教学と信心と自惚れ

教学を学ぶことは推奨されます。
しかし信心をいただくことが浄土真宗では大切と言われます。
それは学ぶのは何を学んでいるのかが大切なのであって、教学で自己を存続し拡張していくのは目的ではないからです。

教行信証が浄土真宗の根本聖典ですが正信偈と和讃に書かれていて、親鸞聖人は何をお伝えになられたかったのかが分かります。

その推奨が蓮如上人の御文章です。昔は御門徒さんのお家からお勤めの声の後でご飯をいただく音が聞こえたそうです。

お念仏しいただくご飯が毎日だったようです。

なんのために生きるのかというより、往生浄土即成仏の御声をいただく毎日だったそうです。

いまはなんの声を聞いている毎日でしょう。

自分が偉くなって生き抜きたいのは山々ですが後始末せずに死んでいきそうです。

それでも阿弥陀様は何とおっしゃってるでしょう。

声につきて決定往生のおもいをなせ、と法然聖人はおっしゃられます。

人が何か違うような事を言うとなんとなく違和感や、はっきりと根拠が浮かぶときがあります。違うなと。

それは学ばせていただいたからで自分で誰かより偉くなりたかったころもあったのに、そのような気持ちより何が大切かも先人が教えてくれます。

教学を握るか、教学を灯火とするか。

信心は知識ではない。
教学は棍棒ではない。

後生助けると収めとって捨てないご本願をお聞きする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?