「講義を聞く」ということ

ニコニコ超会議のYouTuBAR配信を聞きながら、今日も今日とて考えてみる。

「講義に出る」というのと、「講義を聞く」というのは、異なる概念であると思う。

まあ、「出る」というか「出席する」か。そこはどっちでもいいや。

 * * *

「出席する」というのは、ただ、「講義が行われている時間に、講義の行われている教室に存在する」ということ、もしくはその証明をすること、だろう。いわゆる「即レポ」を提出しなければ出席を認めてくれない講義もあるけれど、あれだって周りの人に聞いたりすれば、ささっと内容くらいは教えてもらえるだろう。

「出席する」のがデジタルな尺度、つまり、「出席しない:0」と「出席する:1」だとすれば、「講義を聞く」というのはもっとアナログな尺度だなあと思う。

例えば、講義中ずっと寝ていて、出席の返事だけは辛うじて返したけれどそれ以外の講義の内容は何一つ聞いていなかった場合。これは、「出席する」の尺度では「1」でも、「講義を聞く」という尺度では0に近いだろう。

ずっと起きていて、話はちゃんと聞いている。適宜、講義の内容で重要そうなところは手元のノートなりプリントにメモを取る。これでやっと、「講義を聞く」尺度が0.5くらいになると思う。

では、講義を聞く尺度が「1」になるのはどういう状況だろうか?

そもそも、講義を聞く目的というのは、その講義の内容を理解し、自分の知識にし、今後もっと深い勉強だったり研究だったりをする時に役立てるためだろう。

だから、「講義の内容を100%理解した」なら、「講義を聞く」尺度が「1」になる、と思う。具体的には、講義の間ずっと頭をフル回転で、あらゆる疑問を考えまくって、自分の中で潰しまくって、自分の中で手に負えないような質問は先生にぶつけて、全部すっきり解決する。ここまで行ったら「講義を聞く」尺度が「1」になるだろう。

どんな難しいテストでも100点が取れるくらいに完璧に理解するのが、「100%講義を聞く」と言っていいと思う。

いやでも、これ、不可能だよなあ。

全部の授業で、どころか、1つの授業だって、100%、全身全霊で講義を聞くなんてのは無理だ。人間の集中力は90分も保たない。

でも、無理だからと言って、100%を目指さないのも違う。せっかく授業に出ているのだから、できるだけ多くの授業内容を理解した方が、短期的には期末試験で、長期的には色々なところで役に立つはずだ。

と、思うんだけどなあ……

僕の周りでは、「出るだけ出ておいて全然講義を聞かない」みたいな人も多数存在していて、なんかすごくもにゃもにゃしている。

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まあ、僕も模範的な学生とは言いがたいと思うけれど。

たぶん、「授業聞いてる度」の平均をとったら、僕は0.4くらいになる。一応メモが取れる程度には真面目に聞いている時の方が多いけれども、眠かったり、手元のタブレットで色々文章を読んじゃったり、そういう時もある。そういう時の方が多い。

模範的ではないけれど、(少なくとも僕の周りの学生の中では)こんなんでも真面目に授業を聞いていて、成績が上位だ、ということに、何というか、少しだけ絶望を感じている。

だってさあ、大学だよ? 自分の好きなこと、興味あることを学べているはずのところだよ? みんなめっちゃ頭はいいんだよ?

それなのに、こんな奴の片手間に負けていて、それを恥じようともしないの、どうなんだろう、とか思ってしまう。

 * * *

明治の文明開化の頃とか、昭和の戦争の前とか、そういう時期のこの国の学生は、もっと、こう、「必死」だったんじゃないかなあと、当時を書いた本とかを読んでいて思うことがある。

「俺たちが勉強しないで誰がする??」

みたいな。そんな誇りみたいなのが滲み出てくるような気がするのだ。

もちろん、今とは時代も環境も状況も全部違うから、一概には言えない。当時のトップofトップみたいな人の文章が現在まで残っているのかもしれないし。情報通信技術の発達とかもあって、当時と現在では「学び」のスピードは全く違うだろう。

当時取り寄せるのに何年もかかっていたであろう本が、現代ならネットで一瞬で読める、とかは当然の話だろう。

それでも。人が何か新しいことを学ぶ時の学習スピードは、そんなに何倍も変化しているとは思えない。だから、今の大学生の学ぶ気の薄さみたいなものには、ちょっぴり危機感を覚えている。いや、僕含めてだけれど……

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