名もなき人 名もなき花
名前のない花はないという。
路傍の花、可憐な花、奥ゆかしく楚々として咲いている。
名前は何と言うのだろう。
写真を撮って調べてみる。
そんな風に気になる人もいるだろう。
そうして名前がわかったら、さっきまで、ただの道端に咲いている名もなき花から、途端に親近感を感じはじめるかもしれない。
名前がわかる、名前がつくというのは、それだけの力があるのだろう。
名前のない人はいないという。
でも実際には、名前のない人、名もなき人は、ごまんといる。
いや、何億何十億人もいる。
名前はついている。ただ、自分が知らないだけだ。
不思議なことではない。
当たり前のことを言っているに過ぎない。
知らないこととはいえ、名前がわからないから、路傍の人、縁もゆかりもない人になる。
そんな人が、この世界のほぼ全てなのだろう。
名前がわかると途端に関係性が生起される。
それがどんなにか細い関係性であっても。
と、ここでストックホルム症候群やリマ症候群を思い出した。
名前は、心理的な繋がりを生み出す。
人を助ける時、名前を呼ぶのと呼ばないのでは生存率も異なるそうだ。
世間には、時々、相手の名前を呼ばない人がいる。
時々、メッセージに相手の名前を書かない人がいる。
なんとなく、そこに違和感を感じるのは、その人物の、自分に対する心理的な壁なのかもしれない。
たとえそれが仮初めの名前だとしても、自分でつけた名前を呼ばれない、書かれないのは、一抹の寂しさを感じるのかもしれない。
と、こう書くと、脊髄反射のように、名前を呼んでほしいのか?と反応する人がいる。
だったら名前を呼んで欲しい人物になったら?と曰う人もいる。
お粗末様。たとえそれが光速の反応だとしても、時既に遅し、なのだ。
最初からそうでないと、取り返しがつかない。
人の印象、特に第一印象がそのように形作られてしまったのだから。
名前は固有名詞という。
つまり、その人その物固有の名前ということだ。
固有とは、何かと区別し、特定するためのもの。
区別されない、特定されないことを喜ぶ人なら、それでも良いのだろう。
たとえば、匿名でいたい人のように。
うむ。
僕は振り返った。
また伯父さん?
またとはなんだまたとは。
二日連続だよ?暇なの?
暇とはなんだ暇とは。可愛い甥の顔を見にきちゃいかんのか?
嬉しいけど。
けどとはなんだけどとは。
嬉しいよ。
そうだろう。
読んだの?
読んだ。
隠れて読むのはやめてくれないかな?
隠れて読むことに醍醐味がある。
わかるよ。いや、わかるけどやめてよ。
考えておく。
さっき、うむとか言ってなかった?
うむ。
そうそう、そんな感じ。
当たり前のことを書いておったからな。頷いたまでのことだ。
偏ってると思ってるよ、自分では。
そうなのか?
だって、最初から名前を呼ぶのは恥ずかしい、失礼かも、と思う人もいるでしょ?
いるだろうな。
そういう人からすれば、極論で偏狭な意見と思うんじゃないの?
そうだろうな。
だったら、当たり前のことじゃないんじゃないの?
お前は勘違いをしておる。
勘違い?
当たり前とは、自然や普遍とイコールではない。
まあ、それはそうだね。
当たり前とは価値観だ。価値観とは、時代や社会などで変化するものだ。
うん。
だから、その狭い価値形態、いわばコップの思想の中で当たり前のことを書いていることを理解した上で、当たり前だと言っておる。
狭いよね、たかが僕の中での当たり前だから。
うむ、その通りだ。言い換えれば、それはエゴだな。
うん、わかってるよ。
エゴとエゴの接触がコミュニケーションというらしいな、お前たちの世界では。
まあね。
軋轢や葛藤、反撥だらけだろうな。
まあね。
よしよし。コキュートスが繁盛するわけだ。
やめてよ、その笑い顔は。
名前ごときでいちいち考えるのは、実に人間らしい。
上から目線だね。
目上の者の特権だ。
嫌われるよ?
実に心地良い。
嫌われるのが仕事だもんね。
その通り。
まあ、僕もその眷属なんだよね。
その通りだ。
あと少ししたら、お前もこちら側に来る。
コキュートスじゃなくて?
ああ、そうだったな。そこに連れて行く。
わかってるよ。ただ、名前は大事にしたいんだよね。ただ、それだけなんだ。
いじらしいな、実に。
その、しみじみとした言い方やめてよ。
あの方は名前を呼ばれたくない。
またその話?
これで終わりだ。
伯父さんは消えた。
二日連続。
置き手紙を開いた。
はじめに言葉ありき
と書いてあった。
言葉とは名前のことなのだろう。
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