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ある夢と指輪、不条理、ちいさな嘘、そして…。

※本記事は投げ銭制なので、全文読めます。

夢をみた。

場所は古いアパートとも民宿ともいえないようなところ。漫画「まんが道」のトキワ荘を思わせるがそれより薄暗く、どこかひんやりしている。階段や廊下が迷路のようにいりくみ、服の下がった物干し、ブリキのバケツ、ぼろぼろのたんすといった暮らしに入りようなものたちが廊下にあふれている。

私はそんな迷宮をさ迷い、無数にある部屋をめぐっていた。

あるひとを探していた。

それが誰なのかわからない。会ったこともない。それなのに、そのひとに切実に会いたかった。今すぐに会わなければ、きっともう二度と会えない。そんな焦燥感とそのひとへの恋しさに胸をしめつけられながら、必死に探しまわった。不思議なことに階段も段差も、浮遊するようにとびこえていた。歩けないはずなのに。

やがて、ひとつの部屋にたどり着いた。六畳ほどの、古びた文机くらいしかないつつましやかな部屋。

そんな部屋にひとり、そのひとはたたずんでいた。

私は身を震わせがら、そのひとのそばに座った。そのひとは笑っていた、と思う。顔がぼんやりとして、はっきりみえないのだ。

でもようやく、やっと会えた。全身のちからが抜けた。ふうっと息がもれた。そのひとに手を伸ばした。そっと、ゆっくりと。そのひとの姿がなくならないように…。

パートナーとこのところ、あまりうまくいっていない。

ちいさなすれ違いが増えている。ひどいけんかや言い争いがあるわけではない。ただささいなことでのいさかい、ずれ、ボタンの掛け違いが明らかに多くなっている。

はっきりした原因らしいものがあるわけでもない。あえて探せば私の心身の不調だが、それはもうずっと前からの話だ。でもそんな自分自身に対する苛立ちや焦り、自暴自棄といった負の感情が、相手にも伝わってしまっているのは確かだ。

相手の「こうしたら」「こうすればいい」にうなずけない。よかれと思って言っているはずのことを、頭ごなしの命令のように受けとめてしまう。顔がひきつる。首を縦に振れない。それが相手にも伝染する。

会話をするとかみあわないから、やがて互いに黙ってしまう。私は本やスマートフォンをのぞき、相手はテレビのバラエティや録画しているドラマをひたすら観る。

私は基本的にテレビは必要ない。観るとしたら映画かニュースかスポーツ中継の時だけ。でも相手はテレビがないとだめなひとだ。でも今はそれがやかましく感じられてしかたない。かといって相手のリラックスできるものをうばうわけにもいかない。

相手が職場から帰ってくると、仕事や同僚、上司への愚痴がはじまる。今は休ませてもらっている身だからせめて聞いてあげなければ、と相づちをうっているが、それが毎日繰り返しされるとさすがに参ってくる。ようやく相手が気分を発散させる頃、私はひそかに腕組みしながら目をとじる。

寝る前、できれば避けたいのに酒に手を出してしまう。ペットボトルの、三百円そこそこの安ワイン。しけたスナック菓子をかじりながら飲む。相手がまた、みたいな視線を送っているが無視する。「一杯だけ」その一言もまた受け流す。そのわりにあまり酔わない。

最近はずっと指輪をはずしている。指のむくみがひどく…いや、多分それは言い訳だ。

最後に相手とからだを重ねたのはいつだったろう。もう思い出せない。

先週、職場の同僚が急逝された。

年齢を書くのもためらわれるほどまだ若かった。妻と小学二年の娘さん(辛い不妊治療を経ての待望の誕生だった)を遺しての、きっと本人さえ思いもよらない、無念の旅立ちだったろう。

もちろん詳しく本人に聞いたわけではないからわからないが、見た目では持病があったとは思えなかった。むしろ健康を絵にかいたような、ちからにみちあふれたタイプ。働き盛りとは彼のようなひとを言うのだろう。若い時はよく飲みにも行った。ひたすら明るい酒だった。

そのしらせを聞いた時、最初に私の口から出たのは「おい、ちょっと勘弁してくれないか」だった。

死なんてまたまだ無縁という壮健なひとが、妻と娘とともに輝く未来があったひとが先に逝き、下半身が死に腎臓もひとつつぶれ中毒みたいに大量の薬をくらっている自分が、いつぶっ倒れるかわからないなんならそのことを胸のどこかで望んでいる自分が、おめおめと生きている。

意味がわからなかった。不条理だと思った。だから涙も出なかった。そのせいでもないだろうが、その翌日から尿が汚れた。水分を胃が破裂するほどに飲み、一、二時間おきにトイレで尿道にカテーテルを突っ込み、無理矢理排泄した。濁りが残る尿が出るたび、ちくしょうばかやろう、と罵倒を吐瀉した。

冒頭の夢をみたのは、そんななかでの夜だった。

そこで、私はちいさな嘘を書いた。

夢のひとが誰なのかわからない、と書いたが、実はわかっていた。

会ったことがないのは本当だ。顔がわからないのも。だから夢でそのひとの顔はぼんやりとみえなかったのだ。

でも私はそのひとをよく知っている。わかっている。いや、そう言い切ることなんてできない。ただほんのひとかけらぐらいは、わかっているはずだ。

そして今私は、誰よりもそのひとに会いたい、ということも。

部屋で出会い、私はそのひとにそっと手を伸ばした。そしてゆっくりと、そのひとの唇に自分のそれを重ねた。いや重ねてなんかいない。ほんのふれるかふれないか。

そのひとは拒まなかった。ただ静かに受け入れてくれた。どんな表情をしていたんだろう。それはやはりわからなかった。

静寂のなか、そのひととかすかにふれあいながら、私はひたすらにおそれていた。

そのひとが私の手のとどかない、遠いところに行ってしまうことを。

いくら手を伸ばしても、呼びかけても、ふりかえることがないところに行き、やがてその背中すらみえなくなってしまうことを。

もし今、そのひとがはなれていってしまったら、私は、私は…。

夢はそこで覚めた。

けたたましいスマートフォンのアラーム。窓からの朝日に目が痛む。

起床直後に飲む錠剤を二錠、飲み下す。毛布をはぎ、トイレにはいずっていく。腹を押し、排泄する。本当は朝もカテーテルによる自己導尿をしなければならない。だが寝起きは一日でもっとも疲労している時間でもあるので、心身のすりへる自己導尿は無理なのだ。

排泄をすませ、身支度をする。ふと左手に目がいく。

指輪をはずした手。

そして、夢でそのひとにふれた手だった。







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