「特別な少数のために犠牲になる無名な多数」の物語への嫌悪感

タイトルまんまの通り、私は「特別な少数のために無名な多数が犠牲になる」物語が苦手です。
例えば最近国民的ブームになってる某少年漫画とか、五年ほど前にブームになったディストピアもの少年漫画とか…

それぞれ、無力な市民を守る為に闘う自衛団めいた組織があります。
使命に殉じる死に様は私も大好きですが、限られたごく一部(特殊能力を持つ主人公とか滅茶強い幹部達)を助けるためにヒラ団員はどんどん犠牲になっていきます。
「こんな風に死にたくない」と絶望しながらも、特別な一部を守って自分から犠牲になっていく。
人間がこんな風に死んでいいのか?と憤りを感じます。

何故そんな物語が人気なのか?国民的ブームになるのか?と考えました。
結論から言うと「今の現代社会は全体主義の風潮が強いから。」

順々に思考を辿っていきましょう。


人間がバンバン死ぬ物語に対する嫌悪感

そもそも私は無数の人間が犠牲になる物語が苦手です。(ニチアサ好きにあるまじき発言。)
理由は、人間の命の価値を無視してるように感じるから。
この現実世界の私達は無様でも懸命に生きているのに、創作世界で人間の命を粗末にされると、「じゃあ私が生きている意味ある?」と絶望してしまう。

逆を言えば、死者数を数えその死を悼み生きる人が活かしてくれる物語が好きです。
例えば『仮面ライダークウガ』。殺人ゲームで人間を虐殺する怪人によって多くの市民が犠牲になるこの作品。何話か忘れましたが(多分36話?)、その死者数を主人公・五代雄介とその相棒・一条薫は記憶している。その細やかさに感動しました。
後はファフナーBeyondの8話も当たるかな。

とはいえ、人がバンバン死ぬ作品(言い方に悪意)も好きですよ。倫理観を期待せず視聴するホラー映画など。
正直沢山の犠牲が出る創作物はこの世に溢れすぎて、慣れてしまった面もあります。


何故「特別な少数のため無名な多数が犠牲になる」物語が好まれるのか?

①死に意味を求めているから
私は無名な多数側として、無力な方の目線で見てしまっています。だから世間が多数側で共感しているのか、少数側で見ているのか分かりません。
ただ私と同じく、無名な多数側で共感していると仮定します。

私には正直無名な多数側でこの物語を共感できる理由が分かりません。そんなに死にたいのか?誰かの為の犠牲になりたいのか?死に意味を求めるのか?もっと足掻いて生きてくれよ、現実世界の私も頑張って生きているのにさ。
もしかして「希死念慮に襲われ死に意味を見出したい」人が多いのでしょうか?
人生に疲れても無価値に死ぬのは怖く、価値ある死に方を求めている、そんな人が多いのでしょうか。
だから、特別な誰かの為に死にたいと願っているのかもしれません。

②全体主義の蔓延
特別な少数をヒラの多数が犠牲になって守る。
この構図は、命を掛けるべき人間を選別している事に他なりません。
特別な存在…特別な技能を持っている又は優秀な人間が生き残るべき。そうじゃない凡人は特別な彼等に尽くすべき。
これは能力主義の肯定です。格差社会の肯定です。全体の為なら個人が犠牲になるべきとする、全体主義に繋がります。

私はこの傾向はとても危険な物だと思います。全体主義自体はニチアサでもどこでもそういう物語はあります。(市民を守る為犠牲になる戦隊など。)ただし、それはあくまで彼等の使命だからです。
ただし、その市民を守る自衛団内で、能力によって守るべき少数を選別し他多数は犠牲になる。それは最早本末転倒ではないでしょうか?
無力な大多数を守るべき組織が、無力な多数を捨て駒にして少数を活かす。矛盾を感じます。


何故全体主義が蔓延する社会なのか?

現代社会はネットが発達し、誰でもどこでも社会と繋がれます。SNSだと皆の意見がいつでも見れる。それこそが全体主義、個人を疎かにする風潮の原因だと考えます。

ではそれが何故「特別な少数のために無力な多数が犠牲になる」物語の賛美に繋がるのか?

SNSだと、特別な少数…例えば芸能人の日常を見る事ができます。おまけにインフルエンサーというほぼ一般人だけど多くの人に影響を及ぼす存在もいる。これらの特徴は「近い距離で特別な存在と関われる」事です。
よって皆が特別な少数に親近感を湧く、憧れを抱く。でも特別な少数に認識はしてもらえても、彼らにとっての特別な誰かにはなれない有象無象に過ぎない。

だから「特別な少数のために犠牲になる」事で彼らに貢献できた、と誇れる死に方に意味を感じ好むのではないでしょうか。


以上、ご清聴ありがとうございました。


次のnoteは、コードギアス完走後主人公二人の関係性について書くつもりだったのにな………

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?