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落とし物箱

 落とし物箱に入ったそれは、一番星のような輝きとときめきをたたえていた。

 すぐ物を落として無くしてしまう生徒たちのために、若くて美人な担任教師は「落とし物箱」を設置した。綺麗なお菓子の空き箱を再利用したものだった。その教師は、若くて美人というだけで、生徒からとても慕われていた。案の定保護者からは舐められていて、可哀想でもあった。
 みんな、落ちているものを見つけたら、拾ってここに入れるようにしてください。落とし物をしたひとは、ここも探してみてください。そして、他のひとのものは勝手に持っていかないようにね。
 ある朝のホームルームで生徒たちに忠告をして、落とし物箱は運用を開始した。

 最初に落とし物箱に入れられたのは、みんなが大好きなキャラクターが印刷された鉛筆だった。みんなが欲しくて、なかなか買ってもらえなかったものだ。クラスの誰が持っていて、誰がそれを無くしたのか、なんとなくみんなが把握していた。小学生ながらけん制する空気が立ちこめていた。
 だからその鉛筆は、誰かに盗られることもなく、すぐに持ち主のもとに引き取られていった。落とし物箱を覗き込んでそれを見つけた持ち主が、すごく安心した表情で、ここにあったんだ、と鉛筆を抱きしめた横顔が目に焼き付いている。
 無くしたものが見つかることの喜びは、想像以上らしかった。私はそれを眺めているだけのはずだった。

 落とし物箱は次第にもので溢れるようになった。小さく丸くなった消しゴム。青い本の栞。短くなった無地の鉛筆。ぞうきんみたいに汚れた花柄のハンカチ。
 床に落ちていたものをそのまま入れるせいで、埃や髪の毛まで入っていた。ゴミを取り除くひとなんていないから、誰も触りたがらず、落とし物箱そのものが落とし物として忘れ去られていくようだった。
 担任教師はすっかり忘れてしまったみたいな顔をして、落とし物箱を掃除することもなければ、綺麗に使おうねと口にすることすらなかった。それでも生徒からの人気は不動だったし、みんなも一緒に忘れようねと暗に約束したみたいに、生徒たちも箱のことを忘れていった。
 落とし物箱のいちばん近くに座る私だけが、箱の行方を気にしていた。

 ある日落とし物箱を覗くと、がらくたの中に昨日までは無かったはずの、きらきらしたものが見えた。それは陽の光を反射して光る、小さなピンク色の鈴だった。
 かわいいな。綺麗だな。
 さらによく見ると鈴はストラップにくっついていて、その先には、ちりめんでできたクマのぬいぐるみが付いていた。小さな花柄の、赤いクマ。私の目は吸い寄せられてしまった。
 私、これが欲しい。
 文房具屋でも、雑貨屋でも、おもちゃ屋でも、ここまでのときめきを感じたことはなかった。

 落とし物箱に入っているのだから、このクマのストラップはクラスの誰かのものなのだ。私がいくら欲しいと思ったところで、持ち主が引き取りにくるに決まっている。だってこんなにかわいくて魅力的なんだもの。ゴミ箱みたいな落とし物箱に入れておくにはもったいなさすぎる。
 手を伸ばしたい気持ちをこらえ、私は落とし物箱を見つめ続けた。引き取りに来て、ここにいたんだね、落としてごめんね、と言ってクマを抱きしめる持ち主の顔を見るつもりだった。それを見たら諦められる気がする。私のものではないんだと、ちゃんとわかる気がする。
 私は箱のすぐそばの席で、毎日待った。

 一週間が経っても、持ち主は現れなかった。
 クマはこの前よりくすんでいたけれど、やっぱり輝いて見えた。朝早く、教室に一番乗りして静かに触れる鈴は、いつだって澄んだ音を響かせていた。清々しい気持ちで一日を始めるためには、この鈴の音が必要になっていた。
 これを落としたのは、一体誰なんだろう。私の憧れが詰まったストラップを。今までを思い返しても見覚えがなくて、見当もつかなかった。あの子だろうか、と考えては首を振った。あの子のランドセルについていたのはこれじゃない。あの子の筆箱も違う。体操服を入れる袋も違う。他のクラスの子だったらどうしよう、さすがに引き取りには来ないだろうか。

 さらに一週間が過ぎた。ホコリまみれになったクマは、それでも私の目を吸い寄せるだけのときめきを与えてくれた。心が澄み渡る鈴の音色は変わらなかった。落とし物箱に立ち寄るひとは全くいなくなって、すっかり風景の一部と化してしまった。
 教室に誰もいないことを確認して、そっとクマのストラップに手を伸ばす。ちりめんの感触が、存在を感じさせてくれる。憧れが詰まったストラップが、ここにある。わずかに触れただけで鈴は静謐な音を奏で、ささやかな主張をする。
 もう十分待った、と思う。誰も取りに来ない、忘れ去られた私のときめきを、そろそろ抱きしめてもいいんじゃないだろうか。担任教師がいつか言った言葉は、空気中のちりになって消えていた。

 デニムスカートの右ポケットを上から押さえながら、足早に家に帰った。誰かに見つかるのが怖かった。ポケットの膨らみを、微かに鳴る鈴の音を、指摘されたくなかった。近所のおばちゃんとすれ違うときも、目を見れなかった。口先だけでこんばんは、と呟いて、家路を急いだ。
 自分の部屋に入って、鍵を閉め、勉強机の椅子に座った。ゆっくり右ポケットに手を入れて、憧れをその手に握る。壊れものを扱うようにして、ふわりと包み込み、机の上に置いた。

 そこにあったのはホコリを被って黒ずんだ、ただのクマのストラップだった。さっきまでの輝きはすっかり失われていた。帰り道に全ての煌めきを捨ててきたみたいに、どこにでもある平凡なクマだった。
 恥ずかしさと後悔で涙が滲みそうで、力任せにゴミ箱へぶん投げる。ちゃりん、と小さな音がして、それはまるでひとつの世界が終わったみたいだった。

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