チ。−地球の運動について− というアニメ、漫画があり天文学のストーリーですがとても興奮し一話二話は流してみていたのに三話は三回ほど見てしまいました。 天動説か地動説か、先日聞いていた航海士の海の上と陸の上の話や、コペルニクスの「それでも地球は回っている」ということからとても面白く見ていました。 すこし調べると別段キリスト教会は地動説の者を弾圧したのは一時期だったそうで、コペルニクスの異端審問は教皇を馬鹿にしたからという開けてびっくり玉手箱でした。むしろビックバンを提唱した
生きることも難しければ死ぬことも難しい。 生活するのにはコツコツと積み重ねることと、知識と経験で仕事をしていかなければなりません。学生の頃は責任なくとも社会人になると義務と責任が出てきます。 明日よくするには今日頑張らないといけません。 では頑張ったらいいのか? 老後まではいいでしょう。しっかりした人生を歩めば報われることも結構あります。 ただし死の解決だけは仏教の説くところです。 生きている間から幸不幸、快不快、善悪、損得、それらで計って人生設計して死ぬまで苦し
罪悪観と無常観でありますが、昔は不浄観と白骨観とも言われたようです。現在では責任や平等、終活や次は自分が死ぬという死生観より臨床と言えるかもしれません。 聞法を浄土真宗では推奨されますが、何を、どうして、どう聞かなければ、どうなるのか、という視座があるのですが、それ以前に宗教なんて、というところが増井悟朗師により現代人には薬にさせてもらわないといけないのではないかと教わりました。 ただ何々会が救うとか、何々先生が救うとかは無い。罪悪観無常観をとりつめよ、と言われるが、罪悪
日々仕事をして依存先を分散せよ、というネットの投稿を見るものの、仕事で首輪をつけられている限り苦しいものです。生殺与奪を他者依存しすぎで長時間労働によるとなんのために働いてなんのために生きているのかわからなくなります。 苦しすぎるとその環境を出るか、その環境を楽しむかで変わってきますが、期日や責任や人間関係で苦しむことが多いかと思います。 仕事がきつくても人間関係がよければやめても悪口は言われないようです。 しかし働いて働いて老後を心配する暇もないとき、後生の一大事の心
お祭りや神輿の練習の音がする。 練り歩きやヤグラや組んで仕事や学業以外の活動を地域でする。 このことで地域愛や年寄りと若者の交流が発生し、異性間のトキメキや交際が会ったりする。 東京一極集中も相まって地方では子供が一人だったりして学校も成り立たない。 若い人に留めようと思っても仕事がない。 時代の急激な変化は1970年代から顕著で集団就職から学生運動に高度経済成長期で人口移動は加速していったように思う。 お寺のあり方も明治期に入って廃村になることを見越してそうそうと撤
航海士のお話から救済と教団と自分と思うところがありました。 今日様々な教団がありますが、教団員でなければ結構自由です。 浄土教、とりわけ浄土真宗では他力信心が大切です。 仏願の生起本を聞きて疑心あることなし このことが他力信心です。 阿弥陀仏の願いを聞いて疑い心が無い、という状態が他力信心と習います。 教団はありがたく、『真宗聖典』『七祖編』をお伝えくださいます。詳しく言うと聖典編纂委員会の方々と聖典を伝えてくださった方々です。そして他力信心をいただかれお念仏され
航海士のお話でもう一つ思ったのが、自分の主張や意見は絶対で経験則からこうすべきだ、ということでも危ういことがある、ということでした。 ぱっと思い浮かんだのはガリレオ・ガリレイです。「それでも地球は回っている」で有名な天文学者です。ある人はガリガリ先生と言っていました。 そのガリレオですが、地動説か天動説かでの教会との衝突で、異端審問で裁かれ地球は回っておらず全ての中心は天の神が創った大地で星や月や太陽が回っていると言わされました。しかし裁判所退室時に先の言葉を発したそうで
先に聞かせていただいた航海士の話で連想されました。 航海士という職業を全く知らなかったことと、海に出るのってそんなに危ないんだなと思いました。思っただけで海の仕事につきませんが、自分が知らない世界を聞くのは想像を掻き立てられ、まるで大海原を航海する気分にはなってしまいました。 世の中過ごすには体力と知力があると底力が違うのだなと思いました。海に出れば自動で魚が食べられるくらいにしか思っていませんでした。 お聖教を開かせていただいているとあちこち似た単語に気付かされます。
お年寄りの話は面白くないという先入観が間違っていたと思える瞬間尊敬に敬老に変わるのでいかに獣の論理で生きているかを鑑みさせられます。 一等航海士 二等航海士 三等航海士 それぞれ違いはわかりませんがお聖教を八十三歳で開かれ聞法、大切な往生成仏と信心、還相回向にまでご存知な方は稀であり、しかも海の仕事もされてた方と、どのような方にも御縁ある仏願の働きを見せられました。 その航海士のお話を聞かせてもらいましたが、GPSがない時代のことで、太平洋、オーストラリア周辺まで行くのも
仏教は若き年たしなめ、年寄れば足腰が動きにくくなり、目や耳も遠くなります。判断も遅くなり単語も入ってきません。プライドも出て尋ねにくいです。 今日仏教衰退が言われますが、宗教心はむしろ増している気がします。しかし年寄り、団塊世代を見ていると宗教を避けたり真剣になりにくかったりするのは複数理由が考えられそうです。 そもそも明治政府からの廃仏毀釈で二束三文で仏教寺院や仏具や本尊が売られて、県内寺院を一つにしろとか、民衆による仏教破壊、大衆の間の新興宗教により現世幸福の追求、山
なかなか暑い日が続きます。日中は暑いのですが朝晩はクーラーがいらなくなり夕方は早く暗くなり始めています。 黄昏や深夜に近づきますと一日の終わりや仕事終わりの疲れから安堵感と帰宅の安心感がある気がします。子供の頃は親の忙しさや責任感など微塵も知らずに遊び倒し晩御飯とテレビとお風呂に入り寝るまで漫画を読んで夢を見るように過ごしていました。 大人となった後思い返せば懐かしくも、もう帰ってこない安心と安全を思うとき、家庭の安心と安全は両親や兄弟が培ってくれていたのだと振り返って気
親鸞聖人はたまたま行信を聞かれ疑いなく阿弥陀仏より浄土往生をいただかれたら遠く宿縁をよろこべ、と仰られました。 この世、およそ鎌倉時代や室町時代より物も思想も食事も文化も豊潤のようです。 見たくはありませんが、昔の人は動物が絞められ調理準備されるのも、老体が亡くなっていくのも直に見えたそうです。 もう無常観も罪悪観も、無常感罪悪感はあっても余裕もないほど忙しい社会人だらけで、学生の時のように遊んでて暇だということがなくなったようで、現実を直視する機会も減ってきた気がしま
こんにちは。まだ暑い日が続くところと涼しくなってきたところがでてきたようです。 日本社会も世界も動きつつありますが仏教では今現在私自身はいかが、仏や浄土はいかがという問いと答えが言われるかと思います。 浄土真宗では覚如上人より廃立といわれ問われながら答えを明示されることが伝わっています。宗学ではメインではないようですがわかりやすいかと思います。廃立とは拾いものと捨てものということです。暫用還廃、しばらく用いられかえって廃せられるということがあるのです。 一つに聖浄廃立、
教団と書くと流行らないかもしれないですが御同朋御同行という同じく信仰する仲間や友人知人というなかで気心知れる集まりやグループは人生指針に悩むとき心地よさを感じる時があるかと思います。 一方でセミナーなど調べると本講座に勧誘され7桁と見た瞬間、それならお寺っ通ったほうがいいのでは、と思ってしまいました。お寺年間5千円から法要法座全部通ったら年間3万円くらいかな。 熱心な御同行と親交があれば何かと教えてくれたので今も信仰させていただいています。 もっと安い人生相談なら図書館
教学を学ぶことは推奨されます。 しかし信心をいただくことが浄土真宗では大切と言われます。 それは学ぶのは何を学んでいるのかが大切なのであって、教学で自己を存続し拡張していくのは目的ではないからです。 教行信証が浄土真宗の根本聖典ですが正信偈と和讃に書かれていて、親鸞聖人は何をお伝えになられたかったのかが分かります。 その推奨が蓮如上人の御文章です。昔は御門徒さんのお家からお勤めの声の後でご飯をいただく音が聞こえたそうです。 お念仏しいただくご飯が毎日だったようです。
Wikipedia戒律 戒律 戒律 · 仏教においては、修行者の生活規律のこと。自発的に規律を守ろうとする心のはたらきを指す戒(梵: śīla)と、他律的な規則を指す律(梵: vinaya)とを合わせた語。 戒律はとても重要ですが成立を知ると意外と思うことがあります。上記の通り戒は自戒であり律は他律と言われ現代とは逆に感じられるかも知れません。釈尊教団におおて修行の妨げとなるつどに制定されていったそうです。 自分で守っていればいいじゃないかと思われるかも知れませんが、長