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【小説】いつか扉が閉まる時 3年生・秋から冬にかけて(6)最終回

 気になって次の日も放課後、図書館に行った。後輩たちが本にフィルムをかけていたのが見え、安心して帰る。

 確かに共通テストまで間がない。

 でも。

 謎の衝動にかられながら私は毎日、放課後の図書館に向かった。

 司書室を覗いて図書委員が作業をしていたらそのまま帰り、していなければ先生に声をかけて少しでも受け入れを手伝う。

 そんなある日、久保が図書館に向かう私に声をかけた。

「最近、よく図書館に行ってるんだって?」

「なんで知ってるの」

「何人かの目撃情報があったから。紗枝さんは学校で自習する派になったの?俺も図書館で勉強しようかな」

「自習じゃないんだ」と簡単に事情を説明すると、久保は目を見開いた。

「俺が言うのもなんだけど、そんな余裕ないでしょ」

 普段なら「ホントだよ」とツッコミをいれるところだったが、私にもその余裕はなかった。

「だって…どうしてかわからないけど気になるんだもの。多良先生がすごく疲れているみたいで」

「紗枝さん」久保は私の顔の方に手を伸ばしかけたが、すぐに下ろした。

「多良先生が心配なの?」

 私はうなずく。

 なぜか目に涙が浮かび、あわててぬぐう。

 久保は重ねてこう言った。

「ひどく疲れているから、だから、もしかして藤井先生みたいになるんじゃないかって心配なの?」

 この一言で私は気付いた。

 私が藤井先生の日誌を読んでいたことを、久保は知っていたくせに黙っていた件。それが発覚したあの時、私が久保の前から逃げ出した理由に。

 私はこれまでずっと、自分の気持ちを誰にも知られたくなかった。だから悲しくても苦しくても平気なフリをしていた。
 
 それをふいに打ち破られたショック。

 同時に、誰かに自分の本音を見抜かれていたことが意外と心地よいと感じ、そんな自分に戸惑ったからだ。

 そして、それは今も。

「紗枝さんは藤井先生が亡くなった時、もう会えないから悲しかった、だけじゃないよね」

 図書館前の長机に私たちは座って話をしている。

 司書室に委員たちがいるのがガラス越しに見える。だから今日は行かなくていい。

 当時のことを思い出す。

 あんなことになる前に、先生のためにきっと何かできたのに…そう思ったこと。

「俺たちができることには限界があるよ」

「でも、それでも…!」

「藤井先生、死ぬ前の日も笑ってた」

 私は久保を見る。久保は何も言わずに私にハンカチを差し出した。やっぱりジゴロだ。でもこの気遣いも恥ずかしいけれど有り難い。

「俺、覚えてる。カウンターで日誌を書いてた。あれが見納めになるとは思わなかったけど」 

 藤井先生、俺をからかったりしてさと言う久保に「何てからかわれたの?」って聞いても教えてくれなかったが、その代わりこう続いた。

「俺もあの後、先生の日誌を読んでみた、もちろん全部じゃないけど。…紗枝さんは怒るかもしれないけど、藤井先生は仕事に対して純粋すぎたって感じた。だから頑張りすぎて、あんなことになった」

 そう言って私をじっと見る。

「先生はもっといい加減で良かったんだよ。俺は働いたことないけど、人生は仕事がすべてじゃないでしょ。適当に手を抜いて、適当な本でも買って、図書館が散らかってても別に良かったんだ。1人の人ができることには限界があるんだから」


 怒るより、悲しみが溢れそうになり目頭が熱くなってきた。

 それは私が藤井先生を思い出す時に、浮かぶ考えと同じだった。
 今、先生が生きていたら、私もそう言うかもしれない。

 その反面、手を抜かない先生だったからこそ私は今でも忘れられず、そして図書館を思い続けていたのかもしれない。

 久保は泣いてはいないけれど目の周りがほんのり赤くなっている。

「紗枝さんも先生に似てる。図書館に対して思い入れがありすぎる。だから遺志をつごうとしているんだって、危なっかしいって何度も思った」

 久保はそっと私の腕に触れる。

「俺、紗枝さんも心配なんだ。もう図書館に関わらなくていいんじゃないかな」

 急に窓ガラスがガタガタ揺れた。
 北風が強くなったのか、窓と窓の隙間から冷気が吹き込み、周りの温度を下げる。   

 心配しているのがわかるので何も言い返せない。でも何かまだ私にできることがあるのではと体の奥から声がしたが、それがきちんと言葉にならない。

 久保とはその後、黙ったまま一緒に校門まで歩いて別れた。
 家で、私はパソコンで調べながらしばらく考えた。

 そして決意する。

 お節介かもしれない。私はただの生徒だ。だけど、もし私が藤井先生の遺志を継いでいるのであれば、そして継ぎたいと願っていたのなら。

 すべきことがある。
 せめて一言だけ、あの人に伝えないといけない。

 次の日、田辺先生にいろいろ聞いて確信を得てから、放課後、私は司書室に向かう。



 今日は多良先生は1人だった。

 私を見ても真顔のまま、まるで出会った頃のぶっきらぼうな多良先生だ。もう作り笑いさえしないのか、それともできないのか。

「橋本さん、今日は帰ってくれないかな。ううん、もう来なくていい」

「先生の先月の残業時間は何時間ですか」

 先生の言葉を無視して私は聞く。

 怪訝そうな先生に、さらに言う。

「完全下校時間までいて、土日も終日勤務しているなら少なくともひと月で約70時間の残業です。でも…もっと学校にいるんじゃないですか?」

「あなたに関係ない」

「目の下のクマがひどいですよ。先生」

 先生は何とも言えない表情で私を見る。

「田辺先生にも聞きましたけど、先生は学校にいすぎます」

「他の先生たちだって、いるよ」

「それ自体もおかしいんです」

「そんなこと言ったって」焦ったように多良先生が早口になる。

「仕事が終わらないんだもの。慣れてないからわからなくて、だからはかどらなくて、あちこち中途半端なくせにどっちも終わらない。年末になってそれがひどくなって」

「今のままでは倒れてしまいます」

「大丈夫」

「そう見えません。ご自分でもわかってるんじゃないですか?」

「生徒のくせに何がわかるの。だったらどうしろって言うの?」

 私を睨みつける先生。

「疲れすぎたなら、もう無理だと思ったなら」

 私も睨み返す。

「この仕事を辞めてください」

「…は?何言ってるの。そんな無責任な」

「ご自分の健康や命にこそ責任を持ってください。出過ぎたことを言っているのはわかってます。辞められなくても、せめて病院に行ってください。
…私はあの時、何も気が付かなかった。でも今は違う」

 私は先生を見下ろす。

「こう言えば良かったんです、藤井先生に。死んでしまう前に。そしたらホームに落ちるなんてことなく、今でもどこかで生きていたかもしれない。どうしても…」

 私はいつの間にか泣いていたが、声も涙声だったが、それでもはっきりと言った。

「どうしても今の多良先生が藤井先生に重なるんです。私はもう、どの先生にも死んでほしくありません」




 図書館から出ると薄暗い廊下になぜか久保がいて、私に「お疲れさん」と手を上げた。

 泣いているのを見られたくなくて、ハンカチで目元を拭いて横を通り過ぎると「ちょっとちょっと、無視ー?」とへらっと笑いかけてくる。

 それも放置して歩き続けると、久保は話しかけてくるのをやめた。 

 でも後ろをついてくる気配がする。

 そんなに遅い時間じゃないのに窓の外は暗く、隣の校舎の部屋の明かりが心強い。

 ぼんやりした蛍光灯の灯る昇降口で靴を履き替え、街灯を頼りに校内の黒々とした道を歩く。

 しばらくして自転車の音が近づいて来た。

 後ろで誰かが自転車を下りて、押している音がする。

 私が校門を出て家に向かうと、その足音も付いてくる。

 だから立ち止まって振り返った。

「急に振り返らないでよー」

「どこ行くの。久保の家はこっちじゃないでしょ」

「暗いから送ろうと」

「近いから大丈夫。黙って後ろ付いて来てたらストーカーみたいだよ」

「こんな近距離でストーカーしないよ。…多良先生と話せた?」

 心配そうな久保の声が闇に溶けた。私は急にさっきの話をしたくなって、学校の金網に寄りかかる。

 久保は自転車のスタンドを下ろして、隣に来た。

 話したいことがあったはずだった。なのに口からは何も出て来ない。

 金網がギシッと歪んだ音を立てる。思わぬところから圧力かけられて文句を言ってるみたいだ。

 久保も何も言わずに待っていてくれる。

 ふと、このまま黙っていてもいいかなと思う。
 この沈黙は何だか落ち着く。

 だからなのか、言葉がすっと口からこぼれた。

「言えた」

 街灯の弱い明かりが、久保の目に反射する。

「やっと、言えた」

 つぶやいて、ため息をつく。

 今度は間に合うといいけれど。

 久保はうん、とだけうなずいて、やはり何も言わなかった。 



 私はそれからしばらく図書館に行かなかった。

 私にできることは多分もうない。そうでなくても最後の日、多良先生は私を迷惑そうにしていたし…。

 終業式の日、帰りがけに久しぶりに寄ると図書館には田辺先生がいた。

 多良先生について聞くと「ご病気と診断が出て、そのままお辞めになった」とのことだった。

「それより橋本さん、図書館の仕事を手伝ってたんだって?駄目だよ、大事なテスト前に。担任の先生はそれ知って、多良先生にも」

 意外な話につい口調が鋭くなる。

「多良先生にも、何ですか。文句言われたとかですか」

「文句、ではないけれど、そういうのはお控えくださいってお願いしたって」と戸惑うような答えが返ってきた。

 私は多良先生に「もう来ないで」と言われた、最後の日の最初の言葉を思い出した。
 
「そうですか」自分でも意外なくらい、唸るような声が出た。

 担任も、多良先生も、どちらも私を思って言ったこと。

 それがこんなにも方向が異なってしまうなんて。  




 私は電灯の消えた司書室を見る。作業台には段ボールが積まれたままだ。

 先生にお別れが言えなかった。

 でも多良先生にはいつかまた、会うことはできる。

 生きてさえ、いてくれれば。

 いつか、また。

(了)