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澄んだ曇り空を見て笑う

バナナミルクが好きだ。

ミキサーにバナナと牛乳を入れて、好きなだけ回したらもう後は飲むだけのあのバナナミルク。朝それを飲もうと、シンクの下からミキサーを出し、電子レンジの上に転がっていたバナナを取り、冷蔵庫から牛乳を掴んだ。瞬間、ちゃぷん、と軽い音をさせてパックの中で牛乳が跳ねる。バナナミルク1人分に到底及ばないだろうその量を、しばらくぼうっと紙パックを見つめながら段々と理解して、諦めて冷蔵庫に戻した。

久しぶりに飲みたかったから、かなりしょげた。24歳がまさかバナナミルクごときで落ち込むとはと思うかもしれないが、私はそんな奴なのだから仕方ない。だからといってすぐに買いに行こうとするほどの熱意もないから、きっと一生救われない。結局、朝食は空気だった。

夕方前に、胃カメラの組織検査の結果を聞きに病院へ行った。少し胃は荒れているけれど、あとは全く問題ないらしい。ピロリ菌もいなかった。胃痛も不眠も胸痛も、ストレスが原因だと言う。”ストレスを気を付ける”と変な文章を問診票に書くものだから、思わずツッコミそうになったけど愛想笑いを浮かべてどうにか流した。朝食のバナナミルクが飲めなかったくらいで大分落ち込むような人間なんだから、”ストレスを気を付ける”なんて夢のまた夢である。

そういえば牛乳を買わなくてはいけないんだと思い出して、帰りにコンビニに寄った。あれもこれも無いんだったというものをどんどん見つけて、かごへ入れる。いつものお兄さんがレジをしていた。名札の苗字の上には”リーダー”の文字。この人、対応といい風格といい、店長かと思っていたのにそうではなかったらしい。ポイント決済をしようと、その旨を伝えると「ポイント利用が停止されてますね」と困ったように画面を見つめながら言われた。仕方ないので現金で支払っていると「お手数ですがコールセンターに電話されてみたらいいですよ」と続けて教えてもらった。こういう気配りをしてくれるから店長だと思ったんだけどな。頼れるリーダーにお礼を言って、速攻で家に帰ってコールセンターに電話した。早口のお兄さんがこれまた丁寧に説明してくれて、すぐにポイントは使えるようになった。

家計簿のアプリをインストールしているので、レシートをすぐに確認して、数字を打ち込んでいく。買った分よりも明らかに安い合計金額になっているのに気付いて、スマホを置いた。レシートと買ったものを1つ1つ照合していく。これだ。牛乳がレシートに打ち込まれていない。”買い物 レジ通し忘れ”で検索にかける。もう一度支払いに行っても店員さんを困らせることにはなりそうになかったので、脱いだMA-1を再び羽織り、牛乳とレシートをレジ袋に入れなおして外へ出る。すっかり日も落ちてしまって、夜の空気が鼻を通っていった。風が強い。一歩引き返して今すぐ家に戻りたい。でも、これだけ楽しみにしていたバナナミルクを厚意でもなくタダで手に入れてしまった牛乳で作ったとして、美味しいと思えるだろうか。そんな人間にはなりたくない、とひとり声を漏らし、住宅街を通り抜けていく。思い返せば、今日の芦屋はずっと薄曇りの空だった。ふいに浮かんできた”悲しみ”というワードを題材にした短歌を考えながら、コンビニの自動ドアを抜ける。リーダーはいなかった。代わりにレジに立っていた男子高校生に、事情を説明する。「少々お待ちください」と言って渡したレシートごとバックヤードに消え、数十秒。別の店員さんが出てきた。名札には、”店長”の文字。この人が店長、と思っていたら、「わざわざ持ってきていただきありがとうございます」とお礼を言われたので、とりあえず一度笑って、とにかくあの優しいリーダーが怒られてしまうのは避けたかったから「ポイントが使えなくて混乱させてしまったんで、多分それで、」とその場にいないと分からないような言葉で釈明した。そうなんですね、と返してくれた店長は、やっぱりよく分かっていないような口ぶりだった。帰ろうとする私に、別のお客さんの会計をしながら男子高校生が「ありがとうございます」と声をかけてくれた。普段のありがとうございますとは違う、ありがとうございますだったから、嬉しかった。

外にでると、強風が髪を乱暴にさらう。思わず引き返したくなるけど、私の家はここじゃないので諦めて歩を進める。信号待ちで暇だったから、なんとなく、空を見上げる。相変わらずの曇天なのに、何故かクリアに澄んで見えた。悲しみを題材にした短歌なんて、もう浮かんでこない。思わず笑ってしまった。単純な奴だなあ、わたし。毎日こんな気持ちなら医者にストレスの文字を打ち込まれることもないんだろう。こんなに心が軽くなるんなら、来てよかった。帰って、出しっぱなしのミキサーとバナナの横に、堂々と買った牛乳を用意して、今度こそバナナミルクを作ろう。普段は耳をふさぎたくなるほどのミキサーの音も、今はなんともなく笑えたりするに違いない。

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