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雨の日の水溜りで遊んだのはいつの頃だろう【5】

僕は、井の頭通りの、だらだらとした坂道を登っていた。

坂の途中から、前方にモスクの玉ねぎのような形をした塔が見えてきた。

一度だけ、あの寺院に入ったことがあった。ご自由にお入りくださいと書いてあったから、何の気無しに入った。奥から、白いガウンのような服を着た外国人が現れて、話しかけられた。そのうち入信を勧められたが、丁重にお断りして外に出た。
夏の暑い日の昼下がりだった。

僕は公衆電話ボックスを見つけると中に入って、葉子の家に電話をかけた。

呼び出し音が続いていた。しばらくして受話器を置いた。

僕は部屋に戻ることにした。

ジャケットの胸ポケットには写真が入っていて、歩調に合わせて、生地が触れてかさかさと動いているようだった。

マンションの部屋の前に、葉子が立っていた。手にバスケットを持っていた。

葉子は僕を見つけると、軽く手を振ってきた。

「ごきげんよう」

「こんにちは。どうしたのですか?」

「一緒にお昼食べようと思って」

「そうでしたか。嬉しいな。でも、ごめんなさい。待たせてしまいましたね」

「ううん。私が勝手に押しかけただけですわ」

「ちょっと図書館に行ってたんです」

「お休みの日はそうすることが多いって仰ってましたわね。だから、もう少ししたら、私も図書館に行ってみようかしらって思ってましたのよ」

「そうでしたか。どうぞ、お入りください」

僕はドアを開けて葉子を招き入れた。

「お邪魔します」

葉子は靴を脱いで揃えると、僕が出したスリッパを履いて中に入った。

「とても綺麗になさってるのね」

「何もないだけです」

「あら、そんなことありませんよ。必要にして十分な感じですわ」

「どうぞ」僕は椅子を勧めた。

「ありがとうございます」葉子は椅子に軽く腰をかけた。

僕も椅子を引いて座った。

「会いたいと思っていたんです」僕は2回電話をかけたことを話した。

「嬉しい。そんなことってあるんですね。私も会いたくなって来ましたのよ。以心伝心ですわね」葉子はにこにこと微笑んだ。

「僕も嬉しいです」

僕の人生に、会いたいと思ってくれた人が、そうして、その言葉を言ってくれた人が、今までどれだけいたのだろう、と思った。
泣きそうになった。慌てて立ち上がってキッチンに行った。

「お茶でも淹れましょう」

「コーヒーを持って来ましたの。ご一緒にいかがですか?」葉子は魔法瓶の水筒をバスケットから取り出した。

「わざわざ…重かったでしょう…」

「こう見えて力持ちなんですのよ。お気遣いくださって嬉しいですわ」葉子は微笑んだ。そう言って、手際良くコーヒーをカップにふたつ、注いだ。

「慣れてますでしょ」

「本当に」

「職業病ですわ」葉子はくすくす笑った「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」僕はコーヒーを一口飲んだ。

「ブラックがお好きだと仰っていたから」

「美味しいです。ありがとうございます」

「私も真似してみますわね」葉子もカップに口をつけて飲んだ。その仕草は流れるようで、節目がちになった葉子のまつ毛がくるんとカーブしている様が良くわかった。

「初めてですのよ、ブラックって」

「そうでしたか」

「でも、いつか飲んでみようって」

「そうだったんですね」

「今日がその日だったんですわ」

「そうなりましたね」

「図書館では本をお借りになりましたの?」

「いえ、何も」

「何かお読みになりましたの?」

「いえ、何も」

「面白い方」葉子はくすくす笑った。

「これを」僕は胸ポケットから写真を取り出して葉子に見せた。

「この写真に写っている街並みを知っている人はいないか、尋ねに行ったんです」

「図書館に?」

「はい」

「それで、どうでしたの?」

「司書の方の知り合いに、ひとり、いらっしゃるそうです」

「まあ、それは何よりでしたわね。良かったですわ」

「ええ、僕も、尋ねた甲斐がありました」

「どんな方ですの?」

「司書がですか?それとも、知っているという人ですか?」

「あら、尋ね方がよろしくなかったですわね。えっと、その、知っているという人ですわ」

「国土地理院に勤めている人で、全国知らない場所はないと言われているそうです。奇人だそうです」

「奇人?」

「ええ」

「面白そうですわね」

「はい」

「この写真の女性…とても綺麗な方。でも、憂いが感じられますわね」

「僕も同じように感じています」

「カメラは見てない感じですわ」

「そうですね」

「誰かを見ているみたいですわ」

「なるほど」

誰かを見ているみたいとは思わなかった。新しい視点だった。

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