「苦手である」という思い込みの合理性
自画自賛のように思われるかもしれないが、ぼくは記憶力が人並みより良いと自覚している。五感を自分に都合良く使うことで効率的に記憶する方法を見つけたというのもあるし、しかしそこに達するまでには非効率的にがむしゃらな記憶をしていたこともある。それを抜きにしても、比較的、記憶力は良い方だ。
記憶力が良いというのは、良いことばかりではない。むしろ悪いことの方が力が強いので、良い部分さえも打ち消してしまう可能性がある。いじめられた経験、人に殺されかけた経験、人を殺しかけた経験、事故を起こして誰かを傷つけた経験、いじめた経験。負の経験の記憶もまた、鮮明に刻まれやすい。その記憶の制御ができないと、自分が前に進んだり成長するための行動も止まってしまう。
大抵の嫌な記憶というのは、自分以外の人間との関わりが原因で発生したものだと思う。少なくともぼくは、自分の中にできるだけ他人という概念を存在させないことで嫌な記憶が自分に根付くことを妨げ、比較的安定な状態を維持できる。もちろん、居心地の良い何かを与えてくれる他人には、積極的に存在を望むかもしれないが。
しかし、記憶力が良いと、嫌でも他人という概念は自己の内面に侵入してくる。
そこでぼくが実践したことは「ぼくは人の名前と顔を覚えるのが苦手である」と言い聞かせ、思い込み、表現することだ。不思議なことに、その思い込みを続けたおかげで、ぼくは本当に人を覚えるのが苦手になった。大学時代、学科の同期には60人弱の人間がいたが、4年の卒業間際の段階で覚えていたのは3人程度だ。
自分に都合の悪いことを忘れようとするのは難しい。だから、都合の悪さを生む可能性を持つ人間を記憶しない、記憶できないと思い込ませることで、本当に覚えられないようにし、都合の悪い出来事を限りなく発生させない心がけをした。
食べ物の好き嫌いなど多くの「苦手」は思い込みであることが多い。
食わず嫌いだったり、久々に食べてみると実は苦手ではなかったりすることもあるだろう。だからこそ、都合の悪いことの発生源(媒体)を記憶することを苦手にしてしまえば、自分の人生を歩む上でより豊かな時間を多く獲得できるだろう。
ところで、人間は一人でも生きていけるが、独りでは生きていけない。
不都合の発生源である人間を記憶せず遠ざけることは、多くの場合において合理的な解決策の一つかもしれないが、孤独は自分を殺してしまうので、少しでも生きる気力がある人は、孤独にならないように、不都合を発生させない人間に巡り合う必要があると思う。孤独であるという時間と経験は、あらゆる負の記憶よりも非常に強力な圧迫感を与えてくる。
結局、記憶力の良い人間は、そもそも人間という概念を忘れることこそ、最高の幸せに到達できるのかもしれない。