴻章が威海衛を拠点に作った北洋艦隊・北洋軍を編成しました。
日清戦争後は清朝下で軍制改革が行われて、李鴻章の部下の袁世凱が1895年に新建陸軍/新軍の編成をします。新軍は義和団事件後は各省で作られるんですけど、北京では袁世凱が北洋大臣となって、その輩下にある新軍は「北洋新軍」と称されました。辛亥革命では、地方の新軍は清朝打倒に立ち上がって、最後に袁世凱の北洋軍も寝返ると、清朝は滅亡しました。中華民国を独裁する袁世凱の下で、北洋軍を北洋軍閥と称されるようになります。
袁世凱が死去すると、部下が争う時代になります。ヘレニズム時代のディアドコイ戦争と同じ構図です。政府の面々を軍閥が牛耳っているんです。
北京政府内の権力争いの内戦で、この期間を軍閥政府と言う場合もあります。基本的に4年交代と考えればいいでしょう。
①1916年-1920年 安徽派の時代 日本が支援する段祺瑞が主導します。
②1920年-1924年 直隷派の時代 英国・米国が支援しています。
③1924年-1928年 奉天派の時代 日本が支援する張作霖が主導します。
1928年に「北」洋軍閥/「北」京政府を征「伐」する「北伐」運動によって、軍閥政府の時期は終わります。


1916年-1920年は 安徽派の時代で、日本が支援する段祺瑞が主導しています。
1917年、孫文大元帥は南に広東政府を設立しています。北京政府に対抗するもので、1920年まで存続します。
北京政府では、日本が支援する段祺瑞(だんきずい)国務(院)総理が実権を握りました。
寺内正毅首相、大蔵大臣にして朝鮮銀行総裁でもある勝田、その私設秘書の西原による西原借款と武器供与で、日本は段祺瑞の傀儡化(かいらいか)を狙っているんです。段祺瑞の結んだ1918.5の日華共同防敵軍事協定では、反外国集会や示威運動/デモンストレーションは、中国で禁止するという内容も含んでいました。
それとは別に保険をかけて、日本は安徽派の軍閥も支援していました。

1917年、寺内内閣時の石井駐米大使、米国のランシング国務長官(日本で言う外務大臣)による日米の石井・ランシング協定が結ばれます。
「青島を含む山東半島利権をドイツから日本へ譲渡する」内容があって、他に「中国の独立、門戸開放を支持する」内容もあります。中国には相談もなく決めたものです。袁世凱が死去したので、21カ条が維持されるかどうかがわからなかったんです。それで、米国の承認を得ようとしたんですね。

1919年、パリ講和会議があります。中立国だった中華民国も全権団を派遣します。外交総長の陸徴祥/ルーチョンシアン、駐米公使の顧維欽/クーウェイチュン、広東政府の王正廷/ワンチョンテインが代表です。この人たちは、山東半島の権益を、ドイツから日本を経由しての返還ではなくて、ドイツから中国に還すべしということ、不平等条約の廃止を主張しました。けれど、中華民国の返還要求は無視されました。
日本は西園寺公望などの全権団を派遣して、山東権益が実現しないなら国際連盟規約に調印しないと主張したので、米国が妥協しました。経済的特権と居留地設定権の保持が日本の山東権益です。こうして1921年まで日本軍も居座ったことが、列強の懸念を増幅させました。そして、のちワシントン体制による日本封じ込めにつながるんです。ドイツは敗れていて、ソ連はほうっておきたいので、危険なのは日本だけという情勢でした。
のち、このワシントン会議で米国の圧力を受けて、1922年に日本が山東半島を返還します。

1919年3/1には朝鮮半島で三・一独立運動があります。日本の植民地支配に対するもので、ソウルなどで市民が「朝鮮独立万歳」などを叫んでいます。実際に公式の独立宣言などはないんですけど、自由な朝鮮の実現を訴えたということですね。これは中国に影響します。
1919.5/4に五・四運動が起こります。五・四運動の理論的指導者が李大釗
です。パリ講和会議で山東半島が返還されなかったことを受けて、知識人は「中国がこうなったのは儒学や封建制などの因習が悪い」と考えて、北京大学の学生を中心に、五・四運動を起こします。家父長制度,家族制度、専制政治制度という三位一体の関係が悪いということです。「打倒孔子商店」をスローガンにしているんですけど、孔子と家を批判します。それに加えて、民族主義的な中国人は日本製商品をボイコットしているのに、親日的で儲けている商店=ブルジョワがいるということで、ブルジョワを批判しています。

5月のメーデーに天安門付近で「対華21か条反対」「外に国権を争い、内に国賊を懲らしめる」(日本製品ボイコットである日貨排斥、親日派の要人≒「売国奴の」罷免)「誓って山東の利権を回収せよ」などのプラカードなどで主張を示していました。北京大学の学生3000人が起こしたデモンストレーション/デモで、市民も加わっています。日本公使館への行進を警察に阻止されて、北京政府の安徽派/親日の官吏である曹汝霖/そうじょりん/ツァオルリンの邸宅に押しかけてもいったので、32人の学生が逮捕されています。

5/4の北京学生界宣言では「朝鮮は、独立せねばむしろ死せんと言った。国家の存亡、国土の割譲において国民が奮起しえないなら20世紀の劣等民族だ」と言っています。陳独秀も「今日の朝鮮は明日の中国」といった具合で二か月前に起きた三・一運動に言及して、中国人の奮起を促しています。
入試では五・四運動が三・一独立運動に影響したという誤文の選択肢が頻出です。5/4だから同じ年の3/1の後だとわかるんですけどね。
米国独立戦争のころ、パトリック・ヘンリが演説で「我に自由を与えよ、さもなくば死を」と言ったことも思い出しますね。2019年₋2020年にかけて香港の一国二制度をないがしろにする中国に対して、「今日の香港は明日の台湾」と奮起を促す台湾の民進党を想起しました。

この五・四運動は、①メーデーだから労働者運動ではあるし、②新文化運動の民主主義の側面もあるし、③朝鮮半島の三・一独立運動に刺激された民族主義の側面もあるし、④反ヴェルサイユ体制ということで、反帝国主義、反キリスト教(仇教運動)の側面もあります。論述ではこうしたことを書く必要があります。
5月の北京の学生が起こした運動は、2か月間で、22の省、200都市に波及します。
上海では6万人が参加した工場ストライキも加わって、主役が知識人や学生から労働者へ移っていきます。北京の徐世昌/シューシーチャン政権は曹汝霖など3人の罷免に応じます。
この民衆の動きを見た孫文は、親日的な軍閥ではなくて、民主中国を明確に意識したようで、1919年10/10に中国国民党を作っています。中国革命党から改称したものですね。

1919年9月には、朝鮮人の亡命者が上海で大韓民国臨時政府を樹立しています。上海、ソウル、ロシアの亡命政府が合併した政府のようです。リーダーは李承晩です。のち、韓国の初代大統領になります。

中華民国の、対華21か条廃棄やドイツの持っていた山東半島(青島など)の利権回復要求は、1919年のパリ講和会議/ヴェルサイユ条約で拒否されたので、北京政府(日本の支援を受けているけれど)も6/28にパリ条約の調印を拒否しました。

皆伝24 中国国共合作、北伐 - コピー

1919.7ロシアがカラハン宣言を発します。「ロマノフ朝/帝政ロシア時代に奪った土地にいる少数民族は、自分たちで国を作るもよし、ロシアか中国に属してもよし」ということです。これが入試では頻出です。
カラハン宣言は、レーニンの「平和に関するの布告」に基づいています。軍閥(段祺瑞内閣)の支配する北京政府や孫文の広東政府(1917年-)に対して、干渉戦争/シベリア出兵などをさせないこと、ソ連を国際的に承認させることなどを意図していました。つまり反帝国主義ですね。
帝政ロシアが中国から奪った満州地域での鉄道・鉱山採掘権、ソ連の商人が所有する工場などの利権を即時、無償、無条件で返還すること、義和団事件の賠償金放棄、不平等条約の廃棄/治外法権の撤廃、秘密条約を破棄すること、平等を原則とした国交回復、五・四運動が念頭にあって、民族運動の援助も提唱しています。
北京条約の廃棄も言っているんですけど、沿海州に関してはその後もソ連が支配しています。どうなっているんでしょうね。領土は別なのかな。その後うやむやになったみたいで、中国からも持ち出さないようにしていました。中ソ論争が激しくなる1960年代には、中国側の主張の基本線は、「アイグン、北京両条約は不平等条約であることをロシア側が認めたうえで、それらの条約によってロシアに帰属した土地は本来中国の領土であることを認めること。しかし、現在ロシアが実効支配している事実を尊重し、現行の国境線を受け入れる。ただし河川国境については、主要航路の中心線を国境線とすることを基本に、河川に点在する数百の島について、その帰属を明確にしたい」というものでした。北方四島
の問題に似ています。

このカラハン宣言が出された背景としては、まだ資本主義の中華民国なので、ソ連にとっての相手が社会主義国だからというわけではありません。まだ中国は社会主義の中華人民共和国になっていません。入試で「ソ連がカラハン宣言を発したのは中国が同じ社会主義国だから」なんて出題されても騙されないようにしましょうね。
ただ、この宣言を受けて、民衆は社会主義に好意的になるんです。そして、中国の近代化は、西欧的近代モデルの新文化運動の枠を超えていくんです。

1920年には再度カラハン宣言を発しています。レーニンが孫文を批判して、漢族だけでなく少数民族包括国家をつくるべきこの時言ったかもしれません。コミンテルン代表のヴォイチンスキーが来中して、陳独秀や李大釗らと会っています。
ロシア革命後に白軍で戦った人のうち、ソ連と敵対する日本が勢力を拡大している満洲、樺太へ入った人もいます。そして、日本人と結婚した人もいます。例えば、ピョートルは満洲から日本に渡って、その息子は日本人(元木君江)と結婚しました。そして1944年に元木さんは娘を生んでいます。その娘(入江美樹)は、後に日本人の小澤征爾(指揮者)さんと結婚するんです。


1920年、派閥争い/内戦である安直戦争が起こって、特に英国が支援する直隷派(現在の河北省にあたる地名)が、日本が支援する安徽派(段祺瑞らの軍閥)に勝利します。
以降、安徽派には張作霖(「奉」天派でもあります)が台頭します。
ちなみに奉天派は袁世凱の流れを汲んでいないので、元は北洋軍閥ではありませんが、この時に合流したようです。日本は段祺瑞から張作霖に乗り換えています。
1920年-1924年は、勝利した直隷派の時代です。英国・米国が支援します。
直隷派は馮国璋(ふうこくしょう)が設立したもので、曹錕(そうこん)、呉佩孚(ごはいふ/ウーペイフー)が主要メンバーです。
1921年、第一次奉直戦争で、またもや「直」隷派が勝利しています。

1921年、第二次広東政府を立てて、孫文は大統領になります。1917年の時と違いは特になくて、対北京政府です。1922年まで存続します。
この時期、孫文は桂林でコミンテルン代表のマーリンと会っています。
1921年、中国共産党が上海で成立します。初代委員長は陳独秀。12人の委員(毛沢東など)が指導します。一全大会(第一回全国共産党大会)を開催しています。
上海には外国の租界があるので、政府軍は入ってこられないし、取り締まりも厳重ではないんです。それで上海には革命家が出入りしているんですね。1921年には大阪毎日新聞の海外視察員として中国に行った芥川龍之介は北京で胡適に会って、上海にも寄っています。「上海游記・江南游記」 (講談社文芸文庫)などの作品を遺しています。

1922年、二全大会(第二回全国共産党大会)で、中国共産党はコミンテルンへの参加を決定しています。
コミンテルンは第三インターナショナルのことで、ロシアのボルシェビキ/中央が支配しています。コミンテルン中国支部/周辺は命令に従わねばならないという状況です。そんな中「中国国民党と合体せよ」という指令があります。
1922年、九(か)国条約が結ばれて、中国の局地的平和(つまり日本を包囲)のために、日英米仏伊白蘭葡、当事国の中国も加わって、中国の「領土保全」「門戸開放」「機会均等」を決定しました。これによって対華21か条が廃棄されて、山東半島も戻ってくるんです。
1923年、三全大会(第三回全国共産党大会)で、コミンテルンの指示通り、中国国民党との統一を決定します。因みに1921年一全大会、1922年二全大会、1923年三全大会と、下一桁が同じなので憶えやすいですね。
孫文もソ連のヨッフェと会談して、統一に賛成します。
原則は
①「連ソ」-ソ連と親しむ。聯蘇と書きます。
②「容共」-共産党員は党員資格を保持したままで国民党に入ります。国民党員は共産党員にはなりません。
③「扶助工農」-受験では言いませんけど、労農扶助の表現もあります。農民と手工業者援助ですね。具体的には重要な産業と資源の国有化です。三民主義の民生は、平均地権の農民政策から、扶助工農を訴えることで、耕作者の地権と大規模企業国営も加えています。
支持者を増やそうとしたんです。これまでの三民主義(民族、民主、民生)に加えたので新三民主義と言います。
さらにこの時期の孫文は「五族協和」「五権憲法」も訴えています。

三民主義の民族は「五族協和/五族共和」に変わっています。従来の滅満興漢の主張を取り下げて、漢族、満州族、蒙古族、回族/ウイグル人、西蔵族/チベット人の五族が協力して、和していこうというものです。中国国内の漢族と少数民族は平等という意識です。
三民主義の民権は、国民の基本権である四つの民権(選挙・議員罷免・法律制定・法律改廃)の上に、「五権憲法」つまり司法、立法、行政の三権、官吏の採用制「考試」、官吏の監察制「監察」の二権を加えることです。これを憲法の基本に据えようという考えです。

1924年、第二次奉直戦争で、「奉」天派(張作霖)が勝利。して、呉佩孚(ごはいふ)は下野します。張作霖に地位を譲ったんです。
1924年-1928年は、北京政府は奉天派の時代で、日本が支援する張作霖が主導します。

1924年、第一次国共合作
国民党の孫文と、共産党の陳独秀が合意します。中国統一のための、内に日本が支援する張作霖/軍閥打倒、外に列強打倒を掲げます。帝国主義と軍閥打倒がスローガンですね。
国民革命とも言うそうです。

第一次合作1924年は、日本が支援する張作霖が第二次奉直戦争で勝利した直後で、第二次合作は1937年に盧溝橋事件の直後です。どちらも、日本が攻勢に転じたときです。

合作した勢力は、北伐(「北」京政府/「北」部の軍閥討「伐」)の中心となる国民革命軍を設置します。これまでの義勇軍ではなくて、正式な軍隊と位置付けたんです。
この時点で、北京政府/軍閥に対抗する二大勢力は、国共合作で一つになりました。
1925年に入ると、全国総工会が結成されます。労組の全国化です。
1925年3月、孫文が北京で死去します。高祖翔の南京付近にある中山陵に安置されました。
1924年にはレーニンが死去します。

1925年上海で五・三〇事件(ごさんじゅう)が起こります。
5/15上海の日本人が経営する工場で、中国人労働者がストライキをしました。そして射殺された人がいたので、上海の中国人は労働者や学生がデモをしたんです。租界なので、英仏日などの官吏、警官がいるんですけど、5/30イギリス警官隊のインド人警官が、命令を受けて発砲したんです。13人が殺されました。
影響としては、これで労働運動が発展して、反日運動から反帝国主義運動へと転化するきっかけとなったことがあります。反帝国主義、民族主義の運動が高まっていきます。
五・三〇であって、五・三十ではないのに、なぜか「ごさんじゅう」と読むのが一般的になっています。ごさんまるが普通だと思うんですけどね。

1925.7中国国民党は広東/広州で中華民国国民政府を樹立します。「広東国民政府/広東政府/広州国民政府」とも言います。孫文が死去したので、主席は汪兆銘です。この時点で、北京の軍閥政府と、広東の国民政府という二つの政権が併存しています。
1925.10反帝国主義の機運に乗って、北京政府は「北京関税会議」で関税自主権回復を訴えます。日本の幣原喜重郎外務大臣は賛成したんですけど、北京政府の派閥争いによる混乱を重視したイギリスが閉会を主張したので、成果は出ませんでした。

1926.3蒋介石は、国民革命軍の主力艦であった中山艦を共産党員がのっとったという口実を設けて、共産党員の武装解除をするという中山艦事件を起こします。二重党籍を持つ人を国民党の幹部から排除するなどして、共産党排除の姿勢を強めました。
この中山艦事件以降、上海を地盤とする浙江財閥とかかわりの深い蒋介石が孫文の後継者となって、国民政府を主導していきます。反帝国主義運動をしている場合ではない、中国統一のために軍閥打倒が先という路線を敷きます。
中山は孫文の号、諱(いみな)、死んだときの贈り名です。その名に由来する国民党の旗艦を共産党員が乗っ取ったという口実で弾圧したんです。

1926年7月から、国民政府が国民革命軍を主導して、北伐を再開します。北京政府の打倒に入ったんです。
内実は、元直隷派軍閥の馮玉祥、山西軍閥の閻錫山、広西軍閥の李宋仁などの軍です。敵や他の地方軍閥を攻略して、仲間に引き入れていったんです。北洋軍閥も仲間に引き入れています。そして、武漢・上海・南京を次々と攻略していきます。共産党では毛沢東が指揮する農民兵が協力して、湖南省を攻略しています。

1927年2月、広東国民政府を構成する左派の共産党、国民党の左派(汪兆銘)は、本拠地を武漢に移して、武漢国民政府を名乗ります。国民政府の勢力が長江流域にまで拡大したので、可能になったんですね。清の末期、武昌蜂起のあった武昌は、漢口、漢陽と共に武漢の一地区です。軍事を握る蒋介石は、共産党の影響が強いのでこの遷都に反対していました。

1927年4/12、蒋介石が上海クーデタ/四・一二クーデタを起こします。
クーデタといっても国共対等だからおかしな表現なんですけどね。蒋介石による反共クーデタとも言います。つまり反共産主義を掲げた動きです。支援者/黒幕は浙江財閥なんです。資本家にとっては、私有財産や私企業を認めない共産主義は困るからけしかけたようです。
浙江財閥(資本家)の支援を受けて、労働者の武装団体などを攻撃して、上海から共産党員の排除をした蔣介石などの右派は、武漢政府を離脱して南京国民政府を樹立します。
3政府の鼎立時代(北京、武漢、南京)になるんです。
上海クーデタについては、アンドレ・マルロー(小説家、スペイン内戦の義勇兵、文化大臣)が「人間の条件」(1933年刊行)で書いています。
左派の活動の激化、コミンテルンによる中国の主権低下につながる指示などを重く見た汪兆銘は革命が共産主義につながることを危惧するようになります。
1927.7汪兆銘など国民党の左派は力を失って、武漢政府を離脱して蒋介石の南京国民政府に合流します。国共分離≒国共合作の終了と言えます。北伐も停止します。

共産党も、江西省井崗山(せいこうざん)に革命根拠地を設立します。
1927.8/1は建軍記念日とされていますけど、共産党が自前の軍を持った日です。南昌起義と言われますけど、共産党が国民革命軍の一部を乗っ取る目的で決起したんです。一応うまくいって、朱徳の部隊は「工農革命軍」と名乗ったりしています。共産党の軍はこの時期、総称は鉄軍と言ったようです。広東でもソ連の指示で決起があって、南京国民政府はソ連の領事を捕縛したり、国交を断絶しました。
1927.10~1928.2に広東省の陸豊県、海豊県、紫金県などに初のソヴィエト政権を作っています。農政改革を目指す革命根拠地/行政区のことです。その後も各地にソヴィエト政権を作っています。
1928.4には、朱徳と毛沢東が江西省南陽に鉄軍を合流させて、中国工農革命軍第四軍を編成しています。1930年からは中国工農紅軍第一方面軍と改称されて、以後、共産党軍は基本的に紅軍と言われます。紅軍は共産党の軍のことです。21世紀初頭には人民解放軍と言われている組織の元ですね。中華人民共和国には共産党の軍はあっても、政府軍、国民軍はないんです。

1928.4独裁的な権力を握った蔣介石は北伐を再開します。
北伐軍が北京に迫ると、日本の田中義一内閣は居留民(在留邦人)の保護を名目にして、山東出兵をします。ワシントン体制で山東権益は返還しているけれど、日本人はいるんです。日本軍は山東省の西部にある済南へ進出して、1928.5国民革命軍と軍事衝突をしました。これは済南(さいなん)事件と言われています。蒋介石と日本の初対立です。これで反日意識がさらに盛り上がって日本人が襲われたりしています。1929.3日本は済南から撤退します。日本は三回も山東出兵をしていますけど、得るものは何もありませんでした。
国民党軍/北伐軍は山東を避けて北伐を続行します。

軍閥の首領が北京政府の大総統/大統領も兼ねています。臨時も含めて、実質的な大総統ということでは、袁世凱1912.3-1915.12(皇帝-1916.3)、黎元洪、直隷派の馮国祥(馮玉祥ではありません)、曹錕(そうこん)、安徽派の段祺瑞、1926.6-1928.6は張作霖がその地位にありました。張作霖は、傀儡として満洲を支配しようとしていた日本軍によって利用されてもいました。

北伐軍に敗れたときの北京政府には満州軍閥/奉天派の張作霖、元直隷派の呉佩孚・孫伝芳がいました。北京政府は滅亡します。

1928.6/4蒋介石に敗退して北京を離れた張作霖は、逃走中に乗った列車が爆破されて日本軍に殺されました。日本人の河本大作が行ったという説が有力です。
これまでは張作霖が日本の権益の代弁者だったんですけど、張作霖が「誰か」に殺されてしまったから、もう自分たちで守るしかないと主張して、さらに日本は強硬に出るんです。その口実のために殺したと言う学者もいます。この延長上に柳条湖事件に始まる満州事変、満州国の建国、盧溝橋事件に始まる日中戦争、太平洋戦争があるんです。

1928.6/8国民党が北京に入城して、北伐は完成しました。6/15蒋介石による中国統一の宣言が発せられます。北洋軍閥/満州軍閥/奉天派を継承した張学良(張作霖の子)は北伐軍に降伏して、12/29に東三省(奉天省、黒竜江省、吉林省)に青天白日旗(国民政府の旗)を掲げました。戦わない代わりに、満州地域の自立を認められます。その後は蒋介石と協力して共産党軍/紅軍と戦います。

ソ連でスターリンが独裁を開始すると、陳独秀はトロッキー派ということで、1929年には中国共産党を除名されているそうです。朱徳、毛沢東、周恩来などの主導になっていきます。

□台湾
日本領です。1923年に李登輝が生まれています。のち、台湾総統になります。

□朝鮮半島
日韓併合時代です。
日本軍の進駐に対して、中国東北部/満州に逃げた人もいます。のち、朝鮮民主主義人民共和国の初代大統領で、主席にもなる金日成も、この時は家族に連れられて逃げました。

ウィルソンの14か条で示された民族自決主義に呼応して、1918年11月に上海で呂運亨/ヨウンニョンなどが新韓青年党を結成すると、ウィルソンに独立請願書を送付しました。1919.2には東京で、朝鮮半島出身の留学生が二・八独立宣言を発します。
1919.3/1には三・一独立運動/万歳事件が朝鮮で起こります。独立宣言とも言えます。ソウルではパゴダ公園で太極旗を掲げて、「大韓独立万歳」を50万人が唱応しました。地方でもこうした運動はあって、総計200万人が参加しているんですけど、警察、憲兵、軍の大規模増援もあって、運動は弾圧されました。7600人が死去、4万5500人がけがをしました。498000人が検挙されました。
水原郡堤岩里では、村民を境界内に閉じ込めて銃弾を撃ち込んでおいて、火をつけて殺しました。
今後一年間は、朝鮮半島、中国の間島(豆満江を越えて満州にある朝鮮人の居住地です)、シベリア、日本で同様の運動があります。

この運動の激しさを目の当たりにした日本政府は、軍政と言える武断統治から文治統治、つまり懐柔へ舵を切るようになります。言論の自由、結社の自由などが緩和されて、憲兵警察制度も廃止されました。
朝鮮半島のブルジョワは妥協しました。ただ、社会主義の影響を受けた労働者、農民は徹底抗戦して、運動の規模を拡大します。金日成による共産主義体制の芽がここにあるんだと思います。
1919.4月、上海で李承晩/イスンマンは大韓民国臨時政府を樹立して、パリ講和会議には金奎植/キムギュシクを派遣しました。ただこの臨時政府は内紛で衰退します。沿海州、間島などで、国境を行き来して活動したのが金佐鎮/キムジャジン、李東輝/イトンヒです。

音楽では、1926年に公開された映画「アリラン」の主題歌として、アリランが広まったようです。絵画では1922年-1944年、朝鮮総督府の主催で絵画展、いわゆる「鮮展」が開催されていました。

□□日本/大日本帝国

第一次世界大戦下で、世界的潮流になったデモクラシーは、日本では大正デモクラシーとして表れます。
1914年大隈内閣(-1916年)
1914年、大戦が勃発すると、英国がドイツの持つ青島を攻撃するよう日本に要請してきたので、日本は乗りました。あまり日本が強くなると困る英国は前言を撤回するんですけど、日本は無視して攻撃します。
1915年の対華21か条では、第17代大隈内閣、加藤高明外務大臣が、最後通牒ということで戦争をちらつかせて中国を脅して、満州・山東省・内蒙古の権益を要求します。要求よりは低いけれど、希望事項として政治・軍事・財務に日本人顧問の任用と兵器供与、日華合弁兵器廠の設立なども入れました。資材供与は拒否されますけど、袁世凱は「私が皇帝になったら認める」としてだいたいは呑みます。そして、袁世凱は皇帝になりました。
山東省に関してはドイツ権益の日本への譲渡、他国へ山東省の一部を譲渡、貸与しないことなどが通りました。

袁世凱が死去したので、21カ条が維持されるかどうかがわからなかったこと、ロシア革命が起こったことで満州に関して日露で合意してきた住み分けが不透明になりました。そこで、寺内内閣時の日本は、1917年、石井・ランシング協定を米国と結びます。特別派遣大使の石井、国務長官ランシングが話し合って、青島を含む山東半島の利権をドイツから日本へ譲渡することを米国は容認します。満州、内モンゴルの東部に関しては日本が特殊な権益を持つことも容認します。他に米国の基調路線である「中国の独立、門戸開放を支持する」内容もあります。中国には相談もなく決めたものです。

1918年にはチェコ人部隊を救う名目でシベリア出兵をしています。日本は7万人で、7千人の米国はシベリア地方のウラジオストクへ出兵しました。中国も派兵しています。
シベリアの反対側では、バレンツ海に面するムルマンスク(フィンランドとソ連の争い)に英仏が出兵しています。

戦争で日本の経済が上向くと、中間層が増えて白米を食べる人が増えたし、農村を離れて都市で働く人が増えたので農家は減りました。さらに戦争の長期化で米の輸入は減るし、出兵する兵士への米の供給は増えたので国内の米は減りました。そうなることを見込んで、米を買い占める資本家がいました。こうして需要は増えて供給は減ったので、国内の米価/米の価格が高騰して、1918年には米騒動が起こります。最初は米の輸送を止めようとしたり、役所に詰めかけたりしていたんですけど、その後は米問屋に強制して安く売らせたりします。神戸にあった商社の鈴木商店は燃やされました。その前からあったストライキも過熱して、炭鉱では暴動などもありました。こうした事態になって、結局は軍が抑え込みます。1918.9寺内内閣は総辞職しました。平民宰相と言われた原敬が首相になります
長州や薩摩などの倒幕に貢献した閥族による超然内閣(議会の支持なしに組閣される内閣 )でなく、衆議員選挙で多数党になった政党の党首が首相になりました。「憲政の常道」と言われるようになります。政党内閣制のはじまりで、1932年に五・一五事件で犬養首相が殺されるまで持続します。

この時期の日本の政治機構はこうなっています。
天皇-政府(予算案)-貴族院(終身の華族議員・勅撰議員)-衆議院(予算審議権のみ)
元老(重要政策、首相任命の相談役)    
枢密院(憲法の相談機関)
軍部(大将 参謀本部 兵卒)

このバランスをとるのが天皇で、1918年-1932年の政党内閣の時期には、選挙で選ばれた多数党の党首や、元老の推薦した人を首相として追認しています。
1921年には皇太子(のち昭和天皇)が、欧州を訪問して、人として扱われることで自由を知ります。外出したり、平民と会話をする英国王室の開放性にも触れました。「御外遊記」(二荒芳徳)だったと思いますけど。「戦争は決してやってはいけないものだ」という発言もこの頃にあります。以降、2年間は自由で開放的な生活を試みたようです。

1919年にはヴェルサイユ条約を結んで、日本は山東権益を確保して、さらに太平洋のドイツ植民地/南洋諸島も委任統治の形で手に入れました。ドイツが権益を持っていた地域を引き継ぎます。1919年以降、米国領グアムを除くマリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島を委任統治します。いわゆるミクロネシアです。日本は南洋庁をパラオに置いて、国策会社も進出させていきます。気候があっているということで、高知県、沖縄県の人が南洋に移民したり、させられたりします。パラオにはナカムラさんという大統領がいましたけど、日系の人です。「山月記」で有名な中島敦(文豪ストレイドッグスにも出てきますけど)は、南洋庁の国語職員として1941年にパラオに赴任します。「南洋通信」という記録を遺しています。南洋に興味のある人には「忘れられた島々「南洋群島」ノ現代史」 (平凡社新書.2015年)という本があります。

皆伝24 ドイツ領太平洋の島の委任統治 - コピー

日本は国際連盟の常任理事国にもなっています。
赤道以南はナウル(英国が委任統治)、米領サモア(1898~)を除いて、オーストラリア/豪州がニューギニア北東部(以前から南部は英国、西はオランダ領になっています)、ビスマルク諸島、西サモアなどを委任統治します。

ヴェルサイユ条約を受けて、1919.3/1には三・一独立運動が朝鮮で起こっています。
日本政府はこの頃、敵対国に対する外事警察を強化しています。

大戦が終わって、ヨーロッパの製品が再びアジアに入ってきたこと、軍需物資の生産がなくなったことで、日本は1919年末、1920年初頭くらいから不景気になります。戦後不況と言います。
1921.11-1922.6高橋是清内閣

1921年-1922年、ワシントン会議があります。開催場所で、提唱者や、主導者やパワーがわかるんですけど、今回はワシントンなので米国のハーディング大統領が提唱したとわかります。目的は日本牽制です。会議で決まったことは3つあります。
1921年、四(か)国条約-太平洋(つまり日本周辺)の局地的平和のために日英米仏の属領権益の尊重を決定します。「日本はこれ以上領土や植民地を増やすな」ということです。「日本と米国とどっちと仲良くするんだ」と迫られた英国は、日英同盟の延長をせず。破棄します。
1922年、九(か)国条約-中国の局地的平和(つまり日本周辺)のために、日英米仏+伊白蘭葡、加えて当事国の中国が、中国の「領土保全」「門戸開放」「機会均等」で合意しました。領土保全に則って、満洲と内モンゴルだけは日本の特殊権益と見なすんですけど、石井-ランシング協定の山東半島に関する日本の権益、対華21か条の合意も廃棄することになりました。日本はドイツから奪った山東権益を中国へ返します。
1922年、ワシントン海軍軍縮会議-主力艦の制限です。米英5に対して、日3、仏伊は1.67という割合です。総トン数の比率です。艦船数ではありません。
1930年のロンドン軍縮会議では、補助艦の制限でも合意します。

1922年には、シベリア撤退を最後まで渋っていた日本も、撤退します。
1922年、日本共産党が結成されます。堺利彦(平民社)・荒畑寒村・徳田球一・野坂参三などがメンバーです。前年に中国共産党が結党されているので、1921年は下二けたの21を兄ちゃんと憶えれば、日本共産党は弟分のようなもので、一年あととわかります。

1923年には関東大震災があります。浅草のシンボルだった凌雲閣/浅草十二階が倒壊したり、日本人が日頃から虐げていたので、朝鮮人が日本人に報復するために井戸に毒を入れた、共産主義者/アカ(赤色はシンボルカラーなので)が暴動を計画しているなどという嘘/流言/噂も流れて、殺された朝鮮人、間違われて殺された中国人、日本人もいます。外国人ではないかと疑われた日本人は「15円50銭と言え」と強要されるんですけど、地方出身者で標準語でない人、言葉を話せない人は朝鮮人だとされて、殺されました。酷いですね。そもそもこういう噂を警察、憲兵などの軍部が流していました。憲兵の甘粕大尉がアナキスト/無政府主義者の大杉栄、作家で内縁の妻である伊藤野枝(「青踏」の編集長になりました)、大杉の甥の橘宗一(6歳)を混乱に乗じて絞殺した事件もあります。甘粕は恩赦があって、2年と少しで出所して、その後は満州鉄道の映画会社に入って理事長となっています。1945年ソ連が満州に進軍してきて、日本が降伏したことを受けて、8/20に自死しています。
この震災で被害を受けた企業は借りたお金を返せないので、貸した側も倒産しますし、銀行がつぶれるという噂があって、預金を引き出そうとして銀行に殺到する(取り付け騒ぎ)ことがあったので、金融恐慌になっていきます。借りたお金の手形は支払期限を政府が延期することを決定して、何とかしのぎました。円安にもなって、輸入物の値段は上がりました。
日本人が落ち込んでいる1924年には米国で移民法が成立して、日本からの移民は不可能になります。泣きっ面に蜂です。代わりに満洲移民、満蒙開拓団(モンゴルも含む)として、日本人は大陸に行きます。村や県への割り当てがあって、募集なんですけど、強制に近いこともありました。国の政策/国策なので、居留民が満州にいるという既成事実を作るための策です。不況で苦しくなった人や小作人/貧農を救うためではありません。そこにいる日本人を守るためという口実で軍隊を送り込むために、派遣されている人たちです。長野県が多かったと言われています。たぶん寒い地方の人たちで、満州の気候に慣れやすいこともあったと思います。

1919年/1920年、1923年、1927年と不景気や恐慌があって、次は世界恐慌の余波で1930年に恐慌があります。日本は戦後四年に一回くらい不景気になるんです。復興の兆しが見えると不況になるので、これはたまりません。世相として、鬱憤を晴らしたいというのもわからなくはありません。それが満州事変をはじめとして戦争につながる、他国への侵略になるのというのは受け入れられませんけどね。

1927年になっても、手形の決済がされずに不安は高まっていました。国内では小作人が地主に対して抵抗する小作争議も頻発しています。
そこに大蔵大臣の片岡直温が「本日、東京渡辺銀行が破綻した」と間違ったことを言ってしまいます。この余波で昭和恐慌と言う金融恐慌になります。取り付け騒ぎがあったので、対抗策として、たくさんの銀行が休業しました。預金が引き出せないんですよ、これは困りますよね。
そんな1927年、ジュネーブ軍縮会議がありました。米国のクーリッジ大統領が提唱しています。ワシントン軍縮会議に続いて、補助艦の制限を狙ったんですけど、日本が反対したので調印はできませんでした。これに応じると日本の防衛はできないと、日本軍部が日本政府代表に主張したんです。

ドイツ権益を継承した日本の租借地(1915年~1922年)だった山東半島には、日本人居留民が多くいます。そこに北伐を進める国民党の国民革命軍が迫りました。1927.5田中義一首相は居留民保護を口実にして山東省へ出兵して、牽制します。これが
1927年-1928年の山東出兵です。第2次・第3次山東出兵も同じ名目で出兵しているんですけど、実際は北伐が完成すると、せっかくの満州に持っていた権益(鉄道敷設権など)を手離さないといけない、それは嫌だと思ったからです。
1928.5には、日本は山東省の西部にある済南へ進出して、国民革命軍と軍事衝突をします。済南(さいなん)事件と言われています。こうした情勢に、中国では反日運動がさらに盛り上がって、日本人が襲われたりします。1929.3日本軍は済南から撤退します。つまり成果がなかったんです。これは英米軍の介入を恐れたためで、軍部からの批判もあって、天皇からも叱責を受けて田中は首相を辞職します。
その後、国民党は山東を避けて北伐を続行します。1928.6北京を離れた満州軍閥の張作霖は日本軍に殺されました。この事件を、当時の日本では、俗に「満洲某重大事件」と言っています。21世紀に入っても曖昧にする表現があるんですけど、現代では明確に「張作霖爆殺事件」と言うべきだと思います。
日本政府は張作霖の軍閥を引き続き傀儡にすることで満洲統治を考えていたんですけど、日本の軍部は張作霖を殺して、満州国を建国して傀儡国家にしようと考えています。
1928.6/8国民党が北京に入城して、北伐が完成します。

この1920年代後半は田中義一、牧野内相、西園寺元老、鈴木侍従長の時期です。権益を維持する幣原協調外交から、北進路線の軍部出身の田中の、軍事力を使って権益拡大の積極外交へ転換していきます。
国内では、1928年に軍人たちの木曜会/無名会という会合ができて、翌年の1929年に一夕会(いっせきかい)という会合も生まれます。メンバーは重なっていますけど、永田鉄山、石原莞爾(北進派。満州事変)、板垣征四郎(石原の上司)、河本大作(張作霖を殺しました)、土肥原賢二、東条英機(戸籍上は「東條」、21世紀の教科書では新字体の「東条」)、鈴木貞一、武藤章などが名を連ねています。

1928年、パリ不戦条約-フランス外相のブリアンと、米国国務長官のケロッグが提唱しました。日米英など15カ国が参加して、戦争の禁止で合意します。但し、「正当防衛は除く」ので実効性はないんですけど、それでも戦争は違法行為だと決めただけでも、将来に向けて大きな価値がある一歩と位置付けられています。ジュネーブは寿府と書くようです。

時系列からずれますけど、加藤高明内閣(1924年-1926年)の時期に重要な出来事が二つあります。
1925年、男性だけの普通選挙法-護憲運動、下からのデモなどの成果として、男性市民が勝ち取りました。政府には不満をそらす目的もありました。25歳以上の成年男子選挙権で、有権者は人口の5.5%から1928年時点で20%に増えました。1928年に、この法が適用された初の選挙が実施されています。
お金持ちかどうかに関わらず選挙権を得たので、普通と言われるんですけど、21世紀初頭の常識で考えると、女性に権利はないので普通とは言えませんね。1945.12にGHQの占領下で女性が選挙権を得て、ようやく普通です。敗戦とGHQがなかったら、日本人だけでは自主的に普通選挙がいつ成立したのかわかりません。
この飴とセットで鞭もあります。
それが1925年に成立した治安維持法です。選挙が実施されたら「共産党が躍進してしまうんではないか?怖い」と思った政府が、共産主義者を取り締まる目的で成立させました。共産主義者はロシア皇帝を死刑にしているので、国体護持、天皇制を守るという口実ですね。結局、不穏分子/政府から見て穏便でない思想を持っている人を、例えば駐車違反などの軽微な罪で説明も証拠もなしに拘留します。上限が29日間と決まっているんですけど、この間に寝かせない、水をかける、竹刀や木刀でたたくなどの拷問をして、ありもしない重罪を自白させて、刑務所に入れます。殺された人もいます。基本的人権は考慮されませんでした。結局、共産主義者でなくても逮捕されるので、こういう法律には市民は反対すべきだ、自分は共産主義者ではないから反対しないなどということが内容にしようというのが、日本人の教訓になっています。これは「私はユダヤ人ではないから、LGDBではないから大丈夫」と思い込んでいたら自分も逮捕されたというナチス時代のドイツ人も経験をしていることです。

言論弾圧・思想統制の歴史をまとめておきます。

組織
内務大臣
―その下に警保局保安課(指揮センター)、外事課、図書課(検閲)
―その下に各府県警察部特高課、外事課の警察署特高(特別高等警察)係、外事係。

1911年、特別高等警察体制が成立したと言われています。各県でいわゆる「特高(とっこう)」が高等課から分離されます。都である東京都の警視庁特高課(特高係・検閲・労働・内鮮/外事課)の人員も増やされていきます。
1911年14人‐1918年30人‐1920年65人‐1928年100人‐1931年128人。
日常的に反政府的な人の名簿を作ったり、落書と発禁物を取締ったりしていました。
1923年の震災後、緊急の治安維持令を作った政府は、1925年に恒常化的な治安維持法を成立させました。日ソ国交樹立で赤化/共産主義化する人が増えないようにと、その宣伝を防止する意味もあったそうです。
1928年、衆議院初の普通選挙で、田中義一内閣は、共産党からの立候補者に対して3・15事件を起こします。1600人を検挙したんです。思想が違うというだけで逮捕して立候補を阻むんです。罪をでっちあげて、選挙期間中は拘留しておきます。民主化の途上国では、21世紀初頭でもこうしたことは頻繁にあります。香港、ミャンマー、エジプトなど枚挙にいとまがありません。
秋の天皇裕仁(ひろひと)即位に対しても万全の体制を取って、治安の予算拡充と、反政府的な活動に対する最高刑を死刑にしたようです。この頃、2ヶ月間で12万人を一斉捜査して、下宿人などを摘発しました。鉄道・船舶に乗り込む移動警察もありました。
犯罪予防の行政に対して、捜査・検挙・取調べの司法、警察という役割の違いがあります。
デモ/デモンストレーション、スト/ストライキが合法の範囲内かどうかは、恣意的/つまり権力者の気分次第でした。
警保局保安課(指揮センター)は右翼、左翼、宗教関係者、内鮮、労働者を対象としています。国「内」にいる朝「鮮」人名簿として20万人を収集しています。なにかやりそうという偏見が既にあるんです。それで、尾行や筆跡収集などもしていました。調書が取れる人間を捕らえて拷問していました。逮捕されると最初から拷問があります。逆さ吊り・煙草押し付け・三角椅子などだそうです。「蟹工船」(1929年)などのプロレタリア文学で有名な小林多喜二も1933年に拷問死しています。お金のためにやむなく違反したのではなくて、非合法とわかってこれが正しいとやってる思想犯だから、容赦しなくていいという認識があったようです。共産党などの団体にはスパイも送り込まれるんですけど、養成したスパイではなくて、組織から没落して、思想転向した人がスパイとして雇われたそうです。
外勤巡査/一般警官の特高化もありました。反戦的な言論、噂、小作争議、吉兆などを言う人間への説諭もしたし、流言飛語、反戦・反軍の思想には思想憲兵がいて、捜査と検挙の権限を付与されていました。
共産党の外郭団体への加入は非合法とされました。戦争に賛成する割合が高いということで、政府が比較的好意的に見ていた右翼も、1928年には3426人を検挙しています。次の時代ですけど、1932年に元大蔵大臣の井上準之助、三井財閥総裁の團琢磨(だんたくま)を殺した血盟団事件、内閣総理大臣の犬養毅を殺した五・一五事件で、監視対象になって、1933年の1万4622人検挙をピークに、1934年には3994人と激減しているので、取り締まりの激しさがわかります。
1932年、1933年は司法官や教員の赤化事件で政府は危機感を持ったようです。特高も国民もこの時期には、とりあえず予防的に恐怖を植えつける方法/検挙するのは大変なので、確実な人だけを検挙へというように変わっています。起訴率は15%から97%へと上がっていることでもそれがわかります。
「暴力行為等処罰に関する法律」は、審議中は「暴力団対策」と若槻首相が言明していたんですけど、労働運動、農民運動にも適用されました。政府、権力者って、こうやって目的以外のことにもすぐに法を適用して悪用するので、明確に条件を定めるように国民は圧力をかけ続けないといけないんですよ、それが民主主義の成立する要件でもあるし、国民の義務でもあります。
1931年、日本が満州事変/満洲事変を起こすと、好戦・反戦の論調が激化していきます。1934年にはレコードを取締りの対象にしていますし、1935年には、出口王仁三郎の大本教を弾圧しています。自分を国王とする考えだから、天皇への不敬罪、国家転覆罪の容疑ということのようです。仏教などの政府公認勢力は、戦争に協力することにしました。
1941年、治安維持法を改正した政府は、各種集団も処罰対象とします。
1941.12には、「言論出版集会結社等臨時取締法」を政府は作っています。アジア・太平洋戦争の時期なので、厭戦/戦争っていやだよねーというような流言飛語を取り締まるんです。もう、「政府はsafeでなくって、outだよねー」なんていう冗談も言えません。
1942年には横浜事件があります。共産党再建計画があると政府が捏造して、新聞記者、雑誌編集者が神奈川県警に逮捕されて4人が殺された事件です。生き残った元容疑者は戦後、再審の要求をして、2010年に「冤罪だった」ということで一応解決しています。政府は戦後になって、責任追及をされないように、この事件の資料を捨ててしまいました。名誉回復も難しくなるので、政府は重要な資料を長期間破棄してはいけないとうことは、民主主義においては常識です。そして、政府に雇われている人間は隠そう、捨てようとするのも常識です。戦前は天皇の臣下として、天皇を裏切っているし、戦後は国民に仕えているのに最低の人ですよね。
1943年にイタリアが降伏すると、講和思想を取締ります。
1944.8.14ポツダム宣言を受諾するという廟議を曲解して、つまり天皇が参加した会議で降伏と決めたのに、あえて変に解釈して、降伏などしないということで、異論を取り締まったんです。
戦後も国体/天皇制を維持するために、特高体制は続きます。証拠隠滅のため資料を焼却したり、人事異動/他の部署に異動したり、小林多喜二を殺した毛利基は退職したり、勝手に任地を離れたりします。
10/5特高機能停止の通牒があって、、10/15治安維持法が廃止されます。
ただ、1945.12には公安課が作られています。「民主化を助けて、占領軍を支援する」という名目で、内実の思想はまるで変わっていません。
1952年には、反対運動もある中で破壊活動防止法(=治安維持法)が成立します。
1958年、警察官職務執行法改正に対する反対運動があります。刑事犯罪よりも大衆運動取締りを目的としているからです。国民を守るための警察ではなくて、国民を押さえつけるためにあるというのがはっきりする法律です。

有名人たちのどんちゃん騒ぎはこういう感じで、ここからは基層の人について書きます。大正/1926.12/25から昭和/1926.12/26へという時代でもあります。
この時期の寿命は、日清戦争期~昭和初期まで男女とも45歳程度です。大正中期1920年代から死亡率、出生率が同時に下がっています。都市は自然増加して、15歳~20歳の人たちの大都市流入がありました。お金を持っていないので租税担保力は低いんですけど、教育社会事業コストは高いという世代です。都市で労働市場が拡大したので、割に合わない小作地農家が、小作料の減免などの小作争議を起こしてもいました。
製造業では15年間で1.7倍の個人所得上昇の時期で、消費ができるから大衆文化・都市化・洋風化が進みました。パン、洋菓子、ハム、コーヒー、洋服、文化住宅、立ち働きできる台所などが普及したし、長距離送電が可能になったので、電車通勤も普及して、扇風機などの電化製品も普及しました。
カフェー、バーにダンス、おしゃれなモボ・モガ/モダンボーイとモダンガールも登場します。ストラップ付の中程度の高さのヒールを持つパンプスが流行していました。職業婦人も増えて、着物よりは仕事がしやすいのかな、洋装が更に広まります。
1910年代は、洋服は値が張るので一般的ではなくて、特別なおしゃれ、21世紀初頭のグッチ、プラダ、シャネル、エルメス、アナスイのようなブランド品に相当する感覚です。
1929年の夏は、猛暑だったので安くて着やすいアッパッパが大阪を発信地として流行ししました。日本では、洋装の一般化の契機だったそうです。アッパッパと言うのは、人形でも有名な「くいだおれ」の創業者 山田六郎が考案した木綿のワンピースのことです。、裾がぱっぱと広がるから、ハバード母さんのドレスの訛りだからと、由来はいくつかあるようです。
音楽レコードが初期の浪花節から、1914年には松井須磨子の「カチューシャの歌」が発売されています。女優が歌うという日本特有の流行歌現象の原点なのかな。特有でもないのかな。

大正三美人という人が有名なので書いておきます。柳原白蓮は、歌人です。27歳の時に、52歳の炭鉱王の伊藤伝右衛門と再婚します。けれど、白蓮事件を起こしました。男と駆け落ちして、夫への公開絶縁状を発表したんです。九条武子は、大正天皇の従妹で、京都西本願寺法主(ほっす)二十一世 大谷光尊の娘です。兄の大谷光瑞はシルクロード探検で有名な人です。夫は男爵の九条良致(貞明皇后の弟)でした。短歌を佐々木信綱、絵画を上村松園に学んだそうです。三人目が林きむ子という料亭の娘で、代議士の妻となったそうです。
1922年には全国水平社ができて、被差別部落解放運動を始めています。昔の、穢多(えた)、非人がまとまって住むことを強制されていた部落/集落はこの頃でも差別されていたんです。こうした被差別部落に住む人たちを、水平、平等に待遇しようということです。
1923年、関東大震災の年には、有島武郎が自死しています。12月には、難波大助が皇太子を襲撃(無傷)しました。この後、裕仁は人前に出るのをやめて、閉鎖的生活へ戻っっています。この事件を受けて、山本権兵衛内閣は引責解散したし、後藤新平も復興院総裁を辞職しました。
1924年には、カフェー(ライオンなど)がキャバクラ化したそうです。女給は無給で、チップが報酬だったようで、風俗営業の特殊喫茶と一線を画すために「純喫茶」が登場したのも、この頃のようです。
この年には選挙で初めて政権交代がありました。民主主義の深化を示すとも言えます。民主主義が浅いというのは、戦後の1955年から野合した自民党が1993年まで与党だったような状態を言います。開発独裁でもあったんですけど、「他にいい候補者がない」「上司に頼まれたから」「周りもあの人に入れているから」「お金をもらったから」「同級生だから」「なんとなく」、という理由で投票するのは、民主主義を衰弱させることになるんですけどね。「実績があって、行動力があって、人柄が信頼できて、公約が現実的で、私の価値観、政策と一致しているから投票する」ということが民主主義が成立する基盤だと
思います。」面倒かもしれないけれど、誰かに支配されるよりはましです。

1926年には、円本ブームがあります。震災後の不況で倒産の危機にある改造社が、一冊一円(21世紀初頭なら4千円くらいの感じ)の円本/えんぼんと言われるシリーズを出しました。これが売れたので、二匹目のドジョウを狙って、日本や世界の文学全集を各社が競って出版します。これが後の「文庫」の起点と言われています。
その文学>では、横光利一、宮本百合子「貧しき人々の群」「道標」、有島武郎「或る女」、菊池寛「真珠婦人」、中里介山「大菩薩峠」、大佛(おさらぎ)次郎「鞍馬天狗」などがたくさんの人に読まれたようです。
共産主義の影響で、プロレタリア文学/労働者を描く文学が増えました。小林多喜二「蟹工船」が典型で、細井和書蔵 の「女工哀史」も有名です。
詩歌では北原白秋、西城八十(やそ)、金子光晴、島崎藤村が活躍していました。
外国文学では「若きウェルテルの悩み」(ゲーテ)「ナナ」(ゾラ)、「レミゼラブル」(ヴィクトル・ユーゴー)が日本語訳されたり、1923年には「相対性理論」(アインシュタイン)がベストセラーになっています。「相対(あいたい)」は男女関係の言葉で、それに「性」という字がつくので、誤解されて非難されたり、却って興味をそそったりしたそうです。ノンフィクションではムッソリーニを英雄として描く「ムッソリニ傳」(大日本雄辯會講談社)がこの時期に澤田謙によって書かれています。

建築面では、1922年時点で東京の借家住宅は90%以上でした。つまり、地方からやってくる人が多いとわかります。武家屋敷を継承する応接間中心の家から、家族の憩いの場としての居間を中心とした住宅へ変わる時期です。椅子生活が提唱されて普及するのは1920年頃からのようです。
地震に強くて火事にも強い不燃性の鉄筋コンクリートは、1885年の琵琶湖疏水、鉄道の発展で必要になった橋梁にも利用されるし、、住宅では1910年代の軍艦島/端島がありました。けれど、学校や役所などの公共建築では稀だったようです。それが1923年の関東大震災で変わります。このとき、全壊家屋は12万もありました。それでこれまでのレンガ造りから、地震に強いと見なされた頑強な鉄筋コンクリートへと、公共建築の流れが変わります。鉄材の国産化は、日清戦争の賠償金で建てた八幡製鉄所(1901年-)が中心になります。復興院総裁の後藤新平の復興都市計画も有名ですね。
都心部では地域コミュニティ兼避難場所になる公園付きの校舎を持つ復興小学校が、日本近代建築運動の先駆けの分離派によって具現化されます。東京の九段小学校、早稲田小学校、銀座の泰明小学校などは21世紀初頭にも現存しいています。1925年に建てられた東京大学の安田講堂は、岸田日出刀が設計したもので、象徴的なものとしてタワーを造形しています。実用性をなくした教会の尖塔のようなものですね。中之郷(墨田区)、代官山や青山などに電気・ガス・水道・水洗式トイレを備える同潤会アパートが作られたのもこの時期です。
延焼防止と将来の車社会に対応できる30m超の幅広な道路計画で44m幅の昭和通、36m幅の靖国通なども作られたし、こうした区画整理で、家の前の道幅が広くなったので、家の敷地を削られました。却って奥行きの短くなる敷地が増えたんです。
隅田公園や山下公園、日比谷公会堂もこの時期に作られました。
震災後の復興の第二段階としての環状道路1-8号計画も作られます。虎ノ門-新橋間は、天皇の諮問機関である枢密院のメンバーで、銀座の大地主と呼ばれた伊東巳代治が反対したので、計画は頓挫しました。けど、必要なくなったのに国土交通省が権力、予算を維持しようとして、亡霊のように計画を撤回せず、開通させたのが2014年です。いかに政府が時代に合わせる感覚がなくて、一度立てた計画に執着するかがわかる一例です。1949年に水害対策として計画された八ッ場ダムが、飲料水、発電などの口実を加えながら2015年に着工するなど、枚挙にいとまがありません。仕事がなくなると権限も縮小されるので、省庁で給与を受け取っている役人は、国民の為ではなくて、自分たちのためにこういうことをしています。そう言えば、2022年にも国土交通省で給与を受け取っている役人たちが基幹統計のデータの書き換えを何年もやってきたことが露見しましたね。国民が給与を払って雇っているのに、まともな仕事をしていません。きちんと監視しないといけません。監視役が、国会議員から選抜される大臣なんですけどね。

1927年、地下鉄銀座線が開通します。

市街地建築法は地震を意識して、30mの高さ制限を課しています。それでも鉄筋コンクリート/RC構造や、骨組みが鉄の鉄骨構造で日本建築が表現されていきます。1925年には、東京歌舞伎座が岡田信一郎によって、1921年にはRC構造で校倉造りを意識した明治神宮宝物館が大江新太郎によって設計されています。
1923年、帝国ホテル新館の建設にはフランク・ロイドライトが関わって、アールデコの食器もデザインしました。
この時期には洗練されたプロの食器、家具ではなく、日常使いの素人の工芸品に目を向けようという民芸運動によって、農家や町屋への関心が高まっています。それに加えて、地域性を重視するアムステルダム派も活動もあったり、ブルーノ・タウトによる桂離宮、白川郷の高評価などがあって、「日本的な空間とはなんだ?」ということが考えられたそうです。堀口捨己は1925年に小出邸を瓦葺で建てているし、1927年の紫烟(しいん)荘は畳敷きの座敷など日本の素材を使っています。先の時代ですけど、吉田五十八(いそや)が1944年に自邸、1967年に猪股邸を数寄屋建築の概念を利用して、さらに外空間とも、中空間同士も連続するという和、分断/モダニズム、柱を見せない壁、畳と椅子の併存に成功します。これは第二次世界大戦後、一戸建ての定型の一つになります。
他に、高橋貞太郎が帝国大学の学生の同窓会組織の会場として、1913年に焼けてしまった学士会館の新築(1928年)、前田侯爵邸を設計したり、のちに日本橋高島屋、川奈ホテル、帝国ホテル新館なども手掛けます。

西ヨーロッパでは第一次大戦後は、未来派など経て、モダニズム/現代主義/近代主義へ移行しています。モンドリアンが水平線と垂直線の抽象画を描くと、これを建築化する人が登場しました。雨や雪が多いので、屋根を傾斜させて、水平をあまり意識しない和とは違いますね。縦の柱+水平の床を基本にするシンプルで安価で早く作れる建築が、当初のモダニズムでした。ル・コルビジェは、1914年に周囲の柱と何階か分の層にする床だけの基礎構造であるドミノシステムを提唱しているし、ミースも、バウハウスで民族や地域を問わない普遍的建築を主張していました。ミースは広大な空間に、自由に間仕切りを配置するユニバーサルスペースを提唱していて、これが日本にも影響するんです。1910年代から本社機能と貸し部屋を融合して上下に配置するビルが登場します。1923年、丸の内ビルジング(丸ビル。8階建て)が敷地いっぱいに建てられます。1929年の三井本館は、水平と垂直の両方を意識する建築です。

絵画では、1917年にフュウザン会が結成されています。岸田劉生、萬鉄五郎、高村光太郎がメンバーです。
1919年には竹久夢二が「黒船屋」を描いています。和洋折衷、洋風のポーズで絵画やポスター、挿絵などに活躍した夢二は、大正ロマンの象徴的な人ですね。
書籍で海外を知ることが多かった時代から、実際に海外に行って現地を知る画家が多く現れる時期でもあります。1920年代、エコール・ド・パリと言われた時期に、藤田嗣治/レオナール・フジタがいます。おかっぱでロイド眼鏡がシンボルです。東京美術学校で、写実的で自然主義の黒田清輝に師事して、26歳でパリへ行きます。パリ到着二日後にピカソを訪ねたそうです。型にはまったアカデミーではなくて、自分で学ぶためにモンパルナスに住みました。絵画の自由さ、変革していく様を見て、黒田から学んだ画風を捨てました。大戦後、サロンが再開されると入選が続いたようです。輪郭線の外側に、ぼんやりとオーラのような白のよごしを入れたり、墨を使ったりと、素晴らしく目立つ白が高評価されました。発想は浮世絵にあったようで、浮世絵の晴信、歌麿などは紙の色を残していたんですけど、藤田は、まず肌の色をカンバスに塗ってから絵を描いたようです。
世界恐慌で狂乱の時代が終わると、絵の値段が下がって、画風を変えたり、南米に3年いて、色彩を多くしたりと変わっていきます。1930年代後半に日本へ戻ると、戦争画を描きました。

1924年にアンドレ・ブルトンが「シュールレアリスム宣言」をすると、日本では古賀春江などへ影響します。一方で、浮世絵の流れをくむ美人画の鏑木清方も健在で「朝涼」を描いています。写実と様式美の調和を訴えていた速水御舟は「炎舞」を描きます。版画はより大きくなって、伊東深水の美人画、風景画の川瀬巴水などが台頭しています。江戸期には絵師、彫師、摺師の分業だった版画ですけど、注文制作のメーカーではなくて、芸術家の自己表現としての版画が主流になったのは大正時代です。

工芸では、日野厚が瀬戸で国際的な感性を日本人に指導しています。農務省主催の展覧会などで、技術よりデザインへの時代も開きました。澤田宗山が有名です。富本憲吉、河合卯之助は日用品のデザインに尽力して、富本に弟子入りしたバーナード・リーチは民芸運動を起こします。
西洋建築が増えたので、英国からの輸入に代わって、国産タイル製造も普及します。照明も陶器で作られるようになりました。1914年から数年間は大戦で、ドイツ製品の磁器人形が作られなくなったので、代わりに日本が輸出をしています。

この時期には、芸術というものが一般に認知されたので、臨時の施設でなくて、恒久の展示施設/陳列館が作られます。資生堂の陳列館は画廊の先駆けになりました。

舞台では、土方与志と小山内薫が1924年に築地小劇場を開設しています。日本初の新劇の常設劇場です。新劇は歌舞伎などの江戸期を継承しない、一線を画した演劇の意味で、ここに日本の現代演劇が始まると言われています。当初は、チェーホフなどの海外戯曲を上演していました。メンバーの千田是也(演出・俳優)は前衛座を結成します。なぜかわからないんですけど、当時は左翼的思想を持つ演劇人が多かったそうです。セリフにのせて大っぴらに政府を批判できるからかな。
古川ロッパはお笑いで活躍します。戦後も活躍しますね。

生け花では、勅使河原蒼風(てしがはら そうふう)が1927年、生け花の草月風を創始します。従来の定型を否定して、自由な生け花を主張したり、デモンストレーションも行いました。子孫が1977年、丹下健三の設計で、イサムノグチの石庭もある草月会館を建設して、生け花文化を発信しています。
映像では、1921年植田竹翁、不動健治などが「藝術冩眞」を刊行しています。以降、写真雑誌や写真集が出るようになります。福原信三の写真集「巴里とセイヌ」は話題になったそうです。1923年、報道写真の原点「アサヒグラフ」が創刊されます。
映画は演劇を撮影するだけという時代は終わって、脱演劇の時代になっていきました。舞台脚本をシナリオ、女形を女優と言うようになったのもこの時期です。クロースアップなどの映画的な技法も生まれました。女性のヌードシーンも撮影されたそうです。

テクノロジー面では、一部の都会に限りますけど、1925年3/22にラジオ放送が開始されました。「JOAK、JOAKこちらは東京放送局であります。 」が有名ですね。新聞と違って速報性があるので、1927年の甲子園中継、相撲の実況などは人気を呼びました。電化住宅と言われて、1928年には電気洗濯機(国産は1930年)が導入されました。1926年になると、電話は交換手でなくて、自動交換方式が採用されます。1979年に、全国への普及が完了したそうです。紙芝居や貸本マンガは日本のオリジナル文化で、この時期からなの
かな。

□沖縄
不況で一大産業の製糖が不振に陥ると、人身売買、南洋への移民、大阪などへの出稼ぎ者が急増しました。21世紀初頭でも大阪、パラオなどには沖縄出身者が多いようです。沖縄では食べるにも困って、毒のあるソテツでも食べるから「ソテツ地獄」と言われました。

□□太平洋

大戦後は、英連邦のオーストラリアがニューギニア北部、ビスマルク諸島をドイツから奪って委任統治をします。
ビスマルク諸島は、ラバウルのあるバナナ状の島を含みます。その南東に並ぶブーゲンビル島などを地理的名称として含むソロモン諸島とは別です。21世紀初頭、ソロモン諸島という国が独立して存在していて、ブーゲンビル島はパプア・ニューギニアの領土になっています。

皆伝24 ドイツ領太平洋の島の委任統治 - コピー

□パプアニューギニア
戦時中にオーストラリアが進駐していたので、第一次世界大戦にドイツが負けると、島の東北部(ドイツ領ニューギニア)に関して協議されて、国際連盟はオーストラリアの委任統治領としました。

今回は1914年-1929年を書きました。
次回は1929年-1939年を書きます。
世界恐慌の影響で、米英仏は保護貿易に走って引きこもります。ソ連は初めから引きこもっていて悪影響はなく、米英仏に近づきます。ドイツ、イタリア、日本は引きこもるだけの経済圏を持たないので、武力で打開しようとして、ファシズム、軍政など、国民への締め付けを強めて、戦争へと向かいます。第二次世界大戦の直前です。そんな時代です。
次回の皆伝25はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/n3d892aaa2350

大戦がわかった、大戦でドイツ帝国、ハプスブルク帝国、ロシア帝国、オスマン帝国が滅んだことが分かった、なぜムッソリーニが台頭してくるかが理解できた、米国の繁栄の理由がわかった、英国のインド統治への抵抗運動を理解できた、中国の袁世凱後の流れが面白かった、目からうろこもコンタクトも落ちたと思ったりしたら、下にあるスキ(♡です)を押したり、本郷りんのツイッターをフォローしたりしてくださると嬉しいです。
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これからも学んでいく費用に使いたいと思います。

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ヴァーチャル受験生の本郷りんです。東京の大学を目指しています。塾の先生が、「人に教えると理解が深くなるし、記憶に残りやすく、思い出しやすくなる」と言うので、妹に教えています。せっかくなので授業で書いたノートをもとにnoteでも書いていこうと思います。