航海士 感想その二
航海士のお話でもう一つ思ったのが、自分の主張や意見は絶対で経験則からこうすべきだ、ということでも危ういことがある、ということでした。
ぱっと思い浮かんだのはガリレオ・ガリレイです。「それでも地球は回っている」で有名な天文学者です。ある人はガリガリ先生と言っていました。
そのガリレオですが、地動説か天動説かでの教会との衝突で、異端審問で裁かれ地球は回っておらず全ての中心は天の神が創った大地で星や月や太陽が回っていると言わされました。しかし裁判所退室時に先の言葉を発したそうです。
強大な権力に立ち向かう度胸は凄いと思います。当時のキリスト教の教義からは受け入れられず、救済と統治に支障が出ると思うのではないかと私は思っていしまいますが、本当に天動説と思っていたかもしれないとも思ったのです。
それは航海士は海の上では、空、月や星、太陽が動いているのではなく、地球が回っていると実感するそうですが、地上に戻ったら太陽が東から登って西に沈むと地球、大地や自分中心になるという。
面白いなと思ったのは、キリスト教の捌いた側は、地上にいたのではないか、自分の習った場所で、吸収した思想で考えるので、実際や自分の外や未知の世界を知らなかったからではないかと思いました。
素晴らしい神様の統治を貶すのか、民衆を惑わすのか、教会の意見に従わないのか、などなども思いました。
現実、現在の教団、様々な宗教の教団がありますが、どこにも綺麗一点の教団なんてないのはもう分かっております。既成仏教教団が非難されてあたかもきれいな教団があるかのように、きれいな教団に属しさえいれば、お布施は救済の交通費かのように、指導者に何でもハイと従うことが救済に近づくかのようにする教団が、宗教がちらほらあります。
仏教はお釈迦様、浄土教は阿弥陀様と従わさせていただくので、文句自体は一緒のようで人権や救済とは違うドグマに放り込むかのように感じる教団とは違うはずです。
ただ親鸞聖人は、さるべき業縁もよおせばいかなる振る舞いをすべし、と言われ、強烈な環境や自分の状態次第ではどうするか、可能性を考えるとやらないとは思いますが、絶対かと言われると全くのゼロと言い切りにくいかもしれません。
言うことやること思うことで人生が編んでいかれますが、教団が伝えることを通して信仰しますけれども、自分と教団と救済と重なるところと重ならないところが出てくるのではないかと思いました。