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愛の不在の先に待つもの

緊急事態宣言で外出しづらいGW、友人と『夜と霧』のオンライン読書会をした。本の議題と互いの近況報告が半々で進んでゆくゆるい雰囲気の中で、ある一文に焦点が合っていった。

自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』池田香代子訳(2002年、みすず書房)

『夜と霧』は、アドラー・フロイトに師事した精神医学者フランクル(1905-1997)が第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を記した名著である。
収容所での凄惨な日々の中、同胞たちは「生きていることになんの期待ももてない」と生きる意味や耐え抜く意味を失って精神が崩れてゆく。自殺に向かってゆく人も多かった。その状況下で、フランクルが精神医学の研究者として試みたケアは、「生きていれば、未来に彼らを待っている何かがある」と伝えることだった。
たとえば愛する我が子。恋人。生き残って成し遂げるべき仕事。

あまりにもむごい収容所生活の実態が静かな筆致で書き連ねられた文章の中で、その言葉には凄みがあった。
一方で、蚊帳の外のわたしたちの単純な意見として「かけがえのない大切な仕事も、愛し合う人も持たない人にとっての生きる意味とは何か」という話になった。子どももないし、結婚もしていない。付き合っている恋人もいない。両親はすでに死去している。あるいは親に愛されたことがない。今の仕事は他の誰かがいつでも取って代われる仕事である。
フランクルの置かれた状況は人類史の上でも稀に見る残虐なものであるので現在のわたしたちの環境とは比べものにならないが、「生きていることになんの期待ももてない」と自殺を図る人の数はそこまで変わらないかもしれない。待つものがない現代のわたしたちには、たとえば彼はどのようにわたしたちを説得するのだろうか。


ちょうど、彩瀬まるさんの小説『不在』を読んだ。
父の死をきっかけに今まで見ぬふりをしてきた家族関係を振り返り、主人公の明日香は、自分が父から必要とされていなかった事実に対峙する。同時期に仕事も恋愛も上手くいかなくなる。人生に行き詰まって、避けてきた愛の不在に苦悩した先で、明日香はこう考える。(以降ネタバレを含みます)

父が私を、私が望むように愛していなかったとしても、いいと思っている。それがそれほど珍しい不幸ではないと知っている。残念だけど、それだけだ。傷つかないし、立ち止まらない。そんな確信を得た世界はきっと、これまでになく明るくて自由だ。
彩瀬まる『不在』(2021年、角川文庫)

父のことがすきだった。愛されたいと思っていた。でも愛されていなかった。そのことを苦しんで受け入れる。そこには愛はないことを認める。認めることで、今までそれに傷つき囚われていた自分を解放する。
明日香は、愛の不在において人生を悲観することなく、今の自分の人生が荒野であることを認めた上で先に進むことができた。

 「普通じゃないって思う人生は、困ったり、寂しかったり、大変だけど、それ以外の人生ではわからないことがたくさんあるよ。わかったものは、あなただけのものだよ。辛いことを生き延びた先で、すごくきれいな景色を見られるよ」
 「あなたはその景色を見たの?」
 「まだ、これから見に行くところ」
 「見てないのにわかるの?」
 「わかるよ」
彩瀬まる『不在』(2021年、角川文庫)

彼女は、自分を待っている「すごくきれいな景色」に対する責任を自覚している。それはどういうものなのだろうか。
現代文の記述式テストのようだが、今の私なりの解答は、
「現在にまで引きずっていた過去を”残念だけどこれが私の人生だ”と過去として受容した先には、きっといつか”あの過去が無ければこういう気持ちには辿り着かなかった”と思える時がやってくる、ということ。」だと思う。
過去を過去にすることは、現在を受け入れることであり、必然的に未来を受け入れる、ということになるだろうか。(期待とは未来である。)

強制収容所では、どうしたって直面する凄惨な生活は過去にはできないだろう。現在を絶えず引きずりながら未来を思い描くことのできたフランクルとその他の少ない生き延びた人々には畏敬の念を抱くばかりであるが。