Myお茶碗から紐解く、茶道の濃茶と落涙ストーリー
浅田次郎先生の「蒼穹の昴」を読み返している。というのも本来、濃茶のお稽古が本格化して、茶杓の銘も禅語や漢詩からピックアップする作業に専念する時期。しかし、先日、「Myお茶碗」で失敗したショックがトラウマとなって、自宅にある練習用のお茶入れに手が伸びない。お茶入れは丹波焼の肩衝。お茶入れの紐の練習を、この丹波焼のお茶入れでやっていた。しかし、My黒楽茶碗で先生に、
「ご自身のお点前がしっかり出来ていないと、せっかくのお道具の価値も半減ね」
とのお言葉をお稽古の最後にいただき、それ以来、何かにつけてMyお茶碗の記憶が蘇るトラウマ状態。
その苦しみから逃れようと、スマホのkindleで「蒼穹の昴」を開いて読んでいる。濃茶と全く関係がないわけではない。清朝時代の中国の宮中生活を垣間見ることは、漢詩を読み解く上で大きく役立つ、ハズ。
実は、読み返している本当の理由は、涙を誘う描写の研究のためである。
壮大な中国の大地を舞台にしていながら、庶民中の庶民の少女の健気さに、涙をこぼす。このギャップをなんとか自分のものにしたいと、目を皿の様にして読み返している。その時間だけは、Myお茶碗のおぞましき呪縛から解き放たれる。
と言っては、また、逃げの一手を打っている。問題と正対しないと、問題解決の糸口には辿り着けないのだが。
もうすぐ七十歳になろうというのに、今日も反省の日々である。
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