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この痛みは、幻じゃない アリスとテレスのまぼろし工場【映画感想文】


あらすじ

製鉄所の爆発事故によって全ての出口を閉ざされ、時まで止まってしまった町。いつか元に戻れるように「何も変えてはいけない」というルールができた。変化を禁じられた住民たちは、鬱屈とした日々を過ごしている。中学3年生の菊入正宗は、謎めいた同級生・佐上睦実に導かれて足を踏み入れた製鉄所の第五高炉で、野生の狼のような少女・五実と出会う。

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感想

まず初めに、わざわざ書くのは申し訳なく思ってはいるが前提としてスタンスを書きたい。私は岡田麿里脚本作品があまり得意ではない。”合わない”こと自体は悪いことだと認識はしてなくて、それが人間の多様性でもあると思っているし、理解できないものに対して今の自分の価値観のみを元に歪曲して理解したことにするよりは、今は、あるいはこれから先も相容れないことがありえると割り切って接するほうが誠実な態度であると思っている。

何故得意ではないかを説明すると、いつか自分の首を絞めそうで怖いので細かくはしない。ただ、モラトリアムを全開に曝け出したエモーショナルなキャラクター達が私の心をザワつかせてくることは小さな要因ではないだろう。

じゃあ何で観に行くのかっていうと合わないからこそ観に行く。そこには”合う”ものからしか得られないもの以外の鮮烈な体験が潜んでいるかもしれず、また岡田監督の作品は多くの人に受け入れられているものであるため、そこには必ず私が認識できてない良さがあるからだ。

そして今回の作品を観て、前監督作「さよならの朝に約束の花を飾ろう」を含めて岡田監督の根幹にあるものが何かというものが垣間見えた気がしたので、私としてはかなり観て良かった。もしくは、というかどちらかと言えば正しく自分だけで把握できる点でこちらの方が大きく、なぜ自分がここまで得意ではないと感じていたのかという点をようやく理解できた。それが前監督作品よりもわかりやすかったのだと思う。何かについては後述する。

いつも通り、本noteにはネタバレが多く含まれる。ついでに「さよ朝」のネタバレも含まれる。気を付けて欲しい。私はあまねく創作の場が保たれて行って欲しい、かつ視聴体験というものは偶然の出会いによって新鮮さと驚きを持って迎え入れられて欲しいと願っているので少しでも気になるのならば劇場に足を運んでもらいたい。

本作は主人公である正宗含む男友達4人組が勉強会を催しているシーンから始まる。突如、町の製鉄所の爆発が起こり、そこから時が止まり、たしかに何かが変わってしまった世界で、変わらないことを選んだ人々の生活が続いていく。

最初に事故の描写があったので地続きのように感じるが、キャラクター達の言動や運転の許可、五実の成長具合からして、事故が起きてから正宗が五実に出会うまでは、おそらく10年近く時は経っているはずだ。

このような状況になれば年月の経過の感覚が曖昧になっているだろうという表現のためか明確な年月の描写はなかった。それだけの時間が経っていてもなお主人公たちは中学生3年生としてのメンタリティを表面上は保持している。変わらないと決めた心がそうさせているのか、あるいは壊れそうになる精神を守るために頑なであった成果であるのかもしれない。

スッ飛ばして書いてしまえば、この世界は現実の世界ではない。製鉄所の事故が原因ではあったろうが、他にも土地の神様なのか神機狼なのか何者か何かしらの理由で生まれた幻の世界(蜃気楼と神機狼をかけているのは明らかだが神機狼がどうみてもどっちかといえば龍じゃね?っていうツッコミが拭えなかった)。五実が迷い込んだ神隠しの先の世界だ。この世界がなんなのか?という問いはこの作品において本筋ではない。とにかく、まぼろしの世界であり、神機狼と呼ばれる工場からでる煙状の何かが守っている世界なのだ。最初に書いたように10年近く経っているはずだが、作中で神機狼という名前をみんな初耳みたいなノリで聞くのでこれまでの時間何してたんだろう感がすごいのだがまぁこういったことも本筋ではない。

告白騒動で正宗の女子の同級生が神機狼に飲まれてしまった事件をきっかけに現実の世界ではないと住民たちに広まり、そのショックからか同様に住民たちが消失する事件が相次いでいく。

それらの消失感や工場で五実と共に見た現実の世界の夏の景色。現実の自分たちを垣間見たことによりまぼろしの自分達の感情を受け入れがたくなってしまう葛藤。現実世界で娘を一瞬のうちに失ってしまった親の喪失感。それでもそんな世界に在っても惹かれ合っていく心。それらは感情的で強烈な印象を鑑賞者に与えるだろう。キャッチコピーである「恋する衝動が世界を壊す」間違っていなかったと思う。

ただ私が今回見出した根幹はそれらではなかった。

シーンでいえば五実と睦実が正宗を残し列車に乗って現実へと向かうシーンだ。睦実は五実に対して、正宗の心は私のものだと言う。まぼろしの私たちに未来はない。未来はあなたにあげる。でも、正宗だけは私のものだし私もまた正宗のものだと。
メンタル幼児にお前何言ってんねん……まぼろしの世界に愛着が生まれてしまい、睦実とも正宗とも離れがたくなってしまっている五実を突き放すにしてもキツないか……と最初は思った。
まだ恋心というものを理解していない五実は仲間外れは嫌だと泣き、思い出を振り払いながら、大嫌いだから睦実と別れて未来へ行くと言う。痛い、痛いと泣きながら未来へ行く。

そういうことか、と。

さよ朝で納得できなかった部分。ラストシーンで、連れ去られてきた形で王妃になったレイリアが娘メドメルを残していくシーンの意図がようやくわかった気がした。私は当時あのシーンをどう解釈したらいいのか本当にわからなかった。

この監督は「別れ」とは痛みを伴うものであるべきだと描いているのだ。綺麗なだけの別れなんて、無いと。そして人の営みは「愛憎」であると。
何故と強く思うシーンであると共に一番感情に対して素直になっているシーンだと感じた。綺麗に別れることも出来る。もっともらしい理由をつけることも出来る。だがそれはしない。愛しているし憎んでいる。別れたくないが別れたい。伝わらないものを伝える。相反する矛盾した感情を混然一体としてまとめている。

現実の人間は合理的に、物語の正着通りにわかりやすく動くわけではない。それは意識してやっているわけでもなく、なぜそうしたのかはその瞬間自分でもわからないけれど、そうしたくなってしまったからそうする。例えそれが他人を、自分を傷つけるものであったとしても、感情の奔流とでも言うべきものを優先することがある。私の場合、現実がそうなるからこそ物語には合理性を求める部分があるので、だからこれまで観ていてスッキリしないし、相容れないと感じていたんだなぁ~~~と納得した。

癖(へき)がようやくわかった。ある意味でこういう考えがエモーショナルさを生み出しているのかと、綺麗なだけじゃないものに綺麗なガワを被せて、説明がしづらい感情表現を生み出していたのだなと。

だから、中島みゆきの「心音」がここまでハマって聞こえるのだ。
劇伴はどれも素晴らしかったのだが、裏の意図に気づかなければ劇伴自体は綺麗なガワを被せる要素だった。それが一切なくこの作品を表現した「心音」の方がハマって聞こえるのは当然のことだ。ていうかこの曲が良過ぎる。岡田監督の情念をあまりにも的確に表現している。

心音の歌詞にある「未来へ 未来へ 未来へ 君だけで行け」この見事な一節が、さよ朝で描いた別れと五実と睦実の別れに通じるものを気付かせてくれた。

余談として、作品の良さを倍増させる曲も、曲を倍増させる作品も、その関係性含め好きになっちゃう質なのだが、今回の「心音」はまさにそれでとんでもなく良い。素晴らしい。
ちなみに他でいうと「桜流し」や「My Soul,Your Beats!」なんかが好きだ。

ある意味では本質的に人はわかり合えないという視点で考えると神機狼に飲まれた釣り中のおじさんとグラウンドで飲まれた友人のシーンもシックリくる。彼らは強い感情の奔流によって飲まれた最初の女の子に比べてあまりにも日常の中であっさりと飲まれる。そこに整合性を感じなかったのだが、人の心に渦巻くものは、言動をつぶさに見ている友人であっても他人がそのすべてを推し量れるものではなく、逆に日常の中でこそ唐突に心には強い衝動が湧き上がるものだ。釣り中のおじさん……何を思ったんだろうな……。

あの時友人が飲まれた正宗は未来に向けた夢があったからと納得できていたが、サラリと流したシーンのようでそれだけ正宗の未来への思いが大きいことを表していたのだろう。同じように砕け散ってしまいそうなものを抱えていたのだろう。

とまぁ、そういうわけで最初に得意ではないと書いたわりに、最終的にしっかり楽しめた。正直言って途中まではやっぱり得意じゃないなぁ~~と思いながら観ていたのだが、まさか「さよ朝」まで遡って自分の中で解が得られると思ってなかったので良い視聴体験になった。それでも得意になったとまでは烏滸がましくて言えないが、楽しめるものが世の中に増えることは私にとって望外の喜びである。

その一つを得ることが出来たキッカケになる作品であった。

本当に、素晴らしい。

観たいものも読みたいものも尽きないのでサポートいただければとても助かります。