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生きることが仕事だから

先日のGW、この状況下ではあったが少しだけ外に出かけた。

相も変わらず体調が悪い日々が続いていた。いちばん過ごしやすい季節なのに、家にこもって申し訳程度の掃除や洗濯をし、昼はめしと味噌汁、真空パックされた煮魚といったものをもそもそと食べる。その間も二十分のトイレや服薬をしながら。

夕方、相方が仕事から帰ってくると、やはり昼と似たようなおかずで夕めしを、相方の仕事の愚痴に頭半分だけ付き合いながら胃に入れる。夜は一本だけ缶チューハイを飲む。肝機能はずっと正常だったのだが、最近は薬がまた増えたからか、それとも加齢からか、やや数値が高くなってきた。控えろ、と言われているわけではないからいいだろう、と、相方の視線は無視して飲んでいる。

なんだか意味もなく疲れきって、ネットやSNSにもほとんど顔を出せなかった。親しくしてもらってるひとたちはどうしてるだろう、と思いつつも。

そんな鬱々した毎日だったから、濁ったからだに初夏の空気を入れたいと思った。その日もそれほど体調はよくなかったが、窓の外はどこまでも手を伸ばせそうな晴天。あの下に行きたい。からだではなく心がそう言ったのに従うことにした。

地元では老舗のパン屋で昼めしを買い、市内を一望できる展望台に向かった。思ったよりひとが多く、少しためらわれたが、外だし距離を取れば大丈夫かと車を降り、空いていたベンチについた。

クロワッサンをかじって腹を満たしてから、しばらく深呼吸した。あたたかく、緩んだ空気がからだに満ちていく。遠くには小さく人口の減り続ける私の住む街、そのさらに向こうには、まだ半分雪におおわれている山々。絵はがきにしたいような風景。

相方が「ちょっと運動してくる」と、展望台のさらに上に続く山肌を利用して作られた広場の方へと向かった。それを機にいつのまにか、私の視線は間近に移っていた。坂道のすぐ下で、小さな畑の土を掘り返している老齢の男性。少し離れたベンチに座り、珈琲を飲みながら、なにを話すでもなくたたずんでいる初老の夫婦。孫らしき子どもたちを三人ほど脇で遊ばせ、自分はどん兵衛をずるずるすすっている男性。テーブルにランチを広げ、やはり子どもたちを勝手に遊ばせつつ談笑したり、彼方の景色をスマートフォンで撮ったりしている三組ほどの若い家族。

せっかく景色がいいところに来ているのに、目にとまるのはそういうところか、とひとり苦笑する。やはり私はどんな美しい景色より、ひとの顔や動きや言葉や息づかいにひかれるのか。そんなことを思ってたら、すぐそばにあった木の上で鳥が鳴いた。鳥の名前がわかればいいのに、と、こういう時いつも思う。私は花や木や虫の名前もよく知らない。気になりつつも知らないまま死んでいくのだろうな、とため息をつく。

そうしていたら相方が運動から戻ってきた。ため息をつく私にどうした、とたずねるから、おれはなにしてんだろうな、と答えた。すると相方が言う。

君は生きることが仕事だからいいの。

夏葉社という小さな出版社から出ていた、小山清の『風の便り』という本を読んでいる。

静謐で品のいい装丁にひかれ、求めた。届いて開くと、切手より少し大きめの紙に描かれた、高橋和枝さんの淡くもいたわりの感じられる絵がページに貼られている。なんでもこの出版社はおひとりでやられているらしく、絵も手で貼ったという。

作者は太宰治の門人で、経歴をみるとお金を使い込んで服役したり、病で失語症になったり、生活苦からノイローゼ気味になった妻が自殺したりと、壮絶な人生を送っている。だがそうとは思えないくらい、おさめられた随筆たちには静かな優しさと気品に満ちている。

「好きな人のことを褒めることで生涯を送りたい。」

「自分の不幸と他人の幸福と、どっちがいいかといえば、やはり自分の不幸の方がいい。」

「君の歌はひどく静かだ。人目のつかない所で、人目につかない心だけが耳にすることのできるような歌だ。」

このような言葉が、本のなかで星みたいに散らばっている。厳しい生き方のなかから、どうやってこんな言葉を生み出せたのだろう。やはり「生きることが仕事だ」と、感じていたからだろうか。密やかな謎をみる思いで、あえてゆっくり読み進めている。

少し長い作品を書きはじめている。今年はじめに大学ノートに書きなぐっていた下書きを、ようやくパソコンに起こしはじめた。体調をみながらなので、たくさんは書けない。書けても一日三枚がやっとだ。いや、三枚をできるだけ毎日、といった方が正確かもしれない。

どこで読んだか失念したが、外国のある大御所作家は、書くことがなにも思いつかなくても、とにかくタイプライターの前に座り続け、逆にどれだけ筆がのっても、決めた時間がくると書くのをやめたという。自分の決めた時間、ノルマを破るようなことを禁じた、ということだ。

若い頃それを知り、おこがましいながら私もずっとそうして書いてきた。少しずつ、でもできるだけ毎日。まどろっこしい、もっと書きたいと思うこともある。だがそうして少しずつ書き留めていき、いつのまにか枚数が重なっていったのに気づく時は、なによりも満ち足りた思いになる瞬間だ。この一瞬があったから、いくら壁にはねかえされても書き続けてこられたのかもしれない。

でも長い作品は、多分これが最期になるかもしれない。決して書いていて楽しい作風でもない。もう刃は研ぎすぎてすっかり小さくなった。

でも、まだ、もう少し。

生きることそのものが仕事とはいえ、少しずつ書いています。

あの事件のことを、もう一度考えてみました。


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