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noteを続けた事で気付いた自分の内側の出来事。
私は長文や、昔の感情と向き合う羽目になる際など、自分の中で重めの記事を書く時に爆裂に筆の進みが遅くなる傾向がある。表現して残しておきたいとは思ってるくせに。
そしてその感情と向き合っている時には、なんだか同じくらい爆裂にしょうもない事を考えている。
感情を自分の中でニュートラルに戻そうと帳尻を合わせようとしているのだ。
これはnoteで気持ちを文章にしなければ気付かない事実であった。
私は生粋のバランス論者だった。
バランスって素晴らしい。
ラップ主婦ならまだしも、こないだは悪戦苦闘しているうちに「世界を股にかけて」というタイトルで男が地球の反対側に行くまでただ大便を我慢し続ける話を思い付いた。我慢した後に出した方が解放的な気分になれる事に気付いた男の物語だ。
その男は最終的に飛行機の中で便意を我慢し続けて、ブラジルの空港でトイレに入って恍惚の表情をしていた。
私は思い付いて一人で爆笑していたが、さすがに人様へ見せるのは汚いかなと思って文にはしなかった。
暗い感情の対になる発想がブラジルに行くまでトイレを我慢する男なのであるからこの世はわけがわからないものである。
◎
人様の文章を読んで、「いいこと」を言っている時には感激するのだが、自分自身が真面目にいいことを言おうとしていると、ふと考えて手が止まる。
これは私が、本当に思っている事か。
それともただ、いいことを言おうとしているだけか。
こんな神妙な文章を今書いているが、なんにも考えずに公開している割合の方が高いし、負の感情と向き合っているからしょうもない事がでてくるのではなく、ただそれが好きなだけなのも書き記したい。
なんというか、私は自分自身の中の暗い感情と向き合うのを避けている節がある。物語には託せる。でも個人の発言として真面目に向き合って言語化するのを避けている。だからnoteで実に言い様の無い感情としっかり向き合って言語化されている方々の文章に胸を打たれる。絶対に壮絶なエネルギーがいる。その思いが形になるまでには。凄い、と圧倒される。
私の中でnoteは現実逃避の一環かもしれない。ここは、限りなく「かも」じゃないけど、楽しいし救いになっているのは事実なのでこれからも続けます。
感情に向き合わないのは、そんなもん誰が読むんだという理由がひとつ。
なにも気にせず始めたはずのnoteで、いつの間にか読んでくれてる方の事を気にし始めている。
でも読んでくれてる方も読む記事は自分で選べるんだから、私が勝手に自分を縛ってるだけだよなとも思う。
あとは、私自身が悲劇に酔いすぎてる文章が苦手だという理由がひとつ。でもこの漠然と苦手だと考えている事を今回改めて掘り進めると、具体例など何一つ無いのだ。私がただ、自分がそうならないように、と勝手にフィルターを設置しているに過ぎない。
昔、働いていた書店でこんな事があった。
アルバイトの新人の男の子としゃべっている時の話だ。
その男の子は役者志望で、とても自分に酔っていた。私はその子の根拠の無い自信とナルシストな部分が割りと好きで、今に見ていてくださいよ!と断言する彼の言葉と、こんな事がしたい、という話を聞くのが好きだった。眩しく映ったのもあるし、演劇が好きだったのも共通項としてあった。
会って2ヶ月目くらいの時に、その子がすごく神妙な雰囲気でいつもの感じと違っていたので、どうしたの?と聞くと彼は遠くを見ながら
「色々あるんすよね……」
とポツリと呟くように言った。
言いたくないんだな、と察したその時の私の返答がこうだ。
「そうかぁ…。うん。まぁみんな色々あるよねぇ」
ここに私の中々厄介な性質が現れている。
私はこういう時に、その子の事を見るのではなく、何故か人の視点ではなく神のような視点で、「全世界のみんな色々あるさ」的な事を考えている。
実際にその役者志望の男の子の身に何が起きたか知りもしない癖に、勝手に地球規模で「あなただけじゃないさ」的な事を考えている。これは私のわかっているフリだと思う。実際には何もわかっていないのに。変なフィルターを設置している。
じゃあどう言えば良かったかと言われると未だにわからない。「言いたくなったら言ってね」だろうか。だがこれは関係性を深めないと双方白々しくなる言葉だ。話を聞くことだけならできるがその子に起きた出来事を果たして背負えるかと言われると、背負う覚悟と寛容さが私にはない。結果、求められるまでは言えることなどない的な答えに落ち着く。結局その子はその後バックレてしまったし、その「色々」を聞く機会は失われてしまった。もう、実はしょうもないことでなぁんだ!と笑える事も無いし、壮絶な出来事を聞いて辛かったねと共感する事も無い。
何が言いたいのか自分でもわからなくなってきたが、変なフィルターを設置してないか?はちょっとこれからも生きてく上で考えたい事のひとつだ。そのフィルターを取り外すかどうかはまぁその時の感情に任せる。せめて設置しているのは自覚していたい。
ちなみに普段は大抵無敵ワードの「まぁいいか!」で終わる。こんな猛烈に面倒臭い事を毎回考えていた時期もあるが、やっぱりいちいち潜っていると人間おかしくなる。わからんままでいいこともある。
あぁ、また感情をニュートラルに戻そうとする働きをしている、と↑の文を書いていて思った。
やばいぞ。この思考の仕方はあれに似ている。
「残像だ」とか「後ろだ」的な。きりがないやつだ。永遠に背後を取り合うやつだ。
あぁまたしょうもないことを考え始めた。
でもしょうもない部分の文章を書くときのスピードの速いこと速いこと。
もうこのまま残してこのまま書こう。
◎
ただ、noteを始めた時に決めた事がある。
できるだけさらけ出そうと思った。
noteに対するスタンスは人それぞれで、そこがもう爆裂に面白いのだが、私の場合はさらけ出す事が目的となる。
人様のnoteを拝読していると、他者に目を向けた素晴らしい記事がたくさんある。なんたる眩しさ。
私は自分の意識の話ばかりだ。基本的に自意識が過剰なのだ。でもそれが私なのだ。そしてこんな風に自分と対話できるのがnoteのいいところなのだ。バカボンのパパなのだ。
人様の内面を書いてくれる文章は面白いので、私もこうやって書いてたら誰か物好きな人が面白がってくれるだろ的な気持ちでいる。気楽なものだ。こうして踊ってよう。
自意識が暴走しがちになるのは制御して気を付けたい部分だが。
私はどちらかと言うと秘密主義者で、絶対言わないでと言われた事は文字通り絶対言わない。そして自分の事も隠しがちな人間だった。当たり障りの無いことを言うことに長けている。だけどそれだと人と距離が縮まらない時がある。別にそれはいい。ただ、歩み寄りもせずに嘆く傲慢なやつでもあった。
そして自虐的であった。私は好きなものの共通項が全く別の人に対しては、知ってる人を面白おかしく噂するのをなるべく封じる替わりに、知らない見かけた面白い人の話と、自分を必要以上に自虐したものを会話として用いた。
これは、今考えると呪いであった。聞いてる人もしんどかっただろうなと思う。申し訳ない事をした。人が内心で私の事を下に見ようがそれはその人の勝手であるが、私が自分から地面にめり込んでいく必要はどこにも無い。そんなもの見たい人間はいない。いや、それを見て喜ぶ人間と仲良くしたくはない。今後はできるだけ気を付けたい。
文章や物語も同じで、できるだけ人を傷つけないものを好んだ。この、「できるだけ」の部分が肝だ。万人が傷つかない文章や物語。そんなの無理である。
野良猫の生き様を可哀想だと嘆く人もいる。
可哀想って何?なんで犬と猫だけ特別視してんの?と疑問を持つ人もいる。
野生の気高さに胸を打たれる人だっている。
救おうと行動に移す人もいる。
温かい優しい家族の話が処方薬になる人もいれば劇薬になる人もいる。同じものでも見える世界は違う。そして、時期で捉え方も変わる。必ず変わる。
傷つくのはその人の特権である。そう考えれるようになった時に少し楽になった。だから私はもう勝手に書こうと決めた。その人個人を傷つける意図の無い私の言葉や文章で、人が傷ついたとしてもそれはその人が生きた証そのもので、その人の、私の、特権である。
読んだ人が傷ついた事実と、個人の否定はイコールじゃない。その姿勢でいる。
◎
noteは人様の記事を読んでいると、この感情に名前をつけたくない、という衝動に良く出会う。凄く貴重な追体験をさせて貰っているな、と感じるしそこがとても嬉しいし楽しい。物語も同じだ。
読んでいて楽しくなる文章が好きだ。
突き刺さるような激情をヒリヒリと感じる文章も好きだ。
感情が乗っかってる文章が好きだ。これに尽きる。
優しい肯定的な文章を書く方に、優しくて肯定的で救われますとコメントすることは、果たして祝福か呪いかみたいな事は考える。きっと、それだけじゃない。その方の中で、溢れる激情を抑え込んで書いている事もあるだろう。でも本当のところはその方にしかわからない。だからせめて、その文章を読んで、本当に思ったことを。そんなスタンスでいる。もちろん肯定的な意味で。
自分の書くジャンルもあまり縛らずに決めつけないでやろうと思う。重かったり軽かったり。なんでもありで。
ただ考え続けてはいたい。折に触れて。これは一回こうだったからこう!じゃなくて。気分でもきっと変わる。私はちょっと決めつける節がある。柔軟に憧れる。猛烈に面倒臭い事を考えることと、この考えることは私の中で別のカテゴリーだ。上手く言えないけど。
だんだん何が言いたいのかまた自分でもわからなくなってきた。もう推敲してると延々と悩むのでただ思ったことを連ねる。
そうだ。これがきっと基本姿勢だ。
本当に思ったことを。
デリカシーには気を付けたいが。
◎
実は踊ってようとさっき表記した時から、あぁ文章で踊るってなんだか面白いなと思っていて、真面目な事を書いたら私の中で祭り囃子が鳴り出した。
もうこれも書いちゃおうと思う。
聞いてください。
~だれが読むんだ音頭~
だーれが読むんだ!(それなっそれなっそれなっそれなっ)
私が読むんだ!(あっぱれアッパレあっぱれアッパレ)
吐き出したいんだ!(よいヨイよいヨイ)
一緒に踊ろう!(そいやっソイヤッそいやっソイヤッ)
(繰り返し)
◎
あぁスッキリした。
発作みたいなものだ。許してください。
こんなわけのわからんとっちらかった記事があってもいいや。
だってnoteは自由だから。
あぁなんて懐の深い。最高です。ありがとう。
今日でnoteを始めて50日なので、節目として、内面を吐き出す練習をかねてこんな記事を書いた。
最後まで読んでくださった事、とても嬉しいです。
本当にありがとうございました。
今後とも何卒よろしくお願い致します。
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