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僕は寛容だけど優しくはない

1.“優しい”には多様な意味がある


“優しい”という言葉はとてもむずかしい言葉だ。


よく人を紹介するときに「あの人は優しい」というのを耳にする。

確かに“優しい”と言われる人を観察してみるとその雰囲気からすでに“優しい”。
でも何が優しくて何が優しくないかなんてことは語られることがほとんどない。


まず、調べてみて驚いたのはその意味の多様さである。

1 姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。
2 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。
3 性質がすなおでしとやかである。穏和で、好ましい感じである。
4 悪い影響を与えない。刺激が少ない。
5 身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。恥ずかしい。
6 控え目に振る舞い、つつましやかである。
​​​​​​​​​​​​​​7 殊勝である。けなげである。りっぱである。
(Google国語辞書より抜粋)


意味というのはこんなにも表現の仕方があるのか。

それにしても自分のことを“優しい”と言ってくれる人はどの側面を見て言っているのだろうか。自分自身を冷静に見つめてみてもこの中に当てはまりそうなものは、、、ない。笑

もしこれというものがあればぜひ教えて欲しい。
(結構まじめに)



2.僕は優しくない

僕は基本的に人にとやかく言うことをしない。

相談に乗るときはその人に合わせて自分の考えを述べることはあるが、後輩にも同期にも誰に対しても厳しく言うことはないに等しい。

ましてや人に怒ることは滅多にない。


これを言うとよく驚かれるが、たまに怒ることはある(あった)。


例えばテニスの時に自分に対してや、不可抗力なもの(雨や強風)に対して怒鳴り声をあげることがあった。

それも最近では意味のないことだと考えることができるようになった。

このように人に怒らないことは、“優しい”ように見えて、必ずしも“優しい”とは言えない。

例えば、僕は社会に出たときに役に立つと言われているマナーに疎い後輩がいたとしても決して怒らない。

「先輩としてマナーは身につけさせた方がよい」と考える人が多いだろうが、僕はマナーは別に絶対に守るべきものだとは考えていないし、自分は気にならない。(でも一応守ってる)

ましてやそれで人を判断するようなことはしたくない。

マナーを守れるというのは人間性とはまた違った要素だ。もちろんマナーは身につけた方が認められやすいが、その人がマナーの大切さに気づいたときにマナーを大切にするようになればいい。


でも、その人が損するかもしれない未来のことを考えると今僕が厳しく伝えた方がいいのかもしれない。

人を思いやって叱ることができないのはある意味その人のためにならないので、その視点で見ると僕は“優しい”とは言えない。


ある意味、その役目を人任せにしている。

ある意味、僕は人に関心がない。(本当は興味おおありだが、その人がどうなろうと自分には関係ないという意味である)

ある意味、多種多様な人がいて面白いと思ってしまう。


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3.僕は“寛容”である


こうやって書いていくと、僕は“優しい”というよりは“寛容”だと言える。

調べて見たら案の定、僕の理念にぴったりの意味が出てきた。

心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。(Google国語辞典より抜粋)

そしてこういった考えは、“ALL OK”マインドが根底にある。


「別にそれでもいいじゃない」
「それでいいならいいと思う」
「どんまいどんまい」
「仕方ないよ」
「大丈夫でしょ」

僕はこう言う発言をよくする。


その人の人生はその人が決めるのだから首をつっこむのはなんというか、おこがましい気がする。

もちろん手助けを求められたらできるだけ協力はしたいと思う。

でも基本的にどんなことでも許す、というのが僕の理念である。




4.行動を否定する

少なくとも人のミスや言動に関して言う時に人格を否定してはならない。


教育者としても言えることだが、その人の人格・性格を否定するのではなく、その人の行動・行為を否定するのが良い。

人格否定は誹謗中傷とほとんど同じである。


ここで、少し脱線して僕の教育者としての話をしよう。

僕が教師になったときには、いじめと差別と暴言などに関しては指導をしようと考えている。

子供はまだ自分の人生について考えることは難しいからだ。

人権としてのやってはいけないことは子供のうちに明確に伝えることが大切だと考える。

それ以外は正直、なんでもいい。

一人一人が自分なりにすくすく育ってくれたらそれでいい。

そのお手伝いをするのが教師の役目だ。

自分のエゴを押し付けるのは人権教育だけに抑えときたい。


指導をするときは、行動を否定する。



5.人を傷つける、以外はOK

さて、話を元に戻すと、いじめなどの問題に関しては今自分の周りで起きているなら止めに入るが、それ以外のことに関しては、その人が仕事でミスをしようが、僕の自転車を壊してしまおうが、怒るに値しない。

怒っても戻ってこないからだ。

ミスに対して多少の責任感をもつことも時には必要だが、ミスをしない人生なんぞつまらないし、それ以上にそのミスをどう生かすか考えた方が良い。


そこに関して、上司や先輩から怒るという手段を用いることはお勧めできないというのが僕の考えである。

失ったものより今あるものをどう使うか。

アドラーさんの心理学が影響しているのだが、これはとても深いお話になるので、また別の機会に。



6.まとめ

“寛容”な態度は問題を客観的に見ることや、多様な考えを認めることにつながる。

僕がブログを書いて誰かのためになれば、と考えて書くのは、これによって強制的に人の人生を“変える”のではない

その人が僕の考えを取り入れて“変わる”という選択をすることにつながるなら、それは嬉しいということである。


よりよい人生のための一つの選択肢として提示するのがアウトプットの意味である。

さて、ここまで書いてきて“寛容”と“優しい”には似たようで全く異なる意味があるということが分かっただろう。

今回書いて感じたのは全員が“寛容”になれば、いじめや誹謗中傷がなくなるということである。

また、控えめな人が“優しい”のであれば僕は優しくなりたくないとも思った。笑


いやはや、自分についてまたちょっと知ることができた。


それではまた。