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Extra hot@Vancouver island

いらっしゃい、話し終わったはずの通話画面がまだ繋がっている。奥の方から、誰かに向けたあの人の声がする。語尾に笑った顔が滲む言い方。古い木戸が閉まる音。もう一人の声は何と言っているか分からなかった。でも、この細い音は、女だ。

イヤホンを外し、×を叩いた。幼なじみ、ねぇ。私とその人の関係は、その時にはすでに何と言っていいのかわからない関係になっていた。あんなに心の底から分かり合えると思っていたのに、今や宇宙の、どこか地球外の言葉を聞かされているようだった。私は長年溜めこんだ泥を掻き出して少しずつ軽くなり、これからは明るい方へと舵を切ろうとしていた。一方のその人は、ずぶずぶと泥沼に自ら沈み込んでいくことを選んだ。もっと暗く、もっと生き物がいない方へ。でもその時はまだ、出会った頃の強烈な運命感に、私が執着していた。

あの山。きっとあの人はお気に入りの裏山へ彼女を連れていくのだろう。自然が好きなんじゃない、人が嫌いなだけだ。私は朝、鳥の声がすれば、かわいいなぁと嬉しくなる。ブロードウェイで主役のメインナンバーを聞いて、鳥肌が立つほど感動する。どちらも好き。そう言えばあの人は、鼻で笑うのだろう。

目の前には海がある。穏やかであたたかい。こんなに優しい海は、生まれて初めて見た。この2か月、毎日通って、透明な波に足を浸して、歌ったり、ただ夕日を見たりした。この遠浅のビーチは隣町までずっと歩けるほどの距離がある。そうだ、隣町まで行こう。

自転車使っていいんだよ、と言ってもらっていたけど、私は歩くほうが好きだ。いつもは森と住宅地を抜けていくけれど、今日はビーチを歩いて行こう。あたたかい砂が、時折サンダルの中に入り込んでくる。ぐっと踏み込めば沈む砂の上は歩きにくいが、優しい風と爽やかな波音には代えがたい。鹿のツノみたいな流木があちこちに落ちていて、つるっとした海藻がふわふわと波に揺れながら、浅瀬にグリーンの芝生をつくっている。地元の住民に会えば、皆にっこり笑ってHi!と言ってくれる。ときどき立ち止まって空を眺めたり、波打ち際ギリギリを歩いたりしながら、50分ほど歩いて隣町に差し掛かった。海が名残惜しい。

地域のスーパーマーケットは広く、2階にはチープな物から重厚な高級品まで、インテリア用品が展示されている。その窓辺にカウンターがあり、スターバックスのコーヒーが飲めるのだった。手のひらに小銭を取り出し、2.75ドルをつくる。じゃらじゃら出したら嫌な顔をされたが、クォーターとダイムを使うチャンスなのだ。Extra hotで作ってもらったDaily cofferを受け取って席に着く。家族連れや老夫婦が行き交う穏やかな町だ。Dollarショップで買った封筒とメモパッドを取り出す。ペンは日本から持ってきた愛用のもの。やっぱりこれが一番書きやすい。

最後の一口だけを残したカップの中のコーヒーはすっかり冷たくなっている。酸っぱい。窓の外、大きな太陽はそろそろ傾き始めようとしている。夏のカナダは日が長い。町の花火フェスティバルも、22時半ごろ始まるくらいだ。気が付けば書き込んだメモパッドは7枚にもなっていた。日本から持ってきた貰い物の、完成すると昆虫になる折り紙を折って入れた。好きだろう、と思ったから。もう私はあの人に歌うことはできないけれど。

ぐっと強めに糊を塗り付けた。強く封をする。息を吐く。これで終わりだ。

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