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きわめて個人的な映画感想文 ルーカス・ドン『CLOSE』

映画『CLOSE』

2023年に観た映画のなかで、もっとも心に残る作品だった。
あの100分でレオを生きた人は私の他にもたくさんいるだろう。同じ道を駆けて、同じ学校に通って、同じパスタの食べ方をして、同じ眠れない夜を過ごしただろう。あるいは、レミにとっての同じ道、同じ学校、パスタの食べ方、眠れない夜。

ベルギーの小さな村の花農家に生まれた13歳のレオと、幼なじみのレミ。
二人は24時間365日を共に過ごし育った。いつもの兵隊ごっこや、花畑のかけっこ、お絵描き、レミのオーボエの練習を見つめる時間。何をするにも一緒で、将来はレミのオーボエの世界公演にマネージャーとしてレオがついて2人で世界周遊だ。レオは毎晩レミの家に泊まって一緒に眠る。レミがなかなか寝付けない夜は、「想像してみて。きみはアヒルの子供で、特別に黄色くて美しい。ある日きみは緑色のヘビに出会うんだけど、…」とおとぎ話で眠りに誘い、やすらかに寝息をたてるレミの横顔をやさしく見つめる。視線の先にこの世のすべてがあるかのようなその満ち足りたまなざしはあまりにも美しい。

この完全無欠の世界を、私は幼少期の弟と、あるいは中学時代の友人と、確かにもっていた気がする。でもレオとレミ同様、その世界に永遠に生きることはいずれも難しかった。
どうして、あの一心同体の世界はもろいのだろう。あんなに強い絆であったはずなのに、こんなにも。

一心同体でいられなくなるとき

兄弟でも親子でも、恋人でも友だちでも、名前はなんだって構わないけれど、レオとレミほど特別で何にも代えがたい関係性は人生にそう多くない。誰しもが見つけられるものではない。だからこそ、周囲には奇異な関係に見えてしまうことがある。周囲と上手くやりながらも、自分にとって大切な関係性を守ることは子どもだって大人だって難しい。
レオとレミの場合は、人生で最も人目が気になるし、校外のコミュニティに活路を見出すことも難しいような中学生という年齢で周囲の壁にぶつかった。新学期初日にクラスメイトに「付き合ってるの?」「おとこおんな」とからかわれ、乱暴な男子にそれだけで突き飛ばされるような状況は、2人の関係がかけがえのないものであってもなお、この先数年間という途方もない時間の学校生活すべてと眼前で天秤にかけられた。どちらを選択しても正解にならないような問題、レオの気持ちも、レミの気持ちもまっすぐで正解だったのに。2人のどちらの気持ちも間違いじゃない。

一方で、たとえ周囲の目に晒されなくても、2人が大人になるまでずっと同じ関係性でいられたか、というとそうではない気がする。
レオとレミは四六時中とにかくそばにいた。してきた経験・見てきた景色が一緒だからこそ、相手が物事をどのように捉えどんなふうに感情を動かすのか分かり合っていたと思う。その意味では、中学校に入って放課後のクラブがあって、ゆくゆくはクラス替えがあって、という環境変化のなかでレオとレミが進学以前の2人と変わらず一心同体であることは難しい。かたちを微妙に変えながら特別な2人であり続けることは、あの2人ならできたかもしれないけれど、それと同じかそれ以上に、クラスでのからかいがなかったとしても2人が疎遠になってしまうこともあり得ただろう。


互いがみるそれぞれの世界

映画を観てしばらく経っても何度もレオとレミのことを考えた。ある日ふと、レオとレミに見える世界は本当ははじめから2つだったのではないか、と思った。何をそんな当たり前のことを言ってるんだ、と思うかもしれないけど、それだけ彼らが別れ別れになってしまう前、2人ひとつの世界を生きているように私には見えていた。ある日そう思ったのは、レオがレミを見つめている描写が多いこと、そこから2人の性格の違いに気づいたからだ。

レオは想像力が豊かで、ユーモアに富み、人の心を繊細に理解する。レミに兵隊ごっこを持ちかけて遊んだり、ふざけたパスタの食べ方を発明してレミの家族を笑わせたり。将来はレミのマネージャーになるよと夢を語りかけるのもレオである。レミの母に「いい母親だ」と同意したり、発表会でうまく演奏できるか不安で眠れないレミを作り話で安心させたりする。人の気持ちに寄り添うことが得意で、そうやって愛を伝えることに長けている。
私の勝手な考察だが、その背景にはお兄ちゃんと仲が良く弟として兄に甘え愛された経験があるように見える。冒頭、花畑を疾走するレオに「兄の手伝いはしないのか」と腕を組んで笑う兄の柔らかい表情や、眠れない夜に大学受験を控える兄の布団へもぐりこみ寄り添ってもらうレミの心境、そんなレミを優しく受け入れる兄の様子からも親密な兄弟関係が窺える。(※兄弟がいる人は愛情があるとか、幼少期に愛された経験がないと人を愛せないとかそういうことを言いたいのでは断じてないことはお伝えしたい。映画のなかで度々兄との仲睦まじい描写があったことに連関性を見出した勝手な作品解釈なので、監督の意図とも全然ちがうかも。)

一方、レミはおっとりした性格で、いつでもレオの提案する遊びを喜んで享受する。オーボエを習っているがその演奏にはいつも自信がなく控えめだ。不安が心をうずまくと感情にのまれて眠れなくなってしまうこともある。その度に、レオが優しく物語を話してくれる。中学校の初登校の日、自己紹介がまわってくることに緊張しているレミの様子をレオは気づいて、肩に頭を寄せてあげている。
いつもレオがレミをケアして、リードしている。そういう関係性だ。

登校初日の休み時間、女の子たちに「付き合ってるの?」とからかわれたとき、レオは「親友だ。親友以上、兄弟のようなものだ」とレミを守るように自分達の関係性を説明し肯定する。このとき、本当はレオ自身がショックを受けて傷ついているのだが、自分の感情にのまれて女の子に激昂したり手を出したり、傷つきを表情にあらわすことなく、あくまで真摯に説明する態度で立ち向かう。レミはそんなレオの横顔を見つめているものの、その表情は微笑んでいてあくまでレオの心情には気づいていない。
翌日、レオはレミに出会い頭に「よく眠れた?」ときく。レオはよく眠れなかったと推察できるし、自分がそうだったからこそレミの調子を気遣っているのだ。しかしこのときも、レミはもしかしたらレオはよく眠れなかったのではないか、と思うこともなさそうな様子である。

このとき、反対にレミがレオの立場で女の子に立ち向かっていたなら、レオは間違いなくレミが傷ついていることを瞬時に察しただろう。そしてきっと、レミの気持ちに寄り添い、レミが傷つかないですむ関係を校内で作り上げられるように模索したと思う。その道すじの一つには映画の同じ結末もあったかもしれないが、もしかしたら2人のこれまでの親友以上の関係を維持したままに学校生活を過ごせる道もあったかもしれないと私は思う。
レオは他者を守る立場に立つことで自分の細やかな性格や人を深く愛する術を発揮できるだろう。しかしながら、反対に自分が悩み傷つく立場のときには守られることを欲するし簡単にヘルプの声をあげられない繊細な心を持っている。特にいつも自分がリードしているレミの前では尚更だ。
レミは周囲からの目を気にするような他者に対する繊細な敏感さは持っていないものの、だからこそ中学校に入ってもレオとの関係性が世界のすべてであり、レオのことだけがだいすきで、レオの心の中で変化が起こっているなんて想像も理解も出来なかった。困ったらいつもレオが気づいて助けてくれていた。でもレオのことで悩んだとき、顔色に気づいてくれるひとはレオ以外にはいなかった。

2人がくっついて溶け合ってしまうのではないかというほどの親密な関係であったことは明白だが、その世界のなかでレオとレミが互いを見ていたその景色ははじめから同じではなかったのではないか。だからこそ、これまで保ってきた2人のバランスが崩れたとき、互いの心が見えなくなってしまった。あるいは、相手の心が痛いほど分かっても、分かっているのに自分だけの力ではどうにも動けないアンバランスになってしまったのかもしれない。

互いがみえないときに

あの無敵な時間にいると、相手のことを何でも分かる気がしてしまう。実際、他の誰よりも相手をよく知っている、と信じ合えるからこそ、その自信からくる行動やひと言が関係性を深めてきたことも少なくないだろう。ただ、それでもいつか環境が引き裂いて、あるいはこれまで積み上げてきた関係の絶妙なバランスがふと崩れるとき、急に相手のことが分からなくなって、これまであれほど近くにいたのに急に遠い存在に感じてしまう。

新聞の小さな文字を読んでいた視線を急に遠くの山に移すと焦点が合わない、というようなことがきっと起こっているのだろう。近視には近視用メガネ。遠視には遠視用メガネ。こういう時は急がないでゆっくり、相手の見方を一度変えてみる必要がある。相手のことが分からないときは、分からないってこと自体に一度身を預けて、信じてみる。
他者をわかるってことは、自分の知らない世界がないってことで、つまり相手よりも自分が大きいと思うことである。A⊃Bの構図を想像してほしい。
何もかも全てを分かっていると思うことは相手をみくびることになってしまう。
反対のA⊂Bの構図、つまり自分の分からない世界が他者にはいっぱいあるのだと思うこと、そういうもんだと思うこと、そして、自分の思っていることも手段を尽くして言ってみれば受け止めてくれるかもしれないと信じることが、他者へのリスペクトだ。

環境に関係性を脅かされたとき、レオはレミに言葉で自分の気持ちを説明することや、レミの前で混乱した感情を混乱のまま表出することはできなかった。自分の腹の上で昼寝するレミには理由をはぐらかしてさりげなく退かしてみた。アイスホッケーに自分も入ろうかなと言われた時にも言葉で返答することができなかった。このとき、言葉にならない思いをそれでも言葉にしようとしても、あるいは本気で怒って泣いてもレミには理解できなくて彼を傷つけてしまうだけだ、とレオは思っていなかっただろうか。きっとレオの予想は正しいのだが、でも正しくないことが2人の可能性を開いたかもしれないとも無責任に思う。
レミは、一度自分の気持ちから離れて、レオの気持ちになってレオに近づいてみることができたら、よかったのかもしれない。普段レオがレミにしてくれているみたいに。(現実問題、これらを2人に求めるのは酷だ。レオもレミも、まずは自分の混乱を誰かにそのまま表出してみる機会が必要だっただろうし、大人が気づいてケアしてあげないといけなかった。それを大人に課すこともまた難しいのだが。)

相手をリスペクトして、相手の知らない部分がまだあると耳を澄ませることや、自分の思っていることを相手は理解できないと思わずに真摯に伝え続けることが、上手くいかない時に道をひらく。


一心同体と向き合う関係を行き来する

はじめから世界は2つだったとしても、たしかに2人でひとつだったあの時間はどうして生まれるのだろう。レオとレミが花畑を駆け抜けるあの時間、2人が向かい合い笑いあうあの空気、2人の感情、見ているもの感じているものは確かに2つではなくひとつだったように思える。人がひとりひとり別であるという地平に立っていない世界がそこにあるように思える。

わたしたちは常に自分というフレームワークを意識して存在しているわけではない。お腹が痛いときや腹ぺこのとき以外にお腹の存在を意識することがないように、「自分」という意識を忘れている瞬間が多い。そういうとき、自己と他者の区別が未分化な次元に私たちはいる。同じ道を駆けているとき、自分がレオでありレミとは異なる存在であることなんて忘れている。だから意識も文字通り一緒に走っている。そういう一心同体の時間と、互いに向き合って互いを見つめて自分と他者が存在する時間との、その両方がいつもわたしたちにはあって、そこを行き来することで親密になっていく。その2つの時間の中にもさらにグラデーションがあって、一心同体の意識を延長して、相手の気持ちにダイブしてこそ相手の心が分かることもあるだろうし、相手に心の距離を感じながら同じ景色を見続けることもあるだろう。
大事なのは、行き来してもなお、互いに互いのことが見えなくなってしまうときに、これまで積み上げてきた「分かる」「知ってる」のメガネを一度放って、「分からない」「知らない」のメガネをかける勇気を持つこと。知ってると思ってたのに、分からないことに直面するのは怖い。でも、分からないということ自体に一度身を預けることこそが、他者を信じてリスペクトして大事にすることなんだと思えたら、また一心同体の世界にも戻ってゆくことができて、ずっとレオとレミでいられる地平が開かれるかもしれない。私はいつかその景色、見てみたい。


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