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読者を魅了する力は、作品の密度と取材努力……

 とある作家と司馬遼太郎の作品を交互に読み始めた。読み始めてしばらくすると、いかに司馬遼太郎の作品の密度が濃いか、一目瞭然。その物語の密度の濃さが、読者をぐいぐい物語へと引きずり込んでいく。
 その密度の濃さは、ひとえに司馬遼太郎の常日頃の好奇心と行動力の賜物なのだろう。そして、土地の人への取材で、ひとつひとつの情報の裏打ちが為されている。作品のテンポの良さは、情報の濃さからくる自信が成せる技だと思えてならない。わずかの迷いはおろか、淀みなく物語が流れて行く。それは、舞台となる土地に何度も通い、土地の人間や地理が及ぼす、その時代の経済活動をも把握しているからこそ、多岐にわたって人物像を掘り下げていくことかできる。それ故に、より鮮明にイメージでき、読者を物語の世界へと導いて行く牽引力となっているのだろう。
 こんな作者のレベルに立って一つの作品を書き上げることなど、わたしには到底無理なように思われる。いくらここでカラ元気を出して見せても、所詮、強がりでしか無いことは直ぐに見破られてしまうだろう。
 今書いている作品で一番大事なシーンが、今まで頼ってきた資料の中で指摘されていなかったことに、最近気づいた。これまで目にした同じ人物を題材にした小説には、そのシーンに重要な意味を持たされていなかったからだ。しかし、新たに見つけた資料をみるかぎりでは、今思っている以上に、いかに敵対するライバルが警戒したかが、全く別次元のものになってしまう。それくらいに重要なシーンだと日を重ねるごとに、その重さが私の中で増していく。しかし、いかんせん、資料が少ない。
 資料の少なさを補うために虚心坦懐、重要な絵を京都へ観に行くしかない。主人公たちが命を注いだ二つの絵に、私を導いてもらうしかなさそうだ。
「全国旅行支援」が開始されたばかりだというのに京都は既に、定量に達してしまった。それでも行けば観光客でごった返して、じっくりと鑑賞するなんてできないだろう。はて、ここは思案のしどころ。名を取るか、実を取るか。虚心坦懐に絵と対面するという実を取るのであれば、落ち着くのを待った方が良さそうだ。しかし、その分、作品の脱稿が遅れるのだが、そのことも覚悟するしか無い。

創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。