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「一斗詩百篇」は、言い訳

 近頃、どことなく気の晴れないままに日々を過ごしている。その一番の原因は濃茶のお手前が全くできないことである。
 まず、お茶室の風炉の隣りに水指とお茶入れを据えておくことすら忘れている。そこで「月夜の千回濃茶お点前」を決意をしたものの、その準備すら手につかない。なんとか意を決して試みると、その難しさは薄茶が簡単に思えてくるほどである。しかし、私には、その薄茶すらまともに点てられないが。
 そんなことを考えながら、昨日は二回ばかり濃茶を点ててみた。そこで、塗り蓋の水指が無いことに気付き、早速、ヤフオクで入札。放ったらかして置いたら千円で入札したものが、いつのまにか一万円を超えて終了していた。
 他の水指を探して入札するが、思ったほど簡単に見つからない。タマ数が少ない。そんな中にも、陶器の蓋の他に塗り蓋が付随しているものを見かけた。そう言うことか、と気付いた。ならば塗り蓋だけを探して、手持ちの水指しに合わせればいいのかと。
 発想を変えて漆の替え蓋だけの出品を探したが、そんなに都合よくは見つからない。しかたなく、今度こそはと塗り蓋とセットの水指を探して、再び入札。今度は、放置しない様に気をつけるつもりだ。
 次回のお稽古は、当然、濃茶のお稽古だろうと決めて、お茶杓の濃茶用の銘を考える。
 ここ二、三日、気になっているのが杜甫の「飲中八仙歌」である。文字面通り、唐の時代の長安の町の呑兵衛八人衆の話である。その中に李白も名を連ねている。そして彼のことを、「一斗詩百篇」と表している。この一句が、日本で有名になった詩であるらしい。
 そもそも道教を信奉する者たちにとって酒は、重要なアイテムらしい。だから、世を憚ることなく酒をテーマにした詩が多く存在するようだ。
 酒を飲んで酩酊していることへの、言い訳にしか思えなくもない。時代背景を考慮すれば、数少ない娯楽なのだろう。
 ということです、次回のお茶杓の銘は「一斗百篇」に決定。
 前回は、白居易の五首連首の「酒に対する」の二首目から取った。一句目は聞き覚えがある。
「蝸牛角上の争い」
 で始まる。その詩の最後の二句。
「富に随 貧に随 しばらく歓楽せよ
口を開けて笑わざるは 是れ痴人なり」
 からいただいた「口開笑」とした。
 すると銘を聞くなり先生は、
「カゲロウさん、そのものね」
 と、ツッコミを入れて来た。どうとれば良いのか、まだ、結論は出ていない。この前例も配慮して今回の銘は、杜甫の「飲中八仙歌」から李白を表した一句から取った。
「一斗百篇」である。
「カゲロウさん、そのものね」
 とツッコミを入れて来る先生の顔が、今から想像できる。そんな私は、先生にとっての不祥の弟子に違いない。そのことを私は、誇りに思っている。
 





























   

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