宗教心と死生観
なかなか暑い日が続きます。日中は暑いのですが朝晩はクーラーがいらなくなり夕方は早く暗くなり始めています。
黄昏や深夜に近づきますと一日の終わりや仕事終わりの疲れから安堵感と帰宅の安心感がある気がします。子供の頃は親の忙しさや責任感など微塵も知らずに遊び倒し晩御飯とテレビとお風呂に入り寝るまで漫画を読んで夢を見るように過ごしていました。
大人となった後思い返せば懐かしくも、もう帰ってこない安心と安全を思うとき、家庭の安心と安全は両親や兄弟が培ってくれていたのだと振り返って気付かされます。
ふと思い出すのは、そんな安心で安全な家でも親友兄弟ともぶつかって、怒ったり喧嘩したり、口論だったり不貞腐れたこともありました。何もかも嫌になり死んだらいいのかと、あまりにも軽く命を考えていました。
ただその死んでしまえや、死んだら楽になるのか、と考えながらも自分自身は死にたくないし家族に不幸になってほしくもない、ましてや死んでほしくありませんが、ワガママと結果どうなるのかが分からない知恵のなさも思い出されます。
経験ということからは友人の親の死や同級生の死でもありました。もう動かない人を直に見て、いつか来る自分の死、誰もがいつか死ぬことを現実として知ったことです。好きこのんで死にたいわけでもないけどタイムリミットは必ずある、人間には限界があると自然に知らされました。
お寺も観光などで見に行ったり大仏に驚いたりなんとなく宗教もしお宮で手を叩いてお願い事したり、クリスマスやお祭りや盆踊りで楽しみながら、よくある無宗教の宗教であり、人間誰しも死ぬ死生観でもありました。
法座に通うことや真宗聖典や七祖編を知る由もなく、縁あってなんとなく神や仏をいるものと想い、大人になる理屈や人生経験で忙しくなる前に浄土真宗の御縁に恵まれました。
宗教心や死生観は変わるものの、いつも大人になりきれず小人のままですが、辞書には仏を大人といい私たちを小人というと知り、智慧と慈悲により厳しく優しく育まれ知らされていくこともあるのかなとも思いました。