科研費に対する私見
ここ数日、科研費について、ちょっとだけTwitterが荒れている、気がする。わざわざ燃えかけのところを突っ込んで記事書くべきとも思えないんだけど、せっかく考えちゃったし書いてみようと思う。
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たぶん、Twitter上での発端はこのツイートである。
タグから察すると、テレビで取り上げでもしたんだろうか。池上彰さんがどうせばっさり斬ったんでしょう。まあそこはいいや。
軽くスレッドとかを読むと、この案件に対して「おかしい」と言っている人の言い分はこうだ。
理系で実験器具とか試薬とかでたくさんかかってiPS細胞技術がたくさんの人の希望の的な山中氏でも2億5000万円しか割り振られず、文系で大して実験もしないことに加えて「反日」的な思想の山口氏に6億円も割り振られているのはおかしい!
全体的にまとめるとこんな感じである。少なくとも、僕はこんな感じの印象を受けた。
まあ、言っていることの趣旨は理解できる。
ツイートの中には、山口氏に割り振られた科研費の使途が不明瞭(※政治的プロパガンダを含んだシンポジウムの開催に使われているかも、という憶測も)だから信用できない、みたいのもあった。国の機関がきっちり使途に目を光らせている(だよね?)以上、そんなことはないとは思うが、もしそうだというならきっちりと是正はしてほしいものだ。
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僕が問題だなあ、と思ったのが、次のようなツイート。
問題点は2つ。
・研究を「人類の役に立つ」と「役に立たない」に分けてしまってもよいのか?
・研究の価値によって予算配分を決めることは正しいのか? そもそも、研究の「価値」を判断できるのか?
2つと言いつつ若干オーバーラップしてるので、ごっちゃにしつつ考えようと思う。
何回か前のnoteで、「役に立たない知識はない」という考えを述べた。あれは個人レベルでの話だったが、世界レベル、人類史レベルにおいても、それは同様だと思う。ある分野の知見が別の分野で革新的な成果をもたらしたなんてよくある話だ。
そもそも、研究の「価値」とはなんだろう。研究とはそもそも、必要に迫られて、あるいは知識欲に迫られて行われるものだ。前者の例を挙げるとすれば、戦争だろう。戦争のたび、敵国に勝ち、あるいは負けないために、惜しげもなくカネとヒトが投入され、技術水準は大きく前進してきた。
でも、今は戦時ではない。「人の命を救いたい」という必要に迫られている研究もあるだろうけれど、戦争ほどの狂気と強制力を孕んではいないだろう。だから、基本的には全ての研究は知識欲に迫られて行われていると考えてよいと思う。
こうなると、研究に価値の違いはあるのだろうか。尺度を導入するとしたら、やっぱり「役に立つか、役に立たないか」だろう。でも、役に立つか立たないかなど、誰が分かるというのか。
小泉信三は、こんな言葉を残した。
直ぐ役に立つ本は直ぐ役に立たなくなる本であるといへる。
これを小学生の時に聞いた僕はえらく感銘を受けたのだけれど、それはまた別の話。要するに、今目の前で「役に立つぞ!」と言われているものは、短期的には役に立つかもしれないが、長期的には全くわからないぞ、と。そういう話だ。
どんな分野が、どんな研究が役に立つか。未来がどう進んでいくかなんて、大雑把に推測はできるかもしれないけれど、細かいところまで寸分違わず予言できる人なんていないだろう。
だから。
どんな分野が役に立つかわからない以上、理系文系の違い、役に立ちそうか役に立たなそうかで研究の価値を決めてしまってはならないし、その「価値」に従って国家予算から研究費を割り振ることもあってはならないと思う。
まあ、これ、国の方針?である「選択と集中」を批判するのに散々使われてきてる論理なんだけどね。今回のプチ炎上と絡めて論じてる人はぱっと見た感じいなかったから、書いてみた。
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もちろん、以上は国家政策レベルでこうあるべき(だと思う)という話であり、個人の行動に異議を唱えるものではありません。
「山中教授にもっと予算を割り振るべきだ」って言う人は、言うだけじゃなくて、CiRAにでも寄付すればいいと思った。
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