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スペインの初期ピアノとアルベロのソナタ(194)

Bartolomeo Cristofori, 1720.
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/501788

フィレンツェのバルトロメオ・クリストフォリ(1655-1731)の発明したピアノは、当時イタリアではほとんど普及しなかったようです。もしイタリアでピアノがたちまち大流行していたら、今この楽器はイタリアでの通称であった「マルテレッティ」と呼ばれていることでしょう。

Lodovico Giustini, Sonate da cimbalo di piano e forte detto volgarmente di martelletti, 1732.

一方ドイツやフランスではジルバーマン一族によってクリストフォリのピアノのコピー品が製造されましたが、極めて複雑で高価なため、次世代鍵盤楽器の主流とはなりませんでした。その後のピアノの歴史はクリストフォリのピアノに比べれば惨めなほどに原始的であった「鍵盤式パンタレオン」をルーツに発展していくことになります。

Gottfried Silbermann, 1746.
https://g.co/arts/Gn4zw6smuPim1ttR7

時にドメニコ・スカルラッティのパトロンであるところのスペイン王妃バルバラ・デ・ブラガンサ(1711-1758)は、多数の「ピアノ clavicordio de piano」を所有していたことが知られています。彼女の資産目録には5台のピアノが記載されています。

Bárbara de Braganza, reina de España (Jean Ranc, c. 1729)
  1. フィレンツェのピアノ一台。内は全てサイプレス。パロサント色の黒ポプラのケース。鍵盤はツゲと黒壇で56鍵。スタンドはブナ材の挽き物。

  2. もう一台の元はフィレンツェのピアノであった羽軸によるチェンバロ。内はサイプレス。外は緑に塗装。鍵盤は黒檀と骨で56鍵。スタンドはブナ材の挽き物。

  3. もう一台の緑に塗装された同種の楽器。これも元はフィレンツェのピアノだが現在は羽軸のチェンバロ。鍵盤は黒壇と骨で50鍵。スタンドはブナ材の挽き物。

  4. フィレンツェのピアノ一台。サイプレス材で赤く塗られている。鍵盤はツゲと黒壇で49鍵。スタンドはブナ材の挽き物。アランフェスに所在。

  5. もう一台のピアノ。サイプレス材で緑に塗られている。鍵盤はツゲと黒壇で54鍵。スタンドはブナ材の挽き物。サン・ロレンツォの離宮に所在。

これらの「フィレンツェのピアノ」はクリストフォリか弟子のジョヴァンニ・フェリーニの楽器に違いありません。そのうち一台は後にファリネッリが譲り受けてボローニャに持ち帰り「ウルビーノのラファエル」という銘を与えられることになります。

彼の一番のお気に入りは、1730年にフィレンツェで作られたピアノフォルテで、金文字で「Rafael d'Urbino」と書かれていた。彼は「ラファエル」でかなりの時間、すぐれた判断とデリカシーをもって演奏し、そしていくつものエレガントな小品をその楽器のために作曲していた。

Charles Burney, The Present State of Music in France and Italy, 1771.

しかし驚くべきことは5台の内2台がチェンバロに改造されてしまっているということです。当時クリストフォリのピアノは最高級のチェンバロの5倍の価格であったというのですから、これは非常にもったいない話。おそらくピアノに精通した技術者が当地にいなかったために整備不良で演奏不能となり、致し方なく普通のチェンバロの機構を組み込んでとりあえず鳴るようにしたものではないかと思われます。つまり当時ピアノを嗜むには楽器だけ入手しても駄目でメンテナンスできる専門の職人も必要ということ。

スカルラッティの時代のマドリッドのピアノ職人は知られていませんが、セビリアのチェンバロ職人フランシスコ・ペレス・デ・ミラバル(1698-after 1773)によるものとされるクリストフォリ式のピアノが2台が現存しています。ちなみにバルバラ王妃とスカルラッティはマドリッドに移る前、1729年から1733年までセビリアに居たので、おそらくその際にミラバルは王妃所有のクリストフォリのピアノに接したのではないかと考えられます。

Francisco Pérez de Mirabal, 1745. Collection of the late Bartolomé March, Madrid.
https://miguelmorateorganologia.wordpress.com/wp-content/uploads/2016/04/ima-5-1234.jpg
https://miguelmorateorganologia.wordpress.com/wp-content/uploads/2016/04/ima-5-1235.jpg
Francisco Pérez de Mirabal, c.1750. Museo de Bellas Artes, Plaza de Museo, Seville.
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fortepiano-Fine_Arts_Museum_of_Seville.jpg
© 2012 Tirithel, CC BY-SA 3.0.

この2台のピアノのアクションは紛れもないクリストフォリ式なのですが、ケースはドイツ風のS字型ベントサイドで、むしろジルバーマンのピアノに似ています。なのでクリストフォリを写したのではなく、クリストフォリのコピーであるジルバーマンのコピーなのではないかとも見えますが、製作年代や構造の相違点などを考えるとその線は薄いでしょう。イベリア半島はハンブルクとの交易上の繋がりが強く、スペインでは意外とドイツ風のチェンバロが見られるのです。

2台の楽器はほぼ同一の設計で、マドリッドのものが音域 GG-d3、セビリアのものが GG-g3。レストプランクは非反転式で、ハンマーはシリンダーヘッド。明確にクリストフォリと異なる点は1音に2弦ではなく3弦が張られていることで、しかも追加された1本には専用のナットがあって弦長が異なり、さらにバフストップのようなダンプ機構が備わっているのですが、どういう意図のものなのかはよくわかっていません。

しかしやはりスペインでもクリストフォリ式のピアノの普及は限定的だったようで、ミラバルの後継者のフアン・デル・マルモルはイギリス式のスクエア・ピアノを作っています。


セバスティアン・デ・アルベロ Sebastián Ramón de Albero Añanos (1722-1756) は、フランスと国境を接するナバラ州ロンカルに生まれ、1746年9月24日に24歳でマドリッドの王室礼拝堂の主オルガニストに任命されました。アントニオ・ソレールの7歳年上である彼もまたドメニコ・スカルラッティと直接の関係があったことはまず間違いありませんが、彼は1756年3月30日にスカルラッティよりも一足先に早逝してしまいます。

アルベロの作品は2冊の手稿本によって伝わっています。1つはマドリッド王立音楽院図書館所蔵の『Obras Para Clavicordio O Piano Forte』。この曲集の作品には別に強弱の指示などはなく、"O Piano Forte" の文字は後から書き加えられたようにも見えますが、ともかくスペインにおけるピアノを対象にした最初期の曲集には違いありません。

ちなみにスペイン語の "clavicordio" は弦による鍵盤楽器全般を指しますが、クラヴィコードよりは主にチェンバロのことです(クラヴィコードは manicordio)。

Biblioteca del Real Conservatorio Superior de Música de Madrid (E-Mc): 4/1727(2)
https://imslp.org/wiki/Obras_para_clavicordio_o_piano_forte_(Albero%2C_Sebasti%C3%A1n)

フェルナンド6世に献呈されたこの曲集は、同一主調の「レセルカータ+フーガ+ソナタ」というセット6組からなっています。

スペインのレセルカータ Recercata は古い語義を保っていて、トッカータのような即興的な前奏曲を指しますが、アルベロのレセルカータは「At libitium」という指示と共に小節線なしに音が散らされたもので、なんとこれはフランスの「プレリュード・ノン・ムジュレ」そのものです。

内容もまさしくルイ・クープランやルベーグのプレリュードを思わせる古雅で幻想的な小品ですが、しかし確かにフランスの作品とは異なるスペイン風の趣が独特の魅力を与えています。これらのレセルカータはこの時代の最も注目すべき鍵盤音楽作品の1つに数えられるでしょう。

一方でフーガは長ったらしいだけであまり面白いものではありませんね。

ソナタはスカルラッティ流の単一楽章、二部形式で、作風もスカルラッティの影響が明白です。スカルラッティ風の過激なアチャカトゥーラも随所に見られますが、これがピアノでうまく鳴るかというとちょっと疑問ですけど。

しかしアルベロのソナタについてはもう一冊の曲集のほうがメインと言えます。

Biblioteca Nazionale Marciana, Venice (I-Vnm): Mss.It.IV.197b
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/324870

スカルラッティの『ヴェネツィア写本』と同じく、ヴェネツィアのマルチャーナ国立図書館所蔵のこの曲集は、体裁もよく似ていて、30曲のソナタがだいたい同主調のペアの形で収録されています(ただし15,16,17番は三つ組で、30番は単独)。この曲集も『ヴェネツィア写本』と同じくバルバラ王妃のために書かれたものだったのかもしれません。

アルベロのこの曲集のソナタも、やはり非常にスカルラッティに近い作風を示しますが、アンフェタミンを常用しているかのようなスカルラッティや、脳天気なソレール神父と違い、アルベロのソナタには憂愁が感じられます。それを如実に示すのが緩徐曲の多さで、30曲中11曲は Andante や Adagio です。ちなみにスカルラッティの遅いソナタは555曲中100曲もありません。

これらのアルベロのメランコリックなソナタは、強弱の指示などはなくとも、クリストフォリのピアノで奏するのに最も相応しい作品のように思われます。

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