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第76話 小説『土人形』 (BJ・お題 『土』)


 親戚のおばさんが死んだとき、葬式でお坊さんの説教があった。

「…体と土は二つにして二つにあらず。人というものは土からできています。そしてそれがまた土に帰ります…」

 ああ、あの神話を、まさかお坊さんから聞くなんて。暑い夏の、雨の降りそうなあの日のことを思い出してしまう。
 僕は五年二組の教室で、おそろしく曇った空を見上げながら、ひとり惇生を待っていた。



 惇生は、これといって変わったところのない男子だったけれど、友達が少なかった。お父さんがいない、ということは噂で知っていた。うちのクラスの男子は、女子のようにグループに別れていた。小さな三、四人のグループ。いじめとかそんなんじゃなく、ただ、僕はそれらのグループからなんとなくはみ出ていた。だから休み時間はとても退屈だった。そんなにウマが合いそうではなかったけれど、あの、顔が縦長で赤い、無口な惇生に声をかけた。彼もどのグループからも「余って」いたから。
 惇生は一見愛想が良くなかった。だけど、挨拶を返さないというようなこともなかった。小さな声で必ず応えてくれた。僕が声をかけつづけると、彼も話をしてくれるようになった。
 僕は、惇生の家にときどき遊びに行くようになった。大きな公園が近くにある二階建てマンションの一階だった。彼はキャッチボールやサッカーや、あるいはただ延々と自転車を乗り回すことを好んだ。休日になると、昼時をはさんで遊びつづけることもあった。そんなとき、小柄でやせた、アロハみたいな服を着た惇生のお母さんが、窓から身を乗り出して公園にいる僕らに声をかけ「昼でも食べてきゃいいじゃん」と言って、僕を昼食に招待するのだった。
 彼の家に入ると、ときどき妙な足音がした。それで「今、なにか音がしなかったか」と尋ねると、彼は「べつに」と言った。それ以上の説明を求めることはできなかった。お母さんが「ははは」と明るく笑って、テレビの音量を大きくした。
 やがてその音の正体を知ることになった。
 妙に笑顔になる女の人だった。まるでカメラマンに写真を撮られているグラビアアイドルかのように。ま、そういう現場を見たわけじゃないので想像だけど。惇生のお姉さんは、炎天下の中、マンションの部屋の裏にある庭のようなスペースで、小さな花壇や鉢に植えてある花を見て、笑っていた。高校生くらいじゃないかと思われた。薄いアロハのようなピンクの花柄のシャツを着ていた。髪はショートだった。あと、裸足だった。
 惇生の部屋の窓からその姿を見て僕は「お姉ちゃん?」と聞いてみた。
 惇生は「学校に、行ってないんだ」とだけ言った。ああ、と僕は答えた。あまり触れてはいけない話題のように思えた。
 もう一度窓から覗いた。鼻筋の通った、瞳が深い黒の女の人だった。
 「事故にあってから、そうかな」
 「え?事故って、交通事故?」
 そこで惇生はそっぽを向いた。それ以上は語ってくれなさそうだった。
 僕はお姉さんのことがやけに気になった。家の裏庭で、裸足で、それもかなりの薄着で過ごしている、笑っているお姉さん。


 僕は次に惇生の家に行ったとき、公園にまだ惇生がいないのを確認すると、こっそり彼のマンションのほうに向かった。あの裏庭に行くことを考えていた。お姉さんを、見たかったのだ。
 惇生のマンションに行ってしまうと、惇生に鉢合わせしてしまうかもしれない。僕は、惇生のマンションの隣にあるマンションの棟と棟のに挟まれた人がようやくひとり通れそうな隙間を通して、惇生のマンションのほうへと行った。
 案の定、裏庭にたどり着くことができた。やはりお姉さんは、以前も見たような、ピンクのアロハのような柄のシャツを着ていて、裏庭で動き回っていた。僕はこっそりその様子を覗いた。お姉さんはちょうど後ろ向きになってこちらからはなにをしているか判らなかったが、背中から上が動いているのが判った。それから、お姉さんがこちらを向いた。目があった。お姉さんは、笑った。
 そのときだ。彼女の胸が、急に大きくなった。見まちがえかもしれないが、サイズがふたつばかり大きくなったように見えたのである。僕はたちまち目を奪われた。お姉さんはそれを見て、ますます笑った。僕は逃げるようにその場を後にした。


 また別の、夏の日のことだ。惇生と僕がいつものように放課後、自転車で公園の遊具の上を走るという、本当は禁止されていることをして遊んでいたとき、雲行きがあやしくなった。
 「降るね」
 僕は自転車で来ていたので天気を心配したのだが、惇生は舌打ちをした。
 「ちょっと、俺、もう戻らなくちゃならないから」
 惇生の家の近くの公園にいたから、彼の家で雨宿りをさせてもらえないかと僕は思った。だけど彼は、急いで自分だけ家に戻ろうとしていた。
 彼を呼び止め、どうしたのか聞こうかと思った。洗濯物の取り込みでも任されているのだろうか。だが、もっとなにか別な差し迫った理由があるような気がした。それで僕は敢えて「じゃあね」と言った。尋ねると正直に答えてもらえず、むしろ隠されてしまうような気がしたのだ。
 あの常に笑顔でいるお姉さんと関係がある、とピンときた。
 僕は家に帰る方向に自転車を向けかけた。後ろで惇生が焦って去っていく音を確認した。僕は振り返って、彼とは逆方向から惇生のマンションのほうに向かった。
 空は急に黒くなっていた。それから水の降る線が目に見えるかのように、勢いよく雨が降ってきた。土煙をあげて水滴が地面を打つと、火薬のような匂いがした。そのあたりの土の、独特な匂いのようであった。
 惇生のマンションの隣のマンションの敷地内に入った。例の隙間を通った。幸いその隙間には、雨はあまり入り込まなかった。少しずつ、裏庭に近づいていった。
 ガサガサという音がした。それが気になって僕はもっと近づき、裏庭に少しだけ顔を出した。
 ちょうど背を向けてお姉さんが立っていた。
 惇生が裏庭に表のほうから無言でやってきて、僕は一度顔を引っ込め死角に入った。雨がさらに振り、地面に当たる音が騒がしくなった。
 お姉さんの笑い声が聞こえた。僕はまたそっと顔を出した。
 惇生はお姉さんの手を引いていた。お姉さんは逆らうほどまでのことはしないものの、気まぐれに足元の花に目をやり、またしゃがみ込み、あるいはまた立って、蝶が飛んでくると追いかけて、そんなことをくり返した。
 彼女のそれまでいた場所が目に入った。花びらが散っていたり、踏まれていたりして荒れていた。
 その理由が判った。彼女は、再び屈むと、花ごと土を口に入れたのである。惇生がそれを止めるかと思いきや、「ほら、濡れるから」と言ったのである。それが妙であった。自分の姉が庭の土を食うことを異常だと思っておらず、それよりも雨を恐れていたのだ。
 彼女の服が濡れていくのに目が止まった。衣服は肌に張りついていく。それが体のラインを露わにしていくのであるが、服が黒く染まるのである。汚い、と僕は思った。やがて顔の皮膚が崩れていくのを見た。化粧でも解けたのかと思った。だが惇生は「ほら」と言った。するとまた彼女は土を食らったのである。そのとき、指がぼろぼろになって先端が欠けているのが見えた。
 僕は思わずなんらかのリアクションをしてしまったのだろう。お姉さんが笑いを止めて、ゆっくり振り返った。最初に見えたのはギョロリとした目であった。その周囲の肌は溶けていた。頬などは大きく崩れつつあった。
 そのお姉さんの視線を追って、惇生が僕に気づいた。
 僕は後ずさりして、そのまま走り出し、隣のマンションの壁に立てかけてあった自転車に飛び乗った。
 それから豪雨となった。



 その後しばらく、僕は惇生と話さなかった。お姉さんのことが気になっていた。



 ある休み時間、僕は読む本もなく、話す相手もなく、窓の外を見ていた。そのとき後ろから、惇生に声をかけられた。
 「今日は雨だって」
 そのひとことに、僕はあの日のことを思い出さないわけがない。彼もそれを意識して言ったのだろう。
 「そうだろうね」
 とりあえずそう答えておいた。
 「ちょっとつきあってくれないか。放課後。教室でいい」
 惇生が言った。ああ、と僕は答えた。そうするしかなかった。



 教室で待った。人がいなくなってからでしか話せないことがあるのだろう。彼はなぜか一度教室を出たので、自分一人がそこに残っていた。雷が三度落ち、やがて静かな雨になった。電気のついていない教室は淋しかった。
 やがて惇生は、買い物のときに使いそうな手提げ袋を持って現れた。体が少し濡れていた。僕は話のよいきっかけになると思って、
 「どこか行っていたの」
 と聞いた。待たされていたのだし、それくらい聞いても不自然ではないだろう。
 「そうだ」
 彼は言いながら、「これ」とぶっきらぼうに手提げ袋に入っていたものを出した。
 彼が見せてくれたのは本だった。『チベット密教の秘法』『仙道』『陰陽道の秘儀』というタイトルの本で、どれも古めかしいものだった。僕は彼がそういう本を、いや、そういう本じゃなくてもその手の活字を読むということを意外に思った。
 「こういうの好きなの」
 僕は慎重に言葉を選んだ。
 「これとこれはうちにあったんだ。こっちは、字が難しくて読めな似たような本があったから、似たような題名の本を自分で買った」
 彼が買ったと言ったのは『陰陽道の秘儀』という、その中ではまだ読みやすそうな一冊だ。彼が見てくれと言ったのは、その本の一ページに書かれた、コラムと題された小さな囲み記事であった。
 「うちの母さんがさ、姉ちゃんを作ったと思うんだよ」
 え?と僕は聞き返した。
 「子供って、そりゃ作るもんだろう?」
 言って僕は顔が赤くなった。なにを言わせるんだ。でも、今はふざけたことを言う空気じゃなかった。僕は話を聞くことにした。
 「普通に作ったんじゃないよ。土から作ったんだよ」
 惇生は真面目な顔をして言った。冗談を言うようなやつじゃない。
 とにかく進められるままに本を読んでみた。すると、世の中には多くの伝説があって、その中には、人造人間の伝説というものが世界各地にあるという。ユダヤ教のゴーレム、中国の仙道の陽神、チベット密教のタルパ、日本の陰陽道の式神……どれにも言えるのは、人が霊力などを土に込めることによって、実体化した動く人形を作って操ることができる、ということであった。
 「母さんは、これをやったんだよ。まちがいない」
 そんな話は、普通なら信じることはできなかっただろう。でも僕は惇生のお姉さんが土を食べていたこと、それで体の形が変わったのを見ていた。
 「おかしいとは思ったんだよ。ずっと、姉ちゃんは病気だから土を食っているんだって思っていたんだ。だけど、人は土は食べないよ。レンガじゃあるまいし、人は土なんかじゃできていない。なのに姉ちゃんは、濡れたものは食べられない。替わりに土とか花とか虫とかを平気で食べてしまう。きっとお母さんは、秘密の方法を使ってお姉ちゃんを作っちゃったんだ。だから姉ちゃんはそんなに賢くないんだ。庭で一日中過ごしていて、土を食べて。雨が降ったらもうどろどろに溶けちゃってすごいんだよ。家の中も泥だらけになっっちゃうんだから。溶けちゃわないように俺が姉ちゃんを家の中に入れることになっているんだ」
 惇生はこうも言った。
 「家の奥にはね、おじいちゃんとおばあちゃんもいるんだ。本当は死んだんだと思う。でもお母さんが、作ったんだ。だから家の奥でずっと過ごしているんだ。ほとんど動かないけれど、死にもしないんだ。だって人形なんだから。土でできた人形なんだから」
 僕は怖くなった。お母さんは、家族が死んだのが悲しくて、いつまでも忘れられなくって、そのまま家族を生かす方法を見つけてそれを本当にやってしまったということだろうか。
 「そういえばさ。惇生のお父さんって、どうしていないの」
 僕は踏み込んで聞いてみた。
 「お父さんは、溶けた」
 やはりこの土人形の話と関係があったのだ。惇生のお父さんも土人形で、ある日風呂に入ってそのまま溶けてしまったのだという。
 「お母さんから聞いた話だけどね。僕はお父さんの顔を、直接見たことはないんだ」
 とにかく、あのお姉さんが土の人形なんだという話は、僕には半分くらい信じることができた。
 「あの、雨が降っているけれど、大丈夫?」
 窓から見下ろすと、グランドには雨が降り注ぎ、土色の水溜まりができていた。
 「今日はお母さんが出かけている。お姉ちゃんが庭にいるはずだ」
 「行かなくて、いいの」
 僕は恐るおそる聞いた。なにかとんでもない結果が待ち構えているような気がした。
 「いいんだ。っていうか、本当は、お姉ちゃんを外に出してきたんだ」
 僕はなにをどう言ったらいいか判らなかった。そんなことをしたらお姉ちゃんが死んでしまう。人を殺すなんて、と思ってから考え直した。
 ーー人ではないのかもしれないーー
 それでも、人の形をして動くものを殺して(?)しまうのはいけないことのような気がした。お母さんも悲しむんじゃないだろうか。
 雨がひどくなって、僕らは空を見上げた。しばらくふたり黙り込んだ後、結局僕らは、裏庭に行くことになった。



 裏庭には、大きな水溜りができていた。全体がひどくぬかるんでいた。お姉さんの姿はなかった。もう、地面に溶け込んでいたのかもしれなかった。あるいは、どこかに逃げたのか。



 惇生のお姉ちゃんは行方不明となった。惇生は、知らない間に姉ちゃんがどこかに行ったんだ、の一点張りで、お母さんに通したらしい。それから少しごたごたしたらしいが(警察も来ていた)、やがて惇生は転校することになった。



 僕は惇生が転校する直前に、お別れをするために惇生の家に行った。お母さんがいて、とても怖かった。本当に惇生のお母さんが土人形を作ったのか。そんな秘術を知っているのか。もしそうならば……。直接聞くのは怖すぎた。
 居間でテレビがついていて、なにげなくみんなで見ていた。すると惇生がトイレに行った。僕は惇生のお母さんに尋ねてみた。
 「あの、おばさんって、なにをしている人ですか。仕事とか」
 遠回しな質問だった。きっとこんなことを尋ねても、核心には迫れないだろう。そう思っていたら、
 「年金生活者なの。年金で生活できるの」
 そのときの僕には、よく意味が判らなかった。



 あれから年月が過ぎ、僕は高校生になった。今さらあのときのことを思い出す。
 もう年金生活者という意味もよくわかる。こういうことだろう。
 惇生のおじいさんと、おばあさん、それと障害のあるお姉ちゃん。家族の年金が手に入るから、惇生の家族は、それだけで生活ができてしまうのだろう。
 惇生と僕はあのとき、惇生のお母さんは家族が死んだのが淋しくて生きる土人形を作ってしまったのだと理解していた。でも違う。年金をもらうためには、家族が生きていることになっていなければならない。だから死体を隠して、替わりに土人形を作って家に住まわせていたのではないだろうか。
 そんな僕の推測は、半分くらいは当たっていたと思う。だが、それだけではなかった。


 八月。夏休みに入って僕は、一通の暑中見舞いを受け取った。惇生からだった。なんて久しぶりだ。そこにはこう書かれていた。
 『母さん、溶けちゃってさ』
 そうか。お母さんもか。
あいつの家族で、溶けなかったのはあいつだけだ。あいつの顔は赤い。
 昔、惇生から聞いたセリフを思い出した。「だけど、人は土は食べないよ。レンガじゃあるまいし、人は土なんかじゃできていないんだ」
 あのとき、少し意味を図りかねていた。レンガは土を食ってできる、人は土を食べないけれど、そんな比喩だったのかと思った。違う。
 惇生は、人はレンガを食えると思っていたんじゃないかと思う。そう。あいつも土でできていたんだ。でも、土は土でも、レンガ製だったんだ。あいつ、レンガを食えるんだ。レンガ製だから、あいつだけは濡れても溶けないんだ。
 もう、だれがだれを作ったのか判らないな。もしかしたらあいつも、家族を「作ったり」するのかな。
 写真に写っている惇生は、海パン一丁で赤々とした厚い胸板を晒しながら、海辺に立って笑っていた。

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