ジローラモ・ゼンティの遍歴と楽器:イタリアのチェンバロについて6(171)
17世紀イタリアで最も有名だったチェンバロ製作者がジローラモ・ゼンティ(c.1606-c.1667)です。ゼンティの工房はローマにありましたが、彼は広く諸外国の宮廷を渡り歩き、国際的な名声を博していました。
ゼンティはローマ北西のヴィテルボの出身で、彼の父の姉エリザベッタは、ローマのチェンバロ職人のジョヴァンニ・バッティスタ・ボニと結婚しており、おそらくゼンティは伯父であるボニの元で仕事を学んだのでしょう。ボニは教皇ウルバヌス8世を初めとするバルベリーニ家のお抱えで、そのことが後のゼンティの出世を約束しました。
ブリュッセル楽器博物館の1619年製のボニのチェンバロはナポリの影響が明らかです。
1x8’, C/E–c3 という仕様は非常に保守的ながら、D#/E♭とG#/A♭の黒鍵が分割されたエンハーモニック鍵盤となっており、また最低音域もブロークン・オクターヴです。
ミーントーン全盛期には、こういったタイプの楽器も結構作られていたのですが、後に多くは先述のグアラチーノのチェンバロのように、普通の鍵盤に改修されてしまいました。
現存するゼンティ作を称する楽器には偽作の疑いが強いものが多く、たしかに真作だといえるものは僅かしかありません。おまけにその一つはフランチョリーニによって「クリストフォリの三段鍵盤チェンバロ」として原型を留めない有様にされてしまっていますし。
ゼンティは正しく創意に溢れた技術者であったようで、文献でのみ知られる楽器も含めて彼の作品は多様性に富んでおり、そのことが真贋の判定を更に困難なものにしています。
ゼンティの作とされる楽器の中で、最も早いものでは1622年製というチェンバロがありますが(最低音のキーとジャックに "G.Z. 1622" )、流石にこれは眉唾ものでしょう、そのときゼンティはせいぜい13歳だったはずです。
ゼンティの作品であることが確実とされる最古の楽器は、例のベントサイド・スピネットです。
これは現存最古のベントサイド・スピネットであり、この独特の形式はゼンティの発明によるものと考えられています。1x8'、インナー・アウター型で、響板と側板はサイプレス。
ベントサイド・スピネットは後にイギリスを中心に大いに普及することになるのですが、その辺りについては以前に。
しかし、実はこのスピネットは詐欺師フランチョリーニが関与した可能性が高い代物なのです。
この楽器のネームボードには "Laudate Eum In Cordis, et Organo per semper Secula" と、詩篇150(「緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ」)をもじった銘文が書かれていますが、この手の怪しげなラテン語を書き加えて素人を騙すのはフランチョリーニの典型的なやり口です。さらにフランチョリーニのカタログには、同じ文がついているという1633年ゼンティ作と称するチェンバロが載っているのです(その楽器は現在行方不明)。
そのためこの楽器の信憑性は非常に怪しくなってくるのですが、ネームボード裏の "Hieronimus de Zentis Viterbiensis faciebat 1637" という署名は本物らしく、また楽器構造自体には改造された形跡が見られないため、一般にゼンティの真作であると認められています。
1641年にボニが亡くなると、ゼンティはボニの後継としてバルベリーニ家に仕え、ウルバヌス8世の楽器コレクションの管理者にも任命されます。
1652年には、彼はアルブリチ一家や、ギター奏者のアンジェロ・ミケーレ・バルトロッティなどの音楽家の一団と共に、スウェーデン女王クリスティーナによってストックホルムに招聘されました。
しかし、間もなくクリスティーナは1654年に退位し、それに伴ってゼンティもローマに帰ってきたようです。1656年には彼は再びローマで活動しています。
もっとも、その頃にはクリスティーナのほうが逆にローマにやって来ているのですが、さすがに男装の元女王と道中を共にしたというのは考えにくいでしょう。
例のメディチ家の1700年の楽器目録には六つのゼンティ作の楽器が記載されていますが(チェンバロ3、スピネット3)、その中には "Hyeronimus de Zentis Romanus faciebat in Civitate Holmiae anno Domini 1653" という銘を持つというチェンバロがあります。
Holmiae = Stockholm で、これはストックホルムでゼンティが製作した楽器と考えられます。おそらくクリスティーネと一緒にイタリアにやってきたものでしょう、他にわざわざスウェーデンからイタリアにチェンバロを持ってくる物好きが居るとも思えません。
この楽器は「取り外しできないケース」で、二つのユニゾンに加え「tiorbino」のレジスターを持つと記録されています。
時にライプツィヒのグラッシ楽器博物館には "GIROLAMO ZENTI DI OLMIA A: 1683" という銘のチェンバロがあります。
OLMIA = Holmiae ですが、1683年ではゼンティはとっくに死んでいるので論外です。1653年の誤記と無理やり考えても、その他の特徴がメディチ家の目録とは全く一致しません。それに署名するならジローラモではなくヒエロニムスでしょう、どう見てもこの銘は偽物です。実際にはこのチェンバロは、フィレンツェのパスクィーニ・クエルチが1625年頃に製作した楽器だと考えられています。
このメトロポリタン美術館所蔵のチェンバロは、厚い単一のケースで、2×8'、C/E–f3、度重なる改造を経ているものの、現在演奏可能な状態にある貴重な楽器です。ジャックレールに "HIERONYMVS DE ZENTIS VITERBIENSIS F ROMAE ANNO DOM MDCLVIII" とあり、つまり1658年にゼンティが製作したチェンバロということですが、なぜか最低音のキーの方には "HIERONIMVS DE ZENTIS FECIT ANNO 1647" と書かれています。
メディチ家の目録から、ゼンティが「取り外しできないケース」のチェンバロも作っていたことは知られますし、ケースや蓋の絵は18世紀のものとみられますが、後から装飾を加えるのは良くあることです。
とはいえ、やはり怪しい署名だけが根拠では、ゼンティへの帰属は甚だ疑わしいと言わざるを得ません。
1660年には、ルイ14世の婚礼祝いのオペラ《恋するヘラクレス》を上演するべく、フランチェスコ・カヴァッリがパリに招聘されていますが、実はこの時ゼンティも呼ばれていました。
しかもサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会の新しいオルガンの建造に取り掛かったばかりだというのに、その仕事を放り出してパリに行っているのです。彼が自分の意志でそんな暴挙に及ぶとは考え難く、あるいは上位の命令が下ったのかと思われます。といってもオルガンの依頼主はカミッロ・パンフィーリ枢機卿で、その上となると教皇イノケンティウス10世ぐらいしかいないのですが。
おそらくゼンティは一緒にパリに送られた「ニ台の大きなチェンバロ」の保守要員で、オペラ上演期間のみの短期の出張の予定だったのでしょう。しかし反イタリア派の妨害によってテュイルリー劇場「機械の間」の完成は遅れに遅れ、カヴァッリと一緒にゼンティもまた延々と足止めを食らうことになったようです。丸一年ほど経過した1661年9月には「ゼンティはまだこちらで必要な人材なのでオルガン建造の遅れは容赦願う」という通達がローマに送られています(しかし結局パンフィーリ枢機卿に契約不履行を訴えられた挙げ句、オルガンは別の人が完成させました)。
そして1662年2月7日に漸くカヴァッリの《恋するヘラクレス》が上演に漕ぎつけたわけですが、それが終わってもゼンティはどうやらローマに帰っていません。
1662年5月、折しも《恋するヘラクレス》の上演が終わったころ、イングランド王チャールズ2世とポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンサの結婚式がポーツマスで執り行われました。9月30日には華々しくロンドン入りが行われ、当然そこには多くの音楽家が呼び集められていましたが、おそらくゼンティもそこに居た模様です。
1664年1月27日に、チャールズ2世の宮廷から "Virginall-maker" ゼンティに年俸が支払われており、さらにその二日後にイタリア行きの旅券が発行されています。つまり彼はそれまで一年以上ロンドンで仕事をしてきて、弟子に仕事を引き継がせる形で漸くローマに帰郷が許されたようです。というかこの人、実は教皇庁のスパイなんじゃないでしょうか。
メトロポリタン美術館の2つ目のゼンティのチェンバロは、ネームボードに "HIERONYMVS ZENTI FECIT ROMAE A.S. MDCLXVI"、さらにその下に "JOANNES FERRINI FLORENTINVS RESTAVRAVIT MDCCLV" と記されています。つまりこれは1666年にゼンティがローマで製作し、その後1755年フィレンツェでクリストフォリの弟子のジョヴァンニ・フェリーニが修理したものということになります。
インナーアウター型で本体はサイプレス製、2×8'、AA-f3 という音域ですが、元はGG#抜きの GG-c3 だったようです。キーには1659年の日付がありますが、別の楽器から移植したものと見られます。
フェリーニは信頼のおける技術者ですが、生憎この楽器に関する当時の修理記録は残っておらず、どこまでが彼の手による改修なのかは定かではありません。そもそもゼンティが作りフェリーニが修理したという銘すら偽造である可能性もあります。
しかしモールディングやチークピースの形状に1637年のベントサイド・スピネットとの共通点が認められることから、これもほぼ間違いなくゼンティの真作であると考えられています。
この楽器は現在も演奏可能な状態にあり、そのためにジャックを取り替えていますが、保管されている元のジャックは革のプレクトラムが使用されていました。
それからゼンティはまたパリに行ったようです。しかし程なく1666年の終わりか、1667年の初め頃にゼンティはパリで亡くなったものと考えられます。
1667年の四旬節には、ローマに残した妻のカファッジは未亡人となっていたらしく、そして1668年初頭には、以前ロンドンで仕事を引き継いだ弟子のアンドレア・テスタが、亡くなったゼンティの分の恩給を自分に与えるよう国王に請願しています。
しかしながら、どうしたわけか1668年にゼンティがパリで製作したとされる楽器が二つ知られているのです。
一つは例によって1700年のメディチ家の目録に記載。楽器そのものは現存しません。
響板の装飾はフランス風。一方、インナー・アウター式でサイプレスの側板はイタリア風で、ゼンティが未完成で残した楽器をフランス人が仕上げたという可能性は考えられるでしょう。金の弦は珍しいですが、その比重の高さのため小型楽器で低音を充実させるのに有効でした。
もう一つはパリ音楽博物館に所蔵されている二段鍵盤のチェンバロなのですが、ネームボードに "HIERONIMVS DE ZENTIS ROMANVS FACIEBAT PARISIIS 1668" とあるものの、見るからに典型的な17世紀フランス様式のクラヴサンなのです。
ここまでらしくないと、逆に贋作の可能性が低いようにも思えてきます。あるいは顧客の要望に答えてゼンティがあえてフランス風を真似たのでしょうか。現状は GG-e3 ですが、これは18世紀の改造によるもので元は G/B-c3 でした。
ところで蓋絵には海上にオランダ国旗を掲げた船が描かれているのですが、1668年といえば南ネーデルラント継承戦争の最中、オランダとフランスは敵同士でした。ルイ14世に雇われたゼンティの作には似つかわしくないでしょう。
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