混迷を極める社会と個人の意思決定

相変わらず机上の空論をこねくり回してる徒然日記。
自己啓発ではなく単なる思考散歩。

今日の話は「正しい物事を判断するにはどういう姿勢でいればいいか?」です。

先に結論を書くと、
「SNSも行政もマスメディアも他人も、誰かを信用しきってはいけない。」
「個人が意思決定し正しい物事を見極めなければならない。」
「だが現代人にはその体力が無い。」
になります。相変わらず暗い。

今回例に上げた作品は、SF小説『虎よ、虎よ!』とアニメ『テイルズ・オブ・ゼスティリア・ザ・クロス』です。
(『虎よ、虎よ!』の微ネタバレが入ります。)



はじめに


きっかけは昨夜のNHKの番組、「AI戦争 はてなき恐怖」だ。
https://twitter.com/nhk_n_sp/status/1413061100959150090?s=21
AI兵器に焦点を当てた内容だが、私が特に注目したのはフェイクニュースの話題だった。

この番組で特集していたような敵対国へのサイバー攻撃ではなくとも、現代社会では人々は怪しい情報に踊らされている。
この国ではコロナ禍騒乱、例えばトイレットペーパーの買い占め騒動やワクチンに関する怪しい情報。アメリカで言えばトランプ氏VSバイデン氏の大統領選挙で起こったという候補を貶める情報の錯乱。
私が知らないだけで、ソースの怪しい情報で人々が右往左往した例は沢山あるだろう。

国や企業もフェイクニュース対策に取り組んでいるが、個人として対策できることはないのだろうか?



 プライベートとパブリックでの判断

フェイクニュースが飛び交うのは基本的にSNS上、プライベートな空間だ。個人が情報の真偽を見極め、正しい情報の取捨選択を行う場は基本的にSNSになる。
だが現在、オリンピックに関する政府の対応が問題視される中、「正しいかどうか」を思考すべきものは政府の動向も該当するのではないか。
SNS(プライベート)の噂と国や行政や企業(パブリック)の処置、この両者に対して個人が「真偽はどうか」「正しいかどうか」を考え判断すべき世の中になってきた。


まずはSNSから取り上げる。このnoteのように、誰でも好きなように言論を唱えられるため、様々な言説や真偽の怪しい情報が氾濫している。
おまけに、気軽にRTといいねができるため拡散力も大きい。よってTwitter社はリツイートする前に内容を確認するよう注意喚起メッセージを出すようになった。
多くの情報が飛び交うため、信頼できる情報を入手するためには多大な労力が必要となる。
①必要な情報を抽出し②情報源が信用できるか確認③情報が正しいか他の情報と比べて真偽を見極める。
…酷く大変な作業だ。


次に政府の判断について。国は至上の意思決定機関であるべきで国民もそう信じている。
ただし政府の判断がいつも民衆のことを考えているか、国益のために民衆を蔑ろにしていないとは限らない。
オリンピックに関する処置は本当に国民のためを思っているのか?と疑問に感じる人が多いのか、観客の有無や開催の是非に関する意見がSNSやテレビのニュース番組で多く見られた。

(以下個人的な感想。私はこの国の権力を疑惑的な目で見てしまうため、国の判断が政治家や権力者の私欲に汚染されている可能性もあるのでは?と勘繰ってしまうし、最近で言えば夫婦同姓は違憲ではない判決に絶望したりした。)

国や行政の判断が正しいかは、他国又は民衆に委ねられる。ただし他国の意見は自力で入手するのは困難であり誰かの手を借りることになる。
民衆の意見をSNSに求めようにも様々な意見が氾濫しているし、大多数の意見が正しいとも限らない。
政府ほどでないにしても、企業の判断が正しいかどうかは個人には判別つけ難い。

SNSも行政も、双方ともどれが正しいかは分からない。


新聞やテレビは多くの人に同じ情報を伝える能力に優れており、情報の取捨選択を行っているはずで、よって情報には一定の信頼はおけると思われる。
ただし最近ではマスメディアは話題性のためにSNSの情報を頻繁に取り上げている。現在はほんわかした日常の話題ばかりだがいつSNSの怪しい情報に汚染されるかは分からない。
政府に対して、マスメディアは頼りにならない場合もある。これは権力者が情報を統制できるだろうと考えている人、戦時中に言論統制が行われた歴史を知っている人なら、僅かでも頭の片隅にあるはずだ。

自力で情報の取捨選択、真偽の見極めができない場合次に頼るのは信頼できる個人だ。
だが同じ意見の人をお手本・判断軸にしようとしても、その人が根拠とする情報が正しいかは分からない。個人なのだから間違えている場合もある。

結局のところ情報の真偽、正しい物事の判断は自分で見定めるしかない。



具体例の作品(『虎よ、虎よ!』とTOZtX)


徒労感にやりきれなくなった所でいくつかの作品を上げよう。オタクなので作品を具体例に出すと元気が出る。

(以下、アルフレッド・ベスター作『虎よ、虎よ!』終盤のネタバレが少し入ります。)


アルフレッド・ベスター作、中田耕治訳『虎よ、虎よ!』ハヤカワSF文庫刊。
1956年に発表された本作は70年近く前の作品だが、今なお色褪せないSFの名作だ。『モンテ・クリスト伯』からインスピレーションを受けた作品としても有名。

かつて流される民衆の一人だったカリバー・フォイルが覚醒し、復讐に燃える「虎」として人々を蹂躙していく物語だ。次第に彼は地球だけでなく、宇宙や人類を左右する重要人物になっていく。

世界の中心人物の一人、人類の命運を決める最重要人物になった彼が他の重要人物…権力者や指導者のキャラクターに対し、最終盤でこう語るシーンがある。

「民衆を子どもあつかいするのはよせ。そうすれば、彼らは子どものようにふるまうのをやめるだろう。監督者のように行動するきみたちとは、いったい何者だ?」
〈中略〉
「おれは民衆を信じている。おれは虎になり果てるまでは民衆の一員だった。おれのようにたたきのめされて眼ざめさせられれば、誰だって凡人ではなくなることができる」

こう語るガリバー・フォイルのように目覚められる人間などそう多くいないだろう。大体は叩きのめされて絶望するのが落ちだ。
それでもフォイルは人間を、民衆を信じるという。だから世界の中心で采配を振るう“きみたち”指導者にも、民衆に意思決定を託せと語るのだ。
凄まじい人類讃歌だ。


少し脇道に逸れるが、このページには権力者・指導者視点のセリフも存在している。

「我々は権力を握っているのではない」〈中略〉「われわれは駆り立てられているんだ。われわれは普通人が避けている責任を負うように強いられているのだ」
「それなら彼らが責任を回避するのをやめさせたらいいじゃないか。その義務と罪業を奇形人の肩におしつけるのをやめさせたらいい。われわれは永遠に世界の罪業羊になるべきなのか?」
※奇形人=この場面では我々、特殊な人間である世界の中心人物・指導者を指している。

権力者≒民衆を導く指導者であり、指導者を「罪業羊」≒人類の生贄とたとえる考え方は今まで思いもつかなかった。
事実、権力を持つ人間は民衆を正しく導くべきであり、その責任とプレッシャーを負い日々普通人よりも重い意思決定を行っているのだ。
(今まで権力者は民衆から富を巻き上げ蹂躙するだけの悪政を敷く存在だと考えていた…)
おかげで権力者への憎しみに曇っていた目を少し晴らすことができた。この作品を読んでよかった。


もう一つ具体例を。
最近アニメ『テイルズオブゼスティリアザクロス』(略してTOZとする)を視聴しているのだが、この主人公のスタンスにも感動した。

主人公は人里離れた集落で暮らしていたが、親友と共に世界へ飛び出す。そして穢れで荒廃した世界を救う導師に選ばれるのだ。ただしこの世界の穢れを生むのは人間の負の感情、負の感情を生む戦争を行うのも人間の業…。穢れを祓う導師の主人公は、世界へ出てすぐに人間の業と直面させられる。

その中で主人公は「自分の目で世界を確かめたい」と語る。仲間から聞いた話だけで判断するのではなく、「何を成すべきなのか自分の目で見て決めたい」と。
元になったゲームもこのアニメも6年以上前の作品だが、今の社会で個人として在るべき姿ではないだろうか。

以前noteの一部で、特別な少数の人間に流される大多数の話に触れた。→
大多数の一部であっても流されず個人を貫くためにも、TOZの主人公の「自分の目で見て成すべきことを決める」スタンスは見習っていきたい。


これらの作品から、民衆一人一人が個人として意見を持ち意思決定すべきであり、そのために自分の目で直接物事を見るべきだ、と改めて気付かされた。



 日常生活の意思決定


しかし先程徒労感を感じたように、情報の取捨選択や正しいことの見極めには多大な労力がいる。慣れればそうでもないのかもしれないが…

そもそも現代人には真偽の見極めによる意思決定以外にも、日常生活で意思決定の場面が多すぎる。

とても日常的な場面で言えば、私達は支払いをする時に現金・クレジットカード・QRコード決済・交通マネーetc、どれ使うかを決めている。
その時にどれで支払うか決める事自体も意思決定の行為になり、日常生活でそれが積み重なって酷く疲れていく。

人民に自由が与えられた現代社会の弊害とも言うべきか。
こういったしょうもない行為で思考し決断する体力が消耗されている。

(それで現代社会に対して憂鬱になり、前時代を希求する懐古主義が流行ったりする。牧歌的なアルカディアの希求。それはまた別の話。)

日々の営みに加え、社会への分別を付けるための体力なんて足りない。
少なくとも私には無い…日々を生きるので精一杯だ…。



まとめ


「個人が自分の意志で決めるしかない」と語りながら「そんな体力が現代人には無い」と愚痴をこぼす。これがまとめなのか?

私は自己啓発的なアドバイスなど何もできない。
現代人が日々の選択で意思決定の体力を消耗するのなら始めから決めておけば良いとか、そんな月並みな事しか言えない。

そういった少しの工夫から体力を残して行って、社会の物事に対して思考し判断する能力を磨き、自分を慣れさせて行くしかないのかもしれない。


それでも私は、人間を“愚かな民衆”だと思って欲しくないから、民衆に絶望する人が少しでも減ってほしいから、少しでも目を開いて考える芦として生きていきたい。


民衆が狂乱に耽る暴徒となる日が来ませんように。

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