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地に住む精霊と、出会う受信機・・・

 奈良を訪れた時のことである。土地自体から発している、えも言われぬ力を感じた。これまで日本の沢山の地を訪れたが、土地自体から発する力の様なものを感じたのは、初めてのことであった。そのとき思ったのは、土地とそれを含む空間全てが、人に語りかけてくるということがあるのだ、ということである。

   思い返してみると、それに近い物を金沢でも感じた。ただ、少し違っていたのは金沢で感じたものは島根県の出雲市を訪れたときに感じた物に、似ているように思えた。それぞれに共通している点は、幾重にも積み重なってきた時間の地層の様なものが、わずかな時の狭間をすり抜けて。今だに生き続けているという感じを、皮膚が感じとっている感覚である。人の姿を取って私の前に現れてはいないが、今に残る過ぎた時の彼方から続いている造形を持って、私に語りかけてくる物を感じるのである。それが、何十年も前の息づかいであったり、何百年も前の気配であったりする。面白い。どこか、わくわくしてくるのである。

   それはタイムスリップのように、私自身が過去や未来に移動してしまうのではなく、今、私の生きている、この瞬間、この時代に、過去が共棲しているのである。今と過去とがオーバーラップして混在し続けているのである。今に生きながらにして、過去も見ているのである。得したような気分である。それは、何億光年もかかって届いた遠い過去の光で作られている、今現在の夜空を眺めて見ている様な物なのかも知れない。目の前に展開している夜空は、今の時代のこの瞬間の夜空であるが、光として届いている星たちの光は、既に何億年も前の光なのである。それと同じことが、土地や景色も含めた、目の前に展開する空間そのものにもあり得るのかもしれない。だとしたら、過去と現在がオーバーラップして混在していることも現実であり、事実なのである。ただ、それを感じ取れる受信機が、こちら側にあるかないかの違いだけのような気がする。どうやら、私には、それを感じ取れる受信機を持ち合わせているようだ。ワクワク。

  “生き物は有情といい、石のような物は無情という。しかし、両者とも生命である”
 とする見方がある。さらに、その奥底には “命の海” があり、有情も無情もその “命の海” に浮いている物なのである。よって全ての存在は、奥底の “命の海” においてつながっているのである。

 歴史小説ばかりに没頭していると、こんなことを思ってしまう今日、この頃。

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