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《猫のフーガ》について(163)

このフーガの主題のフラットやシャープで不用意な隣接音を避けられたのは機敏で精確な猫に限られると言えるだろう、あるいは子猫かもしれない。

Ralph Kirkpatrick, Domenico Scarlatti, 1953.

ドメニコ・スカルラッティの『Essercizi per gravicembalo』(1738)の最後を飾るソナタ K. 30 は、ほとんど黒鍵ばかりを使った奇矯な主題のフーガで、《猫のフーガ》として知られています。

Essercizi per gravicembalo, 1738.
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/461758

ベルリン州立図書館所蔵の「疑わしい自筆譜」とされる、このフーガの手稿は、ペダルの指示などが見られるためオルガン用の楽譜であるようです。確かに終盤のオルゲルプンクトなどを鑑みれば、本質的にオルガン向きの曲ではあります。

Staatsbibliothek zu Berlin, Mus.ms. 19683/2
http://resolver.staatsbibliothek-berlin.de/SBB0002346300000000

この曲を《猫のフーガ》と誰が最初に呼んだのかは分かりませんが、現存最古の例は、ムツィオ・クレメンティの『Selection of Practical Harmony』(1802)です。

「有名な猫のフーガ(the celebrated CAT'S FUGUE)」とあることから、この時点で既に広く知られた通称であったようです。

Muzio Clementi, Selection of Practical Harmony, Vol. 2, 1802.
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/714393

初の本格的な全集出版となるカール・ツェルニー編集の《ドメニコ・スカルラッティ:ピアノフォルテ作品全集》(1838)でも "Die Katzen_Fuge" とされています。

Sämmtliche Werke für das Pianoforte von Dominic Scarlatti, ed. Carl Czerny, 1838.
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/244865

《猫のフーガ》は、フランツ・リストが好んで演奏会に取り上げたこともあり、19世紀においては最も知られたスカルラッティ作品になりました。ちっともスカルラッティらしい曲ではないのですけれどね。

Domenico Scarlatti's celebrated Cats-Fugue. Newly arranged with an introduction by William Hutchins Callcott, 1871.

そもそも何故この曲が《猫のフーガ》と呼ばれるようになったのかという由来について、私の見つけられた最古のものは、Charles Child Spencer『A Rudimentary and Practical Treatise on Music』(1850)の記述です。

Charles Child Spencer, A Rudimentary and Practical Treatise on Music Vol. 2, 1850.
https://www.google.co.jp/books/edition/_/cWQU7dD3BHcC

しかし、より軽い種類の楽曲では、例えばドメニコ・スカルラッティの有名な「猫のフーガ」のように、極めて奇妙な主題も見られる。この主題は彼の飼い猫がハープシコードの鍵盤を歩いた際に生み出されたと言われており、以下に示すようなものだ:

これは考えられる限りで最も非旋律的な代物だが、スカルラッティはこれで非常に素晴らしいフーガを作り上げている。

Carl Reichert, Katzen-Fuge, 1870.

この伝説は現在まで果てしなく再話されているわけですが、このスカルラッティの猫について、どういうわけか名前を「プルチネッラ」とするものをしばしば見かけるのです。

Nathaniel Lachenmeyer, Carlyn Beccia, Scarlatti's Cat, 2014.
https://books.google.co.jp/books?id=R31XBAAAQBAJ

起源を調べてみたのですが、1996年出版の Desmond Morris『Cat world』という本より遡ることが出来ませんでした。

Desmond Morris, Cat world : a feline encyclopedia, 1996.
https://archive.org/details/catworldfelineen0000morr_b0h8/
p. 347

プルチネッラ
飼い猫。プルチネッラはイタリアの作曲家ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)が飼っていた猫の名前である。プルチネッラは、この作曲家のハープシコードの鍵盤に跳び乗り、キーの上を上下に歩き回る習性によって格別の名声を残している。あるとき、これがスカルラッティに霊感をもたらし、とあるフーガ(フーガ ト短調 L499)を作曲させたのだ。この曲は一般に「猫のフーガ」として知られている。スカルラッティはこの共同作業について以下のようなコメントを残した。
「私の猫は……よく鍵盤の上を歩いて、端から端まで昇ったり降ったりしていた。時々、彼は一つの音の上に留まることもあり、振動が収まるまでじっと耳を傾けていた。ある晩、私が肘掛け椅子でうたた寝していると、ハープシコードの音で目が覚めた。私の猫が音楽散歩を始めていて、彼は本当に旋律的なフレーズを紡ぎ出していたのだ。私は紙を取り、彼の作品を採譜した」

寡聞にして私はスカルラッティがこんなことを書いたものを知りません。

Salvatore Fergola, Partenza di Pulcinella per la luna, 1835.

追記

もう少しだけ遡ることが出来ました。

Robert De Laroche, Jean-Michel Labat, The secret life of cats, 1995.
https://archive.org/details/secretlifeofcats00laro/
p. 106

フランス語の原著 "Histoire secrète du chat" は1993年出版。


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