想い出は心の中に
長い人生の中で作られた想い出は数えきれない。
残してきた数々の想い出。
想い出の保管に使うのは、大抵の場合「物」だ。
それは
たわいのない写真だったり、
旅行先で買ったお土産だったり
記念にもらった野球ボールだったりする。
想い出が記憶されている「物」を見て、ボクらは昔にタイムスリップする。
でも、想い出の入った「物」を永遠にそのままにしておくことはできない。
長い人生のなか、いつまでも変わらないということは不可能だ。
取り巻く環境は、少しずつだけど確実に変わっていく。
生きていれば
結婚だってするし、
引っ越すこともあるし、
家族が亡くなったりもする
引っ越せば、想い出の入った「物」を整理することもあるだろう。
家族が亡くなれば、どう手をつけていいかわからない想い出の「物」も出てくるだろう。
捨てたいのに捨てられない。
今回はそんなときの、想い出の「物」との向き合い方について話そうと思う。
✳︎
ボクの実家は空き家だ。
家族はみんな他界して、いまはもう誰も住んでいない。
ときどき帰っては、荷物整理をしている。
今年のお盆の帰省時も、睡眠時間を削ってまで荷物整理に時間を使った。
荷物を片付けていると、「物」は
・捨てるもの
・捨てられないもの
・捨てるか捨てないか迷うもの
の3に分類されることがわかってくる。
・捨てるもの
は要らないものだ。迷いなく捨てられる。
・捨てられないもの
は、物理的に捨てられないという意味で
例えば粗大ゴミサイズのもの。
今日明日でどうにかできるレベルじゃないものだ。
いちばんやっかいなのは、
・捨てるか捨てないか迷うもの
これは
想い出が詰まっているものだ。
「物質的には捨てたいのだが、想い出は捨てたくない。」
そういう感情だ。
しかし、この感情を乗り越えないと、いつまでたっても家が片付かない。
そこで湧いたのは
「どうせ永遠に置いておくことはできないのだ。」
という感情だ。
✳︎
ボクの実家は田んぼに囲まれた、ちょっとした集落。
最寄り駅は徒歩45分
最寄りのコンビニまでは歩いたら1時間半はかかるだろう。
田舎中の田舎だ。
住んでいる大半は年配の方
ボクより少し上の若い世代からは、人が出て行く一方だ。
子供もほどんどいない。
あと20年もすれば空き家だらけになるのが想像できる。
そんな集落の実家を守ったところで、ボクにあまりメリットはない。
定期的に帰りたいとは思うが、
この先何十年の人生を、ずっと実家で過ごしたいとは思わない。
なんなら、自由な経済圏を作って、世界中どこにいても仕事ができるようにしたいくらいだ。
生まれ育った実家には、想い出がたくさん詰まっている。
しかし、いつまでも実家を原型のまま保存しておくのは不可能だ。
いずれなくなる。
「どうせ永遠に置いておくことはできないのだ。」
✳︎
想い出を永遠にする方法はひとつだけ。
心の中にしっかりとしまっておくこと。
本当の想い出は心の中にある。
物自体に想い出が入っているわけじゃない。
物は、想い出を呼び起こすきっかけに過ぎない。
物がきっかけにすぎないのなら、
想い出を呼び起こすきっかけは別に他のものでもいい。
だって本当の想い出は心の中にあるのだから。
思いついたのはスマートフォンだった。
「想い出を呼び起こすきっかけ」である物を、写真でとってデータ化する。
「想い出を呼び起こすきっかけ」は、「物」から「データ」へと変換された。
これだけで変わった。
物の役割をデータへ移行することで
「捨てるか捨てられないか迷う」
という感情がかなり緩和された。
「物」自体がなくても、
データとしていつでも振り返ることができる
物に執着する必要がなくなった。
捨てない理由がなくなった。
想い出は心の中にある
物もデータも、想い出を呼び起こすきっかけに過ぎない。
なんだっていいのだ。
✳︎
放っといても時代は変わっていく
ずっとそのままなんてありえない。
どれだけ「変わらないなぁ」と思っていても
ほんの少しずつ変わっている。
地元の風景や友達に「変わらないなぁ」とつい言ってしまうのは、
本当は変わっていく現実に目を背けたくて、
「変わらない」ことを願いたいだけなのかもしれない。
ボクらは変わらずにはいられない。
想い出に執着していては、いつまでも前に進めない。
想い出は心の中にしっかり閉まって、
変わりゆく時代の中、前に進もう。
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