掌編「カッシアリタ」 ふたりだけの最果て
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ラブホテル、行きたい。
あたしがはしゃいだ声をあげると、男は、はあ、と目と口でみっつの丸を作った。
その日、男は仕事から帰ってくると、車いすの背もたれにかけていたリュックから茶封筒を取り出した。なにそれ。たずねると、夏の賞与が出たんだよ、と男は封筒をひらつかせた。
まあたいした額じゃないけど、出ると思ってなかったからな。ラッキーだよ。
すごいじゃん。やったね。
あたしは冷蔵庫を開け、男に缶ビールを渡した。男は、かしゅ、と小気味よい音を立ててプルタブを開けると、喉ぼとけをくいくい動かして飲んだ。この男のビールの飲み方は見ていて気持ちがいい。
なんか欲しいもんとかないか。男はビールを飲みながら、そんなことを言いだした。
棚ぼたみたいな金だからぱっと使っちまおうと思ってよ。美味いもん食いに行ってもいいし、遊びに行きたいとこがあるならそれでもいいぞ。
機嫌のよい様子で男はあたしを見ている。そうねえ、と少し考えた後、ひらめいた。それがラブホテルだった。
うん。あたし、ラブホ行きたい。
おまえ、まじで言ってんのか。
あたしがうんうん、と何度も首を縦に振ったが、男はまだ信じられないといった表情だ。
でも、ラブホって。なんでまたそんなとこ……。
いいから、ね、行こうよ。
あたしは相変わらずの下着姿にさっとTシャツとジーンズを身につけ、さっと車いすに乗った。ほら、早く。せかしながら先に部屋を出た。しばらくして男も車いすで出てきた。はじめてのおつかいみたいな顔つきに思わず笑った。
目指すホテルは、アパートにほど近い駅から線路沿いに十分ほど行ったところにあった。ホテルUFO。その名の通り、円盤のかたちをした建物で、壁にはそれっぽい丸い窓がついている。悪い意味で目立つので地元では有名なホテルだ。あたしたちも何度も近くを通りかかった。すげえよな、ここ。通りかかるたび、男は呆れ気味に言ったものだ。
入口脇の壁に少しだけ穿たれた隙間に向かって部屋番号を告げた。すっと手が伸びてきて、その部屋の鍵を渡された。男に振り向いておどけて鍵をかかげてみせる。でも男はまだおどおどしていた。
部屋に入るとあたしと男は、うわあ、と同時に声をあげた。
部屋は天井、壁、床、すべてに無数の星が散らばっていた。右手の星空には彗星が大きな尾を引いている。天井の照明はさながら北極星だろうか。UFOに乗った異星人が見ている光景、といったところなのか。馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。でもそれがいい、とあたしは思う。あたしたちから馬鹿馬鹿しさを取り上げたら、いったいなにをよすがに生きていったらいいというんだ。
すごいねえ。いい部屋選んだんじゃない。
あたしはベッドに近づき、車いすから身を投げた。
やっぱおっきなベッドは気持ちいいねえ。両手両足を目いっぱい広げる。
シャワー、先に浴びたら。たずねると男はぼんやりした顔をはっとさせた。ああそうか。そういうもんか。じゃ、行ってくるわ。男は浴室の前で車いすを降りた。なに、緊張しんの。んなことねえよ。男は言い捨ててガラスドアを這ってくぐっていった。その姿を見送った後、あたしの緩んだ頬がふっとひきしまった。天井の星空が、瞳に落ちてくる。
シャワーを終えて戻ってくると、男はTシャツにパンツという恰好でベッドにあぐらをかいていた。手にはテレビのリモコンが握られていて、あちこちチャンネルを変えている。そのうち、その手のチャンネルになった。全裸の男と女が絡まり合っている。わざとらしい女の喘ぎが部屋に満ちる。
あたしは無言で部屋の隅にある自販機に這っていった。なかに売っていた道具をいくつかみつくろう。それを手に、男のいるベッドへ両脚をひきずりながら這いあがる。
したいこと、して。
あたしは上にだけ羽織っていたシャツを脱ぎ捨てた。
あんたのしたいようにしていいから。どんなことでもいいよ。テレビみたいなことでもいいし、この道具使ってもいい。いつもならできないこと、いくらでもして。
なんで、そんな。
してほしいの。
あたしはシーツに身を横たえた。男は道具を手に取り、テレビに目をやった。やがて静かにあたしの上に重なってきた。額の赤い痣に冷たい唇が触れられた。
あの夜。はじめてこの男と道端で出会ったあの夜。あたしは死ぬつもりだった。
数えきれないほど愚かしい夜が泥みたいにからだの奥にたまり、溢れかえる寸前だった。はじまりがどの夜だったかすら、もうよくわからない。なにも見えない暗がりで、自分のものではない自分の声をひたすらに聞いていた。感情が死んで、堕ち続ける自分を止められなかった。
あげく、このからだになり、額にはいつつけられたかもわからない赤い痣が残された。我が身を自らごみ箱に捨てるようなことばかりしてきたから当然と思った。もうこんな馬鹿な女は死ぬべきだ。
でも、このまま死ぬのも味気ない。馬鹿なら最期まで馬鹿をやりきってから死のう。ビールを飲みながら道行く男たちを眺め、声をかけられるのを待った。
だが道端で酔っぱらった車いすの女など、誰が誘うわけもない。何度かこちらから声をかけたが、皆気づかぬふりをして通り過ぎていった。
しかたないそろそろ、と思った時、この男と出会った。
あたしとおなじ車いす。女に振られたみたいにさえない顔をしていて、最初それがおかしかった。
男は話しながら、あたしから瞳をそらさなかった。表情はなかったけど、ずっとあたしを見つめてくれていた。
ああ。あたしは息を漏らした。そして気づいた。本当に今さらになって。
こんなにあたしを見つめてくれたひとは、今までひとりもいなかった。無数の男や女に出会ってきたのにただのひとりも。見てはいたけど、見つめてくれはしなかった。でもこのひとは。
気づいたらあたしは男についていっていた。ふたりして車いすを並べながらあの狭いアパートにたどり着いたとき、なんだか涙がにじんだ。
ここでこの男と死にたい、と。
星に囲まれながら、あたしは男が望むままにされ続けた。
湿った吐息があちこちに散らばる。いつも不思議に思う。今まで通り過ぎていったどの男や女より、この男に抱かれ、抱いているときがいちばん幸せなことを。
男はあたしの過去を知らない。ろくでもない人生を送ってきただろうことを男はうすうす悟っているはず。でもたずねない。カッシアリタなんて名もためらいなく受け入れ、リタ、と呼んでくれる。そして共に笑い、怒り、泣いてくれる。抱きしめてくれる。
いつかすべてを、馬鹿な過去をちゃんと話さないと。リタ、という名と共に受けとめてくれるだろうか。それとも捨てられてしまうだろうか。後者を想像すると子どもみたいに泣きそうになる。
あたしはやっぱり馬鹿だ。馬鹿なうえにこんなにわがままになってしまった。もし捨てられたらそれは神罰だ。男の幸せを祈りながらひとりで死のう。子どもみたいに泣き叫びながら死ぬことになると思うけど。
男の下半身はすべての感覚を失ってしまっているから、決してあたしは男とひとつになれない。そんなのかまわない。ここにあるのは、あたしたちだけの果てなのだから。
でも。男に抱きすくめられながら、もうひとつのことを思う。
一度だけ、たった一度だけでも、この男と最後のあの場所へたどり着けるのなら……。
あたしは、男から身を離した。男の両脚の間に身をかがめた。
リタ、それは。
男がささやいた。あたしは汗と涙がにじんだ顔を男に向ける。
奇跡。その言葉が頭に浮かんだ。あたしたちだけの果ての先に、さらに最果てがあるのなら。一度だけでもふたりで見られるのなら。
お願い。
あたしはいつしか祈っていた。壁の夜空に流れる彗星に祈っていた。
リタ、ありがとうな。
やがて、男の優しいささやきが聞こえた。でも、あたしはあきらめず続けた。
奇跡は起こらないから奇跡。誰が、そんなことを決めたの。
そんなの許さない。奇跡ならあたしが起こす。
あたしを地獄から引きずりあげてくれたこのひとと、あたしたちだけの最果てを見るんだから。
気がつくと、あたしはいつの間にか泣いていた。馬鹿みたいに泣いていた。
やはり、神罰だ。
あたしが、馬鹿だから。
男が上半身を起こした。あたしの丸まった背中に唇を触れた。冷たい滴がぽつり、とひとしずく落ちてきた。
ごめんなさい。
ごめんな。
ふたりの声が重なった。あたしは、いつまでも泣き続けた。
ホテルを出ると、本物の星空が街に覆いかぶさっていた。
帰り道、黙り込んでしまったあたしに男は腹減ったなと言った。途中で寄ったコンビニでカップヌードルを買い、店の陰で食べた。このご時世では眉をひそめられることだが、誰もいないからいいんじゃないか、疫病もここまではこねえよと男はいたずらっぽく笑った。
ふたりしてずるずるとラーメンをすする。泣くだけ泣いたせいか、目が腫れぼったい。
ねえ。
ん。
ごめん。
なんで謝るんだよ。
やっぱりお金、もっと違うことに使えばよかったね。ほんと、ごめん。男に顔を向けられないまま言った。
謝ることなんてねえよ。男はスープを飲んでから、ちょっと苦笑をまじえて応じた。
おれ、また行こうって思ってるよ。楽しいもんだなラブホって。
いいよ、無理しなくても。
ほんとだって。ほら、これ。
男は車いすポケットからスマートフォンを取り出し、画面をあたしに向けた。この付近のラブホテル一覧サイトが表示されていた。
おまえがシャワー浴びてる間、調べたんだ。少し遠いけどここなんかすごいぞ。部屋んなかぜんぶピンク色なんだから。飯もうまそうだし、カラオケもあるから久しぶりに歌い放題だ。あ、こっちもすげえんだよ。ベッドぐるぐるまわるらしいぜ。ほんとにあるんだな、そういうの。こうしてみるとちょっとしたテーマパークだよな。絶対行こうな。なんなら全部制覇してやろうぜ。
やけに意気込む男がおかしくて、あたしは馬鹿、と泣きながら笑った。男も笑った。
やっぱりあたしは、この男と生きていきたい。
了
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