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クラクションの大きさ

先日の仕事帰り、ある交差点の右折車線に入って、対向車線の車列が途切れるのを待っていた。

その交差点は常に混んでいて、青信号中に右折できることはまずない。だから信号が赤になって対向車が止まり、右折の矢印が点滅してから右に曲がるのが常になっている。

その時も対向車は途切れなかったので、普段通り赤になり、右折矢印の点滅を待っていた。かちかち鳴るウインカーの音を聞いていると、横断歩道を小学校高学年とおぼしき男の子がゆっくり自転車を押していくのが見えた。

このご時世だけど少しくらいは外に出たいよな。そんなことを思っていると、信号が赤になり、右折矢印の信号が点いた。行かないと。右にハンドルを切り、アクセルに連動している左手元のレバーを引きかけたその時だった。対向車線から一台のワンボックスカーが突っ込んできた。

え!?もう一度信号に目をやった。間違いなく信号は赤で、右折矢印も光っている。だがワンボックスカーは止まるどころか、一気に突っ切ろうとスピードを上げさえしていた。

私は慌ててブレーキをかけ、クラクションを鳴らした。普段ほとんどクラクションを鳴らすことがないので加減を忘れていたからか、かなりのボリュームで音が響いてしまった。ワンボックスカーのフロントガラスから初老の男性の姿が見えた。しかしこちらを見ることも、クラクションに動じることもなく、涼しい顔で、赤信号の交差点を走り抜けてしまった。

私はクラクションから手を離し、バックミラーを見た。ワンボックスカーはすでに小さくなりかけていた。私はまた慌ててハンドルとレバーに手をかけ直し、改めて右折した。

右折後、私は顔をゆがめ、舌打ちを連発させた。ちくしょうあぶねえ親父だなもう赤だったろうがぶつかったらどうすんだああもう頭くるな…。

ぶつぶつ口のなかで汚ない言葉をかきまわしつつ、私の心臓はどきどきと鳴り続け、息も荒くなっていた。その原因は相手への苛立ちでも、危険だったことへの怯えでもない。派手なクラクションを鳴らしてしまったことだ。バックミラーにはワンボックスカーと一緒に自転車の男の子の姿が写っていた。男の子は大きな警告音を立てる私の車に振り返り、驚いた表情を浮かべていたのだ。

生来の臆病者なので、こういうことが時々ある。

スーパーのレジ待ちにさりげなく割り込まれた時。病院の検査を異様に待たされた時。仕事でデータ作成を頼んだが、もらったデータがひどい作り方だった時。

苦情を言うか言わないかはそのつど違うが、黙ってしまうことも多い。単純に相手に嫌悪されるのが嫌だし、なにより臆病だから。嫌われるくらいなら、我慢してしまおう。無意識が口をつぐませる。今回もクラクションを鳴らした後、ひどい後悔におそわれた。自分が悪くないのはわかっている。クラクションを鳴らさないとそれはそれで苛立つことも。でも悔いてしまう。男の子の驚いた顔がしばらく離れなかった。

これも先日だが、ある方の文章に目がとまった。

普段をみると生来はそういう方ではないと思う。だが気持ちがささくれた時など、言い回しが異様に攻撃的になることがあり、この時もそうだった。自分のなかの苛立ち、怒りを決して耳障りのよくない言葉使いでぶちまけていた。

この方がこうなるたび、いつも思う。こうして苛立ちを吐き出して、本当に気持ちが晴れるのだろうか、と。

実際気分が晴れるのかもしれない。それで気分爽快になるのなら、まあいいか…と言える方がどれだけいるだろう。私は心が狭いので申し訳ないけど言えない。本人はいいだろうけど、あまり見栄えのよくない影を見せつけられた他の人がどう思うか。少しだけ想像してほしいと感じてしまう。

怒りや苛立ち、あるいは苦言を表に出すのも、出されたものを受け止めるのも、本当にエネルギーがいる。これは年齢を重ねることに実感されている。「あからさま」にはもう、私は疲れきってしまった。

もちろん、負の感情を出すこともあるだろう。誰かに対して意見苦言を呈することも。私だってそうだ。時にはわっと叫ぶ時もくる。でも言葉や言い回しには、できるだけ冷静を付与したい。相手が、というより自分を守るために。クラクションはなるべく的確なタイミングと大きさで。そうしないと、知らぬ間に自分が傷ついてしまうから。

わかったような、偉そうなことを書いてしまった。自分はそんなたいそうな人間か。気持ちが落ち着かない。クラクションを鳴らした後みたいだ。





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