『憧憬』 【石原慎太郎に捧げる掌編小説】
令和4年2月1日––––。
もっとも尊敬している人物が不帰の人となった。
尊敬や憧憬は、これからもずっとそうであり続ける未来進行形のものだろう。
憧れの人物がこの世を去るという事の喪失感は、こうも寂寥と脱力をともなうものなのか。
翻って、叱咤されるように志を引き継ぐ事を原動力にしなければと思う自分もいる。
こうもさまざま感情が入り乱れる。しかし、当の本人は生前自分の死に対して興味を抱いていたのは間違いない。
死生観について多くを語るなかで、自分の肉体が死んだら魂はどうなるのか––––。文学者の視点というよりも、一個人としての感興に近いものだったろう。
そして、何より読者として、一番聞いてみたいその瞬間の事は当然知り得ない。あるいは、本人も語りたいだろうが、当然読者には届かない。
いつか夢を叶えて会いに行く––––という目的はついぞ叶わないという現実を突きつけられたようだ。
もともと交友関係の広かった私は、ある時点から人付き合いを遠ざけるようになった。当然、自分の周りには誰もいなくなった。そのときの情況が、まさに氏の「思想と行為」と重なった。
爾来、氏の本だけが心の隙間を埋めるように、孤独のなかで自分自身と向き合う指針となり続けた。読書はまさに著者との対話であるという事を氏の文章を通して学んだ。誰よりも心のなかで会話をしてきたのだ。
だからこそ、心に大きな空洞ができたまま現実を飲み込めずにいる。
ふとこの数日間、自分の人生についても考えさせられた。このまま埋もれていくのだろうか。世のなかに何の影響も与えず、暗く深い海のなかを延々泳ぎ続けるのだろうか。
海が人生だった氏は、そこにいるはずなのに、この孤独の海中ではどうにもその姿を確認できそうにない。一體、いつまでこんな人生が続くのか。まるで次の一手が見つからない将棋盤をいつまでも前に置いているような感覚。
困ったとは言わないが、どうにもこうにも八方塞がり。どうしたらいいのか。
「あなたなら、次にどんな一手を打ちますか」
思わずそう問いかけたくなる。
今後、泳ぎ続けるこの世界に何があるというのだろう。実は、何もないのではなかろうか、という不安も襲いくる。
いや、微かに憧憬という炎が一点だけ光を灯している。
「君は俺に憧れているんだろう––––なら頑張れよ」
そう言われている気がしてならない。
「若いやつしっかりしろよ!」
氏がかつて世のなかに対して喝破した言霊は、匕首のように、今まさに私の首に突きつけられている。今この瞬間、大きな岩を動かすほどの力を伴いながら––––。
「自分だけに与えられたもの」
氏の小説に出てくる一節にいつも感化されてきた。
換言すれば、
「君だけに与えられたものが必ずあるはずだから、探しに行けよ」
という伝言だろう。
それが、今まさに私の矜持となる。氏への憧憬こそが力となる。
だから私は探し続けるだろう。
あの憧憬に近づけるような場面を––––空間を––––その瞬間、瞬間を––––。
だから俺は探し続けるのだろう。
あんなふうに輝ける場所を––––方法を––––青嵐を––––。
【完】
令和4年2月4日。
石原慎太郎氏に捧げる掌編小説とする。
景虎
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