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【小説】背後の愛憎

デスクの隅に置いてある電話機から着信音が鳴った。
営業部から提出された不備だらけの伝票を見ていたナギは、伝票をデスクの上に置いて、受話器を取った。

「はい。〇〇商事です」
「これ、経理部の電話?」
受話器から50代くらいの男の声がそう聞いてきた。

「はい、こちらになります」
「今日、秋に始まる新システムの登録のお願いがきたんだけど、どうしたら良いの?」
「それでは担当者に代わりますので、お待ちいただけますか?」
と言ってナギは保留ボタンを押した。

担当者である部長の席を見ると、空席だった。
あの部長はぬらりひょんのように、席にいなくなったり、いたりする。
どこいったんだ?

ナギは部長がいないことを確認して、保留ボタンを解除した。
「お待たせしました。申し訳ございません、ただいま担当者は席を外しておりまして」
「え、何? 聞こえないんだけど」
ナギは目を見開いたが、今より少し大きめの声でさっき言ったことをもう一度言った。

「ただいま担当者は席を外しておりますので、戻り次第こちらから折り返しのお電話をいたします」
「ああ、そう。で、いつ電話くれるの?」

多分お手洗いだから、すぐ戻ってくるはず。
でも、もしかしたら打ち合わせかもしれない。
ホワイトボードがあるのに、ぬらりひょん部長の欄はいつも空白。
なんのためにホワイトボードがあるんだよ。
まったく。

「社内にいるとは思いますが、いつ戻るかは分かりかねます」
「ええ? だからなんだって?」
ナギは電話に出たとき、たとえ相手の顔が見えなくても、自分は笑顔で電話をするように心がけている。
しかし、こういう電話のときは笑顔が引き攣ってしまっている。

「担当者は社内にいますが、いつ戻ってくるか分からないため、いつ折り返しのお電話できるか分かりかねます」
さらに大きな声で電話するので、周りにいる同僚や先輩たちがナギの方を見てくる。
早く終わらないかな。
あと5分で定時だぞ。

「もし明日とかに電話がくるんだったら、困るんだけど。明日は朝から出かけて、家にいないから」

知らねえよ。

「でしたら、担当者に戻り次第すぐお電話をするよう、申し伝えます」

この登録って、締め切りが2週間先だったはず。
そこまで急ぎじゃないし、明日またそっちから電話すれば良くない?

「あのさあ、さっきから電話が遠いから、何言っているのかわからないんだけど」

……なんだ。
この耳の遠いクソジジイは。

チッチッチッ。

「おい。なんだその態度は?」
「え?」
「舌打ちしているだろ?」
「いえ! 舌打ちなんてしていませんが」
ナギは驚いた顔をした。
「さっきからチッチッ、チッチッ聞こえるんだよ。それがお得意先と電話をする態度か!」

ブチっ!
ツーツーツー……


通話が切れた音が、男の耳の中を通り抜けた。
「なんだ、あの女? ここの会社の若い社員はどんな教育を受けているんだ?」
と乱暴に受話器を元の位置に戻すと、電話の着信音が鳴り響いた。
男は折り返しの電話だと思い、すぐに受話器を取って耳に当てた。

「おい、さっきの態度はなんだ? お前じゃ話にならんから、上司に代われ!」
受話器からザーと砂嵐の音しかしなかった。

「おい、もしもし?」

チッチッチッ。

「また舌打ち。おい、聴こえるか? 今すぐ上司に代われ!」
「……おい」
「?」
受話器から若い男の声がした。

「あんた、さっき電話の女の先輩か? この前の若い営業のヤツもそうだったが、最近の若いもんの教育がなってないぞ。どういう教育をさせているんだ?」
「それをそっくりそのまま返すぞ、ジイさん。お前があいつの声が聞こえないっていうから、あいつは周りに注目されるくらい大きな声で話してたんだぞ。俺は今、普通に話していて、それが聴こえるのに、なんであいつの声が聞こえにくいんだ? 都合よく耳が遠くなるのかよ、クソジジイ」

「なんだ、貴様。もういい、社長に繋いでくれ。俺はあんたらとこの社長とは仲がいいんだ。彼に言って、クビにしてやる」
「なあ、さっきから誰と電話しているんだ? その電話、もう通話切れてるんだけど」
「何言ってるんだ? もういい。社長に直接電話する」

男は受話器を耳から離したとき、
「じゃあ俺の声、今どこから聴こえる?」
男は受話器を元の場所に戻す手を止めた。
さっきまで受話器から聞こえてきた若い男の声が今、背後から聞こえてきた。

男は恐る恐る後ろを見た。
そこには若い男が立っていた。
若い男の顔が、天井に取り付けられた照明の逆光で見えなかった。
若い男は男の顔を覗き込んだ。
若い男の左目の下が、魚の鱗のようなものがキラキラと光っていた。

「おい、どこから入ってきた」
男は声を震えさせながら言った。

若い男は男の胸ぐらを掴み、
「今度、その態度であいつに電話してみろ。そのとき、俺が二度とそんなことが言えないくらい、お前の喉を噛みちぎるぞ!」
若い男の顔が龍の顔になり、鋭い牙を見せた。
そして、男の喉に向かって噛みつこうとした。

「うわぁぁぁあぁあああああ!」


「もしもし?」
ツーツーツー……
謝ろうとしたところで電話が切れてしまった。
ナギは首を傾げて、受話器を元の位置に戻した。
ナギの大きな声で電話対応するのを見ていた同僚の女が、声をかけてきた。

「大丈夫? なんかめんどくさそうな電話みたいだったけど」
「私の声が小さかったみたいで、何度も聞き直されちゃった。でも急に切れちゃって」
「舌打ちしてないとか言っていたけど」
「舌打ちしてるって言われたとき、ビックリしちゃった。電話の調子が悪かったのかな?」
「ナギちゃん、普通に丁寧な対応してたよ」
と言うと、ちょうど定時の時間を報せるチャイムが鳴った。

デスクの上に立てて置いていたハンコが倒れた。
ナギはそれを立て直して、デスクの上を片付け始めた。

ナギの後ろには、左目の下に魚の鱗がある若い男が立っていた。
ナギや周りの人たちは、彼の存在に気づかず仕事をしていた。
若い男は後ろからナギを抱きしめた。
しかし、若い男の腕や手はナギの体に触れず、少し浮いていた。

「もう定時だよ、帰ろう。今日はナギの楽しみにしていたアイツのライブ配信でしょ? 早くしないと、間に合わないよ」
ナギは若い男の方を見ず、片付けを終えて、パソコンの電源を消して、椅子から立ち上がる。
立ち上がったとき、若い男の腕や手をナギの体が通り抜けた。

「すみません。お先に失礼します」
「お疲れ様」
ナギは早足で、オフィスを後にした。

会社の外を出ると、少し冷たくなった風がナギの長い髪の毛を揺らした。

「まさか金曜の定時前に、あんな電話を取るなんて……」
ナギはボソッと言った。
隣には、オフィスにいた若い男がいた。
若い男はナギの頭の上に手を翳して、頭を撫でる仕草をした。

「ほんと、嫌なやつだったな。こんな可愛いナギをいじめるなんて。可哀想なナギ。でも、もう大丈夫。あいつからの電話は二度とこないから」
そう若い男は言うが、ナギはそれに反応をしなかった。

「夕飯どうしよう。なんかお魚な気分なんだよなあ」
「わかる! さっき、力を使ったからすごい魚が食べたかったんだよ。俺たちほんと気が合うなあ」
それもナギは反応せず、早足で歩いた。

横断歩道に来ると、信号は赤信号だった。
ナギは耳にワイヤレスイヤホンを着けて、スマホで音楽の再生を始めた。
多分聴いているのは、これから見るライブ配信の主役で、ナギの大好きなアイドルの最新曲。

いちばんのお気に入りが、センターのヤツ。
コイツがすごく嫌い。
だってコイツ、

「ああ、リュウジくんの歌声、マジで好き」

俺と同じ名前。
なんとなくだけど、ちょっと顔似てるし。
どこが良いんだが。
ナギの好きなものは俺も好きだけど、コイツだけは大嫌いだ。

穏やかに吹いていた風が少しだけ強くなり、ナギの前にいた小学生の男の子が被っている帽子が飛びそうになった。

「あーあ、早くナギがこっちに来ないかな。俺の力でこっちに連れて行くことなんて、簡単にできるけど」
ナギとリュウジの前をトラックが通った。

「……いや、やったら俺がやられるわ。あー、神様ってめんどくさい!」
リュウジはナギの手を握ろうとするが、リュウジの手はナギの手をすり抜けてしまった。

リュウジはナギの耳元に顔を近づけた。
「俺の愛しのナギ。その手や頭に触れるのはあと50年以上先。ナギに起こる全ての災難は俺が守る。だからこっちに来るまで、俺以外の男と恋人とかにならないでよ。お前の母親みたいに、俺のことを失望させないで」

信号機の色が青に変わり、ナギはリュウジの気持ちなんてつゆ知らず、聴いている曲の鼻歌を楽しそうに歌いながら歩き出した。

リュウジもナギの後を追って、その鼻歌を半分心地よく、半分イライラしながら聴いていた。

最後まで読んでくださりありがとうございます。これからもワクワクドキドキウルウルする作品を作っていきます。作品が良かったら「スキ」を押していただけると、とても嬉しいです。次の更新もお楽しみに^^