見出し画像

【6】「あずさ5号」の運転台

【写真】裏辺研究所 Railstation.net

 南武線での失敗から半年余りが過ぎ、1981(昭和56)年の夏、小学4年生の夏休みがやって来た。

 毎年夏休みには、家族で長野県黒姫へ「帰省」していた。黒姫が故郷というわけではない。大学教授を務めていた祖母が夏には大学関連の施設にいて、よく家族や親戚で遊びに行っていた。まだ北陸新幹線も上信越自動車道もない時代だ。信越本線黒姫駅まで、急行「妙高」か特急「あさま」に乗っていくのが恒例だった。

 7月、その黒姫へ、一人で行く計画を立てた。それも、いつものように信越本線の列車で行くのはつまらない。あえて遠回りをして、中央本線の「あずさ」と、篠ノ井線の急行「赤倉」を乗り継ぎたい。

 子供だけでの黒姫行きは、実は前年に一度経験していた。小学5年生だった姉と、上野駅から急行「妙高9号」のA寝台に乗ったのだ。生まれて初めて乗った寝台車は、ブルートレインよりも一世代古い旧型軽量客車のナロネ10。今なら大興奮するところだが、その頃は「これはブルートレインじゃない」と冷静だった。明け方、長野駅停車中に、持参したビスケットを音を立てないように食べたのを覚えている。上野駅までは親が見送りに来て、翌朝6時の黒姫駅には、祖母が迎えに来た。

 そんな経験があったので、黒姫までの一人旅に不安はなかった。松本駅での乗り換えくらい、難しいことはない。こちらは前年11月以来、あちこちに一人で出かけているのだ。

 7月31日、新宿駅から、9時発の特急「あずさ5号」に乗車した。一人で特急・急行を乗り継いで、320km先の長野まで行くのはさすがに初めて。新宿駅に見送りに来た母親は、白い盛夏服を着た車掌長を見つけて「小学4年生の息子が何号車何番に一人で乗りますので、よろしく」と挨拶したようだ。後から聞いたところでは、手土産として煙草を1カートン渡し、車掌長も喜んで受け取ったというから、時代である。

 車内でも、一人で乗車している小学生は注目の的だった。新宿駅を発車した直後から、隣の席はもちろん、あちこちの大人から声がかかった。この頃には、見知らぬ大人と話すのにもかなり慣れていて、チャレンジ20000kmのこと、この旅のルートなどを得々と喋った。小学1年生くらいまでは、すぐに親の後ろに隠れるような人見知りをする子供だったから、鉄道趣味を通じて成長したのだ。

 9時42分、八王子駅を発車したあたりで、車掌長が検札に来た。真っ白な盛夏服を着たエル特急の車掌長は、鉄道少年の憧れだ。「東京都区内から中央東、塩尻、篠ノ井、信越経由 黒姫」と書かれた乗車券と指定席特急券を改めた車掌長は、こっそり耳打ちした。

「大月駅を発車してしばらくしたら、一番後ろの乗務員室にいらっしゃい」

 大月駅発車は、10時16分。新宿駅から1時間あまりがたち、周囲の乗客ともすっかり打ち解けていたが、車掌長に「乗務員室においで」と言われた以上、行かなくてはならない。後ろ髪を引かれる思いだったが、「車掌さんに呼ばれているので、行ってきます」と言って、最後尾の1号車に向かった。

 乗務員室、というか、そこは運転室である。少し緊張しながらノックすると、扉が開いた。

「よく来たね。さあ入りなさい」

 初めて踏み入れる、電車の運転室。乗務員扉からさらに階段を登って、展望台のように見晴らしのよい運転席に立った。

「ここにある機械に、絶対に手を触れないとおじさんと約束できるかい。できるなら、塩尻駅を過ぎるまでここにいていいよ」

 夢のような話だった。車掌長は新宿駅で「子供が一人で乗りますからよろしく」と煙草を渡され、考えたに違いない。後部運転台に乗せておけば、悪い人に声をかけられたり、途中駅で間違って降りてしまったりすることはない。車内放送などの車掌業務は7号車グリーン車の乗務員室で行うから、業務の邪魔にもならず、先頭車で運転士がマスコンを握っている限り、機器が勝手に操作される恐れもほぼない。つまり、ここに居させるのが一番安全なのだ。

 こうして、189系の運転台への便乗が認められた。車掌長は業務のためにたびたびいなくなったが、もちろん勝手に機器類を触るようなことはしない。マスターコントローラー、ブレーキハンドルなど、電車大百科でしか見たことのないメカを、しげしげと眺めては感動するだけだ。

 「あずさ5号」は、上諏訪駅を11時57分に発車すると、終点・松本駅までノンストップだ。現在は岡谷から塩嶺トンネルに入って塩尻へ直行するが、この頃はまだ「大八まわり」と呼ばれる辰野経由のルートを通っていた。

 周囲の景色が山深くなる頃、リュックサックから黒いプラスチック下敷きを取り出した。実はこの日、1981年7月31日は、部分日食の日だった。太陽が欠け始めるのは、11時50分頃。辰野駅を通過した列車は塩尻に向けて進路を北にとり、最後尾の運転台は南を向く。運転台の窓から、日食が始まった太陽を観測できた。ちょうど、専務車掌と一緒に戻ってきた車掌長も、「へえ、君は天体にも興味があるのか」と、下敷きを覗き込んだ。189系の運転台から、車掌さんたちと一緒に観測した部分日食は、一生の思い出である。

 1982(昭和57)年度の移転に向けて準備が進む塩尻駅を通過すると、夢の時間はお開きとなり、車掌長に礼を言って自席に戻った。さすがに、松本駅到着時に子供が運転席にいてはまずいだろう。客席に戻ると、多くの乗客が入れ替わっていて、大月駅まで一緒だった人たちはほとんど残っていなかった。

 松本駅12時46分到着。家に電話を入れて、13時13分発の急行「赤倉」に乗り換えた。日本三大車窓の姨捨を通り、篠ノ井駅から信越本線にはいると、あとは毎年おなじみの車窓風景。と言うより、「あずさ」のインパクトが強烈すぎて、「赤倉」の記憶はほとんどない。15時18分、黒姫駅に到着すると、約束通り祖母が迎えに来ていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?