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モーツァルトのレクイエムの成立史

死の前日の午後2時に[モーツァルトは]ベッドにレクイエムの楽譜を持ち込んで自らアルトのパートを歌った。親しい友人であるシャックはいつものようにソプラノのパートを受け持ち、モーツァルトの義理の兄であるホーファーがテノール、後にマンハイム劇場のバス歌手となるゲルルがバスを歌った。彼らが「ラクリモサ」の最初の小節を歌うと、モーツァルトは激しく泣き出して楽譜を脇に置いてしまった。

Allgemeine musikalische Zeitung, 25 July 1827.

依頼と作曲

1791年2月14日、フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵(1763-1827)の妻アンナが20歳の若さで亡くなりました。伯爵は妻の好きだった小川のほとりに壮麗な墓碑を築き、そして亡き妻の命日に演奏するためのレクイエムを発注しました。

ウィーンの南西に位置するグロッグニッツのシュトゥパッハ城に居を構えるヴァルゼック伯爵は熱心な音楽愛好家で、毎週火曜日と木曜日には自邸で室内楽の演奏会を催し、自身もフルートやチェロを演奏していました。そのレパートリーとして伯爵はしばしば密かに作曲家に作品を依頼しては、その作者を伏せて演奏させるということをしていたといいます

このような頻繁な演奏会のために新しい四重奏曲が不足しないように、伯爵は出版されたこの種の作品をすべて入手しただけでなく、多くの作曲家と契約し(ただし常に名前は明かさない)、作品を提供させた。伯爵はそれらの作品の独占所有権を得ており、そのために彼等に気前よく報酬を払った。特にホフマイスターはフルート四重奏曲を多数提供したが、フルートのパートは容易なのに、他の3パートは異常に難しく、奏者が練習に苦労しているのを見て伯爵は面白がったものだ。

しかし、伯爵は印刷された楽譜で演奏することを好まなかったため、すべてを十段譜の楽譜用紙に浄書していたが、作曲者の名前はいつも入れなかった。伯爵は密かに手に入れた楽譜を自分の手で書き写し、それを渡して個々のパート譜を書き写させた。私たちはオリジナルの楽譜を見ることはなかった。そうして四重奏曲を演奏した後には、私たちは作曲者を推測しなければならなかった。大抵私たちは伯爵御自身だろうと申し上げた。というのも、伯爵自身も時々は小品を作曲していたからである。伯爵はそれを聞くと微笑み、私たちを惑わすことに成功した(少なくとも伯爵はそう思っていた)ことを喜んだ。しかし私たちは伯爵が私たちをそんなにも騙されやすいと思っていることを笑っていた。

Anton Herzog, True and detailed History of the Requiem of W.A. Mozart from its origin in the year 1791 to the present period in 1839.
https://www.angelfire.com/bc2/mozart/P13B.html

レクイエムも同様に独占契約の条件で発注され、ヴァルゼック伯爵自身の作品として披露される予定でした。依頼が行われたのは、おそらくコンスタンツェがバーデンでの湯治から戻る1791年7月半ば頃の事だったと考えられます。

皇帝レオポルトの戴冠の直前、モーツァルトがプラハに赴くよう命じられる前に、匿名の使者が署名のない手紙を持ってきた。その手紙にはいくつかの賛辞と共に、レクイエムの作曲の依頼と、その作曲にかかる費用と納期について尋ねる内容が書かれていた。

モーツァルトは、妻の同意なしにはどんな小さな決断も下さないため、その奇妙な依頼について彼女に話し、教会音楽の荘厳なスタイルが常に彼の愛する研究対象であったことから、一度このジャンルに挑戦してみたいと希望を述べた。妻はこの依頼を受けるよう勧め、モーツァルトは匿名の依頼者に対し、ある報酬でレクイエムを作曲する旨を返信し、完成の正確な日時は約束できないが、完成した作品を届ける場所を知りたいと記した。

しばらくして同じ使者が再び現れ、モーツァルトの要求が非常に控えめであったので、譜面の引き渡し時にはかなりの追加報酬も支払うことを約束した。さらに全く自由に創作するようにということだった。しかし依頼者の正体を知ろうとするのは無駄だと言われた。

Georg Nikolaus von Nissen, Biographie W.A. Mozart's, 1828.
http://www.zeno.org/Musik/M/Nissen,+Georg+Nikolaus+von/Biographie+W.A.+Mozart%27s

しかし、この時期モーツァルトは《魔笛 K. 620》や《皇帝ティートの慈悲 K. 621》のプラハ上演などで大忙しだったので、すぐにはレクイエムに着手できなかったでしょう。

モーツァルトがプラハからウィーンに戻ってすぐに、彼はレクイエムに取り掛かり、並外れた努力と強い関心を持って取り組んだ。しかし、彼の体調は同じ割合で悪化し、彼を憂鬱にさせた。彼の健康がますます衰えていくのを見て、妻は深い悲しみに包まれた。ある美しい秋の日、気分転換のために妻と一緒にプラーターに出かけ、二人が静かに座っていた時、モーツァルトは死について話し始め、自分のためにレクイエムを書いているのだと言い出した。その時、彼の目には涙が浮かんでおり、妻がその暗い考えを振り払おうとすると、彼は言った「いや、いや、私ははっきり感じる、私にはもう時間がない。確かに誰かが私に毒を盛った。どうしてもこの考えから逃れられない」

Georg Nikolaus von Nissen, Biographie W.A. Mozart's, 1828.

プラハから帰ったモーツァルトは9月30日の《魔笛》の初演まではそれにかかり切りであったはずで、そして10月7日には《クラリネット協奏曲 イ長調 K. 622》を完成させています。レクイエムの作曲に充てられる時間はさほど多くはなかったでしょう。11月15日にはフリーメーソンのためのカンタータ《我らの喜びを高らかに告げよ K. 623》を完成し、18日に上演。しかしこれがモーツァルトが公の場に姿を見せた最後の日となりました。この頃からモーツァルトの体調は急速に悪化したようです。

11月20日には発熱と手足の腫れで重篤となってベッドから動けなくなり、12月3日に少し回復が見られたものの、12月4日の夜に再び熱が上がり、 1791年12月5日、午前0時55分にモーツァルトは亡くなりました。

義母の娘である義妹ゾフィからの手紙には次のように書かれている:
モーツァルトは私たちの亡き母をますます愛するようになり、母も彼を同じく愛しました。彼は良くコーヒーや砂糖の包みを小脇に抱えてヴィーデンの私たちの家に駆けてきて、手渡しながら「おやつをどうぞ、親愛なるママ」と言っていました。彼が手ぶらで来ることは決してありませんでした。彼が病気になったとき、私たちは彼のために前開きの寝巻きを作りました。なぜなら、彼は浮腫のために寝返りすることができなかったからです。そして私たちは彼の病状がどれほど深刻であるかを知らなかったので、彼が再び起きられたときのために綿入りのガウンも作りました。彼はそのガウンにとても喜びました。私は毎日彼を訪ねました。ある日彼は私に言いました「ママに伝えてください、私はとても良くなっているし、オクターブ(8日後)には聖名祝日を祝うために行きますと」。

翌日、私は急がず夕方になってから出かけました。ドアのところで半ば絶望しながらも冷静さを保とうとする姉が「神様、感謝します、あなたが来てくれて。昨晩彼はとても病気が悪くなって、私は今日を迎えることができるかどうかも心配していたの。もし今夜も同じようなら、彼は今夜亡くなるでしょう。彼のところに行って、彼がどうしているか見てきて」と言いました。彼のベッドに近づくと、彼は「来てくれてよかった。今夜、私のそばにいてください。あなたは私の死を看取ることになるでしょう」と言いました。私は気を強く持ち、それを否定しようとしましたが、彼は「もう死の臭いが舌に感じられる。死の匂いがする。あなたがいなければ、誰が私のコンスタンツェを支えるのか」と言いました。私は母に報告すると約束していたので、ほんの一時だけ母のところに行きました。そうでなければ母は何か不幸があったと思うでしょうから。絶望している姉のところに戻ると、ジュスマイヤーがモーツァルトのベッドのそばにいました。ベッドの上にはレクイエムがあり、モーツァルトは彼にそれを自分の死後に完成させるべき考えを説明していました。さらに、彼は妻に対してアルブレヒツベルガーに知らせるまでは死を秘密にしておくように指示しました。彼は「神と世にかけて私の務めは彼のものである」と宣言しました(この遺志は実行され、アルブレヒツベルガーがその役割を受け継いだ)。彼の医師D.クロセットが来たとき、彼は熱い頭に冷たい湿布を処方しましたが、それはモーツァルトにショックを与え、意識を取り戻すことなく亡くなりました。彼の最後の行為は頬を膨らませて口でレクイエムのティンパニを表現しようとしたことでした。彼の死後、美術館の所有者であるミュラー(デイム伯爵)が来て、彼の青ざめた死顔を石膏で型取りしました。

Georg Nikolaus von Nissen, Biographie W.A. Mozart's, 1828.

残念ながらこの時作られたというモーツァルトのデスマスクは現存しません。このヨーゼフ・ミュラーことヨーゼフ・フォン・デイム伯爵は、ウィーンで蝋人形館を開いていた人で、モーツァルトの《アダージョとアレグロ ヘ短調 K. 594》などの一連の自動オルガンのための作品は、彼からの依頼で作られたものです。

レクイエムについて

こうしてモーツァルトはレクイエムを完成させることなく世を去ってしまったわけですが、そもそもレクイエムとはどういうものなのか、ということを少し。

レクイエムはもちろん死者のためのミサで、埋葬の日や命日、また11月2日の万霊節などに執り行われます。通常のミサとは異なり「グローリア」や「クレド」が無く、特有のセクエンツィア「Dies irae(怒りの日)」が用いられるなどの特徴があります。

一般にレクイエム・ミサで音楽がつけられるのは以下の箇所です。

  1. 入祭唱 (Introitus):「永遠の安息を (Requiem aeternam)」

  2. キリエ (Kyrie)

  3. 昇階唱 (Graduale)

  4. 詠唱 (Tractus) 

  5. 続唱 (Sequentia) :「怒りの日 (Dies irae)」

  6. 奉献唱 (Offertorium)

  7. サンクトゥス (Sanctus)

  8. ベネディクトゥス (Benedictus)

  9. アニュス・デイ (Agnus dei)

  10. 聖体拝領唱 (Communio):「永遠の光を (Lux aeterna)」

レクイエム・ミサ用のグレゴリオ聖歌の楽譜は10世紀から知られています。ただし「怒りの日」は13世紀の作。ルネサンス時代にはポリフォニーによるレクイエムが盛んに作られ、バロック時代にはレクイエムもコンチェルタート様式のオペラ風の代物と化しました。

しかしウィーンではヨーゼフ2世によって1783年以降オーケストラを伴うような派手なレクイエムが禁止されていたので、モーツァルトのレクイエムは久々の「現代」作品となりました。

そこでモーツァルトが手本としたのはミヒャエル・ハイドンの《レクイエム ハ短調 MH 155》(1771)であるようです。これには昇階唱と詠唱が無く、おそらくモーツァルトもそれに倣って最初から作曲予定がなかったものと思われます。

現在知られているモーツァルトのレクイエムは14楽章構成で内訳は以下の通り。

  1. 入祭唱:Requiem aeternam

  2. キリエ

  3. 続唱:Dies irae

  4. 続唱:Tuba mirum

  5. 続唱:Rex tremendae

  6. 続唱:Recordare

  7. 続唱:Confutatis

  8. 続唱:Lacrimosa

  9. 奉献唱:Domine Jesu

  10. 奉献唱:Hostias

  11. サンクトゥス

  12. ベネディクトゥス

  13. アニュス・デイ

  14. 聖体拝領唱:Lux aeterna

以下、訳詞は明治36年『公教会羅甸歌集』より。

https://dl.ndl.go.jp/pid/825377

入祭唱
Requiem aeternam dona eis, Domine,
Et lux perpetua luceat eis.
Te decet hymnus, Deus, in Sion,
Et tibi reddetur votum in Jerusalem
Exaudi orationem meam
Ad te omnis caro veniet.

主よ無窮の安息を彼等に賜はり
永久の光を彼等に輝かし給へ
主はシヨンに於て賛美すべきかな
人はエルザレムに於て其誓を遂げむ
主よ我祈祷を聴き容れ給へ
凡の人は主に到るべし

キリエ
Kyrie, eleison.
Christe, eleison.
Kyrie, eleison.

主憐み給へ
基督憐み給へ
主憐み給へ

続唱
Dies irae, dies illa
Solvet saeclum in favilla,
Teste David cum Sibylla.

怒りの日なる彼の日は
世界を灰に帰すべし
ダヴィドとシビルとの告げし如く

Quantus tremor est futurus,
Quando judex est venturus,
Cuncta stricte discussurus!

人々の震慴驚怖は幾何ぞや
何事をも厳しく糺し給はむとて
判官の来り給ふ時

Tuba mirum spargens sonum
Per sepulcra regionum,
Coget omnes ante thronum.

奇なる箛笛の響
各地の墓に鳴り渡るや
人々皆主の寶坐の下に集められん

Mors stupebit et natura,
Cum resurget creatura,
Judicanti responsura.

死と生は驚愕かん
人類のかく蘇りて
判官に答へむとする時

Liber scriptus proferetur,
In quo totum continetur,
Unde mundus judicetur.

かき記されたる書物持ち出されん
其中に凡て
世に審かるべき事あり

Judex ergo cum sedebit,
Quidquid latet apparebit.
Nil inultum remanebit.

判官の坐し給ふや
隠匿れたるもの悉く顕れ
一として報なきものなからむ

Quid sum miser tunc dicturus?
Quem patronum rogaturus,
Cum vix justus sit securus?

嗚呼、爾時我は如何なる不幸と謂はむ
誰をたよりて保護者と頼まむ
義人すら尚心安からざれば

Rex tremendae majestatus
qui salvandos salvas gratis
sale me, fons pietatis

かしこき稜威の大王
救はるるものを御恵によりて救ひ給ふが故に
御慈悲もて我を救ひ給へ

Recordare, Jesu pie,
Quod sum causa tuae viae:
Ne me perdas illa die.

記憶へ給へ、慈悲深きイエズスよ
世に降誕り給へるは我が為めなるを
かの日に於ても我を亡し給はざれ

Quaerens me, sedisti, lassus;
Redemisti crucem passus;
Tantus labor non sit cassus.

主は我を索めんとて疲労れて坐したまひ
十字架の苦を受て贖ひ給へば
かかる労苦を無駄ならざしめ

Juste Judex ultionis,
Donum fac remissionis
Ante diem rationis.

報を興へ給ふ最も正しき判官
赦宥を賜はれかし
審判の日に先ちて

Ingemisco tanquam reus,
Culpa rubet vultus meus;
Supplicanti parce, Deus.

我は罪人にて嘆き
我が過失を赤面して祈り奉る
嗚呼、天主我を赦免し給へ

Qui Mariam absolvisti,
Et latronem exaudisti,
Mihi quoque spem dedisti.

主はマグダレナの罪を赦し
又盗賊の願ひをも聴容れ給ひしにより
我にも希望を抱かし給へり

Preces meae non sunt dignae,
Sed tu, bonus, fac benigne,
Ne perenni cremer igne.

我祈祷は聴きいれらるるに足らざれども
主は慈悲深くましませば
我を熄えざる火に熾けざらし給へ

Inter oves locum praesta,
Et ab hoedis me sequestra,
Statuens in parte dextra.

主よ我を
主の左側なる山羊よりはなれしめ
右側なる羊の群れに加ひ給へ

Confutatis maledictis
Flammis acribus addictis,
Voca me cum benedictus.

呪詛はるる者を退け
はげしき火刑に處め給はむとき
祝福まるる者と共に我を招き給へ

Oro supplex et acclinis,
Cor contritum quasi cinis,
Gere curam mei finis.

御前に俯伏し灰の如く砕かれたる心をもて
偏に希ひ奉る
嗚呼、我終遠を計ひ給へ

Lacrimosa dies illa,
Qua resurget ex favilla
Judicandus homo reus.

悲嘆の日なるかな
人土より蘇りて
犯せし罪を審るべければ

Huic ergo parce, Deus:
Pie Jesu Domine:
Dona eis requiem. Amen.

嗚呼、天主よ之を赦し給へ
慈悲深き主イエズスよ
彼等に安楽を興へ給へ、アメン

奉献唱
Domine, Jesu Christe, Rex gloriae,
libera animas omnium fidelium defunctorum
de poenis inferni
et de profundo lacu.
Libera eas de ore leonis
ne absorbeat eas tartarus,
ne cadant in obscurum;
Sed signifer sanctus Michael
repraesentet eas in lucem sanctam,
Quam olim Abrahae promisisti
et semini eius.

主イエズス・キリスト、光栄の王
凡て死したる信者の霊魂を
陰府の刑罰及び深淵の底より救ひ給へ
此等を獅子の口より救ひ給へ
願はくば彼等地獄に滅せず
闇に陥らず
旗手たる聖ミカエルに導かれて
尊き光を見せしめ給へ
主の嘗てアブラハムと
其裔に約し給へばなり

Hostias et preces tibi, Domine
laudis offerimus
tu suscipe pro animabus illis,
quarum hodie memoriam facimus.
Fac eas, Domine, de morte
transire ad vitam.
Quam olim Abrahae promisisti
et semine eius.

吾等犠牲と讃美の祈祷を主に捧げ奉る
願はくば今日記念するところの霊魂の為に
これを受け納め給ひて
彼等を死より移らせ
生命を得さしめ給へ
主の嘗てアブラハムと
其裔に約し給へばなり

サンクトゥス
Sanctus, sanctus, sanctus
Dominus Deus Sabaoth
Pleni sunt coeli et terra gloria tua.
Hosanna in excelsis

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
萬軍の神なる主
主の栄光は天地に充満てり
天の最上に於て尊まれ給へ

ベネディクトゥス
Benedictus qui venit in nomine Domine.
Hosanna in excelsis

主の名に由りて来たれる者は祝せられ給へ
天の最上に於て尊まれ給へ

アニュス・デイ
Agnus Dei, qui tollis pecatta mundi
dona eis requiem.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,
dona eis requiem sempitername.

世の罪を除き給ふ神羔
彼等に安息を興へ給へ
世の罪を除き給ふ神羔
彼等に安息を興へ給へ、永久に

聖体拝領唱
Lux aeterna luceat eis, Domine,
cum sanctis tuis in aeternum,
quia pius es.
Requiem aeternam dona eis Domine,
et lux perpetua luceat eis,
quia pius es.

主よ永久の光を彼等に輝かしめ
主の聖徒と共に限りなく住はしめ給へ
御慈悲にてましませば
主よ無窮の安息を彼等に興へ
絶えざる光を彼等に輝かしめ給へ
御慈悲にてましませば

自筆原稿

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト《レクイエム K. 626》自筆原稿
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/293694

モーツァルトが未完で残したレクイエムを、死後に弟子のジュスマイヤーが完成させたということは良く知られていますが、実際はそれほど単純な話ではありません。

入祭唱とキリエ

誰もがモーツァルトの未亡人を心配し、彼女が失ったものをいくらかでも償い慰めようと努めている。かくして高名なフォン・スイッテン男爵は、既にクラヴィーアを見事に演奏する息子を養子とし、トゥーン伯爵夫人は娘を養女に迎えた。シカネーダー氏は故人のために追悼式を企画し、そこで最期に病床で作曲されたレクイエムが執り行われた。シカネーダー氏は未亡人のために数日中に《魔笛》の公演を行う予定。

Der Heimliche Botschafter, 16 December, 1791.
Otto Erich Deutsch, Mozart: A Documentary Biography, 1965, p. 425.

モーツァルトのレクイエムが最初に演奏されたのは、彼が予言していたようにモーツァルト自身のためだったようです。嘘臭いですけれどこれは事実らしく、1791年12月10日にウィーンの聖ミヒャエル教会で故モーツァルトのためのレクイエム・ミサが行われたことは複数の資料から裏付けられています。

しかしその際に演奏されたのは、おそらく「入祭唱」と「キリエ」だけで、しかもそれすらも当初は未完成であったらしく、モーツァルトの死から5日以内という短期間に突貫作業で仕上げられた模様です。

問題はその際にモーツァルトの自筆譜に直接書き込んでしまっていることで、そのためモーツァルト自身が書いた部分を特定することが困難になってしまっています。

まず基本的な事として、モーツァルトは楽譜の下の方に書いている四声部合唱と通奏低音を一旦仕上げてから、上の方のオーケストラのパートを書き込んでいくという段取りで作曲しています。入祭唱もキリエも合唱と通奏低音は間違いなくモーツァルト自身によって完成されており、問題はオーケストラ部分です。

入祭唱については、一般にオーケストレーションも含めて全てモーツァルトのオリジナルであると考えられています。もちろん異論もありますが、それでもモーツァルトの自筆割合の最も高い楽章であることは確かでしょう。

ただし1ページ目の右上に書かれている「di me W.A. Mozart 792」という署名はジュスマイヤーによる捏造です。墓から蘇ったモーツァルトが書いたとでも言いたかったのでしょうか?

1970年代あたりまではキリエも全てモーツァルトが完成させたものだと考えられていました。手跡が荒れているのは病のためだろうと。しかしバセットホルンのパートに疑問が持たれます。

Basset Horn in F (Simon Unglerth, ca. 1800)
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/504542

バセットホルンはF管の移調楽器です。つまり記譜上で「F」となっているところは、実音では「B♭」になります。それなのにこのキリエのパートでは「B♭」を意図して「F♭」と記譜しているところが頻出するのです。

Kyrie, fol. 9r, bars 49-50

このミスは後にブライトコプフ社から出版された印刷譜では訂正されています。

バセットホルンをとりわけ好んだモーツァルトがこんな凡ミスをするとは思えないので、キリエのオーケストレーションはモーツァルト以外の誰かの手が入っているに違いないということになりました。しかし誰が書いたのかということになると確かなことはわかっていません。フライシュテットラーやジュスマイヤーが候補に挙げられるも根拠に乏しく、あるいはシカネーダー一座の誰かという可能性すらあります。

続唱

夫と収入を失い、多額の借金を抱えたコンスタンツェは、報酬のためにもレクイエムを完成させて納品するため奔走します。しかし彼女が最初にレクイエムの補完を依頼したのはジュスマイヤーではなく、なぜかヨーゼフ・アイブラー(1765-1846)でした。

Josef von Eybler (c. 1840)

アイブラーはハイドンを通じてモーツァルトと知り合い、オペラのリハーサルなども任されていました。1790年5月30日にモーツァルトはアイブラーのために推薦状を書いていますが、モーツァルトはお世辞でもこんな風に人を褒めることは滅多にありません。

署名者たる私は、この手紙の所有者であるヨーゼフ・アイブラー氏が高名な師匠アルブレヒツベルガーの立派な弟子であり、基礎の確かな作曲家であり、室内楽と教会音楽の両方に熟達し、歌曲に十分な経験があり、また、熟達したオルガンとクラヴィーア奏者でもあることをここに証する。すなわち彼に匹敵する若い音楽家が稀なことだけを遺憾とする。

しかし前掲のゾフィの手紙からも、レクイエムの補完はジュスマイヤーが担当するのが順当と思われるのに、アイブラーに依頼したのは不可解です。後のコンスタンツェの書簡によると「アイブラーに完成を依頼したのは当時ジュスマイヤーに腹を立てていたからです、理由は忘れましたが」ということですが、どういうことなのか。

ちなみにその頃ジュスマイヤーはクレムスミュンスターのクリスマス劇に参加するためウィーンを離れていたため、そもそも依頼が不可能だったのかもしれません。

ともかく、アイブラーは1791年12月21日にレクエイムを完成させる契約をコンスタンツェと取り交わしました。報酬についての言及は皆無なので、おそらく無償で引き受けたものと思われます。

下記署名者は、未亡人コンスタンツィア・モーツァルト夫人が、亡夫の始めた死者のためのミサ曲を自分に託したことをここに証言する。また署名者は翌年の四旬節の中頃までにそれを完成させることを約束し、それが複製されることなく、作曲者の未亡人以外の誰にも渡されないことを宣言する。

アイブラーが補完したのは以下の続唱(セクエンツィア)のオーケストラ部分です。

・Dies irae
・Tuba mirum
・Rex tremendae
・Recordare
・Confutatis

そして合唱部分すら8小節目までしか書かれていない 「Lacrimosa」のソプラノを2小節進めたところで、何故か彼は仕事を放棄してしまいます。

そして困ったことにアイブラーもモーツァルトの自筆原稿に直接書き込んでいるのです。鉛筆の線で囲まれているところはアイブラーの補筆です。

このレクイエムの原稿のモーツァルトの自筆とそうでない部分を特定して鉛筆で示したのはマクシミリアン・シュタードラー神父(1748-1833)です。

Abbé Stadler (Allgemeine Musikalische Zeitung, 1, 1817)

モーツァルトはラクリモサを除く続唱の合唱部分を完成させただけでなく、一部はオーケストラのパートも記しているのですが、一概に言い難いので、IMSLPにある自筆譜のpdfを見てもらったほうが早いです。鉛筆で囲まれている所はシュタードラー神父の特定した補筆箇所です。逆にモーツァルト自筆の部分には「moz」と書いています。

下は「ディエス・イレ」の冒頭部。鉛筆で囲まれている所がアイブラーの補筆とされます。

シュタードラー神父はモーツァルトの自筆部分を抜き出した写本を作っているので、こちらを合わせて見るとわかりやすいでしょう。

Österreichische Nationalbibliothek, Vienna (A-Wn): Mus.Hs.19057
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/660158

Christoph Spering によるモーツァルトのレクイエムのCDには、この純モーツァルト分だけによる未完成版の録音が付属しています。オーケストラの内声がありませんが、最低限の輪郭は描かれているので意外とまともに聴ける感じです。

奉献唱

奉献唱(オッフェルトリウム)、すなわち「Domine Jesu」と「Hostias」の原稿にはアイブラーは手を入れておらず、モーツァルトによって合唱と通奏低音は完成していますがオーケストラはほとんど空白です。そしてモーツァルトの自筆原稿があるのはここまでです。

モーツァルトがレクイエムのラクリモサを未完で遺したというのはよく知られていることですが、そのためにラクリモサより先は他人が作ったものだという誤解がしばしば見受けられます。しかし実際には何故かラクリモサが後回しにされただけで、続く奉献唱も主要部分はモーツァルト自身によるものです。むしろ現行のラクリモサの方こそほとんどジュスマイヤーの作です。

奉献唱の最後のページ、つまりモーツァルトの最後の自筆譜は、1958年のブリュッセル万国博覧会にこの原稿が出品された際に、何者かによって右下が破り取られました。そこに書かれていたのは「quam olim d: c:」という指示で、モーツァルトの最後の筆跡と考えられるものです。

「アーメン」フーガ

1962年に発見されたモーツァルトの自筆草稿には、《魔笛》序曲の試案と、レクイエムの「Rex tremendae」の試案に挟まれる形で、「amen」と歌詞のついた16小節のニ短調のフーガの試案が書かれていました。《魔笛》と同時期、つまりモーツァルトの最後の年に書かれたニ短調の作品といえばレクイエムであり、さらにそのフーガの主題はモーツァルトの「Requiem aeternam」の主題の転回形なので、これがレクイエムのための試案である可能性は非常に高いといえます。

https://dme.mozarteum.at/DME/nma/nma_cont.php?vsep=13&gen=edition&p1=61&l=2

そしてレクイエムの中で「アーメン」という言葉が出てくるのは唯一「怒りの日」の終わりだけです。したがってモーツァルトはラクリモサをこのアーメンによるフーガで終えることを予定していたものと考えられます。

現在は補完したフーガをラクリモサの後に続ける演奏もしばしば行われていますが、当然フーガの仕上がりは人それぞれです。

ジュスマイヤー版

フランツ・クサヴァー・ジュスマイヤー(1766-1803)がモーツァルトと知り合ったのは1790年か1791年頃のことで、それほど長い付き合いというわけではありません。彼がモーツァルト家に親しく出入りして仕事を手伝ったりしていたのは確かですが、彼は既に教師をしたり宮廷楽団で演奏したりしていた一人前の音楽家であって、モーツァルトの弟子というよりは後輩というほうが適当に思われます。

続唱

Österreichische Nationalbibliothek, Vienna (A-Wn): Mus. Hs.17561
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/914634

ジュスマイヤーは入祭唱とキリエについては、前述の偽の署名を加える以外は手を付けず、「ディエス・イレ」以下の続唱は新たに別の紙で楽譜を作り直しました。その際、ジュスマイヤーはモーツァルトの自筆部分を忠実に写すと共に、アイブラーの補筆は除去し、全面的に書き直しています。アイブラーがラクリモサに追加した2小節もジュスマイヤー版には採用されていません。

しかしこのジュスマイヤー版のオーケストレーションは評判が悪く、アイブラーの方がまだましという意見が聞かれます。

ディエス・イレの冒頭からその違いは明白で、アイブラー版では管楽器群がめりはりのある動きで存在感を示しているのに対し、ジュスマイヤー版は凡庸です。

アイブラー版
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/848276


ジュスマイヤー版(トロンボーンのパートは当時の演奏習慣に基づく現代の補填)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/848295

1984年のホグウッド盤は反ジュスマイヤー主義のマウンダー校訂版を採用しており、ディエス・イレではアイブラー準拠の演奏が聴けます。

ラクリモサでモーツァルトが書いたのは「Judicandus homo reus」までで、アイブラーはそれに続けて「Huic ergo parce Deus」とすぐに次の詩行に踏み出しましたが、ジュスマイヤーはここでもう一度冒頭に戻って「Lacrimosa dies illa」を繰り返します。

そしてフーガではなくただ2つの和音による「アーメン」で続唱を終えます。

奉献唱

アイブラーの手が入っていない奉献唱も、ジュスマイヤーはモーツァルトの原稿に直接書き込むことなく、別紙に写した上で補完しています。最初からそうしてほしかったものですが。

サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイ

「サンクトゥス」以降はモーツァルトの原稿が存在せず、ジュスマイヤーの書き下ろしになります。ジュスマイヤーはモーツァルトから完成のための指示を受けていたということですが、その内容は皆目不明で、これらにモーツァルトの意向が少しでも含まれているかどうかは全く憶測の域を出ません。

いずれにせよ、このニ長調のサンクトゥスはレクイエムにふさわしくないと昔から不評でした。

伯爵が我々従僕に対してレクイエムを自身の作品と偽って見せるという冗談を仕掛けたことを非難するのは難しい。というのも彼の辛苦して得た財産に関してもっと非難されるべき冗談が彼に仕掛けられたからである。モーツァルトがニ長調のこんなスタイルのサンクトゥスを書いたとは思えない。というのも、テキストは荘厳ミサのものであるが、レクイエムというのは哀しみの典礼であり、状況が全く異なるからである。教会は黒で飾られ、司祭たちは黒い祭服を着用する。そんな場面では耳障りな音楽はふさわしくない。「聖なるかな、聖なるかな」と叫ぶことはできても、太鼓を使う必要はないのだ。サンクトゥスとホザンナはジュスマイヤーのニ長調のミサと多くの共通点がある。

Anton Herzog, True and detailed History of the Requiem of W.A. Mozart from its origin in the year 1791 to the present period in 1839.

一方で「アニュス・デイ」は評価が高く、ジュスマイヤーのサンクトゥスとベネディクトゥスをばっさり捨てたマウンダーもこれは採用しています。曰く、《ミサ・ブレヴィス ハ長調〈雀〉K. 220/196b》と類似性が認められるため、アニュス・デイはモーツァルトの構想に由来する可能性があると。結局、良いところがあるとモーツァルトのおかげとされ、駄目なところはジュスマイヤーのせいにされるわけです。

聖体拝領唱

最後の聖体拝領唱ではジュスマイヤーは新たに作曲することなく、前半は入祭唱の「Te decet hymnus」以下、後半はキリエのフーガをそっくり流用して済ませました。

コンスタンツェが出版社に送った手紙によれば、これはモーツァルトの指示に沿ったものだということになります。

彼が死を予見した時、宮廷楽長のジュスマイヤーと話をし、もし彼が本当にそれを終えることなく死んだ場合には、最後の曲で最初のフーガを繰り返すように(これは慣例です)、そして彼がどのように終わりを作り上げるべきかを指示しました。

Constanze Mozart to Breitkopf & Härtel, 27th March, 1799.
https://dme.mozarteum.at/DME/briefe/letter.php?mid=1812

しかしジュスマイヤーが同じくブライトコプフ&ヘルテルに送った手紙ではややニュアンスが異なります。

あなたの1月24日のご親切なお手紙は、ドイツの聴衆に敬意を表して、亡き友人モーツァルトの作品ではないものを誤解を招くように発表することはしないということで、私に大きな喜びをもたらしました。この偉大な人物の教えに多くを学んだ私は、自分の仕事が大部分であるものがモーツァルトの作品として扱われることを黙って許すことはできません。なぜなら、自分の仕事がこの偉大な人物にふさわしくないと確信しているからです。モーツァルトの作曲は唯一無二であり、現在の作曲家のほとんどが到達できないものであると自信を持って言えます。模倣者が自分の仕事を偽って他人の作品として発表することは、孔雀の羽で飾り立てたカラスのように失敗するでしょう。

この手紙のやり取りのきっかけとなったレクイエムの完成が私に委託された経緯は以下の通りです。モーツァルトの未亡人は彼の遺した作品が求められることを予見していました。彼はこのレクイエムの作業中に急死しました。この作品の完成を複数の作曲家に依頼しましたが、彼らの多忙さゆえに引き受けることができなかったり、モーツァルトの才能と比較されることを避けたいと考えたりしました。最終的にこの仕事は私に任されました。なぜなら、生前のモーツァルトと共にこの作品を頻繁に演奏し、彼の指示を受けていたからです。彼のオーケストレーションの経過と道理を教えてもらっていました。この仕事を成功させ、少なくとも彼の忘れがたい教えの痕跡を残すことができればと願っています。

レクイエムとディエス・イレ、ドミネ・イエス・クリステに関しては、モーツァルトが四声部と通奏低音を完全に仕上げており、オーケストラに関しても動機を示していました。ディエス・イレの最後の節の「qua resurget ex favilla」まで彼が作曲し、以降の「Judicandus homo reus」からは私が全て完成させました。サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイは全て私が作曲しました。ただし作品に一貫性を持たせるためにキリエのフーガを「cum sanctis」などで繰り返すことを許しました。

Süssmayr to Breitkopf & Härtel, 8 February, 1800.
https://dme.mozarteum.at/DME/briefe/letter.php?mid=2923

「許す erlaubt」というのは指示に従う事を意味するには妙な言葉です。ジュスマイヤーは謙遜しつつも、レクイエムの多くの部分が自分の作品であると主張したがっているようにも見えます。それとラクリモサの「Judicandus homo reus」まではモーツァルトが書いているので、彼の言い分はおかしいですが、単なる記憶違いでしょうか。

正直どちらの証言も信用できませんが、このレクイエムが紛れもないモーツァルト自身の楽想によって締めくくられたことは重畳でしょう。

上演

ジュスマイヤーがいつレクイエムの補完を完了したのかは不明なのですが、遅くとも1792年内には完成していたはずで、1793年1月2日にスヴィーテン男爵の企画によってウィーンで催された、コンスタンツェとモーツァルトの遺児たちのためのチャリティーコンサートにおいて、最初のレクイエムの全曲演奏が行われています。このコンサートはヴァルゼック伯爵からの依頼金の何倍もの利益を上げたと言われます。

完成したレクイエムの楽譜は当然ヴァルゼック伯爵にも納品されたはずですが、直近の妻の命日である1793年2月14日には演奏されませんでした。これは納品が遅れたのか、あるいはヴァルゼック伯爵がこのチャリティーコンサートのことを聞き及んでいて近い日程で同じ作品を上演することを嫌ったのか。

ようやく1793年12月14日、ウィーナー・ノイシュタットのシトー会ノイクロスター修道院において、このレクイエムはヴァルゼック伯爵の指揮のもと当初意図された用途で上演されたのです。

ヴァルゼック伯爵はレクイエムの楽譜を受け取ると、いつものように自分の手で音符一つ一つを清書し、それをヴァイオリニストのベナールにセクションごとに渡してパートを書き写させた。

この仕事の間、私はしばしば何時間もベナールの傍らに座り、この格別の仕事の進行を興味深く見守っていた。というのは、その頃私はすでにウィーンの石膏代理店を通じて報酬の支払いを取り仕切っていたマネージャーのライトゲプからそのレクイエムの経緯を学んでいたからだ。

そして、すべてのパートが書き写されると、すぐに演奏の準備が始まった。しかし、シュトゥパッハ近郊で必要な演奏者全員を見つけることは不可能だったため、初演はウィーナー・ノイシュタットで行われることになった。演奏者は出身地にかかわらずソロと最も重要なパートを最高のものにするよう選ばれた。したがってソロパートはノイシュタット出身の男性ソプラノのフェレンツ、ショットウィーン出身のコントラルトのケルンバイス、ノイシュタット出身のテノールのクライン、そしてグロッグニッツ出身のバスのトゥルナーが担当した。リハーサルは1793年12月12日の夜、ウィーン・ノイシュタットのシトー会修道院と教区教会の聖歌隊で行われ、14日午前10時に同じ教会で死者のためのミサが執り行われ、この有名なレクイエムが本来の目的通り初めて演奏された。ヴァルゼック伯爵自らが全公演を指揮した。参加した出演者の中で存命なのは、私が知る限り、私と現在ウィーナー・ノイシュタットでトゥルナーマイスターとなっているアントン・プライムシャウアー氏だけだ。

Anton Herzog, True and detailed History of the Requiem of W.A. Mozart from its origin in the year 1791 to the present period in 1839.

それから1794年2月14日にゼンメリングのマリア・シュッツ教会でも上演されましたが、その後ヴァルゼック伯爵がこのレクイエムを指揮することはありませんでした。おそらくはこの作品が有名になりすぎて彼だけのレクイエムではなくなってしまったからでしょう。

参考文献

Andrews, Simon. Mozart's Requiem: From eighteenth century forgery to modern hybrid.
https://www.simonwandrews.com/mozarts-requiem-from-18th-century-forgery-to-modern-hybrid/

Andrews, Simon. “Is Mozart the Author of the Orchestration of Bars 37–48 of the ‘Requiem Aeternam’ of K.626?” The Musical Times, vol. 154, no. 1923, 2013, pp. 85–90.

Deutsch, Otto Erich. Mozart: A Documentary Biography. 1965.

Fish, Miles Dayton. Requiem's Mozart.
https://milesfishmozartrequiem.com/index.html

Jahn, Otto. Life of Mozart. Translated from The German by Pauline D. Townsend. 1882.
https://www.gutenberg.org/files/43411/43411-h/43411-h.htm

Herzog, Anton. True and detailed History of the Requiem of W.A. Mozart from its origin in the year 1791 to the present period in 1839.
https://www.angelfire.com/bc2/mozart/P13B.html

Landon, H. C. Robbins. 1791, Mozart's last year. 1988.

Lorenz, Michael. Freystädtler’s Supposed Copying in the Autograph of K. 626: A Case of Mistaken Identity. 2013.
https://michaelorenz.blogspot.com/2013/08/freystadtlers-supposed-copying-in.html

Moseley, Paul. “Mozart’s Requiem: A Revaluation of the Evidence.” Journal of the Royal Musical Association, vol. 114, no. 2, 1989, pp. 203–37.

Mozart & Material Culture. W. A. Mozart, Music for the memorial to Field Marshall Gideon Laudon.
https://mmc.kdl.kcl.ac.uk/souvenirs/souvenir-and-expression-in-mozarts-music/w-mozart-music-memorial-field-marshall-gideon-laudon/

Nissen, Georg Nikolaus von. Biographie W.A. Mozart's, 1828.
http://www.zeno.org/Musik/M/Nissen,+Georg+Nikolaus+von/Biographie+W.A.+Mozart%27s

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