人生の決意

自分の新卒の時のことを振り返るとこれがまあなんとも酷いものだった。1回目の就活ではゲームをするばかりで1件くらいしか新卒採用に応募してなかった。当然就活留年(厳密には、半年間の休学で卒業を伸ばした)をする体たらく。2回目は必死こかなければ親にぶち殺されるので、形だけでもなんとか就職をしなければと焦っていた。

だが大学時代はひたすらRTAに従事し、碌に人と関わろうとして来なかった僕は、就活の軸なんぞそもそも持ち合わせてなかったし、はっきり言って採用されて適当に仕事をこなしてそれなりに生きていければいいと、社会のことを舐め腐っていた。そんな態度が如実に出ていたのか、100件近くの応募は、軒並み素敵なお祈りと化すばかりで、絶望に伏していた。

そこで唯一内定が出たのはO社だった。なのでO社を選んだ理由は、内定が出たからという点に他ならない。他は全滅。ここまで酷い結果となったのはなぜだろうか。就活留年を誤魔化すために、半年間の休学中はアメリカに語学留学に行き、面白い経験を積むために投票のバイトやコーチングの講習会などにも赴くなど、それなりに体裁を取り繕ってはいた。帰国子女且つ世間的には良い学歴、それがここまで落ちまくったのは、やはり僕の人間性の問題だったのだろう。社会に出てからわかったことだが、大人というのは予想以上に短い会話でも相手のことを見抜くものだ。

ではO社の内定はなぜ通ったのか。実は当時の事業部長から社会人3年目の飲みの場で明かされることになる。なんと彼は僕のことを総合商社を狙っていたが落ち、泣く泣く就活留年をして再度トライするも挫折を繰り返した結果、妥協でO社を受けたこぼれ優秀人材だと思い込んでいたとのこと。悲しいことに100社受けた中で僕は総合商社なんて1社も受けていない。ゴリゴリの体育会系のノリなんかに入れる気が全くしなかったから。見事な勘違い採用っぷりである。

新卒ホヤホヤの僕はそんな虚しい事実なんて知る由もなければ、開放感のあまり他の企業でことごとく落とされた理由を顧みようともしなかった。就活が終わって一安心、スペックは悪くないし、自分のことを頭がいいと思っていたので、始まってみたらどうせ仕事なんて余裕だろうと、社会舐め腐りはそのまま延長戦へもつれ込んだ。

結果、僕はO社でボロ雑巾にされた。

O社が扱っている製品は、用途がピンポイントなものだ。その上競合他社との差異化された機能は目立ちづらく、業界第2位。慣れ親しんだ第1位の製品が脳死で選ばれることが多く、営業としてアプローチをするのがかなり難しい部類だ。更に大学時代に引きこもっていたせいで、好きな人間以外とのコミュニケーションから逃げ続けていた僕が、営業職でビジネスでの人間関係をまともにこなせるわけがない。日本の社会的な常識にも乏しく、失礼はしょっちゅう。営業として役に立つはずもない。

そんな僕を上司・先輩方は厳しく迎え入れた。今でこそかなり優しい時代になったが、僕が入社したくらいのタイミングは、まだギリギリ昭和的な気質が残っていた。毎日飲み会や昼飯の度に「営業なんだから面白い話しろ」みたいな無茶振りをされ、全く楽しくなかった。酒の強要こそなかったものの、いつまで経っても仕事ができない情けなさと、容赦のない弄りが本当に辛かった。一度営業に向かう途中で、不意に辛さに耐えられなくなって駅で号泣しながら母に辞めたいと電話したこともある。

でもO社は、決してブラックな職場ではない。仕事ができない僕とキチンと向き合い、いつも真剣に対策を考え、成長を促そうとしてくれているのが伝わってきていた。厳しい環境は、それが僕の成長への道だという考えに基づいた偏った愛なのだというのもわかっていた。だから僕は、なんとか応えようと頑張った。挑戦しては失敗し、その度に怒られたが、自分なりに考え、前向きに取り組むことをやめなかった。職場は僕の失敗を馬鹿にせず、ちゃんと評価し、次に繋がるように仕向けてくれていた。

そうして育てられていくうちに、あの学生気分の抜けない腐り社会人だった僕が、自分にとって人生でやりたいことは何かというのを真剣に考えられるくらいには、視野が広がっていた。その頃はまだ営業として貢献できていなかったし、それどころか失敗ばかりで迷惑をかけているという負い目を感じていたので、転職なんて考えていられる場合ではなかった。でもいつか恩を返すことができたら、その時は本当にやりたいことに従事したいと、いつのまにか思うようになった。

悔しいながら営業時代は芽が出ることはなかったが、営業のバックヤード側に異動してからは僕の能力が発揮されるようになった。アナログまみれだった運用を徹底的に自動化・効率化して、誰もが簡単にできる体制を作った。丸投げの引き継ぎでマニュアルもなく、自分で調べてなんとかするしかなかった業務は、後世に同じ思いはさせまいと、形に残した。上での事情があり、突如として降ってきた承服しかねる無茶振りも飲み込んで対応し続けた。気がつけば僕は、かつての上司・先輩方からも、後輩たちからも頼られ、慕われる立ち位置になれていた。

おかげで昇進も最速で、きっとこのまま行けば、早い段階で管理職を目指していくこともできるポジションにつけた。恩義を感じているので、会社に不満はたくさんあるけれど、役と権限がつけばそれを率先して変えていく立場にもなれる。仲のいい同僚たちと組んで、このままそんな未来へ進んで行くのも、悪くない人生なのだろうとも考えた。そんなO社で順風満帆となれた僕がなぜ転職を決意するに至ったのか。

人生でもっとやりたいことがあるからだ。

O社全体の事業を見渡してみて、僕のやりたいことに関われるものはない。ないならば作ればいい。新規事業立ち上げができるような地位にまでつき、やりたいことを一から作れば良いのではないか?だがあまりにも畑が違いすぎる。畑が違いすぎても、やろうと思えばできないことなんてない。できないことなんてないが、代わりに犠牲になるのは時間だ。会社に限らず何かを変えることは、とても時間がかかる。特にO社は古い考え方が残り続けている会社なので、僕の人生を捧げても、変え切ることは難しいだろう。そんなフットワークの重い場で、僕の貴重な時間を割くことに、残念ながら価値を見出せない。

会社に居続ける理由は様々だと思う。恩義、給料、同僚、会社の考え方、将来性などなど…。様々な観点でO社を見返したときに、一部の気の置けない同僚たちと働けること以外の魅力を僕は何一つ感じていなかった。残念ながら、同僚たちもとい「人」の存在は、会社に身を置く理由として非常に弱い。なぜならば大きな会社になればなるほど、異動という概念が付きまとう。異動だけではない。退職、転職、休職…人の人生は様々で、予想だにしない事態なんていくらでも起こりうる。「人」という要素はあまりにも流動的で、どんなに魅力的な仲間たちが居ようと、彼らと仕事を続けられる時間に永続性なんてないのだ。

だから僕はO社を離れる決意をした。

O社を離れ約2か月が経過した。たまにふとO社に想いを馳せる。戻りたいとは思わない。感じるのは故郷への郷愁に似た感情。今のO社には僕が仲良かった人たちの2/3くらいしかいないので、あるのはもう戻らない懐かしさだけ。今O社に在籍している、していないに関わらず、かつての同僚たちとは時たまに飲みに行く。一番肝心な人との繋がりは残っているので、O社に残す未練はもう何もない。

転職は僕の人生で初めての大きな決断だったと思う。中高は帰国子女枠でさくっと入れ、大学は碌に勉強してなかったが科目が噛み合い半ばラッキーで合格、就活は事業部長の勘違いでこれまたラッキー内定。ただひたすらに流されるがままの人生だった僕が、やりたいことを見出し、安寧の地を離れ、自分で転職を決意できたのは、O社でのしごきのおかげだ。O社という会社は正直大嫌いだが、偶然が重なり、僕が成長できる場となってくれた。だから複雑な気持ちながら、感謝をしている。O社はこれからどんどん厳しい環境になると予想しているけど、僕のかつての同僚たちを苦しめずほどほどに頑張って欲しい。過去を懐かしみながらも、僕は次に進むので。

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