あたたかな交わり、ひんやりした孤独
こういうと驚く方もいるかもしれないけど(そんなこともないか)、noteをいつやめようか、という考えが常にある。
恩人といえるほどお世話になっている方に紹介してもらい、noteをはじめて一年と少したった。
その間、小説やエッセイ、コラム、詩などを書かせてもらった。特に今まで書いたことのなかった小説以外の分野の文章を、曲がりなりにも書き続けられたのは、間違いなくこの場所にきたからだ。
さまざまな方の文章や言葉、思考に触れることで、視野が本当に広くなった。このような生業で生活している方もあるのだと知った。一緒に作品集まで作ることもできた。苦しみや悲しみや怒りのなかで、それでも書き続けているひとはこんなにも多いのだと、胸をつかれた。
あるコンテストでは思いもよらず受賞し、web媒体に記事を掲載させていただく、なんていう幸福にまで恵まれた。
でもなにより。ここでたくさんの、かけがえないひとたちと出会えたことが、なによりの財産となった。
出会えたひとたちの作品に胸揺さぶられ、感情を共有し、意見を交わしあう。あたたかな賛辞に冷静な批評。すべてが糧になった。まだ誰とも会っていないのに、心を通わせあえる大切なひとたち。本当に想像もしていなかった場所に自分はいる、とその幸せには感謝しかない。
それでもやはり、頭のすみにはあの考えがいつもある。
いつ、noteをやめようか。
※
noteをはじめる前はひたすらひとりで、小説の習作、あるいは公募用の作品を書いていた。
仕事から帰り、簡素な夕食をおえたあと、キャンパスノートに下書きをする。表裏2ページ、ボールペンで書きなぐっていく。後から自分でも読めなくなるような汚い字で。
ノートが下書きで埋まると、今度はPCで本書きしていく。400字原稿用紙の体裁にしたワードで、2枚から3枚をノルマにしていた。もちろん、表現や構成は下書きとはかけ離れていくこともある。なんなら主人公が変わったことも。
仕事で疲れたからだを無理に起こして書く作業は、正直かなりしんどい。書いていて楽しいと思うこともあまりない。それでも体調をみて、できる限り書いていた。なんの衝動かもわからぬまま。
ただそうしたノルマをおえた時、この日なすべきことをなした、という芯まで満たされるような実感がわいた。
そうして最後まで書きあげ、長い推敲もすんだ時。
この時の充足感は、本当になにものにもかえがたいものだ。稚拙でも曲がりなりにも、ゼロからひとつのものが生み出された。自分の手によって。このために生きている、とさえ思える瞬間だった。それが公募賞受賞という結果を得られていないのは無念だが。
※
だが今は、この充足感を味わっていない。
それは、noteをはじめたからだ。
noteで他の方の作品を読み、あるいは自分で書く。そうしたなかでさらに習作、あるいは公募用の作品を書く体力、体調のよさはもうない。
noteでは本当にさまざまな刺激をもらえた。だからこそ、ひとりだったら書けなかったものも書けた。あたたかいひとたちに出会えた。web媒体に掲載される幸福にも出会えた。繰り返すけど、なによりの財産となった。
例えば前回書いた掌編は、この場所にきたからこそ書けた作品だと思っている。
でも、ひとり孤独のなかで作品を生み出したあの充足感は、実はnoteではまだ得られていない。
古い人間と自覚しているから、書き手ならやはり公募に作品を、という考えが抜けないのだ。そうして例えば雑誌に載るなり、出版という結晶を残したいという願望は、たぶん死ぬまで消えないだろう。
でも、その願望を実現するには、やはりnoteにいては叶えられない。
以前のような、ひんやりした孤独に戻らなければならないのだ。
※
とはいっても今のところ、noteをやめる、あるいは一時期に離れるつもりはない。
やはり、この場所で出会えた方々と離れるのはさびしい。心身の疲労がまだまだ取れない今、ここのあたたかな交わりは救いにもなっているから。この場を借りて改めて感謝を伝えたい。
ただ、もしひんやりした孤独に戻る時がきたら。その時は余計な報告だと承知の上で、きちんと皆様にお知らせしたいと考えている。やめるか、一時期に離れるかも含めて。かけがえない方々に、不作法なことはしたくない。
最後にもうひとつ。
そういう前触れもなく、私が突然noteから消え去った時があったとしたら。
それは私が死んだ時、と思ってもらえたらいい。
いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。