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あたたかな交わり、ひんやりした孤独

こういうと驚く方もいるかもしれないけど(そんなこともないか)、noteをいつやめようか、という考えが常にある。

恩人といえるほどお世話になっている方に紹介してもらい、noteをはじめて一年と少したった。

その間、小説やエッセイ、コラム、詩などを書かせてもらった。特に今まで書いたことのなかった小説以外の分野の文章を、曲がりなりにも書き続けられたのは、間違いなくこの場所にきたからだ。

さまざまな方の文章や言葉、思考に触れることで、視野が本当に広くなった。このような生業で生活している方もあるのだと知った。一緒に作品集まで作ることもできた。苦しみや悲しみや怒りのなかで、それでも書き続けているひとはこんなにも多いのだと、胸をつかれた。

あるコンテストでは思いもよらず受賞し、web媒体に記事を掲載させていただく、なんていう幸福にまで恵まれた。

でもなにより。ここでたくさんの、かけがえないひとたちと出会えたことが、なによりの財産となった。

出会えたひとたちの作品に胸揺さぶられ、感情を共有し、意見を交わしあう。あたたかな賛辞に冷静な批評。すべてが糧になった。まだ誰とも会っていないのに、心を通わせあえる大切なひとたち。本当に想像もしていなかった場所に自分はいる、とその幸せには感謝しかない。

それでもやはり、頭のすみにはあの考えがいつもある。

いつ、noteをやめようか。

noteをはじめる前はひたすらひとりで、小説の習作、あるいは公募用の作品を書いていた。

仕事から帰り、簡素な夕食をおえたあと、キャンパスノートに下書きをする。表裏2ページ、ボールペンで書きなぐっていく。後から自分でも読めなくなるような汚い字で。

ノートが下書きで埋まると、今度はPCで本書きしていく。400字原稿用紙の体裁にしたワードで、2枚から3枚をノルマにしていた。もちろん、表現や構成は下書きとはかけ離れていくこともある。なんなら主人公が変わったことも。

仕事で疲れたからだを無理に起こして書く作業は、正直かなりしんどい。書いていて楽しいと思うこともあまりない。それでも体調をみて、できる限り書いていた。なんの衝動かもわからぬまま。

ただそうしたノルマをおえた時、この日なすべきことをなした、という芯まで満たされるような実感がわいた。

そうして最後まで書きあげ、長い推敲もすんだ時。

この時の充足感は、本当になにものにもかえがたいものだ。稚拙でも曲がりなりにも、ゼロからひとつのものが生み出された。自分の手によって。このために生きている、とさえ思える瞬間だった。それが公募賞受賞という結果を得られていないのは無念だが。

だが今は、この充足感を味わっていない。

それは、noteをはじめたからだ。

noteで他の方の作品を読み、あるいは自分で書く。そうしたなかでさらに習作、あるいは公募用の作品を書く体力、体調のよさはもうない。

noteでは本当にさまざまな刺激をもらえた。だからこそ、ひとりだったら書けなかったものも書けた。あたたかいひとたちに出会えた。web媒体に掲載される幸福にも出会えた。繰り返すけど、なによりの財産となった。

例えば前回書いた掌編は、この場所にきたからこそ書けた作品だと思っている。

でも、ひとり孤独のなかで作品を生み出したあの充足感は、実はnoteではまだ得られていない。

古い人間と自覚しているから、書き手ならやはり公募に作品を、という考えが抜けないのだ。そうして例えば雑誌に載るなり、出版という結晶を残したいという願望は、たぶん死ぬまで消えないだろう。

でも、その願望を実現するには、やはりnoteにいては叶えられない。

以前のような、ひんやりした孤独に戻らなければならないのだ。

とはいっても今のところ、noteをやめる、あるいは一時期に離れるつもりはない。

やはり、この場所で出会えた方々と離れるのはさびしい。心身の疲労がまだまだ取れない今、ここのあたたかな交わりは救いにもなっているから。この場を借りて改めて感謝を伝えたい。

ただ、もしひんやりした孤独に戻る時がきたら。その時は余計な報告だと承知の上で、きちんと皆様にお知らせしたいと考えている。やめるか、一時期に離れるかも含めて。かけがえない方々に、不作法なことはしたくない。

最後にもうひとつ。

そういう前触れもなく、私が突然noteから消え去った時があったとしたら。

それは私が死んだ時、と思ってもらえたらいい。



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