「授業」と「講義」と「実習」と

今日は土曜日。大学は行っていないし、当然授業を受けたわけでもないけれど、今日は「授業」と「講義」と「実習」について、もう少し詳しく考えてみたいと思う。

高校までは、学校のカリキュラムの全てが「授業」だった。基本的には全員が全部の授業に出るし(※不登校とかはこの際除いて考える)、成績評価(or進学)に必要な授業とそうではない授業を分ける意味もないのだろう。

だから、化学とか物理とかで実験をする時も「実験の授業」だったし、どんなに面倒くさそうで不必要そうな授業だって、ちゃんと全員が出席していた(寝てる奴とかはいるにしろ)。「講義」と「実習」の区別があんまりされていなかったような気がする。

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それに比べて、大学では割とはっきりと、「講義」と「実習」が分かれている。少なくとも僕の観測する限りでは、そのような気がする。

ひとまず、「講義」と「実習」を合わせた総称を「授業」と定義することにしたい。これについては多くの人から同意を得られるんじゃなかろうか。まあ他にも「ゼミ」とか「研究室」的な授業(輪講?)もあるだろうけど、まあ学年の低い間は存在しないし、この際無視して扱う。

それじゃあ、大学における「講義」と「実習」は、どう区別すればいいんだろうか。

体感的なことを言えば、「講義」は先生のお話を(メモ取りつつ)聞くもの、「実習」はプリントなり実習書なりの指示に従って手を動かしたり考えたりするもの、というイメージだ。もちろん、実習における「指示」には、「自分で方法を考えてみよう♪」みたいな「指示」も存在するけれど。

講義における先生の話は、その先生の研究内容とか独自のものもあったりするけれど、大抵の場合は教科書を読めば学習できるような内容だ。先生の研究内容だって、その先生の論文(英語のことも多いが)を読めば勉強できなくはないだろう。図書館を積極的に使っていこうな。

反面、「実習」はどうだろう。

例として、医学部の人体解剖実習を挙げたい。換気扇がうるさいくらいに回った部屋の中、ステンレス台の上に、ホルマリン漬けになったご献体が安置されている。医学生たちは、『グレイ』だの『ネッター』だの、とにかく分厚い解剖書だけを手に、人体の神秘に挑むのである。

ところで、この解剖実習。大学以外の場所で、できる場所はあるのだろうか?個人レベルで、実習のための機材と材料を用意して、自力で学ぶことはできるのだろうか?

何が言いたいかというと、「講義」は自力でもなんとかなる(=必ずしも大学でみんなで学ばなければ不可能というわけではない)のに対して、「実習」に区分されるような授業は、自力ではどうにもできないのである。大学の資金力と権力を使わなければ、体験できないし、体験を通して学ぶことはできないのである。

自力で学ぶことができるコンテンツかどうか。これが、「講義」と「実習」を分ける、基準になっているんじゃないだろうか?

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この基準に沿えば、「講義」は出席を取らないのに、「実習」はちゃんと出席を取るというのも頷ける。

講義で出席を取らないのは、本来なら「まあ確かに話聞かなきゃ学べないって内容でもないから出るか出ないかは、学生お前らの意思で決めてよい。ただ、もし出ないのならちゃんと教科書とか読んで勉強しろよ?」ってことなんだろう。

実習で出席を取るのは、大学でなければその内容が学べず、その内容が単位取得の要件に入っているのだから、そりゃあちゃんと「学んだ」かどうかの確認を取らなければいけないということになる。

逆に、講義の内容をちゃんと学んだかどうかの確認が、期末試験ということになるのだろう。実習に出席して、期末試験をパスしなければ単位を取得できないというのは、実はこういう仕組みなのだろうと考えられる。

いやー、めっちゃスッキリした。なるほどねって感じ。

というか、以上を考えると、大学の運営側は「講義に出ない自由」は認めているってことになる。高校までとはやっぱり違うんだなあ。

逆に考えれば、高校は何なんだろうな。義務教育ってわけじゃないのに、そこまで拘束する意図というか義理はなんなんだろう。ここを考えてみても面白いかもしれない。

スッキリしたところで、今日はこのへんで。いやー、考えるの楽しいわ。

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