4月14日 ねこちゃん
コロナ終息したら一刻も早く実家に帰ろうと思っています。
地方だからまだ感染者出てないらしい。でも東京に比べて危機感がなくて市の体育館とかバリバリ営業しているそうです。なあ市長。私の大事な家族守ってくれよな。たのむよ。
母方の実家にはねこちゃんがおって、彼女にはずっと嫌われています。
ねこちゃんの名は「ゆめ」。三毛猫のメスで、現在祖母と二人暮らしです。ゆめは保健所から貰われてきた子で初めて見たときは片手の平に収まるほど小さかったのに今では立派なデブねこちゃんに成長してしまった。ばあちゃんはそのぽっちゃりぶりから「ぶーちゃん」の愛称で呼ぶようになった為、奴は自分のことぶーちゃんだと思ってると思うよ。
「ぶーちゃんおまんま」って言うと来るもん。もうお前ぶーちゃんだわ。
ぶーちゃんは餌をくれるばあちゃんにべったりだけど私には全然懐いてくれず、触ろうとすると攻撃してくる。でもデブだから猫の癖して瞬発力がないために無理やり私に抱っこされてしまう。まあこれが嫌われてる原因でしょう。ごめんって。
狂暴だから寝てるときくらいしか写真が撮れない。
私は勿論犬より猫派でして、特に陰鬱な心のとき、ねこちゃんには憧れたり、自己投影してみたりする。
なんだかいつもねこちゃんに心を動かされている。
私が敬愛する宮沢賢治先生は猫嫌いで知られていて、「私は猫は大嫌ひです。猫のからだの中を考へると吐き出しさうになります。」などという随筆を遺している。(しかし賢治先生は書き損じの原稿裏などにねこちゃんの落書きを多く遺しています。ツンデレか…?愛しい…)
釜ねこや山猫、そして散々苛められたセロ弾きのゴーシュの三毛猫など、宮沢賢治の童話作品にねこちゃんは度々出演しています。
ゴーシュの三毛猫なんかはたぶんメスだったんだろうな。生涯童貞だった賢治先生にとって女はまるで三毛猫だったのかもしれない。
でも嫌いだと言う割に作品から猫に対する嫌悪はそんなに感じなくて、どちらかと言えば、猫と重なる人間の欲や図々しさへの嫌悪って感じがするのでやっぱり猫そのものが嫌いなわけじゃないみたいですね。
ねこちゃんに投影される人の心って確かに優しさや思いやりみたいな他人を愛する気持ちより欲とか自由とかいう自己愛だものね。猫は愛するより愛されたい心の象徴みたいだ。
そう感じた私のねこちゃんへの憧れに、文月悠光さんの詩集「私たちの猫」の言葉がぴったりきた。
「人の心には一匹の猫がいて、そのもらい手を絶えず探している。」